24 【22時20分】
「これで十分でしょ。あとは全部終わってから彼自身から聞いてちょうだい」
イレーヌのその口調はちくりと刺すようだった。これ以上は自分からはもう何も言わない、そんな気がしてテレーゼは「はい」と小さく頷いた。
予想はしていた。今しがたイレーヌが口にした答えによって、それまでの疑問は氷解した。だが、どうしてそんなことが起きたのかという事情についてはイレーヌは口を閉ざした。自分から言うことではない、という彼女なりの線引なのかもしれない。
「あいつはね、さっきこんなこと言ったのよ。『テレーゼはどうやら俺の正体を疑っているようだ。必要だったら全部話してくれて構わない』ってね」
「……ごめんなさい」
思わずその言葉が漏れた。責められているように感じたからではない。自分の考えを全て見透かされていた上で、それでもなおロビンはそんなテレーゼを許している。
「イレーヌさん……」
「なにかしら?」
「アルゴス侯爵を止めるにはもう式典の間で全ての真実を明かすしかないでしょう。その時になったら彼は――ロビンは何をするつもりなんですか?」
質問の意味することをイレーヌは瞬時に捉えたように、目元をぴくりと痙攣させた。
「あいつがやりたいようにするだけ……。もうあたしは何も言わないし、……ロビンを止めるつもりはないわ」
その言い方でテレーゼはイレーヌと自分の考えが一致していることを悟る。ロビンが真実を明らかにする場で、何をするつもりなのか、何を明かすつもりなのか。
テレーゼは胸元に握りしめた片手を押し当てた。胸の奥で小さな炎が灯る。最初は小さく、ちょっと風に煽られれば消えてしまいそうな脆弱なものだった。しかしそれは次第に大きく広がっていく。蒸気機関車が巨大な炎によって熱せられた蒸気の圧力によって、あの重々しい体躯を動かすように、テレーゼの内なる炎は彼女に新たな感情を萌芽させた。
「いけません」
口から出たその言葉は何かのスイッチを切り替えたように、テレーゼの心中に風を送り込んだ。膝の上に抱いていたルナやイレーヌの隣に身を寄せていたラッフルもテレーゼの声に驚いて目を見開いた。
「いけないって?」
「本来の思惑が別のところにあったにせよ、……ロビンが私たちを助けようとしていることには変わりありません。でもそれに対して私は彼に何も見返りを与えられない。だから、私はせめて自分でできることをしたい。この事件は私達王家の問題。私達自身で解決させるのが筋というものでしょう」
テレーゼは熱を帯びた視線をイレーヌへとまっすぐ注ぎ込んだ。イレーヌは一瞬そのまなざしに気圧されて言葉を失いかけたが、すぐに我に返り切り返した。
「駄目よ!」
イレーヌは手を伸ばしテレーゼの服の袖を掴んだ。
「あなた、まさか王宮に乗り込む気!? 絶対に駄目。あたしはあなたのことを頼むようあいつから言われてるのよ」
「分かってください」
テレーゼも食い下がるが、イレーヌも絶対に引くまいと首を横に振る。こんなにも取り乱しているイレーヌを前にテレーゼは面食らってしまう。
「イレーヌさん、昨日言ってくれましたよね。『いい王様になれる』って。確かに、やがて私は王位に就くでしょう。でも恩人一人の立場を犠牲にして私は王なんかにはなりたくない! 王は民を助ける存在。」
「それでもあたしは許さないわ。あなたはこの国の王女であると同時に、あたしの大切な友達。友が危険な場所へ向かうのをむざむざ見送る人間がどこにいるっていうのよ!」
「イレーヌさんだって、本当はロビンを止めたいんじゃないんですか」
「止めたいわよ!」
押し殺すような声でイレーヌは返した。その時テレーゼは思わず息が詰まる。テレーゼの袖を握る手は今や袖を通り越して腕までも握っていた。そのイレーヌの手が震えている。その小刻みな震えはテレーゼにも伝わり、一瞬自分が震えているのかイレーヌが震えているのか分からなくなる。
「でもね、駄目なのよ。あたしはあいつに酷いことを言った。テレーゼが侯爵にさらわれて、どうすればいいのか分からなくなって、現れたあいつに全部ぶつけてしまった。その時感情に任せてぶつけてしまった言葉はもう取り返しがつかない。あいつは許してくれたけど、あたしは自分を許さない。だから……せめてあいつのやりたいようにやらせるの」
イレーヌは涙は流していない。その代わり寒さに震えるように全身をわなわなとこわばらせていた。そしてその瞳には一歩も退かぬという強い意志を宿らせる。
しかしその一方でテレーゼに宿る炎もまた、少しも衰えてはいなかった。イレーヌがロビンに対して何を言ったのかはテレーゼは知らない。しかし敢えて問おうとは思わなかった。
ロビンはきっとアルゴス侯爵の屋敷から母を助けだしてくれるだろう。そして王宮へと赴き、侯爵の陰謀を止めそして女王の皮を被った簒奪者の正体を明かすだろう。しかしその時きっとロビンも自分のことを明かさざるを得なくなくなる。ロビンの目的は達せられる。しかしその後、彼はどうするつもりだろう?
