鳴らない鐘が響く時
23 【21時53分】
 テレーゼはじっと両の眼からの視線をロビンの眼窩へと注いだ。長い間その場にいる全員が身じろぎもせずまるで時が止まったかのように次の動きを窺っているようだった。だが実際は一分どころか三十秒も経たなかったかもしれない。やがてロビンが眼を落とすと深い溜息をついた。
「依頼人からの命令としてでは断るわけにはいかないな」
 ロビンは力なげに椅子へと腰掛ける。
「ちょっとロビン、いいの?」
 イレーヌが椅子でだらりとしているロビンに歩み寄ってその顔を覗きこむ。
「仕方ないさ。依頼人様が今すぐ知りたいと仰せなんだ。断る理由は無い」
 その言い草にテレーゼはちくりと刺さるものがある。しかしテレーゼはロビンの表情にただの不機嫌さとは別に何か他の色が混じっているような気がした。
 やがて探偵は語り始める。今回の依頼を受けた直後からキースや王都で調べあげたこと。いくらかは確証のない事柄もあるがそれでも口調と他の補足事項等とで十二分な説得力を持っていた。よくわからないところや疑問に思った箇所では質問し、その都度ロビンは打てば響くように的確な答えを返してくれた。とりわけテレーゼが耳を傾けたことはなによりも女王と入れ替わる者の正体についてだった。そのことを聴いた時、そんなことが出来る獣が存在するのかと不思議でならなかった。しかし王宮にいる者たちを女王の姿として、そしてイレーヌとテレーゼの前ではラフトの姿とで完璧に騙してみせたことを思うと納得せざるを得ない。実際獣たちのことなどまだまだ学者たちの間でもわからないことだらけなのだ。よしんばそれを獣を扱うことを専門としない宮殿の王女が知るはずもなかった。ロビンからの推理が進んでいくに連れてテレーゼは胸鳴りが昂ぶっていることに気づく。同時に感じるアルゴス侯爵への怒りの念。そんなことでお母様はあんな辛い責め苦を受けなければならなかったのか、とい思いが静かに燃え上がっていく。
「だがな……」
 さらに続けられたロビンの言葉にテレーゼはハッと我に返った。そして目の前に差し出される紙面。それは古ぼけて今にも破れそうなほどにボロボロになっている。ロビンはそれを破れないように気を使いながら開くと、テレーゼへと手渡す。表面は何か脂のようなものが付着しているのかねっとりと嫌な感触があった。しかしそこにあるのはびっしりと細かい字で書かれている文章。先代アルゴス侯爵ダニエルが自分の死を確信した直後に書き始めたメモ。
「他はいいからここから最後までを読んでみな」
 ロビンは指で行を指し示し、そこから下だけを読むよう促す。少しだけ目を通したが確かに上の方は既にロビンから説明を受けた事柄とほぼ被っているようだった。そして言われたとおりに指定の箇所から下へと読み進めた。
 不思議な感覚だった。胸の内で燃え上がりつつあった炎がすぅっと潮が引くように小さくなっていくようだった。
「これは……」
 読み終えた瞬間思わず声がこぼれた。
 なんて……哀れな運命のもとに生まれてしまったんだろう。
 思わずアルゴス侯爵に対して憐憫を覚えずには居られなかった。こんなことが起こりうるということがどうしても信じられない。
「テレーゼ、ひとつ言っておく」
 落ち着いた低い声でロビンはそっと語りかける。
「どうしようと勝手だが、後悔のないようにな」
 テレーゼは胸の内にコトンと落ちるものがあった。思わず顔を上げるとロビンはもう鞄を肩にかけている。そして何事か二、三の会話をイレーヌとやり取りしていた。ロビンはこちらに後ろを向いており、またイレーヌの顔もそのロビンの頭に隠れてしまって二人の表情は見えない。どんな会話を交わしているのかは二人が小声なためにうまく聞き取れなかった。最後にロビンが「テレーゼを頼むぞ」と言ったことだけは聞き取れ、その時ロビンの頭で隠れていたイレーヌの顔が現れ、それ困ったように深く頷いたのを目にした。
