34 【23時28分】
式典の間はまるで誰かが世界を音の無い世界へと創り変えてしまったかのように異様な静けさに包まれていた。その代わりこの場に居る誰も彼もがその視線をただ一人の娘を中心に結んでいる。いったい誰がこうなることを予想しただろう。この百余年の間決して破られることのなかった慣例が今こうして崩れ落ちたのだ。しかも他ならぬその慣例を作り上げた王家の娘によって。
先王アルベルト、ならびに現国王レオノーラの第一王女にして一人娘、テレーゼ・フォン・シェルストレーム。産業の発達によって新聞というものが出回り始めて久しい昨今、その顔を見紛うことなど――少なくとも王都レマルク住民は――決して有りえない。
王女は左右と後ろに兵を侍らせてゆっくりと壇に向かって歩みを進める。一歩また一歩と進むたびに誰が呼びかけるともなく人垣の波が割れていった。やがてテレーゼは群衆の海を通りぬけ、一人、壇前に立ってその視線で“女王”を射抜いた。
それから少しずつ消えていた音が蘇り始める。まるで止まっていた時計のゼンマイを巻き直したように。一人のささやき声は別のささやき声を呼び、やがて式典の間は低い声によってざわざわとした蠢きに満たされた空間へと変貌していく。
「静粛に!」
進行役を務めていた祭儀長がようやくハッと我に返り、声を張り上げた。それにともなって各箇所に置かれていた番兵たちも槍の柄を激しく床へと打ち付ける。その音によって再び式典の間は静けさの中へと戻ったが、先ほどのような凍りついたような静寂とは違い、大勢の人間が何かが起こるのかを期待するような熱を帯びていた。
「おそれながら殿下、先ほどのお言葉はいかような意味でございまして?」
一つ咳払いをした後、式務長官がおずおずとした調子でテレーゼへと語りかける。その表情には平静を装いながらも今この王女がやったことへの恐れがにじみ出ていた。場内のざわめきも小さくは成ったものの、やはりあちらこちらで音をひそめた声が飛び交う。天井に吊り下がるシャンデリアの煌々とした光も、式典の間の桟敷から垂れ下がる華やかな刺繍の垂れ幕も、近衛兵たちの眩しいほどに輝く白い鎧も、今や誰も気にも留めていない。誰も彼もが、床をしっかりと踏みしめて立ち壇上の“女王”を見上げる王女へと意識が向かっていた。人垣に遮られて壇前の様子が見えない者も周囲の人間に声を潜めて尋ねるなどしてやはり他にへは全く興味を示していない。
テレーゼはおもむろに祭儀長の方へと向き直る。その時司会の彼は自分でも知らずの内に背筋が杉のようにピンと伸びた。テレーゼの眼は、立身出世に伴うそれなりの争いを立ち回ったくらいしか経験のない彼には強すぎるほどの眼光を放っており、祭儀長は腹の底に冷たいものを感じた。
「言葉の通りです」
テレーゼはつかつかと早足で祭壇へと歩み寄り、その上に立つ二人の人間に向かって挑みかかるような視線を投げつけた。
「私、テレーゼ・フォン・シェルストレームはこの度の国王陛下の人事、殊に王室顧問にセルゲイ・アルゴス侯爵を据えることへ異議を申し立てます」
場内のどよめきが一層大きくなる。中には「おお」と感嘆の声を上げる者まで居る。叙勲やその他の役職の就任のために壇上に昇った人間たちも、一斉にアルゴス侯爵へと目を向ける。彼と隣り合った位置に立っていた人間はアルゴス侯爵から何か襲い掛かられるようなことを危惧するように半歩たじろいだ。何かおもしろいことになってきたと興奮する者もいるが、大多数はおののいているのだった。いくら自分たちもセルゲイ・アルゴス侯爵への人事に疑問を抱いていたとはいえ、この百余年の間決して破られることのなかった慣例が破られたのだ。それも破った人間はこともあろうにその慣習を作り上げた側である王家、その嫡子。こういう場合の進行をどうするべきなのか、ほんの少しも想定に入れていなかった進行役の人間たちは狼狽を隠せずに周囲の様子をおろおろと見回したり、逆に呆然と佇んだりしている。
テレーゼは彼らに対しての申し訳なさを胸に抱きながら、さらに一歩歩み進んだ。そしてすぅっと一息肺を満たすと傲然と言い放った。
