鳴らない鐘が響く時
30 【23時01分】
 一片の光も差さぬ暗闇。まさに『一寸先は闇』という言葉をそのまま体現したかのような空間。歩けども歩けども暗闇と世の終わりかのような静けさは増すばかり。この作業道に設置されている水路への転落防止のための欄干に沿いながらでなければ先に進むこともままならない。歩みの横に口を開けているはずの黒い流れは、ほとんど平坦な勾配をゆっくりゆっくりと下っているために不気味に思うほどに音一つ立てていない。ただ終始鼻孔を突くカビの臭いと時折天井から落ちる水滴が水面に波紋を生む音とで、そこに水の流れがあることが分かる。皮肉なことにこのどこまでも続く暗闇と静けさとが、この場所に隠されている地下通路の入り口がまだ発見されていないことを証明していた。後ろを振り返ったが、追手は入り口で撃退したムウマの他には何かが近づいてくる気配も感じなかった。しかし、この何もない真っ暗な中を一人で手探りで進んでいくのはやはり心もとない。追手もひょっとすると気配も物音も悟られない微妙な距離を維持しつつ追跡しているのではという疑念も纏わりつく霧のごとく払えない。
 なんて情けないことだろう。一人で王宮へと向かう、一人で侯爵に立ち向かうと心に決めたはずだのに、今は側に寄り添ってくれる誰かがこんなにも恋しい。
 そのとき地面にたまった水に足を取られ、テレーゼは前のめりに倒れこんでしまう。何の物音もしない静謐な空間で苦悶がこだました。暫くの間テレーゼは立つことが出来なかった。怪我をしたのではない。倒れこむ際にはうまく手をついて衝撃を最小限に抑えることができた。テレーゼが襲うのは身震い。恐ろしさに体が支配される。暗闇が意志を飲み込んでいく。
 そんなとき何かが頭に触れた。ゆっくりと顔を上げるとルナがこちらをじっと見つめていることがこの暗がりの中でも分かった。転んだ拍子にボングリから飛び出したらしい。ルナはほとんど顔と繋がっているような短い前足をテレーゼに差し伸べた。テレーゼの口からほんの小さく声が漏れ、思わず顔がほころぶ。
 何を忘れてたんだろう。ルナはずっとそばに居てくれているのに。ほんのすこし前までルナは自分が守ってあげなきゃ、と思うような正直頼りない存在だった。それが今では一緒にいてくれているということがこんなにも心強い。
 テレーゼはルナが差し伸べてくれた前足に自分の手を伸ばして握手するように優しく握った。そして身を起こして軽く服の砂埃を払ってから落としたボングリを拾い上げると、再び足を前に進め始めた。そしてまもなく目的の場所へと差し掛かる。
 道がふた手に分かれており、ひとつは依然として水路に沿って奥へと進み、もうひとつは左に折れた。折れた道はアーチ型の橋になって水路の上を越える。しかしトンネルの反対側の壁に差し掛かると一見何もない壁に阻まれた。テレーゼは壁の前に立つと膝を折って地面と壁の境の角に手を当てる。そしてトンネルを形作る煉瓦壁を下から順番に手で辿った。
 一段……
 二段……
 三段……
 四段……
 五段……
 六段……
 落ち着いてゆっくりと段を数え、手をそれに伴い上へ滑らせる。
 七段……
 八段……
 九段……!
 そこでテレーゼは手を止めた。そこから更に煉瓦の九段目と十段目の境の横筋にさらに手を滑らせていった。そして横に並ぶ煉瓦の数を数えていった。そして始点から横に五つ目の煉瓦に差し掛かり、「ここだ」とつぶやくとその部分を強く押す。するとその箇所煉瓦がゴリゴリと石が擦れる音をたてながら奥へと引っ込み、何か鍵のようなものが外れるような音がコトンと響いた。ルナの身を寄せてそびえ立つ煉瓦壁を押すと、壁の中央を支点にしてちょうど扉くらいの大きさにぐるんと回転した。壁の回転に合わせて奥へと入り込む。壁は半回転するとどすんと重い音を立て、そして今度は錠が下りたと思われる音が鳴った。
 するとどういう仕組なのかは分からないが、予め足元を照らすように壁に沿って設置されていた灯明が明るくなった。この隠し通路は高さ、幅共に二メートルほどで吸い込まれるようなほどにひたすらまっすぐに伸びていた。また足元は長年の経過によってヒビが入っているものの、軽く走っても全く問題のないほどに舗装されていた。
 さきほどまでの水路のトンネルとは違い今度は足元がしっかり照らされているので、暗闇の問題はない。テレーゼは一直線に続く道を走りはじめた。こちら側の通路は久しぶりに使うが、初めて見つけた頃と何も変わっていない。
 王宮にはたくさんの秘密通路が縦横無尽に張り巡らされており、しかもうまい具合に表からはちょっと注意したくらいでは絶対に見つからないほど巧妙に隠されている。そんな話を聞いたときはわくわくしたし、実際私室でこの道を含む二本の通路を発見した時は小躍りしたくなるほどに嬉しかった。もっと幼かった頃はこの二本の通路を使って、こっそり王宮を抜け出すこともままあった。しかし父親であるアルベルト王が崩御した頃から通路を使って抜け出したり、他の入り口を探そうとしたりすることに何となく申し訳ない背徳感を覚えて以来使ってはいなかった。
 少し息が上がってきた。もう半分くらい来たかな?
