21 【21時00分】
宮殿の建物を含むサン・シュモール宮の敷地全体を俯瞰すると次のような体を表す。
まず地上に広がる王都の街並みから切り取ったように正五角形の広大な敷地が横たわり、その面積はざっくりと計算して二十五ヘクタールにも昇る。五角形の各角からはまるで長絨毯を敷いているように道が延びており、それぞれの道はいずれも五角形の中心に向かって迷いなくまっすぐだ。この五つの道は総称して『宮道』と呼ばれている。宮道によって分断されるかのように敷地は五つのエリアに分かれている。さらに中央の宮殿の鎮座するエリアも含めると宮は全部で六つの区画に分かれていた。中央の宮殿エリアを除く周囲の五つの広大な王庭は平時から一般人も自由に出入り可能であり、また人間に害をなすことの少ない小型の獣も放し飼いにされている。そして五角形の中心には円形に切り抜いたように宮殿のエリアが置かれ、その区画は一般人は入ることが出来ない。そこにサン・シュモール宮殿の巨体が横たわっているのだ。五つ宮道の行き着く先にはそれぞれ門が配置され、その堅牢さはその門自体がひとつの砦を築いているかのようだった。
この日、五つある門の内北側の門一箇所のみが開かれ、貴族も平民も老いも若きも隔てなくこの北門に殺到していた。人々は宮殿の門をくぐるとずらりと並んだ衛兵によって形作られた道を歩き、その外側を歩くことは決して許されなかった。衛兵はひとりひとりがまるで杉の木のようにピンと背筋を伸ばし、傍らには王章のついた首輪をつけたムーランドを侍らせていた。衛兵もムーランドたちも人々の群れが決して衛兵の作った道の枠から外れないよう、目を光らせている。そしていよいよ宮殿の建物の中へと入る扉をくぐる。普段宮殿へと足を踏み入れることのない平民や中流以下の貴族はここで圧倒される。宮殿のロビーは床全体が大理石製で、天井からぶらさがるいくつものシャンデリアによって映しだされた壁には壮大緻密なフレスコ画が描かれており、そのテーマは一貫しこのロビーを取り巻く壁全体がひとつの巨大な作品を描いているのだ。ロビーの中央には手すりに凝った意匠を施した階段が二階へと手を差し伸べているが、階段の前には衛兵が立ちはだかり、お前たちの行くべき道はこっちではないと無言で示している。それから衛兵たちの道をさらに進むと回廊へと差し掛かり、左手の窓から姿を現す中庭を楽しむとやがて高さ五メートルほどもある大扉の前に案内される。そしてこの大扉をくぐるとロビーで圧倒された人々はさらにここで口をぽかんと開けるのだ。幅五十メートル奥行き六十メートル高さ二十メートルにもなる大空間へと投げ出される。天井から吊り下がるシャンデリアの数はロビーのそれの比ではない。大扉から長方形の空間の向こう側へは赤色の絨毯が舌を伸ばす。絨毯の行き着く先は数段の階段を伴う壇となっており、壇上には椅子が三脚置かれていた。その内二つは壇上の左右に対照を成すように置かれ、残り一つに比べて後ろ側に置かれている。柔らかなクッションの表面には唐草模様が描かれ、脚部や肘掛けに見られる木部は欅の芯のみを贅沢に使用していた。この二つの椅子はそれぞれ王の配偶者と皇太子が掛けることを許されている。そして壇上の中央で最も手前に置かれた椅子は王のみが座ることを許された王座である。両側にある皇太子、配偶者の贅を凝らした作りに比べるとその椅子は存外シンプルな作りだった。同じく欅の芯を使った木部は贅沢なものだったが、装飾はいささか簡単なものでクッションには文様などは描かれず無地である。これは式典の間とは別にある玉座の間にある高御座を模した作りとなっており、記録では玉座の間にあるものはもう何百年も使用され続けられている由緒のあるものだった。
そして今、その玉座を模した椅子に女王の姿をした獣、ギデオンと侯爵に名付けられた獣が腰掛けていた。後ろにある二つの椅子に座るべき人物たちは不在で壇上の椅子に腰掛けるのは獣だけだった。眼前には何百という人間で溢れ、人々は皆が皆こちらに視線を注いでいた。その人々の目には彼に対する猜疑の色は露程にも浮かんでいない。誰も彼も壇上に座るのは我らが女王陛下だと信じている。ただ、一部の女王のことをよく知る王宮を出入りする貴族たちはその目に若干の曇りを浮かべる。しかし彼らもまたそこに座る女王に対してほんの少しの疑いは持ちつつも、それが自分たちの知らぬ別の誰かだということは全く発想の外にしかなかった。
