20 【20時15分】
気がつくとどこまでも広がる闇の中にいた。視界の端から端まで灯りどころか光の切れ端すらも感じない。頭がぼんやりとした。意識が霧のようにあたりに拡散してしまい、頭をはっきりとさせることはその拡散した霧煙を必死にかき集めるような作業に思えた。そうやって徐々に霞ががった頭の意識が一点に集中していく。しかしそれでも目の前の深い闇には一点の漏れ日すら差さなかった。手足も自由に動かせず、何か声を出そうとしてもそれは口の門を閉ざされ閂でもかけられているかのように喉の中で籠り響くばかりだった。だからテレーゼは自分はまだ目を覚ましていない、これはまだ夢のなかにいるんだと錯覚した。確かに夢のなかというのは自由なようでいて、その実自由が効かないということがよくある。いつか空を飛んでいる夢を見た。どこまでも広がる青い大空を鳥のように自由に飛翔しているのだ。翼のように両腕を動かせば高度を増し、上体を下に傾けるとぐんぐんと速度を増して滑空する。どこまでも自由で何の枷も障害も無かった。このままどこまでも飛んでいけたら……。そんなことを考えた。しかしふとした瞬間、これは夢だと認識した。夢のなかでこれは夢なんだと認識することはままあることで、それは稀にそして何の前触れもなくやってくる。そして大空を舞う中でこれは夢なんだと認識した瞬間、翼の働きをしていた両腕は突如浮力を失い、真っ逆さまに地上に向けて落下していく。それからはどんなに両腕を動かそうとも全くの無駄な努力で、ただ虚しく空気をかき回しているだけだった。そして地上に激突する、と覚悟をし顔を両手でおおった瞬間、王宮私室のベッドの上で目を覚ますのだった。
だからこれも夢で自分で夢だと認識しているから、夢のなかで許される限りない自由が現実以上に制限されているんだ、そう思った。しかし次の瞬間別の感触がテレーゼを襲い、まだぼんやりとしていた頭の中の霧を一気に吹き飛ばしたのだ。腰から下の半身に異様な冷たさを感じた。同時に聴覚がその正体への手がかりを拾う。ちゃぷんちゃぷんと瑞々しさを湛えた音。さらに冷たさを感じる境界でなにかがゆらゆらと揺れる感触。違う、これは夢なんかじゃない。テレーゼは自分が水に浸かっているんだとようやく理解し、同時にこれが夢ではなく現実だということも感じ取った。
どうしてこんなことになってるんだろう。テレーゼは頭の中を掘り起こす。確か侯爵の邸宅の離れに軟禁されているところに突然侯爵の手下の男たちが踏み込んできた。具体的な時間はわからないけれど、日が陰り始めている頃だったと記憶している。そこで男たちの一人が宣言するように言い放った。
「閣下の命により、これよりお前たちをそれぞれ別所に移動させてもらう」
どういうことなのか、何が起きているのかも理解しきれぬ内に男たちの手が迫った。お母様とデジレさんが抗議するも虚しく、まず自分は隣の部屋へと移動させられた。その途中でテレーゼは気になる言葉を耳にした気がしたが、動転していたせいかその言葉は耳から反対の耳へと抜けていってしまう。部屋の椅子に座らせられると男は怯える自分をギロリと睨みつけると嘲るようにこう言ったのだ。
「閣下から伝言だ。『母親と一緒に助かりたければこれから言う言葉を一言一句漏らさず覚えよ』」
そうして男は奇妙な言葉を言って聞かせた。男が一句唱えるごとにテレーゼはそれを小さく復唱し、男が言い終えてからもそれを何度も何度も頭の中で反芻した。そうしているうちに、薬をかがされ一気に昏倒してしまったのだった。そして気がつけばこの状況だった。
テレーゼはなんとか冷静になるよう胸の内で己に言い聞かせながら今置かれている状況を分析しようとした。
