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「逃げられた、か」
天井に吊り下げられているシャンデリア。中央の心柱から放射状に取り付けられ、全体を包み込むように湾曲している燭台一つ一つに立つ蝋燭が煌々と部屋中を照らしていた。ロココ的な趣味を取り入れ、天井と壁との境が滑らかな曲線によって曖昧になっている部屋。西向きに開いている窓からは昼間ならば南の山間部より流れる川が形作る広大な扇状地に広がる王都の街並みを見下ろすことが出来、さらにその向こうには湾曲した海岸線を見渡すことが出来る。しかし今は深夜の午前一時を回っており、窓には厚いカーテンがかかっていた。その窓を左手に見える位置に置かれているのは黒檀の大机。そして机と同じく黒檀を使ったしっかりした作りの肘掛け椅子に一人の男――名をセルゲイ・アルゴスと名乗る男が座っていた。今の呟きはこの男によって発せられたものだ。
燃え上がるような長い金色の髪は一本一本を櫛に通したように整えられ、後ろに回して縛っている。顔はゴツゴツとしており彫りが深く、眉はキリリと表情の造形に調和を出している。年齢は二十代の半ばを少し過ぎたあたりと見え、燐と光る目には若々しさと野心が一緒くたになって燃え上がっている。
彼は今、机に右腕で頬杖をつき前方の床で跪き片手を床につける体勢となっている人物を刺すような目線で見下ろしていた。跪いている男は全身を黒いローブで身にまとい、傍らには黒く骨のような模様のある獣を侍らせている。
「申し訳ありません、閣下。中に踏み込んだ時には既にもぬけの殻。天井に伝って屋根の上に出られる梯子があり、おそらくそこから抜けだしたものと思われます」
「そこにテレーゼ王女が来ていた証拠は?」
「ヘルガーたちが王女の匂いを嗅ぎつけています。それと確定的なものは残されておりませんでしたが事務所内を漁った所、書類等が不自然に持ち去られた跡がありました」
そう述べる彼の声は震えている。今から己が仕える主人よりどのようなお叱りが降りかかるのか気が気でない。
「全く、困ったことになったな」
侯爵は空いている方の手の細長い人差し指でこめかみのあたりを掻く。その声は静かでありながら奥に怒りで炎が爆ぜるかのような響きがこもっていた。それに感づく黒服はますます身が縮んでいくような思いだった。よりにもよって建国記念祭を直前に控えたこのタイミングで失敗してしまうとは。
するとセルゲイは席を立ち、ゆっくりと黒服の周りを大儀そうな歩調でくるりと一周すると正面に立ち、また低い声で叩きつけるように言った。
「王女は恐らくつけられていることに気づいたんだろう。それを例の探偵に相談して逃げ出したというところだ。この愚か者がッ! なんのために下手な行動の取れない『女王』や私の代わりにお前たちを信頼して王宮に忍ばせているのか分かっているのか?」
一気にまくし立て、飛んだ唾が黒服の頭に振りかかる。彼は防ごうともせず振りかかるに任せていた。セルゲイはまだ何か言おうと口を開きかけたが、思い直し喉まで出かかった言葉をぐっと押し込む。
「いや、そもそもやはり『女王』から気づかれたかもしれないと連絡があった時点で手を打っておけばよかったな。まさか先王の指輪を隠し持っていたとは。建国記念日を直前に控えて事を荒立てるのはまずいと放置していたのが仇となったか……」
セルゲイは片手を頭に当ててぐしゃりと髪の毛を掴むと肺に溜まった汚れた空気を押し出すように深く深呼吸し、再び席へと戻った。つい激昂してしまったのを恥じらうように軽く咳払いすると、冷徹な視線を黒服の男に向けた。
「とにかく、王女と例の探偵の行方を追え。なんとしてでも三日後の建国記念日前夜祭までに探しだせ! それと、式典の準備は首尾よく進んでいるんだろうな?」
「はい。そちらの方は滞りなく」
「ふん。それなら良い。さっさと行くんだ」
セルゲイはそう吐き捨て、相手にするのも面倒だと言わんばかりに机の後ろにある本棚へと向き、黒服に対しては背を向ける格好となった。黒服はこれ以上主人の気に触れまいとそそくさと背後の扉から後にし、部屋から出る際には背を向けている当人に向かって頭を下げた。
