鳴らない鐘が響く時
33 【23時20分】
 最後に肘までかかるユシルクの長手袋を腕に通すと、テレーゼは姿見の前に立った。軽くとかした髪を後ろに結い上げ、桃色のドレスに身を包む。略式のドレスとはいえ、それはやはり一般人的な感覚の目で見れば十二分に豪勢なものだろう。
 そしてテレーゼは今度こそ回廊へと出る扉へと向かった。ノブへと手が触れる。同時に頭のなかで式典の間へと至るための最短の行程を描く。王宮の敷地面積は広大だ。テレーゼのこの私室から式典の間へと至るまではどんなに急いでも五分はかかるだろう。そしてその途中にはきっと侯爵の手下が待ち受けて妨害してくるだろう。ことに式典の間へと近くなれば近くなるほどそれは激化するに違いない。
 ごくりとつばを呑み込む。空いている方の手をそっとムンナの顔へと差し伸べた。テレーゼはムンナの頭を撫でながら微笑み、そして囁きかけた。
「ルナ、一気に行くからよろしくね」
 もちろん、と返事をするようにこくんとムンナは頷く。くすっと思わず笑いが漏れた。さあ行こう。テレーゼは扉を引き、自分の中で躊躇する念が生じるよりも早く回廊へと飛び出した。
 扉を出ると細い廊下へとまず出る。その小径を進むとやがて別の広い回廊へと差し掛かった。大理石の床に真っ赤な絨毯がいっぱいに広がっている。やはり数人の人影があった。ぎょっとした目でまずテレーゼに気づいた人物がいる。召使の女で王女の世話係であるはずなのだが、テレーゼは警戒の目を女に浴びせた。この召使もやはり女王が入れ替わって以降に入ってきた人間だったからだ。女はあからさまに狼狽した風でテレーゼへと言葉を掛けた。
「で、殿下……」
 その焦燥ぶりからやはりこの女はテレーゼがここへ来るはずが無いと高を括っていたのだと分かる。テレーゼはぴしゃりと双眸の視線を女に向けるとゆっくりとした口調で低く言った。
「どうしましたか? もう気分のほうが良くなったので今からでも式典へと向かおうと思ってるのですよ」
 内心どぎまぎとした。侯爵の手下の内、末端の女中や召使として潜り込んでいる者達は達は脅迫された上で雇われている、とロビンは言った。この女性もおそらくその一人だろう。テレーゼの言葉によってその場で釘付けになったように黙りこみ、その表情には家族を人質に取られたとはいえ自分はなんてことをしてしまったのか、と言うような後悔の念が浮き沈みしていた。
 テレーゼは黙ってその脇を通り抜けた。憐れみこそあれ、今は構っているような暇はなかった。その場で足踏みするのは他の侯爵の手下から見つかる剣呑も高まる。テレーゼはドレスの裾を軽く持ち上げ足元を軽くすると走りだした。
 扉を抜け、小径を抜け、階段を昇ったと思ったら下る。それでもまだ式典の間へは遠い。普段はそんなこと一度も考えたことがなかったというのに、今はこの王宮の広さがただただ忌々しく感じた。



 式典の間は一瞬の間水を打ったような静けさに支配された。特に貴族連中は顕著で、ほとんど誰もがぽかんと口を開けたのだ。式典の進行による緊張感によるものではない。たった今進行役の祭儀長が朗々と読み上げた名前の意外さに誰もが戸惑ったためであった。
――キース侯セルゲイ・アルゴス。王室顧問。
 それがたった今読み上げられた役職名とそれに就任する人間の名前だった。
 途端に会場にざわめきの渦が生じる。読み上げた祭儀長自身、ちょっと油断すれば首を傾げそうになるのをなんとかして抑え込んだのだ。もちろん任命式において予想外だった人物の名が上がり会場がざわめく例はこれまでにも幾度となくあった。それでも式典が終わる頃になれば、疑問のある任命でも快く迎える空気になっていた。しかし今回は状況が違う。王室顧問だ。宰相とは別の数ある相談職の中でもトップ、言うなれば国王の意見の代弁役。そんな重要なポストにまだ社交界の中で新参者とも言える若い男が任命される。いったいそれはなぜか。
――陛下のことだ、何かお考えがあるに違いない。
――いや、いくらなんでも彼は若すぎるのでは?
――よもや陛下の愛人なんてことではあるまい……
 賛否からゴシップ的な憶測に至るまでひそめき声がごわごわと飛び交う。そんな人間たちの声を背に受けながら件の男、セルゲイは任命を受けるために壇を登りながら笑いをこらえていた。この時点で彼の目的の一つは達成されていた。全く存外な任命で人々を混乱させる。最初のうちは冗談とも本気ともつかないだろうが、時間が経つに連れてそれは王室への不信感へと形を変えていくのだ。
 セルゲイは勝ち誇ったように人垣から離れ、近衛兵たちが作る道を踏みしめる。一歩一歩歩み進むたびにマントがひらりと舞う。道の向こうの壇上には“女王”がいる。
 いったいこの時をどれほど待ち続けただろう。生まれながらにしての流謫の身。あまりに歪んだ欲望と愛を持ってしか自分に接してこなかった母。激しい憎しみにかられながらも己の無力を嘆いた日々。国境を超えてウォンダリーまで至っても何の手段も自分には持ち合わせていなかった。しかしそんな時に転機は訪れた。人を化かす獣ゾロアーク、ギデオン。この道は彼の存在があってこそだった。奴も奴で何を考えているのか知れないところがあるが今や関係ない。今こそ勝利の時だ。
 歓喜の声さえあげたい思いが起こるのを抑えながら、セルゲイは一歩一歩道を進んでいく。

