37 【探偵に拾われた獣の話 その2】
彼は目の前にいるこのニンゲンがこれから自分に何をしようとしているのか、まるで見当もつきませんでした。
ニンゲンという生き物がこの世界に存在するという話は森に居た頃からときどき耳にしていたことですが、その頃の彼にとっては自分に何の関係もないことだと思っていたのでした。そんな彼が初めてニンゲンというものに相まみえることになったのは、おばあさんが『居なくなっ』てしまってから群れを去り森から抜けて宛もなく続けていた旅の途中のこと。ある時、どうにも狩りがうまく行かず木の実も見つけられずにお腹をすかせていると、そんな腹の虫を意地悪くくすぐるとってもいい匂いが漂ってきます。自分の食欲に従うまま歩いて行き、そのとき彼は初めてニンゲンという存在と出会ったのでした。しかしその出会い方は最悪というべきもので、お腹をすかせた彼はある家庭に忍び込み、そこでニンゲンの食べ物を盗んでしまったのです。そんな彼を見つけたニンゲンたちはそれはそれは世にも恐ろしい形相で彼をわけの分からぬ言葉で罵倒しながら何人も徒党を組んで追いかけるやら、犬型の獣けしかけるやら、さんざんなものでした。おかげで彼にとってニンゲンとは獣すら操ってけしかける恐ろしい存在として焼き付いたのです。そのおかげで彼はそれ以来人里に降りるようなことなどせず、今眼前にいる男に拾われるまでニンゲンを避けるように生きてきたのです。いや、ニンゲンだけでなく彼は自分と同じ獣相手であろうと決して深く関わろうとはしませんでした。それはひとえに彼が“イロチガイ”だから。森で群れと暮らした記憶をずっと引きずり続けている彼には、誰かと積極的に関わろうなんて発想はなかったのです。
なんとか逃げ出さないときっと恐ろしいことになる。そう思って立ち上がろうとしますが、体にうまく力が入りません。おまけに全身小さな傷だらけで痛くてたまりませんでした。そもそもどうして今自分はこんなところに居るんだろうと考えます。そうだ、確かお腹が空いていて折よく獲物にちょうど良さそうな小型の獣を見つけたのですが、捕まえようと飛びかかった時、その親に見つかってしまったのです。獲物として狙っていた者よりも何倍も大きく力も強かったその親は、食べられようとしている我が子を守るために全力で庇い、そして子がもう安全な場所まで逃げていったのを見守るやいなや、手に掛けようとした彼を追い回したのです。なんとか幻影を駆使して逃げ切ることが出来たのですが、獣の頭から生えてる大きな二本の角から技を受けたり野をかけていく中で草であちこちを切ったりしてもうヘロヘロのボロボロ。お腹も空いているし傷があちこち痛い、おまけに急に雲行きが怪しくなって大粒の雨が雷を伴って容赦なく彼を打ち付けました。
大雨で鼻もきかないし、傷だらけで空腹、頭がぼんやりして全身がガチガチに冷えてきます。そんな様子だから野性的な勘もすっかり鈍ってしまって、彼はニンゲンが往来する街道へ自分が差し掛かっていることに気づきもしませんでした。何かが目の前をものすごい早さで通り過ぎていったようですが、それが何なのかを考える力ももう残っていません。その時視界が妙に開けたと思った所で彼の記憶はそこで途切れました。そして目を覚ますと、見たこともない場所に居て、ニンゲンの男が前に立っています。そして男が彼に向けて手を伸ばしかけた時、かつて人里に降りた時に受けたさんざんな目を思い出して思わず爪を立てたというわけでした。
「おいゾロアくん」