ドアが締まり足音が遠ざかっていくのを聞き届けるとセルゲイは立ち上がり、今しがた男が出ていったものとは別の――窓と反対側の壁にある――扉に手をかけた。その先に続く回廊を歩き、突き当りにある扉を開けるとひんやりとした夜風がふわりと頬を撫でた。扉の向こうはこの屋敷の広大な裏庭が広がっている。庭へと降りる小さな階段を降りると、石畳が規則正しく置かれ両脇には花壇が設けてありそこには様々な植物、季節の花がまるで絨毯のように植えられている。石畳の四つ辻に差し掛かると辻を囲むようにそれぞれ異なる色の花が配され、カーブにはアーチ型の棚のトンネルが形作られていた。庭園の中央には鏡面の如き水面を湛える池があり、その広さはテニスコートを二つ並べ、四隅を丸く切り取ったほどである。
そして池の畔、セルゲイが裏庭に出た扉から対岸に位置するあたりに小屋が一つ建てられている。小屋と言ってもそれはあくまで屋敷の大きさに比べると小屋ほどしかないという意味で、実際には少し小さいが立派な一軒の家と呼ぶに遜色ないものだった。しかし一目ではただの家にも見えるその小屋はよく目を凝らすと物々しい。窓という窓には冷たい鉄格子がはめられ、暖炉用のものと思われる煙突には伝って出られないように蓋がされており、その蓋には煙だけが出るための小さな穴がポツポツと開けられているだけだった。そしてこの裏庭全体も敷地に沿うように高い塀や鉄柵で囲まれており、その境にはあたかも外界の目から隠すように密集して木が植えられている。そして耳を澄ますとあちこちから聞こえてくる鼻息の音や唸り声。一見するだけでは見えない、草むらや木などの影にヘルガー、グラエナ、ハーデリアといった夜目が効き、耳や鼻で周囲を警戒する獣たちが放されているのだ。そのせいなのか、あたりは不気味なほどにひっそりと静まり返り、何かの拍子で破裂してしまいそうな張り詰めた均衡の中に空間が保たれているようだった。
セルゲイは対岸にある小屋へと目を向ける。彼から見て小屋の扉の右手にある部屋だけ薄暗い明かりが灯っている。あれは“中にいる人物”の世話をするための女中が宿直する部屋だ。それ以外の部屋は暗く、よく目を凝らすとカーテンが閉められていた。
「さすがにこんな時間だともう眠っているか」
彼は屋敷へ戻ろうと身を翻しかけた。そのとき池の中央に浮かぶ青白い光が目に留まる。その光は水面ではっきりとした輪郭をもって浮かんでいたが、その折一陣の風が通りぬけ水面がにわかに波立つと輪郭はぐにゃりとひしゃげてゆらゆらと千切れては繋がるのを繰り返す。彼は視線を今度は空に向ける。そこには水面に浮かぶ光と同じ青白い絹布の如き光を投げかける月が高々と真っ暗な海に浮かんでいた。月の弧はもうすっかり膨らみ、もう間もなく完全なる満月を迎えようとしていた。セルゲイはその月に向かって口元に笑みを含ませる。
「この様子だと当夜は満月だな。大教会の鐘が焼け落ちてるのは残念だが、満月に迎えられるのも悪くない」
誰伴なく呟くと今度こそ身を翻し、屋敷の中へと戻って行った。
*
カーテンの駒がレール上を滑る乾いた音が耳に入る。同時に窓から差し込んだ朝日が顔を照らし、その眩しさでテレーゼは目を覚ました。そして周りの世界から眠気が晴れてはっきりした輪郭を持ってくると途端に彼女は弾かれたように身を起こした。ここは一体どこ。いつものようなふかふかのベッドと枕も、いい香りのする布団も、眠りの世界を優しく包み込む天蓋も無い。
しかしすぐにテレーゼは「ああ」と自分の身に起こった事態を思い出し、自分の頭を軽く叩いた。
「おや。お目覚めね」
カーテンを開けた人物がテレーゼが目を覚ましたのに気づいて、にこりと笑いかけた。背が高く年齢は二十代の半ばくらいと見受けられる。色の褪せた淡い黄色のエプロンを着用し、艶やかな金色の髪は肩のあたりで綺麗にカットされていた。
「おはようございます。リドレイ様」
テレーゼは笑いかけてきた女性にそう微笑み返すと、両手を前に揃えて恭しく頭を下げた。不意にそんな丁寧な挨拶をされたリドレイと呼ばれた女性は一瞬きょとんとした顔を見せるが、すぐにおかしくなって快活に笑い声をあげた。
「やーねえ。貴族じゃあるまいし。“様”だなんて……!」
そのとき部屋の扉が開き、その向こうからロビンが現れた。テレーゼよりずっと先に起きていたらしく、表情はしっかりと覚醒したものだった。手には今朝のものと思われる新聞が持たれている。
「よう、起きたか」
探偵事務所から脱出した後、ロビンが寝床を求めてやってきたのは事務所から北西に一と半マイルほど飛んだ場所で中心街エリアにある下宿を兼ねた一軒家だった。テレーゼが少しだけ耳にした話しによると、そこの女主人であるイレーヌ・リドレイ夫人はロビンのかつての依頼人の一人でその時の縁でこうして協力してくれているとのことだ。その依頼というものがどういうものであったかまでは聞いていないのであるが。
