31 【23時08分】
どうして橋の上で炎が上がっているのか、誰もはっきりしたことは分からなかったが、人々が口にするおおよその情報を統合し推量するに次のようなものだった。
橋の両端に等間隔で並べてあるガス灯の内に老朽化の著しい一本があった。元より今日一日中北より吹き付けていた強風に晒され、誰にも気づかれないまま悲鳴を上げていたのだが、ロビンたちが橋にさしかかるほんの十数分前に吹きすさんだひときわ激しい突風によってついにとどめを刺され、橋道を塞ぐように横に倒れると同時に炎上したとのことだ。炎に数台の馬車が巻き込まれて燃え移ったが幸いにも怪我人はいないようだった。とはいえ、この火災によって橋は完全に封鎖され、この道から川の向こう側へと渡るためにはここから六百メートル上流か八百メートル下流の橋のどちらかを使わねばならなかった。しかも既に人々の迂回は始まっており、元々この橋を渡るはずだった人間の波が、あとの二つに雪崩れ込む。さらなる混雑が予想された。
ロビンは懐中時計を取り出す。蓋を開くと中の時計盤は十一時七分ごろを指していた。まずい、と思った。式典はもうすでに始まっている。テレーゼより教えてもらったことによると、式典は間にこまごまとした次第を挟むが、問題の叙勲・任命の次第に差し掛かるのはだいたい十一時二十五分前後。例の王室顧問任命にまで至るまでさらに猶予があるはずとのことだった。王宮に乗り込むことさえ出来ればこちらのもの、今日の混雑を鑑みてもこの橋を渡ってしまいさえすれば時間までには間に合う目算だった。しかしこの橋が封鎖されてしまい、上流の下流いずれかの橋へ迂回を余儀なくされてしまえばさらにあと十分、いやひょっとすればそれ以上の時間がかかる場合さえあり得るだろう。自分一人だけなら、時間には間に合う。しかし大勢という人間の目のある前で偽女王の化けの皮を剥ぐには、本物の存在が必要不可欠。本物が不在なままで真実を明らかにしたところで余計な混乱を招くだけ、下手をすれば取り返しの付かないことになる。
胸の底がざわざわと蠢く。そのざわめきに気づいたロビンは自嘲するように小さく口角を上げた。自分の中にある焦燥とそれを感じる己が身が滑稽でならなかった。周囲の人間の動きが自分を囃し立てているようにさえ見える。
――笑えるな。
その小さなつぶやきは誰の耳にも届くことはなく、混乱する人々の喧騒の渦に呑まれていった。
ロビンは深く息を吸い込む。肺の中がなみなみと水が注がれていくように空気に満たされる。軽く星を見つめると、一気に吐き出した。そしてロビンは馬車に戻ると、馭者に下流の橋に向かうよう指示した。馬車の中ではレオノーラとデジレの二人が、神妙な顔つきで座していた。馬車はゴトゴトと重々しく方向を変えると、川端の通りを下流に向けて滑り始めた。しかし、やはり迂回する人の波や他の馬車に巻き込まれ、その速度はのろのろとしたものだった。
「なぜ下流の橋へ? 上流のほうが近いのではないか?」
デジレが馬車の小窓から混雑の様子を眺めながら訝しんだ。
「離れている下流のほうが向かう人間の数がまだ少ないと考えてです。尤も、あまり時間的には変わりないでしょうが気休め程度です」
「しかし、間に合わなければどうする? もう式典は始まっているのですよ」
ロビンはなぜレオノーラ女王がこのデジレという女性を側に置いているのか分かった気がした。レオノーラ女王が物腰柔らかでいかにもおとなしげな性格であると見受けられるのと対照的にデジレという女は男勝りなところがあり、相手が誰であろうと食って掛かるような気の強い性格をしているようだった。レオノーラとデジレとお互いがお互いを補い合っているように見える。全く対照的な二人だが、そうであるがゆえにレオノーラは彼女を側に置くのだろう。
「もし偽王の成したことだとしても、任命式の最後“承認の儀”を終えてしまえば、それを軽々しくひっくり返すことは民への裏切りになるのだぞ。そうなれば例え陛下が元の玉座に戻られたとしても、そのお立場が危ういことになりかねないことはあなたも分かるでしょう」
「その時はその時です」
ロビンはデジレの目を見据えきっぱりと言い渡した。次いでその視線をレオノーラにも向ける。
「なんということを……」
デジレは初め面食らったが、すぐに怒りを顕にした。しかしロビンに食って掛かろうとしたその時、レオノーラが毅然とした面持ちで諌める。
「おやめなさいデジレ」
「しかし……」
「お忘れなのですか? この方は閉じ込められていた私達を助けてくれたのですよ。そのことだけでも深く感謝すべきだというのに、あなたは偶然のいたずらで迂回を余儀なくされた責任はこの方にあるとでも言うつもりですか? いまさらジタバタしたところで仕様がありません。この方の言うとおり、間に合わなかった時は私たちに天運がなかったとでも思いましょう」
