29 【22時55分】
全身をバネのようににしてしなやかに地面に降りると一気に離家に向かって駆け出す。離家付近の中庭の地面はほとんどコラッタで埋め尽くされており、まるでこの館の主の座を簒奪したかのようだ。上空からのヤミカラスたちがこの混乱の火にさらに油を注ぐ。石を落とし尽くした鳥達は翼を前に向けて、気力を一点に絞るとそれを一気に開放した。開放された一点からは真っ黒な煙が舐め尽くすようにあたりに広がっていき、周囲を“くろいきり”で覆った。
ロビンは離家に向けて走る。犬獣や侯爵の手下たちの横も通り過ぎるが、この混乱のせいもあって誰もロビンに気を止めない。まず最初に彼は昼間に接触した女中を見つけて近づいた。後ろに回りこんで声をかけると女はその時になって初めてロビンの存在に気づいて叫び声を上げそうになる。しかしすんでの所でロビンが口元に人差し指を立てて制止させた。
「こ、これは一体どういうことなんです?」
「協力してくれた友人がちょっと無茶やっただけさ」
気の利いた台詞の一言でも言ってやりたいところだが、今は一分一秒を争う。ロビンは単刀直入に要件を口にした。
「女王はどこにいる?」
「に、二階の北側の部屋です。ほら、あの雨戸が閉まっている」
そう言うと女は指でその部屋を示した。確かに二階のその部屋だけが不自然に雨戸が閉じられていた。ロビンは足元の石を一個二個と拾い上げてそれを用意していた布の袋に入れながら続ける。
「そうか、どうせ鍵がかかっているんだろう?」
「鍵なら部屋の前の見張りが持っているはずです」
「分かった。お前たちは混乱に乗じて逃げろ」
それだけ言うとロビンは女からの返事も聞かずに離家へとかけ出した。布の袋には最終的に丸い石が五つ入った。
厨房や浴室からはまだ水が噴き出しているらしく、玄関から廊下にかけてとめどなく水が流れだしていく。コラッタたちは壁や天井までも縦横無尽に駆け回り、侯爵の手下たちは棍棒のようなものを手に東奔西走するがごとく懸命に追い回していた。ロビンは身を低くして駆ける。やがて棍棒を振り回していた男がロビンの存在に気づく。
「なんだ貴様は!?」
そう叫んで棍棒を振り下ろそうとするが既に一手どころか二手も三手も遅い。ロビンは低くしていた上体を一気に上げ、左の手で男の首を掴みあげた。上体を起こした勢いも加算され、男の体がふわりと床を離れる。同時にロビンも身体を浮かせ、男の体が背中の方に倒れかかった瞬間、全体重を左手にかけ本来ならば背中から倒れるところを、後頭部から男を叩き落とした。男は自分が何をされたのか分からないまま、ぐるんと視界が暗転し身体を二、三度痙攣させるとそのまま昏倒した。
その様子を顧みもせずロビンはさらに廊下を進む。階段の前でさらにまた一人と遭遇。今度は相手の動きに遅れはなかった。振り下ろされた棍棒がロビンの頭をまっすぐに狙う。しかしまさにロビンの頭が棍棒に割られようとした瞬間、男の視界が斜めに傾いた。同時に横へと倒れこんでいく。足払いされたのだ、と男が判断し受け身を取ろうとした瞬間、ロビンの手が男の頭を押さえつけ、受け身を取る暇もなく床にたたきつけられた。
そしてロビンは階段を駆け昇る。踊り場を通過し、二階へと差し掛かった時、すぐに鍵の守護者と思われる男が視界に入った。そして同時に男がその手に持つ得物も目に止まった。それは刃渡りが一メートルほどにも届きそうな剣だった。しかもそれを小山ほどにもある背丈の大男が振り回しており、さすがのコラッタたちも近づけずに退散していた。ロビンはひょっとすると誰かやられはしなかったかと眉をひそめたが、あたりに血のような赤い跡は見受けられず、胸を撫で下ろす。
大男はロビンの姿を認めると瞬時にこやつが此度の首謀者かと憎々しげな視線を浴びせた。年齢は既に若いとはいえない部類に入っているようだった。胡麻塩頭に威厳を醸しだすような白い立派な口ひげを蓄えている
男が剣を構え、高らかな雄叫びを上げ襲いかかる。ロビンは石ころを集めた袋を手に持つ。男の剣が振り下ろされた瞬間、ロビンは右脇へと転がり込んだ。
「っと、危ねえな!」
軽く跳躍しながら、相手と距離を取ると、袋の口を掴んでそれを縦に振り回す。そして男に向かって石の入った袋を勢い良く放り投げた。緩やかな弧を描いて袋は大男の顔をめがけて飛んでいく。しかし反応は早い。男は剣の刃を飛んでくる袋に向ける。袋が刃に触れた瞬間、破裂するように弾け中に入っていた石が文字通り四方へと飛び散る。男は余裕そうに口元に笑みを浮かべるが、刹那思いがけない光景が目の前に迫った。ロビンは袋を投げると同時に駆けだしており、男が袋を弾いた時にはもうすぐ呼指の距離にまで近づいていた。男が剣を以て薙ぎ払おうとするが手遅れ、その手をロビンの右手が抑えた。ロビンはあらかじめ袋から石を一つ取り出しており、それは今彼の左手に握られている。そして拳の小指の先から石の丸い端を出した状態で左腕を自身の首に前側から巻き付けるような形で振りかぶった。