「陛下、セルゲイ・アルゴス侯爵は国家転覆を企てる簒奪者です。そのような方に王宮における最重要職に迎えるのはいったいどういうご所存なのですか?」
『国家転覆』『簒奪者』あらゆる国家行事において大凡相応しくない言葉が人々の耳に届く。
セルゲイは狼狽を禁じ得なかった。なんだ、何が王女の身に起こったというのだ。今日朝に会った時はちょっと拳を振るえば這いつくばって命乞いをするようなひ弱な小娘だったではないか。しかし今眼前の王女は今朝方の王女とはまるで別人。堂々とした佇まい、一つ一つの所作からにじみ出る自信、そしてなにより眼に力があった。なんてことだ。あの探偵め……。いったいどこに……
そのときセルゲイが“探偵”のことを頭に過ぎらせた瞬間、別の疑念が生じる。そうだ、探偵はどこにいるというんだ? 王女について一緒に大扉をくぐったのは皆近衛兵で顔は探偵とは似ても似つかない。群衆に紛れて王女を見守っているとしてもおかしい。なぜ探偵自らが出てこない? 確かに王女に「異議あり」という言葉を言わせることはこの式典の間を取り巻く空気を一挙に集めるという目的では効果的だろう。しかし王女のやるべき仕事はそこまででそこから先は探偵が出てくるべきだ。周囲の様子をうかがっても探偵がどこからかサポートしている様子も、またこれから前へ出てくる気配もない。おそらくクインズ探偵のことだ。俺の出した問いは簡単に解いて王女をまず助け出したことだろう。しかしそこから先が問題だ。女王は邸宅から移動させていない。譬え問いに対して早々に答えをだしたにしろ、その時点での思いつきで助けだそうとして出来るものではない。改めて王女とその周囲を見回す。やはりどこにも探偵らしき姿は見受けられないし、やはりそもそも隠れる必要性が感じられない。
そしてセルゲイは結論を下した。『探偵はここにはいない』どんないきさつがあったのか知らないが、まず助けられた王女は先に王宮へと向かったのだろう。そして探偵は女王を救出に向かう。ひょっとしたらもう奪われてるかも分からないが、どっちにしろ探偵は間に合わなかったのだ。しかしなんたる不愉快なことだ。あれだけ見張りを配していたにもかかわらず王女を宮殿へ入れることを誰も止められなかったとは……役立たずどもめ……。
これだけの考えをほんの僅かな間に巡らせるとセルゲイはにやりと笑った。“女王”に向けて軽く目配せした。
――安心しろ、探偵はここにはいない。
そのセルゲイの心の声は聞こえないにしろ、彼の浮かべる笑みで“女王”が意図を汲み取るには十分だった。そして“女王”は自分たちに噛み付こうとする王女を見下ろす。
「テレーゼ、なんのつもりかは分かりませんが、国が役職へと迎えようとする者に向かって簒奪者呼ばわりするからには、それなりの理由あってのことなのでしょうね」
テレーゼはたまらなく不快だった、この偽者の女王から母の声で自分の名を呼ばれること。しかしそのことを口にして話を余計な方向へと持って行ってはいけない。
考える。自分はロビンから全ての真相を教えてもらった。しかしそれを順を追って説明しようとするのはなんと難しいことだろう。うっかり話を飛躍させてそこを突かれるということもあるかもしれない。まず最初に何を言うべきか。きっと多くの人々の不興を買うだろう。しかし、話の大前提としてまず今から言おうとしている言葉を言わぬわけにはいかなかった。テレーゼは服の上からぼんぐりに触れた。そこにルナがいてくれる。体温が伝わってくる。「大丈夫」と微笑みかけるように。
「二十年前――」
その言葉でテレーゼは始める。それはまるで舞台演劇で最初に座長が前口上を述べる時のように何かを予感させる厳かな響きだった。この時点でセルゲイの眉がほんの僅かに一度だけ痙攣したのをテレーゼは見逃さなかった。
「トルーマン・ストレイジという公爵が反乱を企てました。シェルストレーム王家の前王朝であるストレイジ家傍流の末裔だったその方は当時の王宮での混乱に乗じて、最終的には王権を強奪しようとしたのです」
