28 【同刻】
女王レオノーラはアルゴス侯爵邸宅中庭にある離家の一室でデジレとともに完全な監禁状態に置かれていた。平時ならこの離家の中では自由に動くことを許されていたが、この夜はほとんど寝室から出ることを許されず、また窓の方も雨戸を降ろされ、その上からさらにカーテンを引かれているという有様だった。部屋の扉は外側から鍵がかけられ、寝室に入るための廊下の扉には常に見張りの男が立っている。
その様子を痛ましく思いながら女は離家の一階にある使用人控え室の粗末なソファに他の使用人たちと一緒に座っていた。いつもはその日の仕事を終え、交代がやってきたら帰って良いことになっていたがこの日は違った。仕事を終えた彼女たちに命じられたのは使用人控え室への待機であり、それは本宅の方に勤めてる使用人たちも同じであるようだった。アルゴス侯爵邸に勤めている使用人たちは皆同じような方法で集められた面々であった。使用人勤めとしては破格な金額の給金に惹かれ、その結果国家簒奪の片棒を担がされる。そのことを知って逃げようとしても本人とその家族を監視下に置いて決して裏切らぬよう脅迫する。そして彼女らは今日までこのことを誰にも、家族にも口を閉ざしたまま働いてきた。
そんな中で彼女――ロビンと接触した彼女は自分たちにこれから訪れるであろう運命に慄然としていた。あの探偵と名乗る男は本当に来るのかしら、と訝しく思いながらも今はあの男を信じるしかない。そのために控え室への待機を命じられる直前にこっそり物置の窓を開けておいたのだ。
――全てが終わった後、侯爵はむざむざ君たちを生かしておくだろうか?
探偵と名乗る男の声が頭の中でこだまする。そのたびに肩が強張り、寒気が全身を駆け抜けた。今までここで働かされてる中でその可能性を少しも考えなかったと言うならそれは嘘になる。それでもいざ第三者の口からその予想を口にされると恐怖が胸を貫いた。今まで何の根拠もなく考えていた『なんとかなるだろう』という希望的観測が粉々に打ち砕かれ、後に残ったのは国家簒奪に加担したという自身へのおののきと、やがて被るであろう危害への絶望だった。
女はちらりと周囲を見回す。控え室には自分の他に二人の人間が待機している。男女それぞれ一人ずつだ。どの面々も沈んだ評定をしており、口を閉ざしていた。彼らもまた自分たちが加担した罪の深さに包頭している。そして自分ほどではないかもしれないが、これから先自分たちがどうなるのかという不安に憂いているように見えた。
次に壁にかけられている振り子時計に目をやった。短針は「10」から「11」へと移りかけており、短針は「9」の位置を少し過ぎていた。あの探偵の男と交わした約束の時間だった。無意識の内に肩に力が入る。おもむろに彼女は席を立った。「お手洗いへ」とあとの二人に言い残したが、二人は気のない返事をするだけだった。廊下に出るとすぐに見張りの男に見咎められる。
「どうしても喉が渇きまして、厨房へ行きたいのですが」
わざとらしく喉元を抑えながら空咳を交える。見張りは納得したらしくさっさと終わらせるよう釘を差してから女を通した。もっとも、今厨房にあるのは銀食器くらいのもので、念を入れてなのか包丁やフォークのような武器になりそうなものは全部撤去されていたせいもある。元からアルゴス侯爵に仕えている見張りたちは、女が小山ほどにも感じるほどの体格差なため下手に反抗したところで赤子の手を捻るが如くねじ伏せられるのが落ちだと感じていた。
厨房に入ると女は扉をぴたりと閉める。厨房には流し台越しい小窓があって、そこからは中庭の一部と池、そして奥の本邸とが見渡せる。その小窓から外を覗いた。ずっしりと横たわる本邸の二階、小窓から見て右端の部屋の窓に女は目を凝らした。それは客間の窓であり、少なくとも今日は誰も使っておらず、真っ暗なはずであった。その誰もいない部屋であるはずの窓に今、小さな灯りが見え隠れしている。カンテラの明かりだろうかと女は思った。しかし今はそんなことどうでも良い。その光こそが、探偵と名乗る男と交わした約束の合図だった。しかし、同時に女は身震いする。本当にあの探偵はやってきた。そしてあんなところまで忍び込んでいる。いったいあの男は何者なのだろうと訝しく感じるが、しかし今はあの男に頼るしかないのだと自分に言い聞かせる。
