3
「にしても……テレーゼよ。こんな頻繁に王宮を抜けだして大丈夫なのか?」
ロビンはテーブルに頬杖をついて横目で王女とムンナへ交互に視線を揺らしながら訊いた。
「ええ。私がこっそり抜けだしているのには誰も気づいていないはずですから」
「気になってるんだが、いったいどうやって抜け出してるんだ? いくら夜中で召使や兵の人数は少なくなっていると言えど、誰にも気付かれないように宮殿を抜け出すなんてそんな簡単なことじゃないと思うんだが」
ロビンの問いにテレーゼはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにいたずらっぽく笑った。
「実はサン・シュモール宮殿にはいくつかの隠し通路があるんです。私の部屋にも二つの隠し扉があってどちらも外へと続いているんです。出る場所はそれぞれ真反対ですけど」
「ほう、宮殿に隠し通路があるなんて初耳だな」
「隠し通路の存在を知っているのは王族だけです。私が初めて偶然通路見つけた際にお父様が話してくださったのですが、今から二百年前のジオノ国王エルンスト二世の統治期は周辺国との戦争が頻発した不安定な時代だったそうです。そこでエルンストは新しい宮殿の造営にあたりもし何かがあって王宮が攻められるようなことがあっても安全に逃げられるようにと隠し通路を作らせたという話です。しかしそれから平和な時代が訪れて結局隠し通路を使うような事態にはならなかったものですから、年月を経るに連れて通路や入り口の仕掛けのほとんどが忘れ去られて、今伝わっているのもほんの一握りに過ぎないそうです」
「なるほど。ようやく合点がいったよ」
レオノーラ女王から王位を十代以上も遡るエルンスト二世は、王妃との間に歴代王で最も多くの子宝に恵まれ全員を等しく愛していたという。三番目の王子が若くして病により夭折した際の嘆きようは甚烈なもので、出棺の時まで棺から片時も離れず葬儀が終わってからも三日もの間まともに食事を摂らなかったという話だ。そしてその悲しみを乗り越えた後は更に家族との愛を大切にした。彼の家族愛の証は至る所に残されており、細君はもちろん子供たち一人ひとりの肖像画を描かせたり、彼の残した日記には必ずその日の記述の最後に家族の近況を残した。そのことを踏まえるとエルンスト王が例え王宮に変事が起こってもせめて家族だけは逃がそうと隠し通路を用意させたのは想像に難くない。
「通路の存在はお袋さん……つまり女王陛下も知っているのか?」
「そのはずです。先程王族しか知らないと言いましたけど、もっと厳密に言うと側近や一部の召使も知っています」
「部外者は知らないんだな」
「ええ」と答えた直後にテレーゼはロビンの目を見てあっと声を漏らした。そして思わず自分の口に手を当てる。心なしか顔が赤くなっているように見えるが、蝋燭の灯によるものなのかは判然としない。
これまで隠し通路の存在が王族にしか伝わっていないのは代々口外を堅く禁じてきたからだろう。王都に住んで何年にもなるロビンも今テレーゼからこの話を聞くまでは噂すら耳にしたことがなかった。下手に外部に通路の存在が漏れてしまえば、侵入者にわざわざ侵入路を教えてしまうようなことになてしまう。
それに今テレーゼは「偶然通路を見つけた際にお父様が話し」たと言ったが、下手に吹聴しかねない子供にも本来なら教えないようにしてきたのだろう。
「ごめんなさい。この件が終わったらどうか忘れてください」
「いや、訊いた俺も悪かった」
ロビンは苦笑を交えながら言った。
それから彼は日中にアルジャーノンからもたらされた情報を話そうかと思ったが、その前に聞きたいことがいくつかあった。
「ところでだ、テレーゼ。アルゴス侯爵という人物を知っているか?」
「アルゴス侯爵ですか?」
テレーゼはきょとんと首を横に傾ける。それはそんな人物知らないという意味ではなく、知っているがそれが今回の件とどう連関するのかを計りかねているという風であった。案の定彼女はその旨を口にしたが、ロビンはとりあえず話してくれとテレーゼの喉を促す。テレーゼは「詳しくは知らないのですが」と前置いてから、説明を始めた。
「アルゴス侯爵家は王都からずっと東にあるキースという町の領主を勤めていらっしゃって、系譜をずっと辿ると私達王族のシェルストレーム家にも繋がる由緒ある御一族です。確か今の当主の名はセルゲイという方で、まだお若く勤勉で狩りを趣味にしている好青年だとお聞きしてます」