テレーゼは顔を伏せた。
「イレーヌさん……」
掴まれていないもう片方の手を、そっとイレーヌの手の上に乗せる。
「あなたの言うとおりです」
イレーヌは思わず息を漏らし、そしてホッと安堵する。思わずテレーゼの腕を掴む手の力が抜けた。
「そう、ありがとう分かってくれて」
そう言ってイレーヌがテレーゼから手を離そうとしたその時だった。
「ルナ、“さいみんじゅつ”を」
テレーゼはまったく穏やかな声でそう言ったので、イレーヌは自分の耳を疑った。そのわずかな間にルナは跳ね上がるように素早く浮き上がり、その黒い両の目をじっとイレーヌへと向けた。
「待って……!」
イレーヌのその声は既に搾り出すようにか細かった。視界がまるで水の中に入ったようにぼやけ、骨を抜き取られたかのように体中から力が抜けていく。
「ごめんなさい。イレーヌさんのお気持ちは痛いほどにわかります」
イレーヌは薄れ行く意識の中で、再びテレーゼの腕を掴む力を強めようとした。しかし手には力が入るどころか、次第にすり抜けるようにテレーゼの腕が離れていく。
「それでも、ロビンがロビンのやりたいように、イレーヌさんがイレーヌさんのやりたいようにするように、私も……私のやりたいようにします」
「駄目……テレーゼ……」
「イレーヌさん、本当にありがとう」
最後に聞こえたテレーゼの声は、広いホールの中でこだましているような響きだった。イレーヌの手がついにテレーゼの腕から離れる。それで力尽きたようにイレーヌはベッドに突っ伏すような形で倒れ、何かを言わんとかすかに口をぱくぱくとさせながら穏やかな寝息を立て始めた。
テレーゼはベッドから降りると自分が今までかぶっていたふとんをそっとイレーヌの肩へと被せた。そしてくるりと振り返ると、そこには困ったような顔をしてラッフルがテレーゼを見つめていた。
「ラッフルも私を止める?」
ラッフルは顔に手を当てて首を傾げた。そして眠っているイレーヌの背中とテレーゼとを交互に見渡し、やがて葛藤するように体を横に揺さぶった。テレーゼは身構えかけていた体の力を抜き、膝を落とすとそっとラッフルの体を抱きしめた。ラッフルの花から漂う蜜の香りが鼻をくすぐる。
「ありがとう。あなたの花の蜜とっても美味しかった。また今度食べさせてね」
そしてテレーゼはそっと手を離し、腰を上げた。それからくるりと振り返ると、視界に入るのはベッドに突っ伏した姿で眠るイレーヌ。
せめてベッドに寝かせることが出来ればいいんだけど……。そんなことをつと考えると、横に浮かんでいるルナがそんなテレーゼをじっと見つめる。するとルナは力を込めるように声を上げた。ルナの体が青白い光を帯び、同じようにイレーヌの体も光る。テレーゼがあっと驚いているうちにイレーヌの体はふわりと浮き上がり、まるで抱きかかえられているようにベッドにその身を横たえると、その上からテレーゼが被せた毛布が重なった。
「すごい、これもルナの力なの?」
テレーゼはパッと顔を輝かせてルナを抱き上げる。主へと笑いかけるムンナの表情はまるで得意げだった。
でもどうして急に出来るようになったんだろう。
そんなことを考えていると、何かが裾を引っ張った。思わず目を落とすと、ラッフルが手に何かを持ってそれをテレーゼへと差し出していた。
「なあに、それ?」
テレーゼは抱いているルナと一緒になってそれを見つめる。それは巨峰の実ほどの大きさの小さな玉だった。ラッフルが差し出した玉の数は全部で三つで、三つとも透き通っているが三つとも色が異なっている。それぞれ青と黄色と桃色と鮮やかな色彩だった。テレーゼはラッフルから三つの玉それぞれを受け取ると、ラッフルは何かを伝えようと身振り手振りを表す。そのジェスチャーは誰かに何かを投げつけていくような動作を表現していた。
「ひょっとして、追われたらこれを投げつけろってこと?」