視界に映るものは何もない、そして目の上から強く何かを巻きつけられている感触から目隠しされているものだと理解した。口であるが、これも口全体にかけて強い圧迫を感じることからおそらく猿轡を施されている。次に手足。まず両足はやはり足首のあたりから縛られており、膝を動かすことは出来た。そして手であるが、これはどうにもならないようだった。後ろ手に縛られているのだが、不味いことに何か欄干のような金属の棒が十字に重なる部分に縛り付けられているらしく、上にも横にも動かせないし、また這って移動するということもこれでは出来なかった。そして目下一番の問題が腰から下を浸かる水だ。水に浸かるようなここは一体どこなのだろう? 寒々とした黴っぽい臭いが鼻についた。
耳には水の流れる音以外はなにも聞こえない。川かそれとも海か。でも、それならどちらにしても屋外なのだから何か別の音も聞こえてよさそうなもの。人の声とか、まして今日は建国記念日前夜祭なんだからちょっとくらい喧騒が耳に入ってもよさそうだというのに。そんな喧騒のかけらも耳に入らぬほど遠くまで連れてこられたのかしら? いや、違う。テレーゼはもう一度全神経を集中させて耳を澄ます。しかし耳に入ってくるのは水の音ばかり。――ざざざ、ちゃぷんちゃぷん。どんな音でもいい、何か水以外の音は聞こえないかな? しかしそのときテレーゼはあることに気づいた。音が反響している。あたりに響く水の音は確かに石壁のようなものに反響して、こだましていた。
――分かった。
と、声にしようとしてみたものの、言葉は喉より上には登らず口の中で篭るだけだった。
そうだ、ここは地下水路の中なんだ。水以外に何の物音も聞こえないのはここが地上から隔絶された地面の下だから。
テレーゼはがくりと肩を落とした。こんな場所だというのなら、誰にも気づいてもらえない。今何時なんだろう? いったい私はどれくらい眠っていたんだろう?
ぶるっと体が震える。――水が冷たい……。今頃みんなどうしているのかしら。お母様、デジレさん、ルナ、イレーヌさん、ロビン……?
そのときテレーゼの脳裏に奇妙な影が差した。
ロビンといえば、どうして最初に拐われて眠らされた時、あんな夢を見たんだろう? あの夢のなかで私はとても気になるものを見た。ロビンの寝室、どうしてあれがああなって……。
テレーゼはかぶりを振った。馬鹿馬鹿しい、夢のなかでああなっていたからって実際にそうだったかはよく憶えてないじゃないか。どうしてこんなロビンを疑うような夢を見たの?
テレーゼはその理由を探る。果たしてその理由はすぐに思い至った、というよりも思い出した。
そう、私はあの時――ラフトの姿をした者の正体がお母様に化けていた存在と同じだと分かった時、てっきりロビンに裏切られたと思ってしまったんだ。少し考えればそんなことは無いと分かるはずだというのに、あの時は冷静じゃなかったから咄嗟にそんな考えを浮かべてしまった。だからあんな夢を見たんだ。でもやっぱり違った。ロビンがそんなことをするはずがない。だってロビンは王師を……。
――え? テレーゼの腹の中に何かがストンと落ちる。思い出したのだ。レオノーラから再び引き離されて別室に移動させられる途中に耳にした男たちの会話。
「まさかあの探偵が王師を動かすとはな……」
ロビンが王師を動かした? そんなこと有りえない、という考えが頭を占める。王師を動かすということがどういうことを意味をするのか、まだ政治のことがよく分からぬテレーゼでも理解できる。ジオノの王師を直接動かすことができるのは国王かそれに準ずる立場だけ。だというのに、王族であることはおろか爵位を持った貴族ですら無いはずのロビンがどうやってその王師を動かしたというだろう。
ここに来て、テレーゼはロビン・クインズという人間のことが分からなくなってしまった。
だがテレーゼはすぐにそんなことを考えている場合ではないことを思い知らされた。
水位が上がってきている?