「ふうん、なるほどな。じゃあ例えばの話だがそのアルゴス家に関する噂か何かを聞いたことないか?」
「噂……ですか……」
テレーゼの口調は何か思い当たることがあるようだった。そしてあまりその必要性も無いにも関わらず、思わず彼女は声を潜めた。
「これはあの方がアルゴス家の当主になって間もない頃に流れた話なのですが。セルゲイ氏はアルゴス家の血ではないという噂が立ちました」
「侯爵家とは何のゆかりもない他人ってことなのか?」
「元々先代当主であったダニエル・アルゴスとその奥様の間にはご子息が居らっしゃらなくて、跡継ぎの問題を抱えていらっしゃったようです」
まるで今の王家みたいに。その言葉をテレーゼは一瞬胸によぎらせたが、すぐに振り払う。
「そして分家筋の親戚の方々が次々と当主に立候補なされる中、ダニエル氏はどこからか少年を引き連れ、自分の血を分けた息子だと主張なさいました。奥様との子供ではない……その……」
テレーゼは次に口から出そうとしている言葉を言い淀んでしまう。それを見てロビンが代わりに言う。
「私生児ってことか」
「そういうことになります……。当然親族の方は猛反発したらしいのですが、詳しい経緯は知りませんが結局セルゲイ氏が次期当主ということで落ち着いたということです」
ここまで話して既にテレーゼは今槍玉に上がっているアルゴス侯爵という人物が、今回の件に何らかの関わりがあるのだということを悟っていた。そのため口から出る言葉が無意識の内に先入観に染まっていくのを止められなかった。ロビンはそんなテレーゼの様子に気づいていたが敢えてまだこの件との関わりを明らかにしなかった。それは情報がまだ不足しているせいもある。
セルゲイ・アルゴス氏の当主継承問題は他の氏族を巻き込む事にはならなかったが、なかなかの騒ぎになったらしくて社交界でも有名な話だったそうだ。その後先代当主であるダニエルが亡くなり、座を継承したセルゲイは王都のはずれに屋敷を構えてそこに移住したという話だ。
「しかし、先に述べたセルゲイ氏が当主になった頃に流れた噂の内容は、あの方はダニエル氏のその……私生児ですらなく、アルゴス家とは全く関係ない家から引き取られた子だ、というもので」
「なるほど、その噂は当の本人の耳には入っていたのかな?」
「それは分かりません。そのうち噂の方は、『未だにセルゲイ氏の当主継承を妬んでいる親族が流した流言飛語にすぎない』という結論に落ち着いたようです」
「確かに、先代のダニエルにいくら子供が居なかったからって、どこの馬の骨とも分からん子供を引っ張ってくるとは考えにくいな。普通に考えると」
普通に考えると。ロビンはこの言葉に少しばかりの強調を込めた。
「あの……アルゴス侯爵が今回の件と関係しているんでしょうか?」
テレーゼはかねてより抱いていた疑問をぶつけた。
「悪いがまだ何とも言えないな」
「そうですか」
テレーゼが多少落胆気味にため息をついた時だった。窓の向こう、夜の闇が支配する虚空からまるで天使の歌声のような鐘の音が飛び込んできた。四つの別々の音に調律された鐘が交互に鳴らされ、聴くだけで敬虔な気にさせる音色を奏でる。ロビンは思わず壁にかけてある時計に視線を向けた。それにつられてテレーゼも時計を見やる。長針と短針がまもなくぴったり重なりあい、一日の終わりと始まりを告げる時刻を告げようとしている。その直後二本の針は完全に重なり、時計のチャイムがボウンと篭ったチャイムを鳴らし始めた。午前零時である。外から聞こえる鐘の音は四つの重なった音の塊となって街中に広がっていく。
「こんな時間ですね」
テレーゼはテーブルの上で眠そうに座って(横になって?)いるルナを抱き寄せ、その白い手のひらで優しく頭を撫でた。ルナは満足気な声を漏らし、己の主である王女に身を委ねる。
「大鐘が鳴らなくなって久しいな……」
ロビンは次第に長身が短針の前を歩み始めた時計から目を離さずに呟いた。
大鐘。テレーゼはロビンの後に続くようにその言葉を反芻した。
