鳴らない鐘が響く時
38 【23時39分】

「そのものを捕らえよ」
 近衛兵を従えた本物の女王が叫んだ。堂内にこだまするその声は今まで人々が耳にしていた偽物のそれと全く同じはずだが、しかしその響きは紛れもなく偽物の存在を否定する。手を振り上げ、その毅然とした指先が向かう先は今や簒奪者としての姿が顕となったセルゲイ。レオノーラ女王たちは大扉をくぐる前からある程度の打ち合わせを近衛兵たちと交わしていたのだろう。彼らの動きには無駄がなく手際の良さが光った。あるものは式典の間内の人々を堂の外へと巧みに誘導し、またあるものは腰に提げている剣を光らせながら侯爵のもとへと走る。さらに少し遅れて大扉をくぐって来た者たちもいる。に人々は叫び声を上げたり、あまりの出来事に卒倒するものまで現れ騒然とした空気が支配する。しかしそれも近衛兵たちのおかげでどうにか最低限の秩序は保たれていた。
 しかし人々は今目の前で繰り広げられた光景をどう解釈するだろう。テレーゼ王女の隣に侍り、王女とともにアルゴス侯爵と偽女王の正体を明らかにした男が、自身の正体をも明らかにしたのだ。
「ごめんなさい。ロビン……」
 様々な声が飛び交う中、テレーゼは彼だけに聞こえる声で言った。しかしロビンの皮をずっと被っていたゾロアークは身じろぎもせず、視線をこちらへ向けることもなく返す。
「どっちにしろ終わらせるつもりだと言ったろ」
「でも、わたしがもっとしっかりしていたらこんな大勢の前で」
「言うな」
 二人の後ろから近衛兵たちの硬い足音が近づきそして走り抜ける。彼らはすぐさまにアルゴス侯爵を取り囲み、各々剣を抜き侯爵へと突きつける。キース王師からの正式な報告書も届き、また最後の砦であった女王が偽物のゾロアークであったことが白日のもとへと晒された今、侯爵はもはや何の言い逃れの手段も持たない。
 侯爵ははじめ前へ後ろへと視線を泳がせ、口元は苦虫を噛み潰したように醜い皺が刻まれていた。しかしいざ自分がすでに追い詰められたと悟るとにわかにその顔より表情が消える。そして次に現れるのは深いため息。
「これまでというわけか。それにしてもこいつぁ傑作だ」
 やがてセルゲイは口の端を歪め、そのあいだから押し殺すような笑いを漏らす。
「殿下、あなたもお人が悪い。まさか私と同じ手をお使いだったとは……」
 侯爵の笑い声は次第に音量を増し、ついには堂内中を駆け巡るような高笑いへと変遷していく。
 今ここにアルゴス侯爵の野望は潰えた。誰も見破れぬはずの偽りの女王から偽りの地位を与えられ、そして民衆には偽りの承認をさせる。王の栄光と民からの信頼を失墜させ、動乱の雪崩を起こすその最初に一石を投じるはずだった。しかし今、それは崩れ去る。
 彼は笑わずにはいられなかった。そのまま侯爵は近衛兵たちより取り押さえられる。彼はもはや抵抗をしなかった。それでもなお彼は笑うのをやめない。いつの間に堂内は異様な静けさに包まれていた。
 そして、テレーゼはそっと、隣に立つロビンと呼ばれていた獣へと視線を投げかける。ゾロアーク、それが彼の正体。自分の姿を幻影でもって自在に変え、人を化かす。彼はその力を己の主人を待ち続けるために使い続けた。テレーゼは何か話しかけたかった。何か声をかけなければならないと思った。そうしなければ彼がこのまま消え去ってしまいそうだったから。しかし今はかけるべき言葉が見つからない。それに今はそんな状況でもなかった。
 コツコツと大理石の床を、靴が叩く音が鳴る。ローブを着込んだレオノーラが歩み寄る。その眼はすでにこの国の為政者としての威厳を宿しながら。それに対し、侯爵は敵意に燃えた突き刺すような視線を女王へと向ける。それはまるで今にも襲いかからんとする狂犬のように。
「あのとき、この式典に合わせて婚儀を上げなければ、あなたもこんなことをせずに済んだのでしょうね」
 その語りかけは、あたかも母から子へのそれのように、憐れみと慈愛とそして威厳とがないまぜとなったものだった。
「やっと分かったというのか」
「ええ。あなたがあのトルーマン・ストレイジの子だと知ったときに」
 その人物の名を耳にすると同時に、セルゲイの眉間が醜く歪む。そのとき彼は獣のような吠え声を唸らせ、レオノーラ女王へと飛びかかろうともがいた。しかし近衛兵に数人がかりで取り押さえられているゆえにそれは叶わない。吠え声だけが制止から解き放たれて女王へと襲いかかる。
