25 【22時34分】
意識を取り戻してからも、まるで波に揺蕩う木片のようにラフトは眠りと現実の境界を往来していた。最初に目を覚ました時、ぼんやりと映る視界の中にイレーヌがこちらを見下ろしていた。今にも泣き出しそうな顔で、胸の奥底から安堵の息を漏らしていた。何か一言二言こちらに語りかけていたが、すぐにラフトはズキズキと疼く胸の痛みに押されるように再び眠りの海へと沈んでいった。二度目に起きた時には既にイレーヌの姿は無く、代わりに老獪した獣医の男が何度もラフトの様子を見に来た。それから何度か目を覚ましては眠り、また覚ましては眠りを繰り返した。繰り返すたびに気力体力共に戻ってくるの彼は実感する。最初のうちは獣用のベッドに力なく身を横たえていたのも、いつの間にか鳥が眠る時にそうするように、翼を折りたたみ足を折り曲げて丸まるような体勢で眠ることができていた。
そうして六回目くらいの目覚めの時だった。瞼をゆっくりと開けるラフト。部屋は中央のテーブルに灯されている燭台によってぼんやりと浮かび上がっていた。部屋には様々な獣の臭いが混ざり合っているが、姿は見えなかった。今入院しているのはラフトだけということだろう。意識ははっきりとする。ラフトはなんとなく視線を落とし、自分の体毛がぼさぼさに乱れていることに気づくと、毛づくろいを始めた。翼の羽一枚一枚を丁寧に磨き上げる。右の翼、左の翼、次いで胸へと差し掛かった時、胸全体を拘束するように巻かれている包帯に阻まれる。ラフトは知らないが、包帯の下はまるで布をつなぎ合わせるように縫合されているのだった。
そういえばどうして自分はこんな酷い怪我をしているんだ? ラフトの頭はずっと睡眠と覚醒を繰り返していたせいで記憶がぼんやりと霞がかっていた。
ふと部屋をぐるりと見渡すと部屋の隅に観葉植物らしき太い木ががどんと鎮座していた。はてな、とラフトは首を傾げる。ただの観葉植物にしては何か違和感があった。『木』と表現したもののそれは木と言うには異様な形をしており、植物のてっぺんには洋なしのような形の大きな蕾が膨らんでいるのだ。しかしすぐに興味は移ってしまい、別のところへと視線を動かしかけた時、視界の端でその植物がぐらりと動いた。思わず目を見張るラフト。今植物が動かなかったか? 風もないというのに。ラフトが“不思議そう”にじっと植物を見つめていると、再びそれは下から根っこから動くように揺れ動いた。やがてそれは正体を現す。鉢だと思っていたのは身体を収めて丸まっていた籠で、その縁からひょっこりと青い大きな二つの目が覗いた。蕾を背負った身体は緑色の蛙のようであり、蛙はラフトの目覚めに驚いているようだった。ラフトと獣との二つの視線がぶつかり、両者は暫くの間釘付けになったように動かない。しかしやがて蕾を背負った緑色の蛙が先に、興味を失ったように目をそらすと顔を臥せって元の観葉植物に戻ってしまった。
あの蛙もどこか悪いんだろうな、と思いつつラフトの頭に何かが引っかかった。なんとなくあの蛙の目を見た時、何か思い出しそうになった。あの青い目が――
しかし次の瞬間、ラフトは電流が走りぬけるように全身を強ばらせた。全てを思い出したのだ。頭の霞が晴れると同時に体中の血が熱くなっていくのを感じる。己にこの胸の傷を刻んだ獣。薄れゆく意識の中でなんとか水路から這い出し、すんでのところでイレーヌを助けだした。しかしテレーゼは救い出せなかった。なんとかイレーヌを安全な場所まで運ぶ。視界が暗転する。そこで記憶は途切れていた。
行かなければ。ラフトの意識は今やそのことだけで満たされる。あれからどれくらい時間が経ったのだろう。連れ去られたテレーゼは今どこにいるんだ。イレーヌは? そしてあいつは?