王都の中央に腰を据えるサン・シュモール宮殿から北――海の方角へしばらく歩いた位置に巨大な円形広場を構えた大教会がある。今から約百五十年前、ジオノ王国はエルンスト二世の時代から続いていた長い戦争を終結させ、ついに平和な時代を手にした。その記念として未来永劫、平和と繁栄が続くことを願いセントラル大教会は建てられた。極彩色で最高級のレンガが用いられ、礼拝堂にはストップ数六十、管の本数を約千本を誇る巨人の如きパイプオルガンを備え付け贅を尽くした大建造物だった。しかしそれらはこの教会の最も誇るべき特徴の前には瑣末な事象に過ぎない。この大教会には円形広場を上から覗き込むように高さ百メートルを越す時計塔があった。下部は教会と同じく極彩色の赤レンガを用い、上部の尖塔には重厚な鋳鉄が使われていた。地上から約六十メートルの位置に時計盤が嵌めこまれ、それは上から見ると四角の四面全てに同様のものが設置されている。そのためどの方角から塔を見ても時計の時刻が分かるのだ。そしてこの時計塔を最も色濃く特徴づけている大時鐘は全部で五つ用意されており、鐘楼は上層と下層の二層構造となっていた。まず毎時〇分の約三十秒前から鳴り始める四つの鐘は下層、位置にすると時計盤のちょうど裏側にある。その上部、地上から約七十メートルの位置に上層の鐘楼“本来なら”午前午後のそれぞれ零時と六時に轟く大鐘がある。
しかし今本来その上層の大鐘が鳴るはずの午前零時は大鐘ではなく、零時と六時以外の毎時〇分に鳴る下層の四つの鐘の同時打音が響いたのだった。一年前のことだ。時計塔に運悪く雷が直撃し、火災が発生した。なんとか消し止められたものの、上層の大鐘楼は完全に焼け落ちてしまい、それ以来上層の大鐘は鳴らず下層の四つの鐘だけが王都の民に時刻を告げているのだった。上層が焼け落ちる様をその目に焼き付けた王都の民の落胆ぶりは凄まじく、既に浮上していた王位継承問題も相まってこれはジオノ王国の行く末を暗示しているのではと影で囁かれるのだった。
「準備は進んでるものの、再建にとりかかる目処は今のところ立ってないそうです」
「いろいろ問題があるんだろうが、やっぱりあの鐘の音がねえと物足りないもんだな」
それはこの街に住む誰もが思っていることだった。今この街で生き、育ってきた人々は皆が皆セントラル大教会の鐘の音をと共に日々を過ごしてきた。そして一日の区切りである午前午後の零時と六時に鳴る大鐘はまさしく王都市民の誇りそのものだった。
それからロビン話を続けようとテレーゼの方へと向き直った。その時だった。
今までうとうとと小さな目を開けては閉じていたムンナのルナが突然まぶたをカッと見開き、テレーゼに向かって何かを訴えるように鳴き声を上げた。どうしたの、とテレーゼは言おうとしたがさらに次の瞬間ムンナの目が青白く光り始め、その光が部屋全体を覆っていく。
「これは?」
ロビンが光に覆われていく己の根城を見回しながら漏らす。やがて光は部屋を覆い尽くし、さらに壁を無視して外にまで広がると色を薄めていき消えた。テレーゼに今のは何かと目を向けた時、彼女は手を口で押さえ挙動を狼狽させていた。
「今のは……この子の“みらいよち”です。今見えているのはルナが見せようとしている未来」
ロビンはつい今しがた時鐘を鳴らした時計に目を向けた。針が指している時刻は零時十一分。たった今零時の鐘が鳴ったばかりだというのに、明らかに時間が進みすぎている。それ以外は一見何も変わっていないようだった。
いや、違う。その時ロビンとテレーゼは聞いた。事務所の扉でなにか音が聞こえる。更にロビンは窓の外へ目をやった。夜暗に包まれたプルスコ通り。その石畳の上を二、三人の人影が傍らに何か獣を引き連れて横切っていく。
テレーゼは口から声にならぬ声を漏らし、全身を震わせる。ロビンが彼女に向き直った時、その声は蝋燭の紅色の炎に照らされているというのに、皮膚が雪に変わってしまったように青ざめていた。
そして次の瞬間けたたましい音響と共に扉が破られ、その向こうから黒服の人影と共に黒と灰色の体毛に包まれた獣が現れ、唸り声を上げながらこっちに向かって飛びかかってきた。
二人は思わずのけぞりテレーゼが叫び声を上げた瞬間、またもあたりが青白い光に包まれ、そして光は急速に出した本人であるムンナに向かって収斂し、やがて消えた。あたりは嘘のように静まり返る。破られたはずの扉も何食わぬ顔でもとの位置に戻っており、飛びかかってきた獣も取り込んできた人影も消え去っていた。