「おまえがッ……。おまえらがあの時婚儀さえ上げなければッ……、親父たちは間違いなく死刑になってた! 恩赦なんていう糞みたいな慈悲を下されることなかった! それをおまえらが……おまえが!」
 トルーマン・ストレイジの反乱が鎮圧された直後に元より控えていた王室での行事。それはこの建国記念日の式典とそれに併せて執り行われたアルベルト王太子とレオノーラの結婚の儀だった。反乱の発覚の直後、式の挙行は一時危ぶまれた。しかしストレイジ公爵が本格的な軍事行動を始める前に反乱は即座に鎮圧された。公爵の反乱は衝撃も大きかったが早期鎮圧によって一般国民レベルでの影響は少ないと判断され、式は予定通り執り行われたのだった。誰よりも式の決行を望み、推し進めたのはアルベルト王太子だった。そして本来ストレイジ公爵とその夫人は死罪となるところを、祝事ということで減刑が下される。
 レオノーラは当時のことを振り返る。あのころ、やがて夫となるアルベルト王太子との結婚の準備が進められていた。しかし王室の中には、中流貴族の娘でしかない自分との結婚望まぬ空気もまだ強かった。王太子が数年かけて説得に説得を重ね、表立った反対の声は聞こえなくなったとは言え、やはりどこかまだレオノーラとの結婚に納得していないという空気感を彼女自身肌で感じるところがあった。そんな中で起きたストレイジ公爵の謀反。早期鎮圧によって社会的影響は少なかったとは言え、結婚式を延期すべきだという声もあった。しかし王太子はその声を全力で説得し抑える。王太子にとっては延期されることによってこの結婚に何らかのケチが付くことだけはあってはならない。あるいはストレイジ公爵の謀反によってすでに疵が付いていたかもしれない。ならばそれによる影響はなんとしてでも最小限にとどめたい。そのアルベルト王太子の強い想いによって結婚式は延期されることなく予定通り盛大に執り行われたのだった。そして今、目の前には自分たちの強い望みによって生み出された憎しみの結晶たるセルゲイがいた。その身のうちに業火の如き憎悪の焔を踊らせながら。
「俺のしたことはただの逆恨みだろうよ。おまえに取っちゃただのとばっちりだろうさ。だがそれでも……あの時に親父もおふくろもをギロチンにかけとくべきだったんだ――。おとなしく結婚を延期してあのクソ野郎共を殺っとけば俺は――」
 それ以上は言葉にならなかった。いつしか本当の獣の声のように言葉は輪郭を失い、シラブルは曖昧になりただの叫びと化する。
 しばらくレオノーラはセルゲイの言わせるままにして、彼の声を受け止めていた。しかしやがて女王はセルゲイを取り押さえている近衛兵に命令を下す。
「連れていきなさい」
 そして同時に敵意に燃えるセルゲイの視線に対して、冷徹とも言える眼の輝きを見せる。しかし言葉はかけなかった。
 一部始終をテレーゼはただ見ているだけだった。シルクの手袋に覆われた手をぎゅっと握る。あれだけ理不尽な仕打ちを被ったというのに、テレーゼの中には今やセルゲイに対する怒りは鳴りを潜めていた。ただ不憫に思った。確かに王室の結婚が延期されていれば、セルゲイのこれまでの人生はもっと違う世界をその眼に宿していたかもしれない。この世に誕生するときに起きた大きな不幸が彼を襲うこともなかった。テレーゼはそのことに思いを馳せつつも黙ってセルゲイが連行されるのを見ていた。今あのことを言って何になろう。母王もロビンも今はあえてそのことを黙っているのだ。セルゲイさえ知らない彼の出生の秘密は、今は言うべきでなかった。
 だから今、テレーゼは視線を移す。セルゲイではなく、偽りの女王を。
 女王の姿としての皮を剥がされたゾロアークは一定の距離を置いて近衛兵たちに壁際に追いやられていた。獣を追いつめている近衛兵たちは皆それぞれ剣ではなくボウガンを手にし構えていた。しかしそのゾロアークは眼前で自分を追い詰める近衛兵の誰に一人に対しても目を向けていなかった。それは兵たちの間から見える向こう側にいる自分とほとんど同じ姿をしているもう一体の獣へと向けられている。王女の側にいる色違いのゾロアークへと。テレーゼもそしてロビンだった色違いのゾロアークもそれに気づいていた。
 テレーゼは気づく。あのゾロアークもまた怒りに満ち満ちていることに。棘のような怒りの感情をこちらに向けている。そのときテレーゼの側に数人の兵が駆け寄り胸に手を当てる忠誠を誓う構えを示した。