男が彼のことをそう呼びました。不思議な気分です。『ゾロア』と呼ばれたのはこの時が初めてだったのに、ずっと昔から自分は、いや自分だけでなく血を遡ってずっと以前から自分たち化け狐の子はそう呼ばれていたんだとなんとなく理解したのでした。そんな奇妙な感慨にふけっていると、ニンゲンの男が歩み寄ってくるのが見えました。今度こそ酷い目にあわされると彼は身を構えます。こうなったらこのニンゲンを怖がらせてやろう、と彼は自分の身を得意の幻影で変化させました。とにかく怖く恐ろしいものというイメージで彼が選んだ幻影は、昨日彼を傷つけた獲物の親獣でした。細い四本の足で立ち、顔には意志の強さの宿った目を持ち、頭からは青々とした葉っぱの生えた角が生えています。種族の名を彼は知りませんでしたが、その獣が自分に向けてやっていたように、角を相手に向けるように頭を下げて唸り威嚇する真似をします。男の後ろにいたムックルが突然姿を変えた彼に驚いて、ピーピーと金切り声を上げました。ところがどうでしょう。肝心のニンゲンの男は確かに突然己の身の丈ほどもある鹿の姿に彼が変化したことに驚いたようではありましたが、一歩を身を引いただけで口元に微笑を浮かべると、姿を変えた彼のおでこをピンと指で小突いたのです。しゅるしゅると風船がしぼむように鹿の姿が縮んで、やがて彼の元の姿がそこにありました。彼はあっけにとられて男をぽかんと見上げました。男は珍しいものを見たことに喜ぶように笑っていました。腰をかがめます。
「へえ、今のが
幻影ってやつか。本に書いてあった通りだ。まさかそんなこと出来る獣がいるのかって半信半疑だったけど、すげえな」
よく見ると男は彼に怪我をされなかった左手に何かを持っていました。丸くて薄く平べったいもので、艶やかな光沢が光っています。それを彼の目の前に置くと、彼はそういえばもう何日も食べ物を口にしていなかったことを思い出させられたのでした。薄く丸く平べったいものの上には木の実がたくさん。
「あいにく今こういうのしか無えんだ。ムックルならともかく、ゾロアもこういうの食べるのか?」
男の質問に彼は何も考えずに食べ物に跳びかかるという行為で返事をしました。実に三日ぶりの食事です。からっからんのすっからかんだった胃袋が突如としてもたらされた恵みの雨でひっくり返りそう。あっという間に彼はそこにあった食べ物をすべて平らげてしまいました。気がつくと頭上からニンゲンの男の声が降ってきます。笑っているようでした。
「よっぽど腹が減っていたんだな。思ったより元気そうで何よりだよ」
その時男の後ろからムックルが飛んできて、ゆっくりと降下すると男の差し出した左手にとまりました。
「しかしまあ、片方は居候とはいえ同居人が二人も増えるとはな。いや、二匹か?」
そして男はムックルを床に置き、彼の横に並べます。その時になって初めて彼はムックルの顔をじっと見ました。ムックルもムックルで化け狐の彼を小さな丸い目でまじまじと見つめてきます。なんだかきまりが悪くなって彼は視線をニンゲンの男の方へと向けました。二本足で立つニンゲンは彼から見ればまるで木が動いているようにすら見えました。お腹いっぱいにご飯を与えられたせいでしょうか。彼はいつの間に男に向けていた警戒心を少しだけ緩めていました。それでも安心したわけでなく、男の一挙手一投足を注意深く見守る体制にはまだ変わりがありません。
ニンゲンの男は並ぶ二体の獣を見下ろして腕を組み、うーんと首をひねります。
「やっぱり『ムックル』じゃ種族の名だからなんか味気ないな。人間を『ニンゲン』って呼ぶようなもんだし。うっし! 名前でもつけるか」
名前……。彼は胸の内に何か暗いものが過ぎります。名前、呼び名。普通、獣たちの間には名付けの習慣はありません。ただ同じ一族間でお互いがお互いを見分けるために、その者の特徴がそのまま呼び名となることはよくあることでした。例えばかけっこが得意ならば『アシハヤ』だとか、体毛が他の者と違って少しクセがついているような者ならば『クセッケ』だとかそんな具合です。そして彼の場合は生まれた時からもう決まってしまっていました。『イロチガイ』と。
そういえばこの男、さっき自身のことをロビンって言ったな、と彼は思い出しました。そうかこのニンゲンはロビンって名前なのか。彼は改めて男の顔をじっと見つめました。
男――ロビンは既に早いうちからムックルにつける名前は決めていたようで、彼の横にちょこんと座るムックルをまず指差しました。
「ムックルのお前は『ラフト』。俺の故郷の古い言葉で『空』って意味なんだ」