ロビンは再び時計に目を向ける。零時五分。
「あと六分後に、今こいつが見せた出来事が起こるってことか」
手を頭に当てる。どうしたものかと考えを巡らせた。
「本当にごめんなさい。私のせいです。私が……」
テレーゼは両手で顔を覆い、今にも泣き出しそうだった。
「気にするな。むしろかえってハッキリするじゃねえか。今回の件が誰かによる陰謀ってことがな」
ロビンは今見えた光景を思い出す。黒服たちが連れていた獣はおそらくグラエナ。王宮の誰かがテレーゼが部屋から居なくなっていることに気づき、この件を操る誰かがあの黒服たちを差し向けたというところか。なんとなく腑に落ちないところがあったが、今はそんなことを深く考えている暇はない。
「それに今ルナが見せた光景では時計が零時十一分を指していた。逆に言えば十一分になるまであいつらは到着しないってことだろ? ここを出る。準備しろ」
ロビンは窓を開けた。そして膨らみかけている月を仰ぐと、口に右手の人差指と中指を当て夜空に向かって口笛を吹いた。ピィーと鋭く透き通った音が虚空の彼方へと消えて行く。あいつが来るまでもうちょっと時間が掛かる。
「さ、ルナ。大人しくしててね」
テレーゼはムンナを抱きかかえ、元の包みのような黒い布で覆い込む。それを目にしたロビンはあることを思い出し「ちょっと待て」と止めた。
「なんでしょう?」
「これから移動する分にはそのままムンナを抱きかかえるのは邪魔になる」
「でも、まさか置いていけと言うんですか?」
「そうじゃない。少し待ってくれ」
ロビンはテレーゼの横をすり抜け、部屋の隅にあるデスクへと近づいた。その際ちらりと時計に視線を向けた。長針は七分を指している。まだ時間はある。
「えっと、あれはどこに片付けたっけな」
デスクの引き出しを次々に開け、中を探る。そして上から三段目の引き出しを探っているところでようやく彼は目的の物を見つけ、掲げるようにテレーゼに見せる。それは一見すると、赤くて丸い木の実だった。野球ボールほどの大きさで表面は光沢を帯び、茶色いヘタが付いている。
「何ですかそれ?」
「東の海をずっと渡った場所にある土地に“ボングリ”という木があって、これはそのボングリの木の実にちょっとした加工を施したものらしい。前にとある旅行好きの伯爵からの依頼で報酬ついでに貰ったものだ」
するとロビンは木の実のヘタを取った。するとそこにはポッカリと穴が開いており、覗きこむと中は空洞になっている。彼はそれをテレーゼに渡す。
「それをルナの頭に軽く当ててみな」
どうなるのかと聞き返したいところだったが、時間が切迫していることは彼女にも承知のことだったので、何も言わずに言われたとおりにする。覆っている布を解き、不安げな表情を見せるルナの頭に艶やかな光沢を放つボングリの実を軽くコツンと当てた。一瞬ルナはまるで本能から出るような安心した表情を見せると、ぼわんという音と共に白い煙ががテレーゼの視界を遮り、同時にルナを抱いていた腕から重みが消えたのを感じた。
煙が晴れるとそこにムンナの姿はなく、手に持っていた木の実はいつの間にかロビンが持っており一度取り外したヘタを蓋のようにして戻していた。
「ルナ!? どこに行ったの!?」
「安心しな。この中だ」
ロビンはボングリの実をテレーゼに返す。一方で彼女の方は何が何やら分からない。一体どういうことなのかとロビンに食って掛かる。
「悪いが後にしてくれ。もう時間がねえ。とにかくそのボングリを持ってこっちに来るんだ」
ロビンは戸棚からノートと白い表紙の本一冊を手早く持ちだした鞄の中に押し込むと、隣の部屋の扉を開けテレーゼを促した。彼女はまだ手に持っているボングリに目をやって怪しみながらも促されるまま隣の部屋へと入る。
そこはどうやら探偵の寝室兼自室らしい。壁いっぱいに本棚が敷き詰められ、おびただしい数の本が収められている。左隅にはベッドが置かれ、綺麗に整えられていた。
「こっちだ」
ロビンの声が扉に入った右から聞こえる。声のする方へと目を向けると、右側の壁に梯子が立てかけられており、ロビンはその梯子に手をかけていた。
「ここから屋根に出る」
