27 【22時45分】
頭上で何かひっかくような音が鳴った。テレーゼはびくりと肩を上下し、慌てて写真を元あったページに挟みアルバムを閉じた。おずおずと天井を仰ぐ。すると再び同じような音が天井の一点で起こり、その音は断続的に続いた。屋根の上に何かがいる。そう思うと、肩が竦んだ。もしかして追手かも知れない。あらかじめ探偵事務所の周囲を囲繞していて、自分がのこのことここに戻ってきたところで捕まえようとしているのか。
屋根の上の音が移動する。飛び飛びに音は端の方から天窓のあたりへと近づいていく。テレーゼはルナを抱き寄せた。もし追手だとしたら逃げないと。そう考えるも、身体が石のように動かなかった。今ここには誰も助けの手を差し伸べるものはいない。ロビンは母を救おうと侯爵の屋敷へ赴いている。イレーヌは自分が眠らせてしまって、たとえ既に起きて自分を追いかけていたとしてもまだまだ追いつくことはない。
音が間もなく天窓へと差し掛かる。テレーゼはルナを胸元にぎゅっと抱きしめた。
そして音の正体は天窓から顔を覗かせる。あっ、と呆然として叫んだ。見覚えのある鳥の顔。先が鋭く曲がった嘴にギラギラとした両の目、角のようになった頭のトサカにその先端に朱を塗ったような赤。ムクホークだ、と思うと同時に名前が口に出る。
「ラフト?」
テレーゼは腕の力をゆるめ、ルナがぽろんと放たれる。ムクホークもテレーゼの姿を認め、興奮するように翼で空を叩いた。しかし屋根へと続く梯子に手をかけた瞬間、再びその手が止まった。
また偽者だったら? 昨晩、侯爵に拐われてしまったのは母に化けているゾロアークが今度はラフトに化けて騙されてしまったからだ。あのムクホークがまた侯爵のゾロアークが化けているものだとしたら? しかしそんな不安をよそに天井へと浮き上がっていくルナの姿を見て、テレーゼは引き止めんと叫ぼうとした。
しかしその時視界に入るものがある。ムクホークはひょいと天窓の上に身を移したのだが、よく見ると鳥の身体には包帯が巻かれていた。怪我をしているのだと悟る。イレーヌの話によれば、ラフトは酷い怪我を負いつつイレーヌとラッフルを助けたという。それに……とテレーゼは閃く。そもそも今はもう式典の最中だ。厳密に言えば舞踏会と式典の仲座であるが、それでもそんな時間にゾロアークがこんなところまで出向くことが出来るはずがない。
テレーゼは意を決して梯子を昇る。梯子の骨組みがギリギリと軋むが、テレーゼは気にせず上へと進んだ。そして天窓まで差し掛かり、錠と思しき金具を外し上に持ち上げた。途端に外を吹きすさぶ強風に窓が煽られ、反対側にバタンと倒れた。音から察するに窓が割れた様子はないのでホッと安堵する。ルナが飛び出し、ムクホークの顔もとに身体を寄せた。それに対してムクホークは照れくさそうに顔を背ける。思わずテレーゼは顔をほころばせた。両者のこの態度が何よりの証拠だ。
「ラフト、……良かった」
テレーゼは屋根へと登り上がると、ルナと一緒になってラフトの目元に手を当てた。そして視線を胸元に降ろした時、思わず顔を曇らせた。胸元に何重にも巻かれた包帯はその下に隠されてる傷の深さを物語っている。ルナも胸の傷に気づき、慮るような声を漏らした。
「あなた、本当に大丈夫なの? こんな酷い怪我じゃない」
その問にラフトは自信ありげに顔を縦に振る。「本当に?」とテレーゼは念を押すが、それでも全く変わらぬ様子でもう一度ラフトは首を縦に振った。テレーゼは渋りかけるが、おそらく何度言ってもラフトの判断は変わらぬだろうと視線を落とした。
「そう。でも、私は大丈夫。ここにロビンはいないわ。彼は侯爵の屋敷にお母様を助けに向かってる。私は王宮へ行くから、ラフトはロビンのもとに行ってあげて」
そう言ってテレーゼは顔を上げたが、その時ハッと息を呑んだ。ラフトは両のまなこをじっとテレーゼの顔に注いる。全く逸らすことなく、その視線でテレーゼの顔に穴を開けんとするかのように。どうして、とテレーゼは胸の内で呟く。ラフトは翼で王宮の方角を示す。ここから王宮は見えないが、いくつもの照明によってその方角が煌々と闇夜を切り裂いていた。そしてラフトはくるりと背を向けると身を低くしてこちらを振り返った。呆気にとられるテレーゼ。