『ラフト』。その名を与えられたムックルの彼は大喜び。パタパタと翼をはためかせて大喜びでロビンの周りを飛び回ります。喜びのあまり壁や天井にぶつかりそうになるものですからロビンに笑いながら宥められました。
「お前は……どうすっかな」
そう言うと、ロビンというニンゲンの男は彼が平らげた薄く平べったいものを持ち上げました。「どうすっかな」という言葉には二重の意味が込められていたのですが、この時の彼にはそれに気づきませんでした。
*
ロビンはこの先ゾロアをどうするべきか考えあぐねていた。後先を何も考えずに弱った獣を連れてきてしまったので、とりあえず傷が治るまでは世話するとして、その先のことがまだ不透明だった。ゾロアはまだ警戒心を緩めていないらしく、ロビンに対してまだ口元から牙を覗かせていた。
「ま、なるようになるだろう」
それから数日が過ぎた。ムックルはラフトと付けられた名前がよほど気に入ったと見えて、名前を呼ぶたびに喜んでこちらにぶつかりそうな勢いで飛んでくる。一方のゾロアの方はまだ名前を決めかねていた。
さすがに自分一人だけでゾロアの世話をどうにかするのは難しいと感じて、知り合いの獣医に見せたりもした。その時獣医は獣を訝しむような戸惑うような目で見ていた。なんでも、「ゾロアは非常に珍しい獣で過去に一度だけ診たことがあるが、その時はこんな色じゃなかったと思う」とのことだ。なるほどとロビンは頷いた。幸い健康の方には何の問題も無いらしく、きちんと食べさせておけばあとは自然に治癒するだろうとの事だった。それから街の図書館でより詳細が書かれている文献を漁り、どうやら今世話しているゾロアは通常色とは全く異なるいわゆる『色違い』であることを知った。
*
日を追うごとに彼は気力を取り戻していきました。体の傷は次第に癒え、体力が落ちて鈍っていた体や野性的な勘も取り戻していきます。しかし同時に他に対する敵対心、警戒心も湧き起こります。ラフトとは事あるごとにつっかかり、喧嘩ばかり繰り返していました。イロチガイである自分のことなんて誰も好きになるはずなんてない。彼はいままでずっとそうやって自分を守ってきたのです。だけど、何かが今までと違う、彼はそんな気がしていました。関わってきた相手に容赦なく牙を向けたり、何も言わずに立ち去るようなことは日常茶飯事で彼はそのことに対して何も感じていませんでした。だけど、なんだかいつもと違うのです。ロビンに噛み付こうとします。構ってくるラフトを追い払います。やったすぐ後はせいせいした気分になります。だけど、時間経つにつれてなんだか胸の奥に何かが引っかかるのでした。それはまるで秋暮れに不意に北からやってくる冷たい風のように、何か後ろめたいものを感じるのです。こんな気分になるのは初めてですし、この自分の気持ちの正体が何なのか分からない彼は余計に苛立ってさらに攻撃的になってしまうのでした。
そんなある時、ロビンからカゴの中に入れられて馬車でどこかへ連れて行かれます。いつもロビンは彼がその手に噛み付こうとしたり、引っ掻いたりしても笑ってやり過ごすのですが、この日はなんだか様子が変でした。ずっと口を真一文字に閉めて何も言ってきません。ロビンの肩に乗っているムックルのラフトもなんだかよそよそしく、彼がなにか話しかけてもぷいとそっぽを向くのです。ちょっと調子が狂うような気分になりながら馬車に揺られてどのくらい経ったのでしょうか。やがてロビンが馭者に「ここで止めてくれ」と頼み、揺れが止まりました。いったいどこまで来たのか分かりませんが、街からはずっと遠ざかったところだろうなと思いました。草のにおいがしたからです。そして彼は馬車から降ろされます。
彼が予想したとおりでした。そこは浅緑の海が広がる草原。背の高い草が風にさささと揺られ波立っています。草の匂いが鼻をくすぐり、風がそっと体を撫でます。すぐ近くには小川がさらさらと流れ、濁りのない清らかさを湛えていました。そして彼は気づきます。ここは自分が倒れた場所だ、と。彼はロビンを見上げました。ロビンは膝を曲げて彼の頭に手を置きます。いつもならすぐに噛み付いてやろうと思うところですが、なんだか今はそんな気分になれませんでした。