人々は突然王女が何を言い出すのか、その意図を測りかねた。そんな疑問の視線を背中に受けながら、テレーゼは構わず続ける。
「軍事行動を起こす直前に事態が発覚し公爵一族は逮捕。死罪は免れないと言われていましたが、その当時王宮で奇しくもある重要な式典の直前だったため恩赦、国外への永久追放処分へと減刑されました。当時ストレイジ公爵のご夫人はその身に子を身篭っておられ、連行への道すがら国境の町ウォンダリーで出産なされました」
ここまで話した所で人々の間に、王女が言わんとしていることを理解し始める。ざわめき声が徐々に膨らみゆく風船のように大きくなり始めた。
「その時、トルーマン氏とご夫人ローザ氏との間にお生まれになったご子息、ティトゥス・ストレイジこそがそこに立っておられるセルゲイ・アルゴス侯爵の正体です」
またしても場内が湧き上がる。「トルーマン・ストレイジの息子だって?」二十年前の謀反事件のことは国中の人間が、殊に三十代以上の人間となると未だにその時の記憶を鮮明に思い出すことが出来た。秘密裏の内に南部の州師を私軍化し王朝を再びストレイジ家の手に取り戻そうとしたあの事件。その首謀者の息子が壇上に立つアルゴス侯爵でその男は今、王室の中枢である王室顧問へと就任しようとしている。「いや、そんなまさか……」人々の間にはまだそのような空気が支配している。
「そして――」しかしテレーゼは人々が疑問の声を上げるより前に立て続けに言葉を放った。その言葉が今ここにいる人間たちに霹靂の如き決定的な衝撃を下す。
「今そこに、……玉座に立つ女王の姿をする者は、アルゴス侯爵が用意した偽者です」
沈――ほんの一瞬波が引くようにシャンデリアの輝きすら凌駕する真っ青な静けさが大広間中を呑み込んだ。それがどれくらいの時間だったのかは誰にも分からない。十秒近い間だったのかもしれないし、実は一秒も経っていなかったのかもしれない。誰かがどこかで息を漏らすような呻きが聞こえてきた。それから端を発して堰を切ったように驚愕、猜疑、糾弾、といった悲鳴が場内全体を渦巻いた。それが壇上にいるアルゴス侯爵に向けられているものもあれば、テレーゼに向けられる声もある。また祭儀長が静粛を求める叫び声をあげる。それにともなって番兵たちも床に槍を打ち付けるが、今度はなかなか収まらない。皆つい今しがたテレーゼがその口から放った言葉が信じられぬのだ。ようやく声が収まったのは湧き上がりから一分ほどの時間が経ってからだ。
セルゲイは唾棄するような目でテレーゼを見下ろす。
「殿下、今あなた様はご自分が何を言ったのか分かっておいでなのですか?」
その目には自分の正体を暴露された怒りよりも余裕の色が浮かんでいた。
「あなたは今、あろうことか女王陛下を偽者呼ばわりした。これは陛下のみならず王家への……いや国に対する愚弄に他なりませんぞ」
群衆の間には脊髄反射的にセルゲイの言葉に頷くものもいる。しかし、女王がどんなに娘である王女を愛し、そして王女もまた母である女王を愛していることを知る者は、王女が何も考えずにこんな妄言を吐くはずがないと考える。
「おまけに私が二十年前の謀反事件のトルーマン・ストレイジの息子ですって? 殿下、いったい何を根拠にそのようなことを」
セルゲイは毅然とした態度を崩さず続ける。
「私は亡き父ダニエルも認めていたように内縁の妻との息子です。そういう意味では確かに卑しい出身であることは間違いないでしょう。しかしそれだけです。そのこと以外に出自にやましい部分は一切ありません」
「では……」テレーゼは間を開けること無く狼狽えず言葉を紡ぐ。
「侯爵様、あなた何故お父上様のご遺体をキースの旧屋敷の地下に放置されているのですか?」
ぴくりと再びセルゲイの眉が動いた。周囲が怪訝そうな色に染まっていく気配を感じた。
「何をおっしゃるのです?」
「私はかねてより王宮で起ころうとしていた陰謀に気づき、ここ数日の間王宮を抜け出し協力者を得てこのことを調べました。病に臥せっていたというのは事を荒立てないようにしたこの方の真っ赤なウソ。私はその間協力者の方を伴ってキースへと赴きました」