「私を……宮殿まで連れて行ってくれるの?」
再びラフトの頭が上下に揺れる。テレーゼはその眼の奥に宿るものを読み取ろうとする。パートナーが離れた場所にいるというのに、なぜこんなにも固い意志を宿した眼でいられるのだろう。
ふと、さっきまでより少し風が弱まっている気がした。
「そっか。ロビンのこと、本当に心から信じてるのね」
ロビンのことを信じている。あいつのことなら心配要らない。その眼はそう語っていた。
テレーゼは眼を閉じた。もはやこれ以上言ってもラフトは聞かないだろう。
「でも、その怪我で本当に私を乗せて飛べるの?」
確かに王宮へは一秒でも早く着きたい。今から徒歩で向かったとしても、この混雑具合ではいつになるか分かったものではない。しかしラフトの翼を借りるとして、ラフトの胸の傷がテレーゼの重みに耐えられるのだろうか。不安がよぎるテレーゼをよそにラフトはさらに強く首を上下に振った。四の五を言わずさっさと乗れとでも言っているかのようだ。ルナはやはりテレーゼと同じようにラフトの傷の具合を憂慮している態度を見せる。しかしやはりそれに対してもラフトは決然とした態度で返す。
「分かった。でも、傷が痛むようだったらすぐに降ろしていいからね」
テレーゼは根負けしたようにため息をつくと、まずボングリをルナに向けた。ルナがボングリの中へと入ってしまうと、テレーゼは少しでも身を軽くしようとゆっくりとラフトの背に乗った。そして首元にしがみつき、足が屋根の上から離れる。
「本当に大丈夫なの?」
その問いかけに答えるようにラフトは両の翼をいっぱいに広げた。そして気流を生み出すように羽ばたき、最後に上体をぐっと低くすると足をバネのようにして飛び立った。さっきまでより弱くなったとはいえ、依然として気流は北方より吹きすさぶ風によって乱れていた。その中をラフトは胸の傷を物ともせずにテレーゼを背に乗せて上昇する。テレーゼはうっすらと目を開ける。視界が星空で満たされた。やがて水平飛行へと移行し、眼下には王都の街並みと、そしてその先には王宮がいつもより多い照明によって夜闇の中で浮かび上がっていた。土地を切り取ったように区分けされた五角形。それがゆっくりとこちらへ近づいていた。
「ラフト……」
テレーゼは顔をうずめ、静かにムクホークに語りかける。
「ごめん。あなたたちのこと、全部知った」
ぴくり、とラフトの身体が一瞬硬直するが、すぐに元の飛行に戻る。向かう方向は少しもブレること無く一直線にサン・シュモール宮殿へと向かう。宮殿の建物が少しずつ、迫ってきた。
*
「何をご覧なのですか?」
セルゲイは窓辺で遠くを見ている“女王”の横に立った。
式典の間の裏にある控えの間はその名の通り、式典に出座する国王のための控え室。控え室といえど、部屋の中には天蓋付きのベッドに室内に典雅な光をもたらすシャンデリア、それからシャワー室と手水も用意されており、居住スペースと呼んでも憚りのないほどの広さを持っている。アーチ型の背の高い窓は宮殿の外庭に面しており、その奥には王都の街並みも顔を覗かせる。
“女王”――ギデオンは隣に立つセルゲイを横目に薄く笑った。
「月を見ていた」
声こそは女王のものであれど、その短い一言だけで聞く者によっては別人と分かるほどにくぐもった凄んで入るような響きを帯びていた。
「月か?」
セルゲイも一緒になって外を眺める。なるほど、確かにこの窓からはまっすぐではないが、向かって左上の天空に隈なき満月が浮かんでいた。そして真下には、最上部の欠けたセントラル大教会の時計塔が夜の空を支配する月に向かって手を伸ばしていた。
「月を見ていたとは笑わせる。お前はあの時計塔を見ていたのだろう?」
「……」
ギデオンは黙って再び窓の外へと眼を移した。
「さしずめ、あそこから街を見下ろす気分はどんなものだろうか、とでも考えてたんだろう」
その言葉にもしばらくギデオンは沈黙を守ったが、やがて溢れ出すようにせせら笑う。陽気さと冷酷さとが綯い交ぜになるような声だった。