「さてと、俺はそろそろ行く。まあ心配するな。必ずお前の母親を取り戻してくるからよ」
 えらく唐突に感じた。ロビンは忘れ物がないかと確認をするとくるりと背を向け、病室のドアへと歩き始めた。その背中を見た瞬間だった。ドキリとなにか異様な胸の蠢きを感じた。テレーゼは思わず胸に手を当てる。テレーゼは一体自身が何を感じているのか理解できなかった。
――これが最後。
 それは降って湧いたように突如心中に現れた言葉。感情は曖昧模糊としてその正体の輪郭が一様につかめないでいたが、その言葉だけはハッキリとしていた。背を向ける直前、テレーゼが見たロビンの眼には何か別のものが映っているように見えた。それがなんなのかは言い知れない。手から汗が滲みでるのを感じる。
「ロビン!」
 無意識の内にテレーゼは名を呼んでいた。扉へと向かう背中がぴたりと動きを止める。方から振り返り探偵は返す。
「どうした?」
 ロビンだけでなくイレーヌも視線をテレーゼへと注ぐ。ロビンの眼からは何も感じない。しかしイレーヌの眼からは何かを語りかけているようだった。名を呼んだものの、なんと言えばいいのか全く考えておらず、テレーゼの喉からは掠れた息ばかりが漏れる。空を掴んだ手のやりどころに困るようにテレーゼは視線を落とした。
「あの……どうかお気をつけて」



 扉に背を向けてテレーゼはベッドを横になっていた。その傍らに椅子を置いてイレーヌは黙ってその背を見つめる。カチ、カチ、テーブルの上に置かれた置き時計が休むこと無く時を刻み続けている。今何時なのか、それすら確認する気になれなかった。
 テレーゼの視線の先には窓。風の強い日だったが昼間よりは幾分収まっており、時折窓枠をカタカタと鳴らすだけだった。テレーゼは思い出す。初めて探偵事務所に訪れた日もこんな風に強い風が吹いていたことを。まだあれから一週間も経ってないというのに遠い昔の話のようだ。
――どうしようと勝手だが、後悔のないようにな――
 ロビンの声が反芻される。ロビンはひょっとすると自身が疑われていることに気づいているのかもしれない。
 テレーゼの視界の端からピンク色の丸い風船がふわふわと彼女の顔を覗きこむ。テレーゼは思わず手を伸ばしルナを抱卵するように抱き寄せた。
――思えば……。 と、テレーゼは追憶の海に身を沈める。
 自分は一国の王女として生を受けた。それもただの国王子息というわけではなく、両親の婚礼から長年待ち焦がれていた第一子息としてだ。さらにその後、父の崩御によって王家嫡流は自分だけとなった。誰も彼もちやほやとしてくれたが、同時に様々な厳しい教育も受けた。ジオノでは女王の先例も多いため、きっとこの先立太子されることは確実だと皆が皆口を揃える。自分でもきっとこの先この国の王として即位するのだろう、あるいはどこか傍流からの男性と結婚することになるのだろうとなんとなく思ってしまっていた。そこへ来ての今回の事件。母レオノーラは明らかに別人だということが分かり、また昔からの側近もいつの間にか人員が動かされ、誰が敵で誰が味方なのか分からない。そのとき気づいたのは自分が王女だからといって何も出来ない無力だということだ。国王第一王女として王師に働きかけることも出来たかもしれないが、それすら見破られていたらと思うと怖くて竦んでしまった。そんなとき王宮を訪れていたある客人の伯爵からクインズ探偵の噂を耳にした。誰でも良かったのかもしれない。ただこの状況を打開してくれる誰かが必要だった。
 しかしその先でも自分はやっぱり足を引っ張ってばかりだ。むざむざ侯爵に囚えられ、その奪還のためにロビンたちに無駄な労力を背負わせた。そして今もまたロビンは母を助けるために戦って……?