 *

 客間の並ぶ廊下を走りきって角を曲がった所でテレーゼはどきりと胸が高なった。黒いスーツに身を包んだ男が数人集まってお互い何事かを話し合っていた。そして決定的なのはその男たちが皆同じように真っ黒なふさふさな体毛に覆われた大型犬のような獣を連れていたことだ。間違いなく侯爵の手下たちだ、とテレーゼは直感を下す。勢いで飛び出すんじゃなかった。男たちは突然角から現れたテレーゼに一瞬ぎょっと目をむいたが、すぐに自分たちの目的を思い出したように何事かを叫んでこちらへ走ってくる。「王女だ、捕らえろ」とでも言っているらしかった。
 ここまで誰にも出くわすこと無く進めたのだから式典の間に行き着くまでこの調子だろうという思いがどこかにあった。だが今まで見つからなかったのは単に運が良かっただけ。テレーゼはそのことを痛感し、己の思慮の浅さに歯噛みする。しかし逃げようと踵を返しかけたその時、傍らにふわふわと浮くムンナが遮った。思わず目を見はってルナが何を言おうとしているのか読み取る。ルナは進行方向に向かって身体を前後に揺らしていた。
――このまま走って。
 テレーゼはなぜかごく自然にルナがそう言っているんだと理解が及ぶ。
「ちょっと待って。いくらなんでも突破なんて――」
――無理よ。と、口まででかかった言葉が強引に抑えこまれる。その時ルナの体からぼんやりと青白い光が放たれた。光は水が地面に浸透していくようにテレーゼの体を包み込む。すると次の瞬間、自分の両足、両腕、全身が自身の意思とは無関係に動き始めた。あまりに突然の事だったがテレーゼはすぐに悟る。ルナが念力を使っている。
「ちょっと……! 待って待って!」
 言葉と行動が全くのちぐはぐでテレーゼは前へと進まされる。最初に二、三歩はまるで糸で操られるマリオネットのようにぎくしゃくとした動きだったのが、すぐにそれは自然な動きでの走りとなった。グラエナが走るのは速く猛スピードでこちらに向かっているはずなのだが、頭が興奮しているのか不気味なほどゆっくりとした時の流れの中に居るようだった。もはや叫ぶことすら考えずテレーゼはぐっと瞼を閉じた。その瞬間足の裏から床を踏む感覚が消える。瞼を閉じた暗闇の中で何かどよめき声のようなものが聞こえる。一体何がどうなったのかと、テレーゼは固く閉じていた瞼の力を緩めた。隣にルナがいた。「ね、大丈夫だったでしょ?」とでも言うように己の主に向かってにこやかな眼差しを注いでいた。
 それでもまだテレーゼは状況が理解できない。前を見た。すると一瞬建物が縮んでしまったのかと見紛う。天井が異様に低くなってちょっと手を伸ばせば喩えでなく実際に手が着くほどなのだ。しかし次の一瞬で今度こそ理解する。飛んでいる。床から足がテレーゼの身長二人分ほどに離れ、泳ぐように滑空していた。グラエナたちも男たちもぽかんと宙に浮くテレーゼを見上げている。テレーゼもまた同じく呆気にとられて思わず口元に手を当てた。その時、ドレスの袖口から何か丸いものがぽろんとこぼれる。つややかで青い光沢のある表面。あれは確かラッフルから受け取ったものだ。あっ、と思う間もなくそれは男たちとグラエナたちのちょうど間に落ちた。「ぽん」と軽い破裂音を鳴り響かせると一瞬にして青い粉状のものが周囲を包み込んだ。頭上を通過する中でうめき声のようなものが聞こえてくる。
 やがてテレーゼの身体は高度を落として回廊の端付近まで到達した所で両足が再び床を踏んだ。足がつく瞬間にぐらんとよろめき、身体のどこも完全に止まってしまうとテレーゼはその場にへたりこんだ。くるりと後ろを振り向く。
 青い粉状のものが晴れてしまうとそこにいた黒服やグラエナたちは床の上に倒れこんで何のみじろぎも見せなかった。ある者は床に大の字になり、またある者は壁にもたれかかって座り込むよう眠っている。グラエナたちもだらんと両足を投げ出して横たわっていた。そして各々が喉の奥からいびきやら寝息やらをたてている。眠っているんだ、とテレーゼはようやく気づいた。ラッフルから受け取った三つの玉。ムウマたちをしびれさせた一つ目は“しびれごな”。そして今、黒服たちやグラエナたちを眠らせているのは“ねむりごな”が入っていたのだとテレーゼは後で知ることになる。