そしてその様子を侯爵は客側に立ってほくそ笑むのだった。
誰も奴が偽物だとは気づいていない。当然だ、まさか自分たちの国王が全く同じ姿をした違う誰かと入れ替わっているなど夢にも思うまい。それにしても改めてギデオンの力に驚かされる。完璧な『化け』はもちろんのこと、これだけの衆人環視にも全く怯むことなく堂々と振舞っている。カメラを持った記者たちは予め閉めだしている。今日この場さえ乗り越えることが出来ればもう何も問題ない。
やがて進行役の男が女王(の姿をしたギデオン)に向かって一礼するとくるりと来客側へと振り向き、あまり似合ってると言えないモノクルに手をかけながら建国記念日の前夜式典に先立つ舞踏会の開催を高らかに宣言した。バンダに配置されたブラス隊が朗々とファンファーレを歌い上げる。午後九時となった。
式典の間が溢れんばかりの拍手喝采に包まれる。左右に配置されたオーケストラがやがて音楽を奏で始める。重い低弦の響きの上にチェロとヴィオラのピッチカートが何かを予感させるようなリズムを奏でる。その流れに誘われるようにして正面大扉とは別に設置してある左右の扉から踊り子たちがそれぞれマネネやピンプクといった最近王都で流行りの小型の獣を連れて入ってきた。踊り子たちは来客たちへと次々と手を差し伸べ音楽のペースに合わせてワルツへと誘う。舞踏会が始まったのだ。
侯爵は笑みを浮かべていた。
「あら、アルゴス侯爵。何を笑ってらっしゃるの?」
その様子を認めた一人の娘が侯爵の顔を覗きこんだ。
「おや、あなたは確か陛下の従姉妹の」
「ふふ。半年前サロンで一度お会いしただけなのを憶えて下さったの? 嬉しいわ」
憶えているのも当然だ。と侯爵は内心嘲った。此度の計画で女王の生家のことも色々調べあげていたからだ。
「やはりあなたもこの式典にも招かれていたんですね
「残念。私はただの一般来客としてですわ。あなただってご存知でしょう? レオノーラの姉さんが王家に嫁ぐ代わりに私たちの生家とは一切の縁を切ったのを。先王様が亡くなられてからもそれを固く守っておられるおかげでせっかくこうしてやってきてもおちおち話しかけることも許されない身分ですものね」
「しかしそのおかげであなたのご主人が次のフィッツ伯」
娘はほほほと口元を隠しながら桃色の声を上げた。
「そうですわね。父や叔父様は外戚として力を振るう夢を未だ捨てきれていないようですがレオノー……いえ、陛下のご様子を拝見してたら私はまっぴらごめんですわ。あんな窮屈そうなのが毎日続くのでしたら地方でのんびり過ごしている方がずっと性に合ってますもの」
「そうそう、ご主人は今日はいらっしゃってるのですか?」
「王都には一緒に来たのですがこの会場にはいませんわ。用事があって私より遅くここへ来るようでしたが、残念ながら人数制限漏れで入れなかったみたい」
「おや、それは残念ですね」
「ねえね、それよりさっき何を笑っていらっしゃったの?」
オーケストラの奏でるワルツの一曲目が山場へと突入する。いつの間にか二人は互いに手を取り合い、人と人の間を縫うように動きながら舞っていた。
どうして笑っていたかって? 時間だからだよ。あんたの従姉妹の娘が今頃冷たい水に沈んでいる頃だからな。探偵があの謎を解いていなければな。
不思議な気分だった。王女が死んだかどうかまだ確認できずに不安があるはずだというのに、内心あの探偵が謎を解いていて欲しいという思いが小さなろうそくのようにぽつりと灯っている。何を考えているのだろうな俺は。探偵がこの会場に乗り込んで真実をすっかり話してしまえば、もはや言い逃れは出来ないというのにな。
「予感していたからですよ」
「何を?」
「お美しいあなたが間もなく私のもとにやってくるということをね」
「あら、夫がいる私をお誘いになるの?」
「このひとときだけね。現にあなたは私とこんなにもお上手にワルツを踊っているじゃありませんか」
何を考えているんだろうな俺は?
*
暗闇の隙間からぼんやりとした臙脂色の光が差し込んできた。はじめ視界には光だけが溢れ、思わず怯んでしまう。しかしほどなくして目が慣れてきて、目に映るものがハッキリとした輪郭を形作っていく。
――生きてる……?
