35 【23時36分】
【本編の前に一言注意】
DANGER!
ネタバレが嫌なら間違っても読む前にスクロールするな!以上。
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【本編】
ロビンと、そしてお母様は今どこまで来ているのだろう。祈るような思いが生じる。高いところからテレーゼを見下ろす“女王”とセルゲイ。二人ともその目に冷たい、小馬鹿にしたような色を浮かべる。
「もしあなたが今言った通りだというのなら、有るはずですよ。ダニエル氏が残されたというメモ、王師を動かしたというのなら、キースの王師からの報告文、そして私が偽者だというのなら本物の女王その人、さあこの場に出してご覧なさい」
「それは……」
テレーゼは言葉を濁らせる。
「あるのでしょう?」
“女王”は高邁にテレーゼを見下ろして強調した。テレーゼには見える。どこをどう見たって己の母にしか見えないその表情の奥で、一体の黒い獣が邪智の色を瞳に浮かべて笑っている姿が。赤い鬣を靡かせながらきっと高笑いしているのだろう。人々の群れから不穏なざわめきが湧く。
テレーゼは歯噛みする。あの勝ち誇ったような表情。キースの王師からの報告文、テレーゼはその存在があることを忘れていた。王師にはそれぞれの地域の師団ごとに信号設備を備えている。従来は鳥型の獣がその役目を担っていが、昨今の電気技術の開発の波が他国よりもたらされたことでジオノでは王師がいち早く技術を導入した。それによって各地域の王師や自治体に軍事上の報告を迅速に伝達させることが可能となった。王宮の通信機関では地方ごとの王師がなんらかの動きを起こすとすぐに報告書が送られる手筈となっていた。わざわざテレーゼが及びもつかなかった事を口に出すということは、その通信機関をなんらかの形で牛耳ることにも成功したのだろう。
狼狽の念が次第に渦巻き、焦燥という形となってテレーゼに牙をむく。
「証拠は……」
わずかに声が震えてしまっていることに自分で気づく。ここで黙ったままではいけない。だけど何といえばいいだろう。“女王”が言うように、確かに証拠となるものは全てロビンの手にあり、そのロビンはいつここへやってくるか分からない。ここでテレーゼがどんなに侯爵と“女王”を糾弾しようとも、それを裏付けるだけのものをテレーゼには示すことが出来ないのだ。最初から分かっていた。証拠のことを尋ねられればこうなることは。アルゴス侯爵ばかりか、“女王”を偽者と言ったからには誰もが納得する印を示さぬことには王女が気が触れたようにしか映らぬだろう。
こうなれば……。テレーゼは考える。
いつ来るかはわからない、本当に母を助け出せたのか分からない。しかし、ロビンは来る。テレーゼには確信があった。眼前に君臨する“女王”。その正体である獣、ゾロアーク。ロビンは彼が目的なのだから。そしてロビンと“女王”が相まみえる時、ロビンは彼の化けの皮を必ずや剥ぐ。出来ればロビンが来る前に彼らを打ち破りたかった。ロビンが“女王”の正体を明かす時はロビン自身が己の正体を明かす時なのだ。脳裏にぼんやりと浮かび上がるものがある。最初の夜になんとなく目に写ったロビンの目の輝き、ロビンが囚われの女王へと宛てた手紙の文章、そして事務所の寝室で見つけたアルバムの写真。
テレーゼは心のなかでロビンに謝罪の言葉を述べた。そしてテレーゼはゆっくりと顔を上げた。
「今ははありません」
きっとここが王宮で、式典の間で、そして今まさに式典の際中という状況でなければ、セルゲイも“女王”も腹の底から哄笑したことだろう。実際セルゲイの方はなんとか笑いを抑えたのか、ほんの二、三秒ほど口元を手で隠した。桟敷の方に並んで腰掛けている大臣連も半ば呆れたように眉をひそめている。それでもテレーゼは押し返すようにして続ける。
「私の協力者が間もなくここへ来ます。その方が全てを白日の下へと晒すでしょう」
自分でもなんて暴論を吐くんだろうとテレーゼは思う。式典の参列者の中でもアルゴス侯爵への疑念を抱いていたものでさえ、この王女の行動は滑稽にしか映らなかった。そこへセルゲイが一段降りて腰を低くしてテレーゼへと尋ねる。
「それで、その協力者はいついらっしゃるのでしょうか?」