「それにしてもルナったら、今のって確か“テレキネシス”よね? もう、意外と無茶してくれるんだから」
 テレーゼはルナを振り向いて恨みがましく言う。ルナはいたずらっぽく笑っていた。
「じゃあ行くわよ。急がないとね」
 そしてテレーゼは回廊の端の扉へと向かう。その向こう側からなにか聞こえてくる。がやがやと耳に入るは人の声だ。それも二人や三人やそこらではない。何十人という人間同士から繰り広げられる喧騒だ。そうかもうここまで来てたんだ。テレーゼは胸の内でほっと一息つく。この向こうから一般人もいる式典の間へと続く大回廊。そうなるとたくさんの衆目の中で侯爵たちは下手な行動を打てないはず。それだけではない、警護のための近衛兵だって居る。近衛兵の人事までは手を付けられては居ないはずだ。自分の姿を認めた近衛兵たちは必ずや自分を守ろうとしてくれるはず。そこまでくればもう式典の間まではたどり着いたも同然。そしてテレーゼは扉に手をかけようとする。そこでぴたりと手が止まった。胸に何かがつっかえて、それがテレーゼの意志を阻もうとしている。
 この扉をくぐってしまえばもう後戻りはできない。自分は否応なく式典の間まで導かれるだろう。そして対峙しなければならない、強大な意志でこの国を傾けようとしている存在に。果たして自分にそれが止められるだろうか。すべての事実はロビンから聞かされている。自分はロビンの言った言葉を復唱するだけだ。それだけだというのに。
 テレーゼはいつの間にかその両手が先端から(はじ)いた弦のように小刻みに震えていた。扉の向こうのがやがや声が異様に増幅して耳に届いてくる。式典の間は大勢の人間で溢れかえっていることだろう。自分は今からその人達全員の衆目を集めるようなことを始める。ロビンだってここまで視線を浴びるようなことは経験無いだろう。緊張のあまり声が出ない。言うべきことが真っ白になる。答えに窮するような反論を向けられる。もし、そうなってしまったら? こんなときに限って嫌な想像は次から次へと沸き立ち、体中をがんじがらめにしていく。
 このまま溝の深みへと沈み込んでいくようにテレーゼは扉に手を掛けたまま顔を伏せる。その時、何かが頭にゴツンとぶつかる。視界に火花が散った。慌てて頭を手で押さえて見回すと、ルナがなにか言いたげな色を眸に宿して視線を注いでいた。
「ルナ……」
 テレーゼはルナのまん丸な体を両手で掴む。そしてしばらくじっとお互いがお互いを見つめ合った。ルナの黒い目に自分の姿が映っている。そしてその向こう側にもなにかが見える。ずっとずっと奥深くで誰かが何かを話しかけてくるような。それはルナ自身の心なのか、それとも瞳に写った自分自身なのか、あるいはもっともっと別の次元に居るような大きな存在なのか。
 不意にテレーゼはルナの体を自身の顔に寄せ、お互いの額をこつんと当てた。
「さっきのお返しよ」
 なんだか分かった気がした。何が分かったのかと問われればちょっと返事には困るけれど。それでも気分はまるで空を覆う曇り空をぱくんと一口で食べてしまったくらいに晴れ渡った。
 今度こそテレーゼは扉に向き合う。そのノブへと手を掛ける前にテレーゼはボングリを取り出した。それをルナの前に向けると、ムンナの体はポンと煙を立てて中へと消えた。ルナが入ったぼんぐりをテレーゼはぎゅっと握った。滑らかなボングリの手触りの向こうから確かに、ルナの体温が伝わってきた。
 テレーゼはノブに手を掛けた。がちゃりとひねり、扉は向こう側へと開いた。
 今まで幅の狭い回廊だったところに来て一気に視界が開ける。これまでと比べ物にならないほどの広い空間。高い天井からはいくつも豪奢なシャンデリアが吊り下がり、きらびやかな光を爛々と空間中に降り注いでいる。
 色とりどりに着飾った紳士淑女に庶民たち。そして彼らを式典の間へと導くために頑強に周囲を警護する近衛兵の白い鎧。小さいころ近衛兵たちが身にまとっている式典用の白い鎧がかっこよくて、自分も着てみたいとねだったことがある。近衛兵たちは真に王国に忠誠を誓う兵士。今になって思う、なにもロビンに頼らずとも味方はこんなにいたはずなのだ。なんて周りが見えてなかったんだろう。
 しかし、同時に思う。頼ったのがロビンだったからこそ、今自分はこうしてここに居るんだ、と。



