鳴らない鐘が響く時
26 【22時40分】
 ロビンは細心の注意を払いつつ屋敷の小窓の下へと忍んだ。両開きの窓ですりガラスのため中は見えない。窓の向こう側は暗く、またカーテン引かれているようにも見えないため中にあかりは灯っていないようだ。手を伸ばす前になるべく窓へと近づきつつ耳を澄ます。もしあの女中のことも見透かした上での罠だというのなら、まず待ち伏せていると考えられるのがこの窓の向こうだ。ほんの少しでも何か不審な物音は聞こえてこないか。また罠ではないにしろ、見回りで誰かが入ってこないとも限らない。そして貼り付いたようにじっと、三十秒ばかり経つと、ロビンは窓に手を伸ばした。両開きの片方に手を掛ける。果たして窓は猫が小さく鳴くような音をたてて開いた。薄く口元を緩ませると、改めて周囲を見回した。そして誰も見ていない、何の気配もしないということを今一度確認すると、開きかけた窓をいっぱいに開き、窓枠に手をかけた。
「よっとッ」
 ロビンは身体軽やかに地を蹴ると、吸い込まれるように外と中の境を越え、ほとんど音を立てる事無く屋敷の床に着地した。それから手早く開いたままの窓を閉め、鍵をかける。カーテンは閉じるべきかと多少悩んだが、蛇足で不審に思われてもつまらないとそのままにしておいた。部屋の中は最初から何事も起きていなかったかのような静けさを取り戻した。
 ロビンは部屋の中をぐるりと見回した。女中の言った通り、やはりここは物置らしい。部屋の両側には木を組んで作った二段になった棚が設置されている。そこにはバケツや箒などの掃除用具を始めとして、工具、暖炉用の薪、庭の作業用具などが所狭しと置かれていた。埃っぽさが少し鼻についた。これでくしゃみでもして気づかれようものならとんだお笑い種だな、とロビンはほくそ笑んだ。
 そしてその笑みを吹き飛ばすように息を勢い良く吐くと、丹田にぐっと力を込めて自分のいる位置と反対側にある扉へと歩き始めた。

 *

 テレーゼは焦燥に駆られていた。宮殿へ向けて一人飛び出し、たまたま通りかかった中心街行きの乗合馬車に乗った。しかし王都を二つに割るソレーヌ川を越える橋を渡りきったあたりで、馬車の速度は引っ張られるように遅くなった。道が混み始めたのだ。馬車はもちろんのこと、歩行者も多く乗合馬車は急に道へ飛び出す人間のために幾度となく行く手を阻まれた。馭者がそのような歩行者に怒りの声を張り上げるのが聞こえてくるが、それで道が空くわけでもなく中心街へと近づくに連れて、むしろさらに混雑を極めるのだった。
「どうしてこんなにヒトがいっぱいなの?」
 一緒に乗ってる五、六歳ほどの男の子が隣に座る父親を見上げた。
「そりゃ、みんな僕らみたいに花火をみたいからさ」
 そこに来てテレーゼはようやく得心した。建国記念日の行事にこれほどまでに人が集まるもう一つの理由にこの夜に空を彩る花火がある。王都の主要な各所に打ち上げ台が設置され、前夜から当日へと日付が変わる瞬間の午前〇時に一斉に花火が打ち上がるのだ。花火の打ち上げは半刻ほど続き、終了までに合計で一万発が夜空を彩ると言われている。
 テレーゼも毎年この花火を楽しみにしていた。しかしこれまでその花火を王宮の中からしか見たことがなかったため、式典以外でもここまで人が集まるとは考えたことがなかった。
 やがて馬車は動く時間よりも止まっている時間のほうが多くなった。テレーゼは内心で冷や汗をかくも、地図を持っていないため今ここがどのあたりなのか見当もつかない。ポケットの中にしまってあるボングリの実をぎゅっと握った。耳からはたくさんの人間の声が入ってきては抜けていく。何十、何百という人々の声がぶつかり、時に他人の声と混ざり合いながらいつしか一体の獣の咆哮のように変わっていくようだった。
 ふと、テレーゼは窓から外を眺めた。おや? と何かが胸の内に蠢いた。なんとなく見覚えのある光景。王宮へと近づいているせいもあるかもしれないが、今感じるのはもっと別のことだった。つい最近このあたりの光景を見たような気がする。それも同じような時刻に。そんなことが頭の中に膨らんでいく内、あるものが眼に飛び込んできてそれはついに弾けた。
 それは現在の通りを示す案内板。それが街頭の明かりでハッキリと目に見えるように照らされているのだった。
『プレスコ通り』
 何か上から吊り上げられるように、テレーゼは座っていた席を立った。周囲の目がまだ目的地でもないのに突然席を立つテレーゼへと注がれる。しかしテレーゼはそんな視線など歯牙にもかけず、馭者に向かって叫んだ。
「すみません。ここで降ります!」
 馭者は周囲の喧騒によって聞き取れなかったらしく、また道が混んでいることに苛立っているのも相まって「あ?」と乱暴に返した。