レオノーラの視線がデジレへと並々と注がれる。
「私は、テレーゼが信じたこの方を信じます」
デジレは己の主君の言葉を受け止め、表情から怒りをふっと消し去るとロビンに軽く頭を下げた。
「失礼した」
普通こんなふうに怒りをぶつけようとしてそのことを第三者から諌められると、当人は怒りの矛先をぶつける場所を失い何か尾を引くような態度を見せるものだが、デジレにはそれが感じられないようだとロビンは思った。それは相手が主君であるからというだけではない、こういうところでもこの二人はただの主君と配下の関係では言い表せない信頼で結ばれているようだった。
馬車の車輪が小さな段差に乗り上げたのか、車内ががくんと揺れた。
「娘が……、お世話になりましたね」
レオノーラは自分たちをアルゴス侯爵の手から救った男の顔を改めてまじまじと眺めながら言った。
「世話というほどのことは何も」
ロビンはかぶりを振った。
「いいえ。あなたがテレーゼからの依頼を真摯に受け止めてくださったから私たちは今ここにいる」
「ただの仕事を世話というならば」
「十分すぎますよ」
レオノーラは微笑して席に座り直した。ロビンはそんな女王の表情を目に映す。
この女性がテレーゼの母親、そう思うと不思議な気がした。ある人物と接している時、その親の存在というのは概して見えないものだ。接する人物の態度や性格、礼儀作法などの情報からどのような親であるか想像することは出来る。その想像が正しいこともあれば、良し悪しはともかく大いに裏切られることもあった。しかし正しいにしろ否であるにしろ、親という存在に接する時は一種の意外性を伴う。それは自分が親の愛というものを知らなかったせいもあるのかもしれない。
同時にロビンはこの後この母子が立ち向かうことを余儀なくされるであろう困難に思いを馳せた。
「何をお考えでいらっしゃるのです?」
ロビンの視線に気づいたレオノーラがほんのわずかに首を傾けて尋ねた。
「こんなことを言うのも失礼ですが……」
テレーゼの母親から目を離し、小窓から川とその水面に映る灯りをぼんやりと眺めながらロビンは言う。デジレの目がぎろりと光ったが、レオノーラがそれを抑えるように先を越した。
「遠慮は要りませんよ」
「いえ、娘さんはこの先大変でしょうな、と思って」
ロビンの言葉に対してレオノーラの表情にほんのわずかな影がさす。
王家の嫡流という事柄だけでも常人には及びもつかぬほどの重い責任を負う。ましてやテレーゼはただ一人の嫡子。テレーゼでもってシェルストレーム家による王家は断絶する、あるいはどこか傍流から婿養子を迎えどうにか存続させるという手もあるがどの道シェルストレーム家の男系統は終わりを告げるのだ。
「おっしゃるとおりですね。せめて先王様との間に私がもっと子を儲けていれば、あの子の負担はもっと軽くなっていたのでしょうが」
レオノーラは胸に手を当てた。
「此度の騒動が穏便な解決を迎えなかったとしても、私はせめてあの子の将来に遺恨を残さぬよう死力を尽くすつもりです」
そのときレオノーラが見せた表情には覚悟があった。王としてではない、それ以前の母親として覚悟。この先何が起ころうとも我が子を守ってみせるという強い意志だった。
ロビンは「そうですか」とだけ返し、小さく笑んだ。感傷的な気分に浸っているわけではない。親の存在を羨んだり、自分の親を憎んだりしているわけでもなく、ただ漠然と――いいものだな――そう思った。
馬車を引くギャロップが一声嘶いた。同時に馭者が誰かに何かを叫んでいる。何事か、まさか追手かとロビンが身構えた直後、勢い良く扉が開かれた。女王とその側近も呆気にとられて開かれた扉の向こうへと目をやる。そこにいたのは追手でもなければアルジャーノンの仲間でもない。一人の女が肩で息をしながら縋るような目で車内を覗きこんだのだ。デジレが何者かと声を上げようとする前に、ロビンがぽかんと口を開き、思わずこぼした。
「イレーヌ?」
その声に応じてイレーヌが安堵とも焦燥とも取れぬ声で返す。
「やっと見つけた……」
街灯の明かりにわずかに照らされたイレーヌの表情は、目が震えるように潤ませて今にも泣き出しそうだった。続いて彼女の後ろからラフレシアのラッフルもひょっこりと顔を覗かせるが、不安げで申し訳なく思うようにもじもじと顔を上げては俯かせていた。
「お前、どうしてここに?」
「ごめんなさい……。テレーゼが――」
言いかけると同時に『テレーゼ』という言葉に反応して席を立つレオノーラ。