どれだけの時間が経ったのかはもはや関係がなかった。ラフトは両足で体を持ち上げる。思ったよりもその動作は軽やかだった。
ここがどこかは知っている。ラフトは今のように入院こそしたことは無かったものの、何度かこの病院には世話になっていたからだ。ラフトはあたりを見回す。そして目に入るは両開きの窓。ラフトは足場を蹴って窓の前まで移動する。まずは窓に身を当ててぐっと押して見る。しかし窓はガタガタと揺れるだけできっちりと閉まったまま開く気配も見せない。すぐにラフトは鍵がかかっているのだ、と思い当たった。となると次にやることは決まっている。鍵を開けなければならない。それらしきものはすぐに見つかった。窓の開き戸に付けられている落とし錠を窓枠に開けられた穴へとはめこむ型だった。だがすぐにラフトは途方に暮れてしまう。ラフトはムクホーク、すなわち鳥だ。ワンリキーやザングースなど、比較的ヒトに近い獣ならともかく、ラフトのように嘴を使うしか無いとなるとこんな小さな錠前一つ開けるのも背面飛行で一日中飛び続けるくらい困難だ。
だがものは試し。ラフトは窓枠に顔を近づけ、落とし錠の小さなつまみを嘴で掴もうとする。しかし現実は非情というものでうまくいかない。嘴でなんとか掴もうとしても金属のつまみはつるつると滑ってつまむことすらままならない。何度目かの挑戦でようやくうまく咥えるも、そこから上につまみ上げ、さらに横にスライドさせるという動作となると背面飛行どころじゃない困難を極めた。人間の手なら二秒とかからない簡単な動作も、鳥の嘴でやるとなるとこの先何時間かかるか知れたものではない。なんとかつまみを上に持ち上げるが、横へとずらそうとするとつまみはまるで零れ落ちる水のようにストンと元の穴へと収まってしまった。
ラフトはついに音を上げ、募った苛立ちを振り払うように頭をぶるぶると振るった。頭の角のような羽毛が右へ左へと踊る。そのぶるぶると頭を振った時にまた視界の端であの観葉植物の蛙が映った。それに気づいてラフトは目を向けると、蛙はラフトの顔をじっと見ている。不機嫌そうなのに加えて半ば呆れたような顔だ。その眼差しは「眠れないから静かにしてくれる?」とでも訴えているようだ。ラフトはこちらの事情も知らずに、とムッとしてぷいっと目を背けた。この際無視してしまおう、と決め込むのだった。
なに、窓はこれ一つだけではない。一つくらい鍵が開いてるのがあるだろう。ラフトは他の窓へと飛び移った。しかしその希望も次の窓、また次の窓へと移っていく毎に燃え尽きかけた蝋燭のように萎んでいく。どの窓もしっかりと施錠されていたり、そもそも嵌め殺し式だったりで開けることができるものはついに一つとして無かった。部屋の外へと出るただ一つの扉は丸いドアノブ式なのでそもそも掴むことすら出来ない。
次第にこみ上げてくる狼狽。やがてラフトの頭はただ一つだけの手段を用いることで占められた。こうなったら力づくで開けるしかない。
ラフトは最初に開けようと試みた窓の前に立ち、ガラス面に身体をぴったりと当てて渾身の力で押し始める。ガラスがガタガタと鳴り、
蝶番も軋むがやはり窓は開く気配を見せない。そのうち胸の傷が疼くのを感じてラフトは一旦ぐったりと力を抜いた。やはりもっと勢いを付けなければ。ちらりと後ろを向く。部屋の隅から隅までは幾許かの距離があった。助走をつけておもいっきり体当たりをかませば破ることができるかもしれない。また怪我を増やす羽目になるかもしれないが、という考えも過るように浮かんだがすぐに考えの外に追いやった。あいつのためなのだ。ひょっとしたらもう間に合わないほどに時間が経っているのかもしれないが、今はそんなことは些事に過ぎなかった。。
ラフトは助走をつけるために床に降りて部屋を横断した。その際ふと火の灯ったままの燭台が気にかかり、翼でかるい風を起こして吹き消す。灯りを失った部屋は途端に暗闇に包まれ、シンとした暗夜の様相を呈した。尤も、外は相当風が強いらしく、時折咆哮のような音を立てて窓枠を鳴らしている。真っ暗でほとんど何も見えなかったが、目指すべき窓は外からの街灯の光が差しており、はっきりと見て取れた。
改めてラフトは自分の体調を鑑みる。無理な動きをするとやはり胸の傷が痛んだ。ふつふつと消えたように見えた炭が中でまだ赤い炎を秘めているような痛みだ。
しかしラフトは関係ないと言わんばかりに翼を広げた。そして床を蹴って助走をつける。大きく二度ばかり羽ばたいて身体を浮かせるとまっすぐ窓へと突進した。そのときまた視界の端で今度は何か細長いものが動いた気がしたがそちらには目もくれず、ぶつかることを覚悟してラフトは両の瞼を閉じた。そしてムクホークの嘴が間もなく両開きの窓の木枠にぶつかろうとしたその瞬間、ちょうど顔の下あたりでカチリと何かが音をたてた。
刹那、ラフトは窓に身をぶつけたが、全く予想もしていなかったことに窓は何の抵抗もなくバンと音を立てて開いた。窓にぶつかった時の抵抗への準備しかしていなかったラフトは勢い余ってバランスを崩し、目の前の植木にぶつかる。そして枝と葉っぱのクッションに跳ね返されるように身体が宙を泳ぐと、すぐ下の地面にひっくり返った。
暫くの間何が起こったのか理解できず、その場で固まる。しかしすぐに我に返りぶるぶると身体にくっついた葉っぱや小枝を振り払うと、何が起こったのかと窓を見上げる。すると窓枠の端にさっき窓へとぶつかる直前に視界に映ったものがあった。それは細長い蔓で、意思を持っているようにうねうねと動くと部屋の中へと入っていった。ラフトは開いた窓の窓枠に立つと、まだ蔓は戻っていくところだった。そして蔓を目で辿ると行く先にはあの大きな蕾を背負った蛙がいる。ラフトは目を白黒させて蛙を見つめると、相手はまた憮然とした眼差しをジロリと注ぐ。窓の落とし錠は見事に開けられていた。なるほど、この蔓で鍵を開けてくれたんだな。ラフトはそう理解すると礼を述べるように一声鳴くと、くるりと背を向けて風の強い空の中へと飛び立った。
荒い気流であるが一度空気の流れに乗ってしまうとそこまで力を入れずに飛び進めることが出来た。
早くあいつの元に向かわねば。そう考えるも今彼がどこにいるのか分からない。とりあえずラフトは翼をクインズ探偵事務所の方角へと向けるのだった。
一方でラフトが出ていった後、かの蛙は呆れるようにため息をつく。蔓を伸ばして開いたままの窓を閉じると、器用に鍵に蔓を巻きつけ元のように閉める。フシギソウにしてみれば、どたんばたんと物音を立てて安眠を妨害するムクホークにさっさと出ていって欲しかっただけ。
――あんな五月蝿い奴は二度とゴメン!