「だろうな!」
やがて笑いが収まると半分睨むような目つきで侯爵に顔を向ける。“女王”の姿のままで。
「それで、奴らの方は大丈夫なのか?」
「心配ない。王宮の周囲も中も何重にも見張りを置いている。ネズミ一匹漏らさんよ」
セルゲイは中央にあるテーブルに寄ると、甲板に寄りかかる。依然として窓の外へと目をやるギデオンの背中に向かって言った。
「ここまで長かったものだな。ダニエルの爺さんに取り入り、そして入れ替わってアルゴス家を乗っ取り、旧ストレイジ家時代の家臣を集めるのにも骨が折れた」
感傷を帯びた響きを漏らしながら、セルゲイは天井を仰ぐ。
「そして今ついに糞親父たちと“すべての元凶となったあの女”への復讐を果たせる」
侯爵はテーブルの上に置いてあるシャンパンのボトルとグラスとを手に取る。元は式典に臨む国王の緊張を解すために慣例的に用意されているものだが、そんなことお構いなしにセルゲイはコルクを抜く。そして一杯だけ、と彼はグラスの半分までに中身を注いだ。しゅわしゅわと砂粒が床板を叩くような炭酸の音とともに、泡がはじけていく。
「お前も飲んだらどうだ?」
「別に構わんが、幻影が解けやすくなってお前が困ることになるぞ?」
「くッハッハッハ、それは困るな。では私一人だけで乾杯させてもらう。景気づけに一杯だけな」
そしてセルゲイはグラス越しにギデオンの背中を見つめながら、杯を上げた。最初に一口味わってから、一気にグラスを仰いだ。口の中で弾ける炭酸。泡が一粒はじけるたびに包み込むように広がっていくブドウの香り。そして舌から喉元にかけて舐め回すように滑った後、鼻孔へと突き抜けるアルコール。
ふぅと一息ついてグラスを置く。アルコールには強いつもりだが、今から大事な場を控えている今、やはりこれ以上は控えておこう。
「昼間にも言ったが、もう一度礼を言わせてくれ」
その言葉にようやくギデオンはセルゲイへと振り返る。その双眸に宿るものをセルゲイは読み取ろうとするが、すぐに飽きるようにコルクを元に戻す。
「ギデオン、お前がどんな目的があって私に協力してくれているのかは今更訊くまい。今私がこの場に居られるのはお前のおかげということに変わりはないからな」
「……」
「そうそう、一応念のためだ。これを渡しておこう」
グラスとボトルとを元の位置に戻し、セルゲイは礼服の懐に手を入れる。そして静かな歩調で距離を詰めつつ、懐から出したものを差し出した。同じものが二つ、それは一見表面のザラザラとした白いゴルフボール大の玉だった。ギデオンは奪うようにそれを取ると目の高さまで持ち上げて目を凝らした。
「万が一、失敗した時のためのものだ。着火の必要はなく、床に思いっきり叩きつけてやるだけで強烈な閃光とともに煙が充満する代物。逃げるための目眩ましには十分だろう」
説明を受けると、ギデオンは白い玉をぎゅっと握りしめギデオンの眼をギロリと睥睨した。
「こんなもの用意しているってことは、オレの力を信用してないってことか?」
「馬鹿を言うな。あくまで万一の備えさ」
セルゲイは臆すること無く答える。ギデオンがまだ何か言おうとすると、遠くの方でブラスバンド隊のファンファーレが高らかに歌うのが聞こえてきた。中座が間もなく終了することを告げている。
これ幸いとセルゲイは、ギデオンの肩に手を置き見通すような笑いを浮かべて囁いた。
「さあ、頼むぞ」
くるりとセルゲイは身を翻し、いつものような堂々たる大股で控えの間を出ていった。あとに残ったギデオンは手の中に残された白い玉に目をやる。そして静かにテーブルの側に寄る。ふと視線を落とすと侯爵が飲んだあとのボトルとグラスが残っている。ギデオンは何の気なしにグラスを持ち上げた。底の方にわずかにシャンパンが取り残されたように残っている。ギデオンは軽蔑するような笑いを滲ませ、グラスをベッドの脇の床へと投げつけた。床に接触すると共に断末魔の悲鳴を上げて粉々に砕けるグラス。その様子をまるで愚か者がたどる末路であるかのように見下しながらギデオンは呟いた。
「分かっているさ、ティトゥス」