 走りぬける電撃のごとくテレーゼは布団を跳ねのけるように起き上がった。抱き寄せていたルナは小さな叫び声を上げて飛び上がって退いた。
「どうしたの!? テレーゼ?」
 そばで座っていたイレーヌもまた突然の王女の様子に驚愕を隠せず呆けた表情を晒していた。
 テレーゼの胸が高鳴る。ドクドク、と胸に手を当てるまでもなく鼓動が駆け抜けていくのを感じ、耳には音さえも拾う。
――どうしようと勝手だが、後悔のないようにな――
 再び反芻されるロビンの声。やっぱりそうだ。やっぱりロビンは私から疑われていたことに気づいていたんだ。
 それまで頭の中に存在していたがそれぞれが全く関連性の無さそうだったパズルのピースが恐ろしいほどの早さで形作られていく。ロビンもこんな感覚を毎回味わっていたのだろうか。
「イレーヌさん……」
 震えて声が出せないのではないかと思ったが、実際に漏れた声は自分でも驚くほどに冷静だった。
「なあに?」
 イレーヌはおずおずと返した。その声は落ち着いているようであるが、明らかにどこかしら動揺しているような雰囲気を帯びている。
「私、クインズ探偵のこと信用しています。ううん。正直に言います。私、捕まったとき最初動揺していたせいかあの人に裏切られたって思ったんです」
 どういうふうに話を切り込めばいいのだろう。いざ口にし始めると物事の順番を整えることが思っていた以上に難しい。ともすれば脱線し、あるいは全く関係のない方向へと向かっていきそうになる。
「でも、こうして私を助けてくれてそれは違うんだってはっきり分かりました」
「そうだったの。ありがとう、あいつのこと信用してくれて」
「でも、考えるとそれがおかしいんです」
「え?」
 今度こそイレーヌの顔には明らかな動揺が滲んだ。
「確かに最初にクインズ探偵と会った夜、私は王宮で起こっている陰謀を暴き、お母様をお助けください、とお頼みしました。しかしそれって普通探偵に頼むようなことじゃないんです。私はあの時ほんとにすがるものが無くて、あの方にあんな依頼をしてしまいました。でもそれは普通拒否されてもおかしくないんです。王宮に関わることです。正式な招聘(しょうへい)でもない限りいくら王女の頼みだといっても一介の探偵が割りこむようなことじゃありません。そんな大事、下手すれば自分の身が危ういんですから。でも実際クインズさんはその依頼を受けたばかりでなく、何度も身の危険に陥りながらも、ラフトを傷つけてまでも依頼を続行している。これってなんだかおかしいですよ」
 テレーゼは胸の昂ぶりを抑えながらも淀みなく言った。自分は間違ったことをしている。そんな思いを抱いていた。ロビンの事情はロビンだけのものだ。自分が勝手に首を突っ込んでいいはずがない。そう思いながらも止められなかった。テレーゼは敢えてうつむき、イレーヌの表情を見ないようにしていた。
「だから私、考えたんです。もしかしたらクインズさんは私の依頼とは別に何か目的があるんじゃないかって」
 ぎゅっと握り締めている手の中で汗が滲んだ。
「その目的は……おそらくクインズさんの推理の中で出てきた、お母様に化けている獣」
 わずかに握りしめていた拳を開く。途端に空気が流れ込みひんやりとした感触を覚える。そしてテレーゼはようやく顔を上げた。
「ゾロアークですね」
 テレーゼの目に映ったイレーヌの表情はなんとも言えなかった。一番近い表現を探すのならば、おそらくは『諦観』。
 その時外でひときわ強い風がすさび、遠吠えのようなあるいは嘆声のような風笛とともに窓枠が叩かれた。
 テレーゼはさらに続けた。自分が気づいたロビンについておかしいと思ったことを次々と挙げ連ねていく。テレーゼ自身まだその疑問が行き着く先にある結論まで達していなかった。イレーヌは黙ってテレーゼの疑問を聞くに任せている。結論までには達しないもののテレーゼの疑問はロビンという者への疑惑を問うに十分すぎるものだった。
「教えてください」
 テレーゼは熱を含んだ声でイレーヌに迫った。
「探偵ロビン・クインズとは何者なんですか?」
 ずるい言い方だと、テレーゼは自嘲する。うすうす自分で気づきかけていたからだ。だからさっきロビンの目的はゾロアークだと断定したのだ。
 イレーヌに見られる「諦観」の表情は今や深く澄み渡っているようだった。テレーゼはさっきロビンとイレーヌが小声でやり取りした際の彼女が最後に見せた表情を思い出す。何か言われていたのかもしれない。
 そしてついにイレーヌは口にした。ロビン・クインズの抱く秘密とは何なのかを。
 その瞬間、テレーゼの心のなかに何か小さな火がともった。

わたぬけ ( 2013/01/10(木) 01:09 )