女は身をかがめ流し台の下にある野菜などを収めておく床下収納の錠を開けた。扉も開けておこうかと少しの間考えるが、男が言ったのは床下収納の錠だけだった。思い出せば「錠」というのを強調していたような気もする。
それから女は厨房にある燭台に火を灯し、窓へと持って行くと、外から見えるように出しては隠すという動作を三度繰り返した。これが合図だと男は言っていた。
これだけだ。これでもう約束は終わり。燭台の火を消し、厨房を出ようと小窓に背を向けた時「あら?」と女は眉をひそめた。心なしか池の水が減っているような気がした。いや間違いない。水位は明らかに下がっており、月の光に照らされて本来の水位の線が水面から帯を引くように黒く覗いている。ここの池の水は確かこの街の隅々まで行き渡っている地下水路から引っ張っており、旱魃でも起こらない限りは水が減るなんてことはないはずだった。その池の水が今、目に見えて減少している。
池の水がどうして減少しているのか、気がかりだったが折しも外の見張りが「まだか?」と声を張り上げたので彼女は小窓を背に厨房を出た。自分に残された仕事はもうひとつある。そしてそれは今ではない。探偵の声が再び頭の中でこだました。
――あんたはその後に起こる出来事に対して大袈裟に騒ぎ立てる。それだけでいい。
*
ロビンはほくそ笑んでいた。たった今、離家からの合図を確認した。邸内を見つからないように移動するのは造作も無いことだ。要するに見られなければ問題は無いからだ。問題は中庭だった。中庭にはヘルガー、ハーデリア、グラエナといった犬型の獣が随所に配置されている。一見その姿は見受けられないが、茂みや木陰といった位置にうまい具合に隠されていた。ここを彼らの敏感な鼻に感づかれないように移動するのは不可能に等しい。だから協力者が必要だった。そして中庭を通り抜けるための、そしてさらに離家から女王を奪還する準備が今整った。
ロビンは客間の窓から空を見上げる。空に浮かぶ満月を背景に真っ黒な鳥のシルエットが目に映る。全身を黒っぽい藍色の羽毛で覆われて、帽子のような頭を乗っけている。
アルジャーノンめ、あんな連中まで手なづけていたんだな。
*
時刻は二十二時五十分ごろ。場所は王都レマルク東エリアの外れ、アルゴス侯爵家邸宅内。まず最初に邸内の人間が気づいた異変は、遠くからだんだん近づいてくる地響きだった。
音は次第に増大し、邸内でも特に離家の窓や壁を始めとして家具が振動していく。そして揺れが頂点に達した時、ついにそれは起こる。離家に設置されていたあらゆる水道管から水が噴出。浴室を始めとして厨房や裏手にある井戸からも間欠泉のごとく水が吹き出し、邸内にある離家は瞬く間に水浸しという状況に陥った。突然の出来事に邸内は混乱に陥る。しかし突然の水の噴出に混乱する裏で別の事態が進行していた。離家の厨房にある床下収納の扉が内側から開いたことに誰も気づいていない。
*
邸内のあちこちで怒声が轟く。ある者は何が起こったのかの確認を求め、またある者は侵入者への備えを求めた。
「派手にやりやがったなあ」
離家の玄関から水がとめどなく溢れ、それは中庭へと流れこんでいく。ばたんばたんと扉が何度も開閉される音が響く。ようやく状況を確認した本邸側の人間が中庭へとなだれ込んでいる。あちこちで潜んでいた犬獣たちの鳴き声もこだました。その様子をロビンは二階の客間から高みの見物を決め込んでいた。
「さてと、ここからが本番だな」
絹を裂くような女の叫びが離家から響いてきた。離家から女中たち使用人が次々と出てくる。頭を抱えて声の限りに叫んでいた。なかなかいい演技だと思いながらも、ひょっとして本気で怖がって叫んでいるのかもしれないともふと考えた。