ラッフルは分かってくれたのが嬉しいのか、ぴょんぴょんと跳ねて肯定してみせる。
「ありがとう。きっと役立つと思う」
するとラッフルはテレーゼの裾にしがみつき、不安そうに顔をあげる。小さな黒い目が潤んでいるようにも見えた。テレーゼは薄く笑みを滲ませて、頭の花をそっと撫でた。そして視線を延長するように、ベッドに横たわるイレーヌへと向ける。
テレーゼはラッフルの手を優しく離すと、ベッドに向かって深々と頭を下げた。
「ラッフル、イレーヌさんをお願いね。行きましょう、ルナ」
部屋を出る直前になんとなく時計を一瞥すると、時刻は午後十時三十分をまもなく迎えるところだった。
*
舞踏会はいよいよ大詰めを迎えようとしていた。誰も彼もがオーケストラの奏でる音楽に合わせてくるくると舞う。参加者の中には目元から上を隠す仮面を被る者も多いため、余計にこの世ならざる光景のように錯覚に包まれていく。玉座には今は誰も座っていない。壇上の女王は頃合いを見て、控えの間へと引っ込むことになっていたからだ。これは侯爵にとっても好都合なものだった。
ギデオンもずっと出ずっぱりでは肩がこるだろう……。
音楽が盛り上がっていく。ヴァイオリンと木管が自由に飛んだり跳ねたり、金管や打楽器はそれに華を添える。低音はそれらをどっしりと支え、一種の安心感を醸し出していた。
そんな中でセルゲイは一人喧騒から離れ、式典の間の隅で黒いスーツを着た家来にさりげない出で立ちでやり取りをしていた。
「見張りや屋敷からの報告はないな?」
「ええ。女王も王女も探偵もまだ姿を表していません。屋敷の方も変化は報告されていません」
「警戒は続行しろ。この王宮への警戒も抜かり無いな?」
「もちろんでございます。あらゆる出入り口には見張りがいますし、王宮の上空には夜闇に紛らせてムウマたちを多数配置させております。たとえこの人混みでも必ずや見つけ出すことが出来るでしょう」
「もしも外の奴らから目から漏れて潜り込んだ場合は?」
「ご心配なく、予め潜り込ませていた人員の目があります。隠し通路でも無い限りはどこから式典の間へ向かおうと必ず見つけ出し、逃しはしません」
「ご苦労。下がれ、依然警戒の手は緩めるなよ」
天から霹靂が落ちるがごとく打ち鳴らされるシンバル。その響きとともに音楽は一気に緊張感を高め、すべての楽器がクライマックスへと加速する。
そしてここからがこの舞踏会最大の見せ場。それまで来客と一緒になって踊っていたマネネたちが一箇所に集まり。それぞれがピラミッド状に重なると、合唱するように鳴き声を上げて力を解放させる。
踊っていた人々がマネネたちの念力によって宙に舞い上がった。人々の口から快哉が上がる。その瞬間再びシンバルが打ち鳴らされ、最初のワルツの主題がよみがえるように堂々と奏でられた。舞い上がった人々は怖さ半分面白さ半分で悲鳴にも似た笑い声を上げながらワルツを踊り続けていた。この舞踏会へ訪れる人々は何が起こったのかと戸惑うが、次第にこの趣向にも慣れていき、空を飛びながらも床に足をつくのと同じような感覚で回り回る。シャンデリアから煌々と輝く灯りがその様を照らす。それぞれの人間がこの日のために仕立てた服を着ているものだから、場内はまるで色とりどりの花びらが風に煽られ舞い上がっているようだった。
やがて人々はワルツのリズムに合わせて舞いながらも、ゆっくりと降下していく。そしていよいよ音楽はコーダに入り、ティンパニのトレモロに導かれて全ての楽器が終結句を高らかに鳴らすと、音楽は終わった。同時に浮かんでいた人々も床へと降りたち、洪水のような拍手や歓声が式典の間を支配した。
ここからしばらくは休憩も兼ねて十一時になるまでは何もない。その間に再び大扉が開かれて、舞踏会に入りきれなかった人間を呼び込む。
「さてと、私もそろそろ準備をせねばな」
場内が興奮に包まれる中、こっそりとセルゲイは式典の間をあとにした。
もうまもなくだ。