丁寧な言葉づかいの端々に馬鹿にするような色が滲んでいた。テレーゼは投げ返す。
「すぐにでも」
「それはいけませんな。議論を続けるのならともかく、いつ来るかも分からぬ者を待つのは式典進行のれっきとした妨害でございますよ」
侯爵としてはどんなにテレーゼから攻撃を受けようが、この場さえ逃げ切ってしまえば勝利なのだ。譬えこの直後には逮捕されたとしても、たった一度でも国民が認めた存在となりさえすれば、彼の本分は果たされる。国民と王室の関係は微妙なものとなるだろう。ここでテレーゼを打ち負かすことさえ、その本分の良い味付けとなる。ほんの僅かな間だとしても、国は簒奪者に一度は屈した。その事実は一度雪山から転がり始めた石のように、やがて周囲の厚い雪を巻き込んでついには森を根こそぎ薙ぎ倒すような大雪崩と化すだろう。“女王”は王座からテレーゼに微笑む。侮蔑と嘲笑がその奥に見て取れた。
「自室に戻られよ。娘とはいえ王を侮辱した罪、そのお沙汰を待つことです」
悔しい。テレーゼは一人拳を握りしめた。誰かが定めたかもわからないこんな運命に一人傲然と抗議するようにぎゅっと固く目を瞑った。それでも耳からは否応なく起こりつつある状況を知らせる。どこからか近づいてくる足音。きっと自分を連行しようという衛兵だ。式典の間まで連れてきてもらった兵の申し訳なさそうな顔が浮かぶ。ごめんなさい、あなたたちは悪くないのに、こんな辛い思いをさせてしまって。自分への抗議なのか、それとも侯爵たちへの抗議なのか、群衆の野次は今や最高潮となっていた。誰かの声は他の誰かの声にかき消され、その誰かの声もまた別の誰かの声と重なり、まるで地鳴りのような響きを醸し出している。誰か水を求める声も聞こえる。どこぞのご夫人が興奮のあまり卒倒でもしたのかもしれない。足音が近づいていく。自分からもう四、五歩といったところだ。今、侯爵はどんなに勝ち誇った顔で自分を見下していることだろう。そう、思うと目を開ける気になれなかった。
そして近づく足音はピタリと止んだ。
「殿下、こちらへ」
おもむろに顔を上げると近衛兵の白い鎧があった。普段から厳しい訓練にあけくれているであろう兵達の目には何も読み取れなかった。敢えて何も考えないようにしているのだろうか。テレーゼのぼんやりとした双眸が、声をかけてきた兵の腰にぶら下がっているものを映す。黄金色の柄とそれに連なる鍔。そしてその鍔からまっすぐと白い輝きを反射させる細く長い得物。近衛兵の式典用装備品のレイピア。
テレーゼは今一度壇上を見上げる。そこに居たのはまさに化獣だった。どんなに母の姿を皮を被ろうとも滲み出てくる醜悪さ。そして同時に確かにその眼に映った。溢れ出るような達成感のようなものを。この時テレーゼは悟った。なぜ彼がアルゴス侯爵の陰謀に手を貸したのか。彼はアルゴス侯爵に忠誠を誓っているわけでも、パートナーとして信頼を持っているわけでもない。アルゴス侯爵でさ、彼にとっては己の目的を実現するための駒に過ぎない。
――どうして
テレーゼの心が叫ぶ。
――どうしてあなたは“彼”とそんなに違うのか
何か熱いものが急激にこみ上げ、突沸した。
それは本当にふとした瞬間だった。テレーゼは自分を連れて行こうと手を伸ばした兵の手を払った。王女が抵抗を見せるというあまりに意外な出来事に兵は一瞬目を丸くし、その僅かな隙にテレーゼは彼の腰に下がるレイピアを奪う。狙ってやったわけではない。本当にただの偶然と運とタイミングとが絶妙に重なっただけだ。こんなことをすることによって自分がどうなるかなんて考えは微塵も湧かない。床を蹴る。視線はただ獣にだけ向けられる。視界には他に何も映らない。頭に血が上るあまり世界は無音と化す。人々が口々に叫ぶ声も聞こえてこない。銀色に輝く鋭利な得物を構え、テレーゼは段へと足をかけた。“女王”はしかし、テレーゼが己に刃を向けて向かってもなお、冷めた目で身じろぎもしなかった。テレーゼの後ろからは近衛兵たちが次々と手を伸ばしているのだ。きっと自分にたどり着くこと無く、いやそれどころか壇上まで登り切ることすら出来ずにテレーゼは取り押さえられるだろう。式典中に王女が突然王を偽者呼ばわりしたかと思ったら刃を向けたという出来事はセルゲイとギデオンの存在が霞むほどのスキャンダルになるだろう。結局はこういうことなのだ。ヒトになりきるためにセルゲイを通して歴史というものを学んだ時もそう思った。長い歴史の中で国が滅亡するという出来事は結局ヒトが勝手に起こし、勝手に倒れていくにすぎない。もちろんその中で獣の存在が語られることだってあるが、それはきっかけや、あるいは間接的な要因にすぎない。そしてこの国も間もなく同じ道を辿るだろう。最後に残るのは血で禊いだ荒野だけ。