それを裏付けるように離家から何か背の低い小さな生き物が群れをなして次から次へと、水と同じように溢れ出ているのだ。丸い耳に横腹から背中、頭にまでかけた紫色の短い体毛。乳白色の腹にくるくる巻いたとゼンマイのよう尻尾。何十、ひょっとした三桁にまで足がかかるほどの数のコラッタが離家から溢れだし、ロビンは思わず声を上げて笑い出したくなるが、それを必死に抑えこみ状況をさらに見守った。邸内の男たちの命ですぐさま犬獣たちが迎え撃とうとする。しかしそこに彼らへ空から新たな刺客が舞い降りる。
さきほど月を背景に見え隠れしていた黒い鳥がまっすぐ中庭へと急降下してきたのだ。それも一羽や二羽という話ではない。コラッタたちほどではないが、こちらも何十羽という数がまるで雨霰のごとく襲ってくるのだ。しかもその黒い鳥たちは足にそれぞれ拳大ほどにもある石を掴んで。
「ヤミカラスか」
依然として様子を眺めるロビンが小さく呟く。
ヤミカラスたちはほとんど地上ギリギリまで高度を落とすと足に掴んでいた石を犬獣たちめがけて落とす。
男たちはこれだけの数のコラッタやヤミカラスたちに成すすべなく、しかも足元を埋め尽くされているためろくに歩くことも出来ない。そこに女中たちの悲鳴がさらに混乱に拍車をかけていた。石をぶつけられたヘルガーたちはなんとか応戦するもやはり相手が多すぎる。
怒声に悲鳴に獣たちの吠え声。今や中庭は阿鼻叫喚の渦に堕とされていた。
「さてと、俺もそろそろ行くか」
ロビンは客間の窓を開けると窓枠に足をかけ、地面に向かってふわりと身体を浮かせた。
*
「……!」
テレーゼを乗せたラフトが突如身体の向きを変えた。身体を左に傾け、その方向へと軌道が曲がる。急にどうしたのかと声をかけようとしたテレーゼのすぐ右手を闇色に光る光線が渦を巻く様な軌道を描きながら掠めていった。思わず息を呑む。ラフトの頭越しに前を見た時、攻撃の主たちの姿が目に入った。
もうあと少しで王宮にたどり着くというのに、その王宮の上空を何体もの幽霊のようにおぼろげな姿をした獣が立ちはだかっていた。
幽霊たちの動きはラフトほど俊敏なものではないが、いかんせん数が多すぎる。回り込もうとしても別の個体が行く手を阻む。そして次々と放たれる光線。その隙間を縫うようにラフトは器用に翼の角度を変えて避ける。投げ出されそうになるのをテレーゼは必死にラフトの身体にしがみついていた。
このままじゃいけない。テレーゼは直感する。ラフトはただでさえ怪我をしている。しかも自分が上に乗っているものだから攻撃行動にも移れない。このままでは宮殿に近づくことも出来ず、ただ幽霊たちの攻撃の的になるだけだ。しかし、上空にこれだけの備えを施しているということは地上はさらにその上を行くと考えていいだろう。テレーゼは歯噛みする。おそらく宮殿へのあらゆる出入り口は侯爵の手下に見張られていると考えて差し支えない。
再び幽霊から放たれた光線が真横を掠めていく。ラフトはどうにかして王宮へと近づこうとするが、相手の数の多さがそれを許さない。テレーゼはだんだんラフトの息遣いが荒くなっていくのを感じた。このままではラフトの体力が持たない。
いったいどうすればいいだろう。彼らが見落としている出入り口があれば……。
刹那、雷が落ちるがごとく一つの考えが目の前を覆った。思わず「あっ」と声を上げる。秘密通路だ。王族しかその存在を知らない王宮に張り巡らされた秘密通路。王宮を抜け出し、クインズ探偵事務所へ初めて赴く際にも世話になったあの通路なら侯爵たちも見落としているかもしれない。
――いや……。しかしその考えはすぐに打ち消される。二度目の夜、侯爵たちが襲撃してきたということはその通路は見つけられているはず。だとするとその出入り口も発見されているかもしれない。しかし、そもそもどうして二度目の夜は侯爵たちに嗅ぎつけられてしまったのだろう?