「殿下。さ、あなたは安全な場所へ。あとは我々におまかせください」
 確かに、アルゴス侯爵の野心を暴き、偽りの女王の正体を明らかにできた今、テレーゼがやるべき役目は終えた。彼らの言うとおりあとは任せておいたほうが良い。
「ええ。わかりました」
 そう思って返事をし、出口の方へと振り返ろうとしたその時だった。
「あとは好きにしろ」
 連行され、脇の扉からまさに姿を消そうとしたセルゲイが扉をくぐる直前に叫んだ。それだけ言うとセルゲイは怒りと自身への滑稽さとが複雑に混ざりあったような笑い声をあげつつ、扉の向こうへと消えていった。
 壇上のゾロアークはそれを聞くと口元に僅かに笑みを浮かべる。セルゲイからの言葉を待っていたかのように、その眼にはまたこれまでと違う輝きを宿した。兵たちに囲まれたこの状況でありながらそこには余裕がある。ロビンが壇上のゾロアークからテレーゼを守るような位置取りへと素早く移動する。
「テレーゼ、耳を塞げ」
「えっ?」
 突然の”ロビン”の声に混乱を覚えつつ、反射的に耳をふさいだ。直後のことだった。近衛兵たちが追いつめていたゾロアークが何の前触れもなく大きく裂けた口をいっぱいまで開く。同時に、その口から耳をつんざく聞くものに恐怖を催すような吠え声をあげた。その声はただの音だけでない。さらに衝撃波を伴い、ゾロアークを中心に波のように広がる。最初の叫び声に怯んだ近衛兵たちはボウガンを打とうとするも遅れる。衝撃波は彼らをふきとばし、けたたましい音と共に式典の間にあるすべての窓ガラスを砕く。壇上から転がり落ちる兵たち。あちらこちらから叫び声や怒号が飛ぶ。
――『バークアウト』か
 ”ロビン”はまとっていたマントを脱ぎ、混乱の飛び交う中、壇上へと躍り出る。レオノーラだった獣とロビンだった獣。本当の姿を表した二体のゾロアークはそれぞれが異なる表情で互いを見据えた。そして一刹那の後、その手に光る爪を構えて飛びかかるのは”ロビン”の方だった。’’ロビン”は夜明け前の空を思わせる蒼紫の鬣をなびかせ、迫るは相手の赤のゾロアーク。すると赤のゾロアークはその場で跳躍し、”ロビン”の攻撃をかわし、彼の爪は空を切った。それでも攻撃を受けるかあるいは避けるか、いずれの場合も想定していた彼はバランスを崩さずその場で踏ん張り、赤のゾロアークが飛んだ方向へと体を向ける。その時、赤のゾロアークは跳躍からの落下とともに、その両の腕を振り上げていた。すぐさま”ロビン”は両の爪を構え、上からの攻撃を受け止める。まるで金属の剣同士がぶつかり合うかのような乾いた音が響く。腕から全身へと衝撃が流れ、”ロビン”はそのまま吹き飛ばされそうになるが、そこを今度は足の爪が支え、床にえぐれるような傷を残しながら彼の体は後ろへとノックバックする。そして彼はその反動をバネのように利用し、反撃に転じる。”ロビン”は風の如き速さで相手に迫り、再び爪を振り上げる。またしても赤のゾロアークは跳躍でそれを避けるが、その跳躍からの落下を待たずに”ロビン”は次の行動へと映る。全身の力を抜き、感覚的に相手の軌道を探った。そして『高速移動』でまだ中空にいるゾロアークへと追い迫った。その速さに赤のゾロアークはあっけにとられたような表情を見せる。その瞬間、”ロビン”は『高速移動』と同時に振り上げていた腕とその先にある爪を振り下ろした。僅かに相手が技を受け止めるほうが早い。しかし、本来の体勢を崩し下方向へと不自然な力が加わった赤のゾロアークはそのまま凄まじい速さで落下し、床へと叩きつけられる。相手が怯んだこのまま攻撃の流れを止めるまいと、”ロビン”は中空のまま両の手に自身の力を溜め込む。大技、『ナイトバースト』の構えだ。いくら同じ属性同士で効果が今ひとつだろうと、この技が入れば赤のゾロアークは大きなダメージを負うこととなるだろう。そして”ロビン”は『ナイトバースト』のエネルギーを溜め込んだ闇色の爪を赤のゾロアークへとぶつけようとする。
 そのときだった。怯んでいるように見えていた赤のゾロアークの口元が唐突に緩む。そして”ロビン”は見た。相手が自分を見ずに横目で壇の下の何かへと目を向けたことを。その次の瞬間、赤のゾロアークは鬣に手を突っ込んだかと思うと素早く何かを取り出し、それを”ロビン”に向けて投げた。その丸い何かは数瞬の間、昇りの放物線を描くと頂点となったところで”ロビン”の『ナイトバースト』に当たる。刹那、その丸いものは瞬時に砕け、その割れ目から放射状に広がるは視界を貫くがごとき強烈な閃光。その閃光は『ナイトバースト』の闇のエネルギーをまたたく間に相殺したばかりでなく、ロビンの視界を白に染めた。