 テレーゼは走り続けた。思えば生まれてこの方、こんな風に何かの目的に向けて必死になって走るということがあっただろうか。何一つ不自由しない王宮での生活。王宮を出て一キロと距離のないセントラル大教会へと移動するだけでも、豪勢な馬車が用意され、護衛兵が前後を仰々しく守護する。田舎が出身である母の教育方針のおかげで極端に甘やかされるということはなかったが、それでもどうにもならない理不尽さに直面することはなかった。母王は自らの知らないところでアルゴス侯爵の恨みを買い、此度の事件に巻き込まれた。それは確かに理不尽であるが、同時にそんな事態に直面する危険性を覚悟した上で王冠を戴いた。だからこそ王なのだ。王になるということは、民の期待を一身に背負うと同時に、長い歴史の中で連綿と蓄積されてきた怨詛も同時に背負うことである。だからこそ、王は王たりうる。
 もし此度の事件が無事解決し、この先自分が王冠を戴くことになれば、自分はずっと走り続けなければならないだろう。いつ終わるとも知れぬ王道を。
 唐突にアルゴス侯爵の顔が頭に浮かんだ。燃え上がるような金色の髪、頑健で整った顔立ち、そこに浮かび上がる矜持と憎悪、そしてその向う側にある暗い影。セルゲイ・アルゴス。あの人にはもっと別の生き方は無かったんだろうか。ロビンから彼の生い立ちを聞かされた時は、憐憫を思わずにはいられなかった。なんて不幸な運命に合ったのだろう。だからといって国家簒奪を起して良い理由には決してならない。自分は今彼の不幸な人生にとどめを刺そうとしている。たとえ死刑を免れたとしても、命終える時まで牢を蠢く運命を突きつける。そうしなければ自分たちが壊されてしまうから。
 カンカンと靴が石畳を打つ。その音が反響し合い、テレーゼはそれが耳障りに感じた。
 テレーゼは自問自答する。セルゲイ・アルゴスを倒すのは自分たちの今の生活、立場を守りたいから? 「違う」……といえば嘘になる。王宮での生活は既に生き方の一部に組み込まれてしまっている。しかし、だからこそ王族として生まれたことへの使命を果たさなければならない。ロビンは目的が別のところにあったにせよ、己の探偵としての使命を果たすだろう。ロビン自身いつかこういう時が来ることを覚悟していたはず。ラフトも彼のその覚悟を知った上で、彼へ全幅の信頼を傾けていた。
 自分はロビンの覚悟に応えるべきだ。せめて、彼がずっと守ってきたものを捨てずに済むように。
 そのとき、ようやく長く冷たい石の回廊が終わりを告げた。突然角に突き当たったと思ったら、そこを曲がったところに階段が姿を表したのだ。石の回廊とは違い、階段の幅は狭く、テレーゼほどの身幅の人間が二人すれ違うのがやっとだった。テレーゼは体に疲労が這い寄るのを感じながらも、その階段を一段一段登り始める。傍らに浮かぶルナに時折微笑みかけながら。



 中庭を抜け、コラッタたちに守られつつ屋敷へと抜ける。全てが迅速のうちに進められる。わざわざ最初にロビン一人で中庭まで進んだのは侯爵の手下たちが体勢を整える暇を与えないようにするためだった。最初に大混乱を起こし、それに目が回っているうちに事を進める。それが今回の救出作戦の肝だった。実際ロビンが本邸の客間から飛び出し、レオノーラとデジレが監禁されている扉を開けるまで二分と掛かっていない。