「ここで降ろしてください!」
 馭者はなんだか必死そうに見える乗客の女を訝く感じながら、
「いいのかい? 目的地まではまだちょっとありますぜ」
「いいんです」
 他の客の目にもおかしな奴だと映ったことだろう。そんな周囲の目線を尻目にテレーゼは馭者にここまでの運賃を支払い、降車した。通りへ出ると一日中吹き付けている強風が、栗色の髪をかき乱す。その髪を手で抑えながらテレーゼは顔を上げた。
 初めてこの通りを歩いたのは六日前の晩。テレーゼは思いを馳せる。時間帯もちょうど今頃だったと思う。さらに言えば、あの晩も今日のような大風の夜だった。ごくんと唾を飲み込む。この奇妙な一致に何か見えない力が働いているような気がしてならなかった。ただあの晩と違うのはこんなにも混雑しておらず、閑散としていたということだ。テレーゼは王宮方面へと向かおうとする人々の流れに逆らって走りだした。
 思えば……。ロビンは最初の晩の時点で偽者の女王の正体にある程度の予感を抱いたのだろう。そして同時に考えたはずだ、“そうあって欲しくない”と。しかし予感は現実となった。
 何かが後ろ髪を引く。今更あそこに行って何をしようというのだろう。あそこにはロビンはいないのだ。さらに言えばひょっとすると侯爵の手下が監視している危険性だってある。そして何よりも、ロビンの正体を隠す最後のベールを自分は引き剥がそうとしている。そのことに慄然としながらも足が止まらない。自分と逆向きに歩いている人々が、まるで自分を引きとめようとしているかのようだ。それでも気づけば、その建物は目の前に聳えていた。どこにでもありそうなアパートメント。二階の窓はそこに暗い淵が顔をのぞかせているようにあかりが灯っていない。
 建物に入り階段を昇る道すがら、ボングリからルナを出した。一人が怖かったのかもしれないし、あるいは共犯者のような存在がいて欲しいという狡い考えからかもしれない。階段を一歩一歩上がっていくと、またしても最初の夜のことが浮かび上がる。
 あの時は本当に必死だった。既に窓から見えるあかりはさっきのように消えていた。事務所と住まいを別にしている可能性だってあったというのに、誰かがいるかもしれないという望みを込めて何度も戸を叩いた。誰でもいいから助けて欲しいと必死だったせいもある。でも正直に言うと、あの夜はルナを連れていなくて一人で怖かったことも大きかった。そんなことを思い出すとなんだか笑いが溢れてくる。
 やがて前に現れた扉は斜めに歪んでいる。二度目の夜の襲撃で乱暴に破られたためであろう。斜めになっているノブを回して引くと、蝶番がピキピキと危なっかしい音をたてて扉が開く。あかりの灯っていない部屋は深みに沈んでいるように暗く、窓から漏れ入る街灯の光によって、配置されている家具が不気味なシルエットを描いていた。敷居をまたぎ足を踏み入れると板張りの床がギィと軋む。外からの街灯の光によってかろうじて物の配置は分かった。何かに躓かないように歩幅を小さくして少しずつ歩く。そのテレーゼの顔と同じ高さでムンナはふわふわと浮かんで進む。行く手にあるものを探る手が革張りの家具に触れる。ソファだった。テレーゼは視線を進める。ソファの前にはテーブル。
 反対側にある椅子にはロビンが腰掛けている。何かをこちらに乱暴に投げてくる。ああ、私が寒そうにしていたからブランケットを渡してくれたんだっけ。そしてそのあとは度肝抜かれた。まだ自分が名乗る前から、自分が王女だと当ててみせた。あの日が遠い昔のように感じる。たったの六日前ということが信じられない。
 テレーゼはソファの脇を通りぬけ、さらに奥へと歩みを進める。やがて扉に差し掛かった。テレーゼはおもむろにノブへと手をかけると、ゆっくりと回す。果たして扉は何の抵抗もなく開いた。扉の向こう側が視界に入った時、テレーゼは胸を打たれるような感覚を覚えた。そこは寝室。二度目の夜に侯爵の手下からの襲撃を避けるために通った部屋。
「綺麗……」
 思わずそんな言葉を零す。天窓から降り注ぐ月の光が寝室を淡く照らし出していた。それはまるで透き通った布を投げかけているようで、なんとなく海の底に入るような錯覚がよぎった。光は触れると絹のような肌触りがするのだろうか。絹を投げかけられているような梯子は月の光で青白い光を帯び、まるで大理石のように輝く。
 テレーゼはルナを抱き寄せ、天窓を仰いた。ほんの僅かな隈もない満月が自分たちを見下ろしている、青白くやわらかな光を投げかけながら。ルナは月。思い出す、初めてルナが自分のもとにやってきたときも確かこんな綺麗な満月の夜だった。十歳になったお誕生会の夜、ムンナが夜空にふわふわと浮かぶ姿はまるでお月様が二つに増えたみたいだった。だからルナと名付けた。本当は既に母から別の名前を与えられていたのだけれど、そんな風に唐突に思いついたものだから無理言って変えさせたのだ。