「お前、もう十分元気になったろ。今まで窮屈な思いさせて悪かったな」
彼はその時になってようやくロビンが自分をここへ連れだした目的に気づきました。彼を帰そうというのです。最初にロビンが言ったことを思い出しました。「お前が全快するまでムックルと一緒に面倒を見てやるよ」。事実もう彼はどこも痛いところはありませんでしたし、野性的な感覚だって取り戻していました。だからもう心配いらない。このまま野生に帰したほうがいい。きっとロビンはそう決めたんだ、と彼は思いました。この草原が彼の故郷ではないのですが、ロビンは拾ったこの場所で帰すのがいいと思ったのでしょう。
「達者でな。もう怪我するなよ」
そう言うとロビンは手を離しました。肩に乗っているラフトも片翼を挙げてまるで手を振っているようです。
そして彼はロビンへと背を向けます。するとどうでしょう。何かが彼の心を掴むのです。なぜだろう、と彼は考えます。あれだけ誰かと関わるのを嫌がっていたのに、むしろまたひとりになれるとせいせいするはずだのに。心のなかで誰かが叫びます、違う、と。心臓が高鳴って目の焦点がぼんやりとします。秋暮れの冷たい風が今まで以上にいっそう強く彼の胸の内で吹きすさびました。彼はちらりと後ろを振り向きました。そして最初に目に飛び込んだものを見て、何かがストンと落ちるような気分になったのです。ロビンは方に乗せてるラフトと一緒にもうこちらに背を向けて馬車に乗り込もうとしていました。その時目にしたのはロビンの手、つい今しがた彼の頭を撫でてくれた手でした。その手はあちこちに切り傷やら噛み傷やらで貼ったガーゼだらけでした。ロビンが自分に近づくたびに引っ掻いたり噛み付いたりしていたから当たり前といえばそうなのです。でも彼はこの時になるまでずっとロビンの手の傷が見えていなかったのです。やがて彼らの姿は馬車の戸の向こうへ消えて行きました。そして彼はなにか苦いものを感じながら草むらの向こうへと潜り込んで行きました。馭者がポニータに鞭打つ音が聞こえて、彼の耳に馬車が遠ざかっていくのが聞こえました。馬車の小窓からは彼の姿はもう見えないはずなのですが、彼は何かずっとロビンたちが自分を見ているような気がしてなりません。
しばらく人界で暮らしていたため鼻が鈍ったのでしょうか、草の香りが全くいいものに感じられません。爽やかなはずの風も彼の心を決して晴れやかなものにしませんでした。彼はずっとロビンたちと暮らしていた間、彼らに噛み付いたり引っ掻いたり傷つけてばかりだった自分を思い出します。そして同時に彼らが自分に優しく接してきてくれていたこも心に浮かびました。
やがて彼は歩みを進める足をぴたりと止めました。そしてようやく気づいたのです、今自分の中に渦巻くこの気持ちの正体を。
ずっとひとりでした。おばあさんが居なくなってしまって、ずっと自分はひとりだと思っていました。自分がイロチガイだから、誰かが優しくしてくれるなんて信じられないし、誰かに好かれるはずがない。だから、ずっとひとりで生きていくのがいい。なのに、何かが彼に違うと語りかけるのです。彼らが自分がイロチガイだからといって何か気味悪がったり、虐めたりしたでしょうか。いいや、そんなことはありませんでした。ひょっとすると、これまでもそうだったんじゃないかと彼は思います。自分がイロチガイだからと嫌われていたのはあの群れの中だけの話で、群れから出た後イロチガイだからと蔑んできた獣がいたでしょうか。いや、あの群れの中でさえあのおばあさんは自分に対してあれだけ優しくしてくれたではありませんか。ひょっとすると自分はもっといろんな者達と仲良くなる機会を自分で投げ出していたのかもしれない。自分がイロチガイなのを一番嫌い蔑んでいたのは、ほかならぬ自分自身だったのかもしれない。