協力者を伴って自分もキースに行ったなんてそれこそ嘘である。
「まずその地の侯爵家旧屋敷の地下で骸を発見しました。そして次にその骸の一件で王師を動かしてお父上の墓を調べました。するとどうでしょう。墓は空っぽで次に骸を調べたところ服飾品などから地下にあった亡骸こそがダニエル・アルゴス氏のご遺体ということが判明したのです」
群衆の叫び声のピークはもはや過ぎ去っていた。そのかわり場を支配しているのは全く止む気配のない訝しげなざわめき声。次から次へと放たれる一聴には信じがたい王女の言葉に皆戸惑っているのだ。
「地下に閉じ込められそこで亡くなったダニエル様は全ての真実を隠し持っていた紙片に記しておりました。それによると――」
ダニエル・アルゴスとトルーマン・ストレイジは旧知の仲であった。トルーマンは謀反を計画中、その旨を親友であったダニエルへと漏らしていた。しかしダニエルは友の言うことを本気にせず、また止めようともしなかった。そして事件が起こる。ストレイジ一族の処分が決定した後、ダニエルはあの時友を止めなかった自分にも責任があると感じた。そしてトルーマン氏の死後、秘密裏にローザ夫人と息子のティトゥスを国内へと入れ、国境の町ウォンダリーに住居を与える。その後、ローザ夫人も亡くなり、天涯孤独となったティトゥスをキースまで呼び寄せる。
「私たちはキースからさらにウォンダリーまで足を伸ばしたところ、彼の地の墓地でローザ夫人の墓標を探し当てました」
ただし、この時点ではまだティトゥスはダニエルの息子ということにはなっていなかった。問題はここからである。
「ティトゥス様がキースへと呼び寄せられて数年経ち、ダニエル様が彼を何らかの形で屋敷に招き入れようと思った矢先のことです」
*
その日はひどく曇った空だった。雨が今にも重く低く垂れ込んだ雲ごと降ってきそうで、時折獣の唸り声のような遠雷がどこからか聞こえていた。その中をダニエルは誰も従者をつけずに、ただ一人の馭者とともに馬車に揺られていた。目的はひとつ、ティトゥスの様子を見に行くためだ。あの事件から実に十四年の月日が経過していた。キースの隣町へ招き入れ、町外れに住居を与えてから四年。彼はこの日、ティトゥスを使用人として屋敷へと正式に招き入れるつもりでいた。そうすれば定期的にこんなこそこそしたやり方でなく、きちんとした形で援助をすることが出来る。
やがて後方に広がる深い森を背に抱えるようにダニエルがティトゥスに与えたささやかな家が姿を現した。街道から家へと続くあぜ道に馬車を止め、ダニエルは馭者を待機させて一人で家へと入った。ティトゥスは窓辺に座って本を読んでいた。
しかし声をかけた時、ダニエルは背後に誰かがいるのを感じた。待っていろと言ったのに、馭者が来てしまったのかと後ろを振り向く。その時窓からカッと目も眩むような光が差し、わずかに遅れて吠え声のような雷鳴が轟いた。ダニエルは信じられないものを目にする。そこには一人の男が立っていた。自分と同じくらいの背丈で、同じような顔立ちで、同じような口髭を生やし、体型、服装、髪型、眼の色、一本一本刻まれた皺、ありとあらゆる要素に至るまで自分と全く同じだった。何が起きているのか全く理解できぬ内に、背後から後頭部に何か硬いもので殴られて気を失った。
そしてどれくらいの時間が経ったのか、ダニエルは屋根を激しく叩く雨音と何度も轟き、大気を貫く雷鳴で目を覚ました。そこはどこか見慣れぬ屋内で、明らかに屋敷ともティトゥスに与えた小屋とも違っていた。手足は縛られ口にも猿轡をかけられ身動きも声を出すことも出来なかった。すると小屋の扉が開き、そこからティトゥスと数名の男たちが現れる。彼は言う。「悪く思うな」と、ただその一言だけ。そして直後に起きた出来事で彼は深い絶望と苦痛の淵に叩き落された。
喉を潰されたのだ。