 さらにここでヤミカラスたちの群れが起こした“くろいきり”が別の効果をもたらしていた。ヤミカラスたちの内の何体かが中庭から本邸へと入り込み、ところかまわず“くろいきり”をまきちらす。当然ながら本邸内には“くろいきり”が充満し、窓や煙突といった外への隙間から漏れだす。付近の住民たちは目を丸くした。このあたりの地区でも有名なアルゴス侯爵邸の窓や扉からもくもくと真っ黒な煙が湧き出している。実際その煙の臭いや流れ方などの性質から物が燃えて起こる煙だとは異なるのだが、中で起きている出来事を知らない住民たちは火事が起きたのだと勘違いした。外で待機していた見張りたちは狼狽に埋もれてしまうことになる。住民たちは普段はこの邸宅で中が何が行われていようと何も見えないし、何も聞こえてこないので全く意に介さない。しかし火災となると事情は異なる。風の流れ方次第では他所に延焼する危険を孕む。とりわけ今晩はいつもり風が強い。ひとたび延焼が始まれば下手をすればこのあたり一帯焼け野原になってしまう。そう思い込んだ付近の住民たちが館の正面玄関前に押しかけていた。
 消防を呼べという怒轟に見張りたちは気圧された。彼らは中庭で起きている出来事を知らなかったのでなんとも説明のしようがなかったのだ。ようやく見張りの一人が中の様子を見に行こうとした時、玄関の扉が勢い良く開き、中で充満している“くろいきり”と共に数名の人間が煙の中から転がり込んできた。それは雇っていた使用人たちだった。
「おい、どうした! 中で何があったんだ」
 見張りの一人が怯えた様子で四つん這いになっている使用人たちに向かって乱暴に叫んだ。
「ね、ネズミやカラスたちがたくさん出てきて……。気づいたらあたりが煙に包まれて――」
 はあ? と彼は目を白黒させる。もっと深く突っ込んで問いただそうと声をかけようとした瞬間、さらに二、三人の人影が煙の向こうから飛び出した。その内一人は男の姿をしており、あとの二人の女を介抱するように連れ出していた。
「怪我人だ、通してくれ! 奥の火勢が強い、この風じゃ他の家に燃え移るぞ!」
 男はあらん限りの声を張り上げて叫ぶ。実際に何が起きているのか知らないその場に居る人間たちにとってこの声は決定打となった。
 人々はパニックを起こし、大波のように数多の声が沸き起こった。消防を呼べという叫び、水を持って来いという声。そんな中で邸宅の見張りたちは押し寄せる住民の押し問答への対応で今出てきた男たちの正体を探ろうとも出来ずにてんてこ舞いに陥っていた。果たしてロビン、レオノーラ、そしてデジレの三人はこの混乱の中を邸宅の正面玄関から脱出することが出来たのである。
「申し訳ありませんね、陛下。こんな手荒な手段を使うことになって」
 あらかじめ館から少し離れたところに呼び出しておいた馬車に揺られながら、ロビンはレオノーラに頭を下げた。馬車の席は前後に向かい合うような形になっており、ロビンが前側に座り、レオノーラとデジレ両名は後ろの席へと腰掛けている。レオノーラの代わりにデジレが応じた。
「構わぬ。それより、あのコラッタたち。先日もコラッタたちから殿下とあなたの手紙を受け取りましたが、いったいどうやったのです?」
「協力してくれた友人のおかげですよ。ところで……」
 顔を上げつつ、ロビンはその顔に苦笑いを滲ませた。
「これから私がやろうとしていることについて、あらかじめ知っておいて貰いたいことが」
 レオノーラとデジレはお互い皺の入った顔を見合わせ、首を傾げる。
「申してみよ」
「実は――」
 ロビンが口を開きかけた瞬間だった。ガタンと突然馬車が停車し、車内が大きく揺れた。前のめりになりそうだったレオノーラを咄嗟に支えるデジレ。何が起きたのかとロビンは馭者に声をかける。
「どうしたんだ?」
「橋の上でなにか燃えてるみたいで、通行止めになってるんですよ」
「橋が?」
 問い返し、ロビンは前への覗き窓から前方へ目を向けると、馬車は王都を二分する大河を渡る橋に差し掛かっているところだった。そして馭者の言ったとおり、橋の前には何台も馬車や人が連なり、進路を阻まれた人々でごった返していた。さらにその向こう側橋の中央部付近で確かに巨大な獣が踊り狂うように赤々とした炎が舞い散っている。
「まずいな……」
 ロビンは炎のさらに向こう、対岸へと目を渡しながら苦々しげに呟いた。

わたぬけ ( 2013/02/24(日) 00:35 )