「悪いな」
振りかぶった左手が男の顎めがけて振るわれた。鈍い音と共に、男の顎が右にずれる。せめて最後のあがきとして無念そうにカッと双眸を見開くと、男は剣を取り落として大の字に倒れこんだ。
ロビンはハァと溜息をつく。そして周囲に誰も居ないことを確認してから倒れた男の服のポケットを探る。すぐに目的のものは探りあたった。ズボンの左ポケットから、円形のホルダーにまとめられた鍵束が出てくる。その時、廊下に幾つかある扉の一つから叩く音と同時に声が漏れてきた。
「誰か、そこにいるんですか?」
掠れた中年の女性の声だ。すぐに女王が閉じ込められているのはここだと察しが付く。
「陛下をお迎えに上がりました」
ロビンは鍵束の鍵を手当たり次第に差し込みながら応じた。扉の向こうの声は一瞬途切れた後、また返ってくる。
「あなたは一体何者です?」
その言葉が聞こえた瞬間、四度目に差し込んだ鍵が回りカチャリと音を立てた。そしてノブを回すと扉はゆっくりと廊下側に開く。その向こう側から二人の女性が姿を表した。二人とも修道服のような黒いローブを着せられており、心労のためか頬がこけていた。それでもロビンは向かって右側に立つ女性こそがこの国の王、レオノーラ女王だと悟った。それは目元口元そして髪の色がテレーゼのそれとよく似ていたから。テレーゼの顔は母親からもらったものらしいと、ロビンは小さな感慨を覚える。しかしそれだけでなく、右側の女性はやつれてはいるものの王の持つどことない覇気と呼ぶべきものをその身に帯びているように感じたからだ。
ロビンは小さく口角を上げると、胸に手を当てて深くお辞儀をした。
「陛下に於かれましてはお初お目にかかります。この度、ご息女のテレーゼ王女殿下よりご依頼を承りました、名も無き探偵にございます」
二人の女は呆気にとられて目の前に現れた男を上から下まで見渡す。左側の女が一歩前に進み出て口を開いた。声からしてたった今扉を隔てて声をかけたのはこっちの髪の黒い女のほうだと分かる。
「あなたが本当にテレーゼ様の仰っていた探偵であると示す証拠はあるか」
ロビンはこくりと一礼して、懐から一枚の紙面を取り出し、「こちらで良ければ」と囁くとそこに書かれている文字が見えるように差し出した。印刷された文字と末尾の名前欄に、クインズ探偵事務所の判子とその下には流れるような筆記体で署名がなされている。
Therese Kjellstrom
それは初めてテレーゼが探偵事務所にやってきた夜に交わした契約書だった。
それを手に取り、黒髪の女は己が主君に恭しい手つきで渡す。契約書を手渡されたレオノーラはそこに書かれた署名を食い入るように見つめた。そしてついに声を漏らす。緑色に透き通ったようなアルトだ。
「間違いありません。あの子の字です。やはりあなたが……」
ロビンは無言で一揖する。そして頭をあげるとゆっくり言い聞かせるような口調で言った。
「誠に恐縮ですが詳しい話は後にして、今はお急ぎください。事は急を要します」
その時階段の方から人間が駆け上がる音が聞こえてきた。ロビンは思わず身構える。外の獣たちの妨害を越えて新手がやってきたのかと思ったからだ。
しかしやがて現れたのはロビンが協力を頼んだ女と彼女を先頭にしてついてくる二人の使用人と思しき人間だった。後の二人はそれぞれ男女一名ずつ。
「お前たち、まだ逃げていなかったのか」
ロビンが叫ぶも三人はこちらに向かって走ってくる。そして彼女らは部屋から出る女王の姿を認めると、堰を切ったように両目に大粒の涙を浮かべた。そしてレオノーラへと駆け寄るとそのまま倒れこむように稽首した。
「陛下! これまでの数々の非礼、どうか! ……どうかお許しを」
三人はそれぞれ同じような言葉を発しながら床に額を擦り付ける。女王は意表を突かれ、思わず一歩身を引いた。そしてローブの袖から見えている白い手に軽く拳を作ってそれを胸に当てた。仕草までテレーゼは継いだんだな、とロビンは軽く破顔した。
「この者たちは侯爵に家族を人質に取られて働かされていたんです」
レオノーラはその言葉にようやく使用人たちの態度に合点がいき「そうだったのですか」と零した。
「面をあげなさい」
その言葉を受けて、三人はぴくりと小さく痙攣し、おずおずと顔を上げた。本当に床に頭を擦り付けたらしく、三人が三人とも額に赤い跡が滲んでいた。
「あなた方が脅されていたとはいえ侯爵の陰謀に加担していた事実は変わりないでしょう」