探偵は梯子を慣れた動作でひょいひょいと登り、天井にぶつかるところにくると何か留め金のようなものを外す。そして天井を持ち上げると屋根がぽっかりと口を開き、その向こうから空高々に昇った月が顔を出した。ロビンに続きテレーゼも梯子を登って屋根上へと出ると夜風で髪が舞った。一瞬ロビンの姿を見失ったテレーゼはどこへ行ったのかとあたりを見回す。すると彼はちょうど真後ろに立っていた。小山ほどにもある巨大な鳥を従えて。
思わず息を呑んだ。月明かりに照らされたその鳥は黒と白の綺麗なツートンカラーの羽毛で覆われており、頭の部分から角のように赤い毛も伸びていた。目付きは刺すように鋭く、嘴もその目つきと同じように鋭利だった。
「こいつは俺の相棒のムクホークでラフトって言うんだ。さ、こいつに乗れ」
ラフト。そう呼ばれたムクホークはテレーゼに向かって背を向け、足を畳んで身体を低くしている。テレーゼは先程ロビンが窓を開けて空に向かって口笛を吹いたのを思い出した。ああ、あれがラフトを呼ぶ合図だったんだ。無言ながらラフトもまた乗れと言っている。テレーゼはこくりと頷くと、恐る恐る近づきやがて手がムクホークの背に触れる。すると巨鳥はひょいと尻を上げてテレーゼを背の上に転がした。思わず小さく叫び声を上げて顔を羽毛にうずめてしまう。
「ラフト。こちらはこの国の王女様だぞ。もうちょっと丁重に扱ってやれ」
クックと笑いながら続いてロビンが乗り込む。
「いつもより荷物が多いが、いけるな?」
覗きこむようにしてロビンは言う。対するラフトはちらりとロビンを横目で一瞥を投げかける。その目つきは「愚問だ」と答えているようだった。
あれから何分経ったのか。もう間もなく時間だろう。
そしてラフトは一瞬ぐいっと上体を低くし足を曲げると、その反動を利用し飛び立った。瞬間、畳んでいた翼がいっぱいに広げられる。テレーゼは風を全身に受けながら顔をうずめていた。今周りの景色がどうなっているのか目では見えないが、体感でわかる。ぐんぐんと上昇している。耳からは空気が流れる低く思い音響が響き、体の感覚はふわりとして安定しない。それをロビンが背中から支えていることに気づくのに幾ばくの時間を要した。
やがてあたりが静まり返り、空気の流れが穏やかなものに鳴ったのを感じ、顔を上げた。そして思わず感嘆の声を漏らす。
眼下には月明かりに照らされた王都が青白く浮かんでいた。テレーゼはその光景を目にし、いつか本で読んだ湖の底に沈む古代文明の都市の話を思い出した。その本に書かれた湖の底の街の描写は読んだその時にはいまひとつイメージを形作ることが出来なかったが、今眼前に広がる王都を前にしてやっとそれが実感に変わった。
「ルナのおかげだな。飛び立つ瞬間チラッとだが、さっき見たのと同じ人影が動いていた」
ロビンは夜空を仰ぎながら言った。テレーゼはそこでようやく思い出し、懐から例のボングリの実を取り出す。
「俺にもよく分からねえんだが、その東方の地では人間はムンナにしろムクホークにしろ獣を従える際そのボングリの実に入れて連れて回るらしい。で、不思議と獣たちはそれを拒否しない。一見狭苦しいところに押し込められてるように見えるが、これが意外と快適なんだとよ」
テレーゼは何も言わず手中にある赤い実をまじまじと見つめる。本当にこの中にルナが入ってるんだろうか。どうしても疑念が拭えない。
「おっとこんなところで蓋を開けるなよ。落っこちても回収できねえからな」
言われた瞬間テレーゼは今自分が大空高い位置を飛行していることを思い出し、慌ててボングリを懐の中へと戻した。
「しかし腑に落ちねえな。奴らはなんでこんなやり方に出たんだ? 警官隊を利用すれば正当なやり方でお前さんを取り戻せたものを」
ロビンががしがしと頭を掻き思案しているとそのときテレーゼがかすかに声をかけた。
「ん、どうした?」
「いや、あの……ひょっとしたらなんですけど。建国記念日の式典に配慮してのことじゃないでしょうか」
「ん、建国記念……?」
そのときロビンはガツンと頭を打たれたような感覚を覚え、全身へと広がるのを感じた。そうか、建国記念式典だ。ひょっとしたら奴らはこれを狙っているのかもしれない。
偽者の疑いのある女王。敵方の大胆な一手。建国記念日とその前日の夜に開かれる前夜祭式典。アルゴス侯爵。次第にピースが集まりつつあった。しかしまだそれが一つの線では結ばれない。
とりあえずの急務は今夜の寝床を探すことだった。