「うっ」
 そのままロビンは床に着地するが、振り下ろした腕には何の手応えもなかった。さらに閃光は式典の間にあまねく広がり、二体のゾロアークへと集中していた人々の視線を一気に焼いた。
「くそっ、閃光弾か」
 そのとき、白い暗闇の中から女性の悲鳴が鋭く轟いた。同時に何かがパンッと破裂する音。そして”ロビン”は聞いた。叫び声がどこかへと遠ざかる瞬間、己のことを呼ぶ声がしたことを。
「ロビン……!」と。
 やがて閃光が収まる。白く染まっていた式典の間がもとの明るさを取り戻す。しかしまた別の叫びが生じた。それは最初の叫び声の主の親のもの。レオノーラ女王の叫び声だった。
「テレーゼ、テレーゼはどこ?!」
 その叫び声の通り、閃光の収まったこの部屋から消えているものがあった。女王に化けていたはずの赤のゾロアーク、そして王女テレーゼ。彼女の側には王女を守護するために側へと侍っていた兵たちが悉く倒れていた。”ロビンは”ぐるりと場内を見回す。その先にはいくつんもの割れた窓がその向こうにぽっかりと口を開けるように、夜の闇の姿を晒していた。
――最初の『バークアウト』はこのためだったのか
 あの閃光でこの場にいる全員の視界が白く染められている中で、赤のゾロアークは近衛兵たちを倒し、テレーゼを捕らえ、最初の『バークアウト』で割れた窓から外へと逃げ出したのだった。しかしこの空間に窓は二十以上もあり、どの窓からどの方向へ向かって逃げていったのかこれでは見当もつかない。
 どうすれば、と歯噛みしているところ、なにかが鼻孔をくすぐった。
――これは?
 それは緊迫に包まれたこの場にはおおよそ似つかわしくない甘い香りだった。香水のような人工的なものではなく、野の花々から香ってくるような香り。それにこの香りには覚えがあった。
――そうだ、これはラッフルの蜜の匂いだ。なぜこんなところで?
 ”ロビン”は神経を研ぎ澄ませ、うっすらと眼を細める。獣としてのセンスがその香りがどこからどこへと続いているのかが可視化される。それはテレーゼがつい今しがたまで立っていた場所から始まり、東側の窓へと続いている。”ロビンは”確信する。なぜテレーゼが急にラッフルの蜜の匂いをまとったのかは分からないが、この匂いの先にテレーゼが連れ去られたのは間違いなかった。
 ”ロビン”はレオノーラへと目を向けた。娘が連れ去られたことで半ば正気を失いかけていた女王は、その獣の、”探偵”の視線に気づきはっと息を呑んだ。
――必ず連れ戻す
 ”ロビン”のその眼は、たしかに女王へとその意志を伝えた。
 そして”ロビン”は東の窓へと跳躍し、さらに屋根へと登り、蜜の匂いを追った。明るかった式典の間から一転して夜が世界を覆う。しかしゾロアークの眼は夜に強い。”ロビン”には進むべき経路が見えていた。宮殿の屋根伝いにずっと先にまで香りの道が続いている。しかしそれは今にも消え掛かりそうだった。風が強いからだ。毎年この季節特有の大風だ。その大風が今にもこの蜜の香りの道を消し去ろうとしていた。急がなければならない。”ロビン”は走った。宮殿の敷地の芝生を駆け抜け、そのまま街へと入り、壁を登り屋根を伝い、石畳の道を駆ける。
 あのゾロアークは何が目的でテレーゼを連れ去り、そしてどこへ行こうとしているのか。しかしそれは自ずと分かることだ。それ以上に”ロビン”はあのゾロアークに訊かなければならぬことがあった。
 そのときひときわ大きな風が吹きすさぶ。思わず”ロビン”は目をつむり、顔に腕をかざした。同時に匂いが風に流されて消えていくのを感じる。
 このままでは奴を追えなくなってしまう。歯噛みを覚えながら目を開ける。しかしそのときに視界に入ってきたものによって、”ロビン”はあのゾロアークの目的地を悟った。匂いを負うことにばかり集中して、今自分がどこを走っているのか全く考えていなかった。匂いが消えたことによって本来の視界が開ける。間違いない、あのゾロアークはここへ来ようとしたのだ。
 それは夜の空を支配する満月を背負い、夜の王都レマルクの街を無機質に見下ろす巨人のごとく……。その頂上にある大鐘が今は鳴ることのない、時計塔だった。

わたぬけ ( 2016/09/13(火) 23:37 )