 テレーゼはベッドへ一瞥する。二度目の夜に見たように綺麗に整えられたままだった。そして次にテレーゼは横にある本棚へと向かう。ここも襲撃の際に荒らされたのか、そしてそのあと戻ってきたロビンがとりあえず整理しておいたらしい。最初に見た時よりもぞんざいな並べ方になっていた。それにしても個人で持つにはおびただしいほどの蔵書だ。探偵はこれだけの本全てに目を通していたのだろうか。
 テレーゼは手を伸ばす。しかしその手が本に触れようとする直前にため息をついて目をそらした。やっぱりやめよう、こんなの泥棒と変わらない。人の過去に土足で踏み込むみたいで。イレーヌさんの言っていた通り、あとは全てロビン自身の口から聞くだけでいいじゃないか。己の姿がどうにも浅ましく、テレーゼはくるりと本棚から身を翻しかけた。しかし、そのとき視界の端に映るものが。テレーゼの動きがぴたりと止まる。まるで歯車が一つ取れただけで動きを止める機械のように。
「あれは……」
 そして引き寄せられるように、足はその本へと向かう。壁いっぱいの本棚の中でも一番上の壇一番端に追いやられるようにその本はあった。他の数多なる本たちがまるでそこらに転がる石のようにただ目立たず、眠っているように並んでいる中で、その本だけは宝石のように輝いているようだった。実際その本は白く、天窓から降り注ぐ月の光が反射して、他よりも幾分目立っていた。
 テレーゼはその白い本に手を伸ばす。一番上の段だったから、思いっきり背伸びをしてようやく手が届いた。そして恭しい手つきで表紙を見ると、その時思い出した。二度目の晩、侯爵たちの襲撃から逃げる直前、ロビンが本棚から鞄に入れたあの白い本に間違いなかった。一度持っていったものを、またここに戻したというのか。首を傾げながらテレーゼは本を開く。しかしそこには本としてあるはずの文字が無かった。いや、それもそのはずこの本はアルバムなのだ、とテレーゼは悟る。しかし……
「写真を剥がしたんだ」
 アルバムには写真がなかった。しかし確かにそこには元々貼ってあったかのように長方形の跡がいくつも残っている。ページをめくる。どのページもどのページも元は写真が貼ってあったのが、跡から剥がされたように四角い跡だけがぽっかりと空虚を晒していた。何も残っていないのだろうか、と思いつつもテレーゼはページをめくる手を止めない。もし写真を処分するのだったらアルバムごと処分すればいいのに、そうせずに本棚に残したということはまだ何か残っているはず。
 テレーゼの予感は当たった。最後のページを開きかけた時、はらりとすり抜けるように紙が床を滑った。アルバムを閉じ、落ちたその紙を拾う。思った通り、それは一葉の写真。セピア色に染まる世界。その向こうで、男が一人そして獣らしき者が二体写っていた。
 外のほうから聞こえてくる群集の声がさっきまでよりも大きくなった。
 写真を持つ手が小刻みに震える。声ならぬ声が口から漏れる。胸の奥底から何かが込み上げ、喉元から溢れ出しそうだった。
 写真に写っている男はズボンを履いてカッターシャツにジレを着用し、その上から外套を着込んでいる。腕を組み、隣の二体の獣が繰り広げている騒動を見て笑っているようだった。
「ロビン・クインズ……」
 テレーゼは写真に向かって呟いた。二体の獣の内一体はムクバードだった。すぐにムクホークになる前のラフトだと気づくが、同時にこの写真がだいぶ前に撮られたものだと分かる。そしてもう一体、テレーゼはこの獣を見るが初めてだったが、すぐにその正体に気づいた。黒い狐のような姿で、二本足で立っている。腰をかがめているがちゃんと立つと写真に映るロビンと同じくらいかあるいはそれより高いのだろう。この獣こそがゾロアークであり、そして……。
 ラフトがいたずらなのか、ゾロアークの頭の上に乗っかって写真に写ろうとしており、一方でゾロアークはそんなラフトに抗議するように手を伸ばし頭の上に向かって何事かを叫んでいるような図だ。そんな二体の獣が繰り広げるやり取りを見て写真の中のロビン・クインズは笑う。
 写っている場所はどこかの田舎らしい。地の果てまで続くような麦畑をバックに、晴れ渡った空の下で。記憶がセピア色の世界に閉じ込められているようだった。
 写真を裏返す。すると白い表面の端に滑らかで流麗な文字でこう一言――
『ストエフスへの出張の帰りに、皆と』
 最後におそらく撮影した日と思われる日付が書かれてある。その日付は今から二年と半年ほど前を表していた。

■筆者メッセージ
まどろっこしい
わたぬけ ( 2013/01/30(水) 20:00 )