そして彼の目算通り、テレーゼは段を中途まで上がった所でその腕を掴まれた。
ただ、目算と違うのは、その掴んだ腕が兵の白い鎧に覆われていないこと。壇上の人間から見て、テレーゼの左側に外套マントに身を包んだ人間が、手を伸ばしていた。
テレーゼも腕を掴まれた瞬間ハッと我に返り、その腕の主の方へと目を向けた。テレーゼを追いかけていた兵たちもぴたりとゼンマイが切れるように動きを止めた。
その外套マントに全身を包んだ人間。誰もがその人間が誰なのか分からない。その顔はちょうど先刻の舞踏会で一部の客が使っていたような仮面に覆われていたからだ。そしてその人間は仮面越しに近衛兵たちとそして群衆に向けて一瞥を投げた。そして外套の下から一枚の紙面を取り出し、それを向かってくる兵に見せつけた。彼らは最初はいきなり妙な髪を突きつけられて目を凝らしていたがやがて何かとんでもないものを目にしたかのように後退る。まるで波が引いていくようだった。呆気にとられてなにがなんだかわからないテレーゼに、仮面の人間は王女の耳元で囁いた。
「お前のおかげだ」
その言葉が何を意味しているのか捉えかねたが、しかしその声でテレーゼが誰なのかを知る。
――ロビン。
だがその名前を口にしようとした瞬間、彼は仮面の口元に指を当てて噤ませる。彼は静かにテレーゼの持つレイピアを受け取る。あれだけ力を込めて握っていたのに、いつのまにかその手の力はどこへ去ったのか何の抵抗もなくすり抜けるようにテレーゼの手から離れた。キンという空虚な音を立てて、得物は床に転がり落ちる。それを見届けるとまた同じくらいの小さな声で言った。
「どっちにしろ終わらせるつもりだった。だから、お前は前だけを見ていろ。何を見ても驚くな」
そしてロビンは仮面越しに壇上の二人を睨んだ。ロビンとテレーゼは前を向きながら段を一つ一つ降り、やがて元の外陣まで戻る。そして再び兵たちに見せつけた紙面を手にする。そして兵たちの内適当な人物に目を留めて、それを渡し「読み上げてくれ」と頼んだ。紙面を手渡された兵はこくりと戸惑うようにうなずき、しかし軍人らしい張りのある声で読み上げ始めた。
『ジオノ王国王師東部支部キース駐屯隊』という長い名称から始まるその紙面は確かにキースの王師より宮殿の通信室を介して送られてきた報告書であった。然り、王女殿下の密命によって旧アルゴス侯爵邸を調査したところ、地下でダニエル・アルゴス氏の遺体を発見したこと。それに伴い、ダニエル氏が埋葬されたはずの墓を掘り返したところ、誰も入っていなかったことが淡々とした文章で書かれてあった。そして最後に報告者であるキース駐屯部隊長の名前と、これが王師の通信室を介して送られた正式な書類であることを表す印が施されていた。兵による読み上げが終わっても誰も何も口にしない。テレーゼはその時初めてずっと余裕の色を浮かべていたアルゴス侯爵の表情に驚愕の色が宿っているのを見た。
「そもそも――」
不気味なほどにしじまに支配された式典の間を、まるで幕を切り裂くようにロビンは声を上げた。
「ダニエル・アルゴス氏の例にしても、女王陛下にしてもなぜ囚われの状態からずっと生かされていたかというと」
ようやく人々は突然現れたこの男がさっきまで話していたテレーゼからバトンを受けたように続きを語り始めているということに気づく。
「そこにいる獣、ゾロアークは元となる人物も無く長期間化け続けることが出来ない。どんなに精巧で見分けのつかぬ幻影だろうと時間が経つにつれて幻影が崩れてしまう。そのためには元となる人物を一定の期間毎に目に収めなければならない。だからダニエル・アルゴスは呼指の位置に置かれたまま何年もの間生かされ続けた」
ようやく人々の口に声が戻ってくる。ざわざわとしたどよめきが其処此処から湧き上がる。