そして彼の心にははっきりとこの思いで溢れました。もうひとりに戻るのはイヤだ。こうして離れていって、いつかロビンたちは自分のことを忘れてしまう。でもきっと自分は彼らのことを決して忘れることが出来ない。いつかもう一度会いたいと思っても、あれだけ広い町で宛もなく彼らを探し当てるのはほとんど無理でしょう。
彼は悄然と俯いていた顔を振るうように挙げると、くるりと向きを変え全速力で駈け出しました。速く速く出来る以上に速く。前にもこんなふうに走った気がします。だけどあれは逃げ出すためでした。今は違います。誰かと一緒にいたい。ひとりにはなりたくない。もう一度彼らのところへ戻りたい。その一心でした。馬車が出てからもうどれくらい時間が経ったのか、どれくらい離れてしまったのか、ポニータの引く馬車に自分が追いつけるのか、そんなこと関係ありません。
緑の海を青い影が物凄い速さで切り開いていきます。せっかく傷が全部治ったのにまた草の切っ先で体を傷つけることも厭いません。
――もう一度会いたい
ただその思いだけが彼を駆り立て、疲れさえ忘れて走らせるのでした。
*
ゴトゴトと揺れる馬車の中で、最初に何かに気づいたのはラフトだった。ぼんやりと背もたれに体を預けて、睡魔に身を委ねようとしていたロビンの肩の上でムックルがばたばたと翼をはためかせた。眠りを邪魔されることに少しだけ苛立ちを覚えながら、ロビンは「どうした?」と尋ねる。ラフトは馬車の扉に小さくくり抜くように開けてある窓の外をくちばしで指していた。窓の外に何かあるのかとロビンは顔を出すが、特に何も見えない。緑色の海が相変わらず広がっており、王都が近づきつつあることを示すように遠くに農家がぽつぽつと見受けられるだけだった。
しかし、よく目を凝らしてロビンはようやく気づく。草原を形成する草むらの向こうで何かが動いている。馬車と並走するようにそれは草の海をかき分けて、やがて馬車を追い抜く。そして街道に差し掛かると同時に草むらから姿を表した。
「あれは!」
そのとき草むらから飛び出したのは馬車を引くポニータよりも遥かに体の大きいメブキジカ。突如として姿を表した来訪者にポニータは驚き思わず足を止める。馭者がどうにか宥めようとするがその間にメブキジカはこちらに突進するように駈け出した。そのままぶつかるように跳躍し、馭者とポニータが驚愕の叫びを上げる。その瞬間メブキジカのしなやかな体躯は赤い光りに包まれたかと思うと、輪郭線が溶けるようにぼやける。そして急激に縮むとそれはやがて小さな獣の姿へと形を変えた。ロビンとラフトも呆気に取られながら、飛んでくる小さな影に釘付けとなった。そして影は衝突すること無くポニータを飛び越え馭者の頭も飛び越え、馬車の前側の窓をすっぽりとすり抜けると、そのままロビンの胸にきつい頭突きをお見舞いした。ぐえっと吐き出すとようなうめき声を挙げると、ロビンはうずくまって胸を抑えて咽せこんだ。馭者が大丈夫ですかと慌てて覗きこんだがロビンは咳を混じらせながらなんとか心配いらないと答えた。そしてようやく咳き込みが収まると、いつの間にかそれは腹の底からの馬鹿笑いへと変貌していた。
「なんなんだよお前は」
ロビンは自分でぶつかってきておいて、そのまま目を回しているゾロアを抱き上げた。ゾロアはふるふると頭を振ると、ようやくロビンが目に入った。
「そうか。お前、俺と一緒にいたいんだな」
そしてその返事にゾロアは男の顔をぺろんとひと舐めした。そのままゾロアはラフトの胸にも鼻先を押し付けた。ラフトは何がなんだか分からないがゾロアが戻ってきてくれたことが嬉しくそのまま翼をはためかせた。
そしてロビンはラフトからゾロアを離し、今一度己の眼前へとやる。その赤黒い目へとじっと視線を注ぎ、そっと語りかけた。
「悪いな。お前が帰りたがっているのか分からなかったから、名前は付けずにいたんだが実はとっくに考えてたんだよ」
両者の視線がまるで橋がかかるように固く結ばれる。
「ラフトと同じ、俺の故郷に伝わる古い言葉だ」
そしてその唇の向こう側から言葉が発せられた。ゾロアはまるで生まれ変わったような気持ちで、その言葉を胸の一番深い所で受け止めた。
「『ジーマ』。意味は『誓い』、だ」