三人は全身を震わせるが、「ですが――」と女王の声が続く。
「あなた方が自分たちに出来る範囲で献身的に尽くして下さったことを私は知っています。あなた方の事情も考慮し、王宮に戻った暁には是非とも罪を軽くするよう司法長に提言いたしましょう」
三人はその言葉の重みに悄然としてさらに慟哭した。女王は使用人たちに手を差し伸べようとするがそれをもう一人の女が制止する。
「陛下、恐れながらこの者達のことは後にし、ここを早く出ましょう。この探偵が言うように今は一分一秒を争います。おそらくそろそろ式典が始まる頃でしょう」
女はずっと軟禁されていたとは思えないほどハキハキとした口ぶりで言い聞かせる。そして自分の本分を思い出したかのように女王は強く頷いた。
「ええ、そうですねデジレ」
「さ、陛下こちらへ」
ロビンが促し、レオノーラとデジレは早足に進み始めた。
階段に差し掛かった所でレオノーラが大事なことを思い出したようにロビンに声をかける。
「一つ伺ってもよろしいですか?」
「この場で答えられるものなら何なりと……」
「娘は……テレーゼは無事ですか?」
一旦は再会したものの、またも引き裂かれた愛する娘。その娘が今どこに連れて行かれ、どうしているのか考えないようにしていた。
ロビンはぴたりと立ち止まり、振り返ると矜持を含んだ笑みを浮かべて応じた。
「はい。無事見つけ出し、今は安全なところに居ます」
嗚呼、と女王はため息を漏らす。そして両目に先ほどの使用人たちよりもさらに多くの涙をいっぱいに抱え、引き絞るように漏らした。
「よかった……」
しかしそのテレーゼが今、安全な場所を一人飛び出し、自ら戦場と呼んで差し支えない場所へと飛び込もうとしていることに、母はもちろんのことロビンさえも夢にも思わなかった。
*
金管楽器が高らかにファンファーレを歌い上げ、それをティンパニやシンバルが彩りを添える。階段を一段一段昇るような三連符の旋律が鳴り渡り、それに別の金管群が応じ、二つの旋律は絶妙に絡み合う。そうして次第に高揚して最終的に頂点を極めるとそれまで鳴りを潜めていた木管、弦楽が加わって堂々たるトゥッティを奏で上げた。そして同時に用意されていた合唱隊が高らかな歌声が響き渡らせた。式典行進曲と呼ばれ、重要な式典における国王入場の際には必ず歌われるものだった。歌が始まると大扉が開かれ、壇上の王座にまで敷かれている赤絨毯の上を国王が闊歩する。“女王”の前と後ろとを国王守護の親衛隊が式典用の眩しいほどに真っ白な鎧を身に着けて二つの列をなす。一人ひとりが入隊に際して国王より直々に譲渡される剣を両手に持ち、天を穿たんとするかのように剣先を上に向け柄を胸まで持ちあげる。曲は荘厳なパイプオルガンのソロに入り、会場は厳粛な空気に包まれていく。隊列の先頭が壇の前に差し掛かるとそれぞれの隊員が壇の枠に沿って左右へと分かれる。それを俯瞰するとまるでスイセンの花が咲くように白い花弁が広がっていくようだった。場内はこれ以上の身の置き場もないくらいに大勢の人間が集まっているにもかかわらず、誰も何も一言も口にしない。誰もが式典という静謐にして神聖な場に呑まれているようだった。
そんな中でたった一人の男だけが口元に胡乱な冷笑を浮かべていた。
セルゲイ・アルゴスは前方の方で親衛隊の列にいざなわれて壇上へと向かう“女王”――ギデオンを眼に勝ち誇った色を滲ませて眺めていた。“女王”は通常のドレスに加えて式典に於いてのみ着用する赤く分厚いマントにきらびやかな金糸が縫い込まれた法衣を着用している。この会場にいる誰もが、今自分たちが羨望の眼差しを向けている対象が入れ替わった偽者だとはまるで気づいていない。本当に見事な幻影だ。自分も騙されている立場だとしたら親衛隊に守られたあの天上人を王だと信じて疑わないだろう。国王と民は互いの信頼によって成り立っていると言うが、この滑稽なざまを眼にすればなんと脆弱なものだろうか。それを今から自分は壊すのだ。破壊し、蹂躙し、二度と取り返しのつかないほどにぐちゃぐちゃに踏みにじってやるのだ。全てはあのウジ虫のような両親と、女王本人への復讐のために。
“女王”の足が壇へ昇るための階段に差し掛かる。それを見計らったようにパイプオルガンのソロは終わり、再び管弦楽が最初のファンファーレを再現し、合唱隊がそれに続いた。そして“女王”が王座の前に立ち民の方へと身を翻すと音楽はさらに盛り上がり、パイプオルガンも合わさって一つの頂点を築くと、王の着座と同時にその熱気の内に終焉を迎えた。
一つの緊張の頂点が過ぎ去り、人々はまだ口を開かないまでも、軽い咳払いがぽつぽつと沸き起こった。
時刻は二十三時ちょうど。
建国記念日前夜式典の開式だった。