「女王陛下にしても同じ事。女王を拉致した侯爵は王都外れの邸宅の離家に閉じ込め、定期的に偽者がより本物としての姿を強固なものとするために訪れていた。皮肉なものだな、憎い女王へと成り代わるために、ギリギリまで生かしておかなきゃならなかったなんて」
そこまで語り終え、ロビンは後ろからは見えないようにテレーゼに何かを差し出す。茶色っぽく汚れた紙面。それはダニエル氏が残したメモ。ロビンは自分では語らず、それをテレーゼに託す。それが何を意味するのか、王女は悟る。
その時、一同の後方からけたたましい音が鳴り響き、再び大扉が開いた。人々の目が一斉に大扉の方へと注がれる。そして現れた人物に叫び声が上がる。そしてついに壇上の“女王”の顔が歪んだ。兵を伴って現れたのは修道服のような黒いローブを身にまとってい、だいぶ頬がこけてやせ細っているが、確かに今壇上にいるはずのジオノ王国女王レオノーラその人だった。人々は今大扉から現れた女王と壇上の女王とを交互に見比べる。ただそこに両者がいるだけでは、誰もが壇上の方を本物だと認めるだろう。しかし、テレーゼの訴えがあった今人々はどちらが本物だと認めるべきなのか揺れていた。テレーゼは小さく笑みを浮かべた。そしてロビンは顔を覆っていた仮面を外し、脇に捨てる。
いよいよ始めるんだ。テレーゼは思わず身構えた。ロビンのさっきの言葉を頭のなかで反芻する。お前は前だけを見ていろ。
「始めよう」
ぽつりと彼がそう漏らした瞬間、キィンと耳の奥が鳴った。刹那、空間が揺れた。パイプオルガンが最低音を大音量で鳴らすようにビリビリと何か低い周波のようなものが場内を包み込んでいく。テレーゼ自身冷や汗のようなものを感じた。ちらりとロビンを一瞥する。ロビンの目の白い部分は今、炎が燃え立つように紅く輝き、黒い眸は自分の知るどの宝物よりも輝かしい黄金色を帯び輝いていた。瞳孔は獲物を狙うように細く鋭さを持っている。テレーゼはこの目に見覚えがあった。初めて事務所を訪れた夜、彼と話している時に見たものと同じ――あのときは蝋燭の炎が写っているのだと思ったがそれは違った。あれは不意に彼が見せた本当の眸の色。
テレーゼは前へ向き直る。壇上の“女王”はカッと目を見開き悲鳴を上げていた。もしそれが平時であればすぐさまロビンはこの場で銃殺されてもおかしくなかっただろう。しかし兵はもちろん誰一人として女王を助けるべく動こうとはせず、ただ成り行きを見守っていた。なぜならその時女王の口から漏れ出でた声は女王の透き通るような深い声とは程遠く、醜いケダモノの吠え声だったからだ。
「やめろ! 貴様アァァ、まさか!」
そしてついに破れはじめた女王の皮。その姿は最初どろどろに溶けるように形を失い、やがて今までとは全く違う輪郭を現し始めた。いくつもの宝石を散りばめて輝いて見えていた豪華絢爛潤沢なドレスは今やインクのような黒い毛へと変わっている。娘にもその色を譲ったはずの茶色の髪の毛は血のように赤黒くまた体毛と同じような黒い毛と入り交じっていた。その赤黒い色は獣の口元や目元にも見られた。そして“女王”はそこで初めて反撃する。化けの皮を剥がされる中でその両目を刺し貫くようにロビンへと貫く。そして獣の目がロビンと同じように真っ赤に染まる。低い重低音が二重になる。ロビンはされるがままに任せる。ロビンの姿が髪の先からまるで砂となるように消えていく。
やがてすべてが終わった後。二人の人間の姿が消えていた。代わりにそこに立つのは二体の獣。ロビンだった者もまた、女王に化けていた獣の正体とそっくりな姿をしていた。ただ、色が違った。
女王の姿を借りていた獣は黒い体毛に血のような赤黒いたてがみだったのに対し、ロビンだったその獣は全体にうっすらと青みがかかり、たてがみも青に少しの紫を混ぜた鮮やかなものだった。そして両の眼窩の中で燦然と輝く金色の目。
――あなたは最初から『ロビン・クインズという人間』には会ってない。
頭の中でイレーヌの声が反響する。
――本物のロビン・クインズはずっと前に失踪しているの。
ロビンの姿をしていた獣がちらりとテレーゼへ一瞥を投げる。そして彼女にしか聞こえない声で囁いた。
「ありがとな、驚かないでいてくれて」
――あいつはね、本物のロビンがいなくなってからこの二年間、ずっとロビンの代わりを演じ続けてたのよ。
テレーゼはぎゅっと唇をかみしめ、揺れる胸を押さえ込んだ。