そしてダニエルの監禁生活は始まった。自由にされるのは食事時と用をたす時のみ。常に数名の男たちによる見張りが利いており、片時も監視の目が途切れることはなかった。何日もたってなぜ助けが来ないのか彼は考え始める。男たちの目には常に余裕の色が浮かんでいた。まるで決して誰もダニエルを探そうとしないのを分かっているかのように。誰も自分が居なくなったことに気づいていないのか。そう思い至った時、最初に気を失う前に見たものを思い出し、彼の心にほんの僅かに残っていた希望は非情にも塵も残さず吹き飛んでしまった。あの自分に全くそっくりな存在のせいだ。そのせいでそもそも屋敷の人間たちは自分が居なくなったことに気づいてすら居ない。大声を出して助けを呼ぼうにも喉を潰され、もはやまともに声すら出せないでいた。
何度も逃げ出そうと試みるも、若いころと比べてかつてのような体力も腕力ももはや失った自分に抵抗するだけの力なぞ少しもない。
何年も時間が経った。その間にティトゥスはあの自分と全く同じ姿をした存在を連れて定期的にやってくる。そしてダニエルが生きていることさえ確認できるとゴミを見るような目つきだけを彼の心に残して去っていくのだった。そこに哀れみや罪悪感は微塵たりとも宿っては居ない。言わなければならないこと、伝えなければならないことがあるというのに、喉を潰された自分にはもはやまともに声を出すことすら出来なかった。
ある時、監禁場所を屋敷へと移された。ダニエルを流石に哀れんでの事だったのか、それとも監視する上でここのほうが都合が良かったのかは分からない。外から見た屋敷は自分の知る姿と全く変わらぬものだった。しかし中はもはや自分の知る屋敷とは違ってしまっていた。尽く解雇されてしまったのか、自分の知る使用人たちは誰一人として居なくなっていた。そして自身も最も奥の部屋から出ることを許されず、さらに何年も経った。
そして終わりは唐突に訪れる。「ダニエル・アルゴスは死んだ」 それがティトゥスと最後に会った時に聞いた台詞だった。自分はその時には死んだことになっており、既に葬儀も終えて墓地に葬られているという。そして連れて行かれたのは地下。ワイン貯蔵庫の奥にいつの間にか部屋が一つ拵えられており、そこに閉じ込められた後、扉ごと塗りこめられた。連れて行かれる直前にこっそりと紙とペンを懐に入れ、彼はもはや助からぬ己が身に絶望しながらここまでの経緯を書き綴った。そして書き終えた直後にほんの少しだけ心に隙間が生じる。絶望はその隙間を決して見逃さず緩んだ心に赤黒く熱を持ったものが一気に流れ込んだ。彼は発狂し、己の指を噛みちぎり天井を除いて四方の壁、そして床に至るまで自分の命が尽きるまで助けを求める言葉を書き続けた。
*
「そして今、そこに立つ母……女王陛下の姿をした者こそが、かつてダニエル様の姿を借り侯爵の陰謀の最大の柱を担った獣、ゾロアークです」
話す途中でダニエル氏の無念さと彼への憐憫で涙を滲ませそうになるが、テレーゼはそれを抑えてどうにかここまで語り終えた。
人々はまるで誰かから口をつぐまれているかのようにしんと静まり返っていた。時々誰かの咳払いが聞こえてくるのみで、もはやささやき声すら誰も発さない。誰もが固唾を飲んで両者の動向を見守っていた。
そしてテレーゼはさらに侯爵たちを追い詰めるために口を開きかける。その時、ずっと沈黙を守っていた“女王”が王女よりも先に言葉を放った。
「テレーゼ――」
その深く低い響きは素早く式典の間の大広間中を駆け巡った。テレーゼは思わず言葉を喉の奥へと呑み込んだ。分かっているのに、この“女王”が“母”が偽者だと分かっているのに、その“母”と全く違わぬ言葉の響き。テレーゼは壇上の二人を見上げた。セルゲイは冷ややかな余裕の色をその表情に宿す。同時にセルゲイは“女王”を一瞥した。偽者だともう知られているはずだというのに、その相手を一瞬ひるませる、その力に改めて畏怖のような念を覚えるのだった。
「言いたいことは分かりましたが、あなたが今まで言ったことへの証拠はいったいどこにあるのでしょう?」
背中に氷を入れられたようだ。これこそがテレーゼが最も弱みとしていることだった。証拠となるものは全て、まだここに居ないロビンが持っているのだから。