こうして空いている部屋を一間借り、テレーゼは借りた部屋でロビンは夫人の居住スペースの居間の隅でそれぞれ眠った。
「しっかしびっくりしたわ。日付の変わった深夜にいきなり乱暴なノックで叩き起こされたと思ったら、久しぶりに会った挨拶もなしに『こいつの寝る場所を貸してくれないか』だもんねえ」
言葉こそロビンの非常識な行動を避難しているが、その口調は不意に訪れた非日常をかえって楽しんでいるようだった。
「起きてから何回言うつもりだ。耳にたこができる」
「あら、この子に言うのは初めてよ」
“この子”という気兼ねのない呼び方に再びテレーゼは新鮮さを覚える。そんな呼び方で自分を呼ぶのは両親以外には居ない。とはいえ、イレーヌの場合は少し事情が違う。まだ彼女にはテレーゼの名も王女だということも教えていなかった。昨夜ここに来てからすぐにこの部屋に通されて眠ったので言いそびれていた。そして今のこの反応を見るにロビンもまだ教えていないようだ。
そしてロビンと二、三の言葉をかわすとイレーヌは朝食の用意をすると言って部屋を出ていった。扉をくぐりざまつい我慢できずに押し殺した笑い声がテレーゼの耳に届いた。
夫人の足音が遠ざかっていくのを確認するとロビンはハアっとため息をつく。腕を組んだポーズで壁に背中から寄りかかり、一呼吸置くと口を開いた。
「さてと、これからどうする王女さんよ」
その言葉に鳩尾(みぞおち)のあたりが俄に熱くなるのを彼女は感じる。いつかこんな事態になるのではないかと予想はしていたものの、テレーゼは未だにこれが現実なのだということに戸惑っていた。
家庭教師から歴史を学んだ折、過去には津々浦々世界中の国々の成犬の周囲には様々な陰謀が渦巻き、そのたびに時の王族や政府を始めとするたくさんの人々が犠牲になったということを思い出す。ある地方ではたった一人の人物の暗躍によって国が滅びたという話も聞いた。頭では明日は自分の身に振りかかることかもしれないと理解しながらも、やはりどこか自分の周囲ではこんな事は起こるはずがないと高をくくっていたのかもしれない。考えると王族という立場の人間はどれほどのリスクの上に立ってこの恵まれた生活を享受しているのか。国に何かが起これば真っ先に糾弾の的となり、場合によっては死を突き付けられることさえある。尊敬の対称となることもあれば、一転して憎悪の矢を浴びせられることもある。
テレーゼはなにか言わなくてはと口を動かすが、喉の奥では言葉が定まらず呼吸のみが行き来する。
「ま、すぐには言えないか。とりあえずルナに感謝しなくちゃな」
そう言われてテレーゼはルナを連れて来ていたことを思い出した。どこに行ったのかと部屋を見回すと、自身が眠っていたベッドの傍らにクッションを敷いた編みかごが置かれ、ムンナはその中ですやすやと目を閉じていた。
「ごめんなさい。私が依頼したばっかりにあなたまで迷惑を被ってしまって」
「気にすんな。探偵なんて商売やってる以上こういう事もある」
「でもこれ以上迷惑はかけられません」
「なら契約を破棄するか?」
その言葉はテレーゼの胸に小さな針が刺さるようにちくりとした。ロビンは続ける。
「テレーゼ、お前さんと俺との関係はあくまで雇い雇われの関係にすぎない。契約者であるお前さんがもうこれ以上は手を引いてくれと言うのなら、只の雇われ人である俺がとやかく言う道理はない。『はいそうですか。分かりました』と契約者の意向に従うまでさ」
どう返せばいいのか、テレーゼは言葉が見つからない。やがて扉の向こうからイレーヌの足音が近づいてくることに気づくと、ロビンは最後にこう続けた。
「これから調べごとがあって出かける。俺が帰るまでに答えを決めといてくれ。それと、分かってると思うが今日はここを動くな」
言葉を切ると同時に扉が開かれ、その向こうからイレーヌがワゴンに朝食を運んでやって来た。
「イレーヌ、今日一日こいつのことを頼む」
すれ違いざまに言うと、ロビンは相手の返事も待たずに部屋を出ていった。イレーヌはそんな彼の背中を見送って頬をふくらませた。
「全く、久しぶりに会ったけど勝手なのは変わらないわね」
イレーヌはぶつくさと文句を言いながらテレーゼのためにこしらえた朝食を部屋のテーブルに並べた。
「さ、温かいうちにおあがり。あたしは自室にいるから何かあったらいつでも呼んでいいわ」
そして部屋を出ようとくるりと背を向けて歩き始めた時、後ろから呼び声が彼女の足を引き止めた。イレーヌは「なにかしら?」と、首だけで振り向いた。テレーゼはベッドから降り、ようやく目を覚ましたルナを抱き上げると真摯な目で彼女を見据えた。
「少し、お話ししませんか?」