頭の中にその言葉が浮かんだ瞬間。空の容器に水がなみなみと注がれていくように全身に感覚が蘇ってきた。そして次の瞬間、テレーゼは自分の体が凍ってしまったかのように冷えきっているのに気づいた。体の上からは毛布が何重にも重ねられている。
「目を覚ましたわ!」
すぐ近くでかすれたような息の混じった声が響いた。声のした方向へと顔を向けるとイレーヌの上半身が見えていた。テレーゼは自分がベッドに寝かされているのだと気づいた。イレーヌは半ば泣いているような顔で座っていた椅子から立ち、ベッドへと見を取り出した。
「テレーゼ! ……良かった。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
今度こそイレーヌは瞼の間から涙を零した。口元から鼻にかけてを両手で覆い、ベッドの上テレーゼの顔の側へと突っ伏す。テレーゼはようやく口を開いた。しかし出てきた言葉は言い終えてから驚くほどにかすれ、音になっているのかさえ怪しかった。
「ここは……?」
「病院よ。水路の作業階段で溺れかかっていたのをギリギリでロープを切って救い上げたの」
それからイレーヌはテレーゼが水路で置かれていた詳しい状況を説明してくれた。テレーゼが縛られていたのは27号水路の河口出口付近で、水路の水面ギリギリまで降りた作業道の手すり。通常は水の上に出ている通路であるが、大潮での満潮時には水中に一メートル以上も沈んでしまうようになっていた。発見したときは既に鼻のあたりまで沈んでしまっており、すばやく手すりへとつながれていた手のロープを切り助け上げたという。
「気を失い水も飲んでしまってたが、問題はそれよか低体温症に陥ってたことだったよ。幸い、ごく軽度だったがな」
いつの間にやらそこにいたのかロビンがいたのは横になっているテレーゼの足元のあたりだった。
「ずっとあんな水の中にいたからね。しかも猿轡で声も出せない、目隠しをされて自分に何が起きてるのかもわからない。よく頑張ったわね」
イレーヌがテレーゼの肩に手を掛ける。服越しだというのにその手はまるで暖炉に当たっているかのように暖かだった。
「お医者様にはどう説明したんです?」
「初めて王都に来てはしゃいでた従姉妹が勢い余って川に落ちたって言っておいたよ」
「まあ!」
思わず笑いがこぼれた。何はともあれ、自分は助かったんだ。安心感が暖かな血となって全身へとめぐっていった。
しかしそのときその流れを遮断するものに気づき、テレーゼは弾かれたように身を起こした。
「私、どれくらい眠ってたんです!?」
ようやく朱がかかり始めていた頬が再びいろを失う。それを聞いた瞬間、イレーヌの顔も途端に険しくなった。
「午後九時四十分だ」
全く表情の変わらないロビンがいつの間に手に懐中時計をとってその時計盤に目を落としていた。あっ、と口を開きかけるテレーゼにロビンは「建国記念日前夜のな」と注釈をつける。テレーゼはそれに安堵すればいいのか、不安に駆られればいいのか一瞬分からなくなってしまう。しかしすぐに不安が顔をもたげる。
「そんな! お母様は?」
「残念ながらまだだ」
ああ、とかすれた声があふれる。脱力したようにテレーゼは枕へと身を投げ出した。
「テレーゼ」
ロビンはテレーゼの枕元に歩み寄り、改まる調子で問いかける。
「奴らから何か聞かされてなかったか? 女王陛下が今囚われている場所のヒントになるような」
再びテレーゼががばりと身を起こす。そして何かを思い出すように頭をおさえた。
「ええ。聞きました。『母親と一緒に助かりたければこれから言う言葉を一言一句漏らさず憶えよ』って言われて」
テレーゼはその言葉を思い出す。そう言われてから何度もその言葉を暗唱した。水路に連れて行かれてからも絶対に忘れるまいと復唱を続けた。
そしてテレーゼは遺跡で遺物を掘り起こすように、一言一言自分の言葉が間違いなかったかと確認するように教えられた言葉を口に出した。
【 今、時計を見よ
女王は二度時間を指し示す
その時刻が表す場所に
囚われ人はあなたを待っている】
「それで間違いないな?」
「ええ、間違いありません」
ごくりとつばを飲み込み、テレーゼはゆっくりと頭を縦に振った。
ロビンは崩れ込むように端に置かれてある椅子に座り込み、天井を仰ぎながら呟いた。
「また女王か……」