そんなことを考えているのかもしれない。
*
ロビンとアルジャーノンはアルゴス侯爵邸の裏にある茂みへと身を潜めていた。屋敷を正面から見て右へと少し歩いた位置に林があり、身を隠すにはうってつけの場所だった。しかもさらに好都合なのはこの大風だった。北から南へとずっと吹き荒んでいるおかげで、この位置からだと犬獣たちの鼻で悟られることはない。二人の目は屋敷の一階にあるすりガラスの入った小さな窓へと注がれていた。改めて見ると邸宅はただの家とは言いがたい異様な雰囲気を醸し出している。建物自体は通りに面しているものの、その建物の壁を延長するように築かれた敷地をぐるりと囲む高い石壁はまるで砦のようで何者をも近づけぬという意志さえ感じる。丘の上に建ち、さらに背後に山を抱えているような形には周囲を見下しているかのようにも見える。家に入る扉の前には二人の門番が仁王立ちしており、それぞれヘルガーとハーデリアとを従えていた。傍から見ればぎょっとするだろうが、彼らも今晩ばかりは形振り構ってられないということだろう。
「準備はいいんだな?」
「ああ。あとはおまえさんの号令だけだ」
アルジャーノンは白い前歯を見せてにんまりと笑う。
「それより問題はオメエの言う女中さんがほんとに協力してくれるってのかってことだよ」
「来るさ……」
ロビンは半ば確信を持って言った。アルゴス侯爵たちによって脅されて計画に協力させられていた使用人たち。ロビン自身、彼女らが“こちら側”に協力してもらうために、ちょっと脅しめいた文句を与えていた。
――侯爵は目的を遂げた後、君たちをみすみす生かしておくだろうか?
余計な説明はせずにその一言だけであの女中には十分だったようだ。みるみるうちに顔から血の気が引いて、小刻みに震え始めるあの様子を思い出すと、流石に少し罪悪感が顔を出す。しかし……それさえも侯爵の筋書きの内だとしたら? という疑念もまた残る。
――屋敷の正面に向かって右奥の角を曲がったところに物置の窓があります。そこを開けておきますので。どうか陛下を頼みます。
「信じちゃっていいのかよ? これも計画のうちでノコノコと入った途端にお縄ってこともあるだろ?」
「その時はその時さ」
飄々とした口ぶりでロビンは応じる。
「大した自信なこった」
「そういうおまえもよくあんなに集められたもんだな」
「おう、俺様を誰だと思ってる?」
アルジャーノンの前歯がキラリと光った気がした。
「頼りにしてるよ」
ひときわ強い風が吹き抜け、二人は思わず仰け反った。
「っにしても、酷でェ風だよな。こんな風の中で恒例の花火は打ち上がるのかねえ?」
アルジャーノンが悪態を吐く一方で、ロビンは空をみあげていた。こんな大風の日には似つかわしくないほど晴れ渡った空。その天空から静かに地上を見下ろす孤高の存在。あの美しいまでに丸い月が巨大な目だとしたら、きっと自分は心の深淵まで見透かされているだろう。そんなことをふとロビンは考えた。
「おい、そんな風にぼうっと突っ立ってると見つかっちまうぞ」
「おっと悪いな」
そしてロビンはすぅっと深呼吸する。これ以上ぼやぼやしている暇はない。ロビンは肺に溜めた空気を一気に吐き出すと、くるりとアルジャーノンに振り返った。
「じゃあ行ってくる。こっちが合図したら始めてくれ」
アルジャーノンは「あいよ」と応じると、林の奥へと引っ込んでいった。
ロビンはもう一度改めてアルゴス侯爵の邸宅の全体を視界に収める。
――最後か……。
そして明かりの灯っていない窓に向かって足を踏み出した。