――落ち着け、考えるのをやめるな。
そう自分に言い聞かせる。向こう側の立場になって考える。あの夜、私室から消えた王女。侯爵の手下たちはさぞ泡を食ったことだろう。そして扉以外にどこにも出入り口のない私室のどこから自分たちの目を盗んで抜けだしたのかと考える。そして彼らはたぶん犬獣たちを持ちだした。自分の匂いを辿ることでどこから抜けだしたのか探るためだ。そして発見される秘密通路。しかしそれはテレーゼの部屋に二つある秘密通路の片方だけだ。
カッとテレーゼは目を見開く。もう一方の通路ならまだ発見されていないかもしれない。
「ラフトあっちに向かって。分かる? あそこに見えている水路のあたりよ」
テレーゼはラフトに見えるように身を乗り出して指を差した。その先には応急の敷地にそって流れている細い水路が通っており、脇には作業用とおもわれる通路も敷かれていた。
「あそこに降ろして。心配ないわ、王宮に繋がる隠し通路があるの。あとは一人で大丈夫だから」
ラフト自身この状況下ではジリ貧であることを感じていたのか、テレーゼの提案に素直に応じた。深手を負った身とは思えぬほど鮮やかに身を翻すと、テレーゼが指をさした方向へと一直線に降下していった。身が風を切り、髪靡く。後方からはまだ幽霊たちが追跡を続けていた。
そして地上までたどり着くと、すぐにテレーゼはラフトから降りた。ほとんど路地に近いようなところで、あたりに
人気はない。そしてすぐ先に進んだところに水路が黒い流れを覗かせている。この先に自室へ繋がる地下通路があるはずだった。
テレーゼは最後にラフトに振り返り、その身をひしと抱擁した。
「ラフト、本当にありがとう……。気をつけてね」
言い終わらぬうちに上空から紫色の実態のあやふやな身をふわふわとさせながら幽霊たちが舞い降りてくる。ラフトはぎろりと幽霊たちをにらみ再び飛び立った。そしてテレーゼは水路に向けて走り始める。振り返りたかったが、そうするとまた足の動きが鈍ってしまいそうだった。
そしてすぐに路地から水路へと視界が開けた。水路脇の通路への階段を降りるとすぐに水路が地下へと続くトンネルが口を開けていた。人の気配は無い。やはりこちら側の通路はまだ見つかっていなかった。テレーゼは胸が昂るのを感じる。宮殿は自分の住いであるはずだというのに、今はまるで敵地に乗り込むような気分だ。
しかしトンネルへと入ろうとしたその時、目の前に追ってきた幽霊が二体、視界の上から降ってきた。おそらくラフトの妨害から漏れたのだろう。テレーゼは思わずたじろいだ。上空から獣の咆哮が響き渡る。ラフトが戦っているのだ。ここで退くわけにはいかない。
だが二体の幽霊は既に攻撃態勢へと入ろうとしている。ルナを出すには間に合わない。しかしその時テレーゼはひとつ思い出し、ポケットへと手を入れる。中で触れる柔らかい球状の物体。病院を飛び出すとき、ラッフルからもらったあの三つの玉だ。ラッフルはこれを投げつけるといいと手振りで教えてくれた。
何か攻撃を繰り出そうと、幽霊たちの目が光り始める。
テレーゼは三つの玉の内一つを適当に探り当てる。そして幽霊の攻撃が繰り出されようとしたほぼ同時におもいっきり投げつけた。一瞬眩しくなると同時に放たれる幽霊たちの“サイケこうせん”。まっすぐテレーゼに向かって放たれたそれは、しかし意外なものに行く手を阻まれる。テレーゼが投げつけた玉。それは青、黄、紫のうちの黄色の玉だった。それにぶつかり小さな爆発が起こる。テレーゼは思わず身を縮めた。“サイケこうせん”を受けて玉は幽霊たちのほんの目と鼻の先で破裂する。瞬時に玉の中に閉じ込められていたものがあたりに拡散され、それは二体の幽霊を瞬時に包み込んだ。
幽霊たちは最初、何が起きたのかと呆けていたが、すぐに異変が訪れる。体が意志に反して固まっていくように強張り、そして全身が震えが襲う。すぐに幽霊たちはそのまま浮いていられなくなり、まるで萎んだ風船のように地面にふわふわと落ちるとそのまま目を回した。
「これ、ひょっとして“しびれごな”が入ってたのかな?」
風に流され黄色い粉がどこかへと飛ばされて行くと、テレーゼはおずおずと幽霊二体に近づいた。やはり幽霊たちは目を回しており、体を動かすこともままならない様子だった。
何はともあれ行く手を阻む者はこれでいなくなった。テレーゼは片手で拳を作り、それを胸に当てる。服越しに自身の鼓動が伝わる。そして心を決めたように視線を上げると、ぽっかりと口を開けるトンネルへと走った。