「テレーゼが、どうしたというのです?」
その時になってようやくイレーヌはこの馬車には女王も一緒に乗っいるはずだったのだということを思い出す。目の前に立つ黒のローブを着た女性。その御方は紛れもなくこの国を統べる王。サッと表情が青ざめる。そのまま卒倒しかかって倒れ込もうとしたところを、後ろからラッフル、横からロビンが手を伸ばして支える。
仕方なく女王たちには本人に代わりロビンが手短に紹介した。
*
隠し通路の最後の到達点である表面が木目の扉を引いた。戸の大きさは身をかがめてどうにか通れるほどの大きさで、通路側からはほとんどなんの抵抗もなく開いた。戸と一緒に棚が一緒に引っ張られてくる。この通路の入口はこの石でできた棚の裏側に作られていた。扉をくぐり終えるとなんだか懐かしい香りが飛び込んでくる。自分の部屋のにおい。同時に帰ってきたんだ、という感覚がよぎっていく。明かりは灯っておらず真っ暗だった。ある程度闇に慣れた目を凝らしながら壁づたいに進んだ。そして部屋と外の廊下とを隔てる扉の横に配置されているスイッチを上げると、天井の小さなシャンデリアに火が灯った。暗闇に包まれていた部屋に光が広がる。
まずテレーゼは壁にかかる時計に視線を移した。時計の針は十一時十分を示していた。テレーゼはほっと息を漏らした。まだ式典は始まったばかりだ。この時間ならまだ“承認の儀”はおろか、任命式すら始まっていないはず。すぐさまテレーゼは扉に向かった。しかしその瞬間横から飛び出したものが扉の前に立ちはだかる。ムンナ――つまりはルナだった。ルナはじっとテレーゼを見つめて頭(というよりも体全体)を横に揺さぶる。
「どうしたのルナ? そこを通して」
しかしルナは頑として横に体を揺すって、続いて横を見るように促すような仕草をしてみせた。首を傾げつつルナが促す方向に目をやる、同時に「あっ」と素っ頓狂な声がぽろりと落ちる。
そこには壁際に姿見が立っており、そこには今のテレーゼ自身の姿が映っていた。柔らかで鮮やかな栗色の髪はぼさぼさに乱れており、服も顔も土埃がついて黒く汚れている。ずっと狭く薄暗い通路を歩いていた、加えて一度転んでいる。黒ずみのほとんどはその時ついたものだろう。このまま式典の間に行って良いかと問うと、とてもではないが首を縦には振り難い姿と言えた。
着替えなきゃと、そう思った瞬間ぴたりと動きが止まる。
――間に合うだろうか。
式典用のドレスを着用するには時間がかかる。顔全体の化粧に始まって、髪の結い上げ、コルセットの着用、下着も特別なものを用意し、ドレスをようやく着た後も手袋のボタン締め、様々な装飾品の合わせなど。全てをこなそうとすればようやく準備が整う頃にはもう日付が変わった後であるほどに時間がかかる。間に合うはずがない。
時計を見る。こうして迷っている間にもう一分半も過ぎてしまった。この広い王宮で式典の間まで辿り着くまでの時間も考慮に入れると一秒たりとも無駄にできないというのに。
しかしその時テレーゼに別の考えが浮かぶ。何も着替える必要はないのではないだろうか? わざわざドレスを身に纏わずとも、王女の顔は国中の誰もが周知している。殊に今は実際に相まみえるか肖像画を見るしかなかった時代とは違い、近年広まりつつある写真という技術と新聞という媒体によってより正確に人物の顔を知ることが出来る。
そうと決まればと、テレーゼはそのまま扉に向き直ろうとするが、何か後ろ髪を引くものがある。なにか忘れているような気がする。しかも今の瞬間、自分はそれを思い出そうとした。いったいなぜ、そしてそれは何なのだろう? テレーゼはゆっくりと自分が思考した順番を糸を手繰り寄せるように連想していく。時計、ドレス、肖像画、写真、新聞……
「あっ、そっか」
ロビンがキースに行く前に新聞を見せたことを思い出す。その新聞には、王女は病をこじらせて臥せっている、ということが書かれてあった。そうだ、自分はここ数日ずっと具合を悪くして、王宮の外には一歩たりとも出ていない、ということになっている。それがこのようにいかにも外で何かをやっていたような格好で人前に出たらどうなるか。ただでさえこれから式典の間に乗り込んで、民の混乱を誘うような真似をするというのに、より混乱を助長させるような事態はなるべくなら避けるべきだ。
やはり着替えよう。端然としてテレーゼはルナに向かって頷いた。
とはいえ、本式のドレスではとても間に合いそうにない。もう少し砕けた場などで使う略式のものにしよう。それなら十分に間に合うはず。仕方がないがこの格好のまま乗り込むよりもマシというものだった。
「ルナ、あなたも手伝って!」