「この度の叙勲ならびに任命に異議のある者は前にいでよ」
 任命式は最後の儀である“承認の儀”へと移っていた。とたんに場内はざわざわとしたどよめきに包まれた。
 “承認の儀”とは叙勲・任命式の最後に執り行われる次第で、簡単に言えば今回の叙勲や任命を国民が認めるための儀式だった。人事などに何か疑問を持つ者は王の前に立って疑問に思う人物を名指しし、その理由を申し立てる。国王あるいはその代理人となる者はその発言者と対話をし、どちらかが納得して矛を収めるまで続ける。発言者が自ら引き下がった場合はそのまま承認、国王側が引き下がった場合はその場でその人事は取り下げられる。そしていつまでも平行線で終わらない場合は後日国全体で投票が行われる。
 元々はその昔暴君だった王が自分の好きなように人事を組み国を乱した過去から、その次代の王から始まった。最初のうちはきちんと機能しこの儀式を以って就任が取り消しとなった者も過去に存在した。しかしこの制度を悪用する者も時代がくだるにつれて多くなり人事の取り決めにだんだんと支障をきたすようになってきたことから、今や形骸化しているに等しかった。
 異議を申し立てた者はすなわち国王に叛意ありとみなされ、無慈悲な晒しを蒙る。そのため今の時代においてはこの“承認の儀”で実際に異議を申し立てる者は居ない。記録を紐解いても既に過去百余年に渡って“承認の儀”で声を上げた例は誰一人として存在しなかった。
 当然この場の誰もがアルゴス侯爵の就任に首を傾けながら、実際にそれに異を唱えようとしなかった。その様子を壇上から見下ろすセルゲイ・アルゴス。
 なんて愚かな連中だろう。なにか思うところがあれば正直に言えばいいものを……。セルゲイはそう腹の中で吐き捨てながらちらりと“女王”を一瞥した。向こうもほんの一瞬だけこちらに目が動く。それだけで十分だった。
 進行役の祭儀長ははじめから群衆の方へと目を向けていなかった。彼もまたアルゴス侯爵の就任を疑問に感じながらも、就任の儀におけるこの慣例に従うことを選ぶのだった。
「質疑の時間を終了する」
――勝った。
 セルゲイはぎゅっと手を握り締める。勝鬨を上げたいのを必死に堪えて。
――俺は勝った。物欲の権化の如き両親にも、埃かぶった唾棄すべきこのジオノ王国にも。俺は勝ったんだ!
「これを以って此度の人事は承――」
 最後の「――認されたものとする」という言葉で祭儀長が締めようとした時だった。バンとけたたましい音が式典の間中をこだまし駆け抜けた。誰もがその音の方向へと振り返る。そして同時に目を丸くした。大扉が開いた。今まで場内を支配していたざわめき声はぴたりと止む。通常式典中に人が出入りするのは大扉の隣にある小扉のみとされている。しかし実際は今開くはずのない大扉が口を開けた。そしてその向こう側に現れた人物に再び会場がざわめいた。
 テレーゼ・フォン・シェルストレーム。ジオノ王第一王女が今両脇にひとりずつと後ろに数人の近衛兵を従えて式典の間へと足を踏み入れる。
――王女さまだ。
――ご病気で臥せられていたはずでは?
――しかし殿下はいったい何をなされるおつもりだ?
 そんな声があちこちから漏れる。
 テレーゼは周囲をひと通り見回す。なぜだろう、不気味なほど胸が落ち着いている。
 そして最後にテレーゼは壇上に並ぶ人物の内二人へと目を向ける。“女王”とアルゴス侯爵。そのどちらもテレーゼがやってきたことがまるで夢であるかのように顔をひきつらせている。テレーゼは胸元に手を当てる。そこにはルナが入るボングリがある。さっき手を当ててみたようにルナのぬくもりが伝わってくる。そして何か大きなものを受け取ったような気持ちになり、テレーゼは視線をきっとアルゴス侯爵へと向けると深く息を吸い込みそして言い放った。
「異議あり」
 その声は場内を飛び交い、百余年と破られることのなかった慣例を粉々に砕いた。

■筆者メッセージ
ちょっぴり駆け足気味。

拍手返信

>4月27日14時21分の方

ありがとうございます! 手のこんでいるといっても、勢いでなんとかやってるような……
そんな尊敬されると照れます///
わたぬけ ( 2013/05/22(水) 00:20 )