目を覚ましたときは水位はまだ臍のあたりだった。それが今は胸のあたりまで到達している。
それに気づいた瞬間テレーゼの顔からさっと血の気が引く。このまま水位が上がり続けるのなら、それが最終的にどうなるのかは日を見るよりも明らかだった。
――溺れ死ぬ――
残酷なしかも確実な考えが脳裏をよぎった。
*
「ここだな」
二人が辻馬車を降りたのは、中心街から北東へ七キロほども離れた港湾部の入り口だった。このあたりまで来るとさすがに中心街を渦巻いていた喧騒は鳴りを潜め、しじまのなかに夜の帳が降りていた。二人は先程から目的の水路の脇を通る側道を歩き、そして今目の前にはその水路が地下に入るためのトンネルがぽっかりと口を開けていた。そのトンネルの入口の上部には「27」と刻印されたプレートが掲げられている。この27号水路を進んだ一番奥、流れが最後に河口へと注ぐ場所に一人目の囚われ人が居るのだ。河口側の注水口から入ることも考えたが出掛けにアルジャーノンが助言してくれたことによると、27号水路の河口側の出口付近は流れが激しく、とても近寄れないとのことだった。アルジャーノンの情報はいつも正確だ。殊にこの手のことに関してはなおさらだった。
ロビンはカンテラを掲げ、少しばかり足早に水路と同様にトンネルの奥へと続いている通路へと足を踏み入れた。その後ろに続くイレーヌとラフレシアのラッフル。湿った黴っぽい臭いがムッと襲ってくる。トンネルには一欠片の光も無い。イレーヌにはそんなどこまでも続く闇を切り裂くカンテラが唯一の希望であるかのように頼もしく感じる。イレーヌの腕の中には女性用の衣服が一セットあった。ロビンから推理をひと通り聞かせてもらい、27号水路にいる囚われ人が水に浸かった状態である可能性が高いということを知るとイレーヌはすぐさま衣服を買いに走った。助けだした後にそこに居るのが女王にしろ王女にしろ濡れ鼠の状態にしておくのは忍びないと考えてのことだった。建国記念日前夜祭の特需ということで衣料店はこんな時間でもまだ開いていたことも幸いした。咄嗟に買ったあまり高価と言えない服だけど、時間もなかったから仕方がないし、濡れたままにしておくよりはずっと良いとイレーヌは自分に言い聞かせていた。
二人と一体は黙って水路の作業道を歩き進める。自分の靴の音がコツコツと石壁を反響していくのをイレーヌは聞く。こんな淋しくて冷たい場所に囚われて……と、イレーヌは囚われ人の身を案じる。
そんな冷たい水路はさらに奥へ奥へと続いており、このまま別の出口に至ったらその向こうは別の世界が広がっているんじゃないかな、とイレーヌはぼんやりと夢想する。途中で何度か分かれ道や扉に差し掛かったが、ロビンはそれらを一切無視し、ひたすら水路の流れに従って通路を進んでいった。ロビンが歩く速度は速く、イレーヌはラッフルの手を引いてほとんど半ば引きずるようにしなければ追いつけなかった。ラッフルもラッフルで頑張って追いつこうとして足をパタパタ動かしている。元々ここまで来るのに四十分以上も時間を費やしていた。満潮の時刻はほぼ二十一時ちょうどだが、それはあくまで満潮の時刻であり、囚われ人が沈んでしまうのはもっと早いと踏まないといけない。そうするともうほとんど時間は残っておらず一秒も無駄にできないのだ。
しかし黙って歩き進むロビンとの長く続く沈黙に次第にいたたまれなくなってしまう。
「ねえ」
「どうした?」
ロビンは振り向きもせずにさらに進んでいく。
「どうせあたしとラッフルしか――」と、言葉の途中でロビンが左腕を突き出し、静止した。
「しッ!」
同時にロビンはカンテラの炎を消えるギリギリまで絞った。あれだけ煌々と輝き頼もしく闇を切り裂いていた光が萎むように小さくなっていく。すっかり周囲を覆った暗闇の中でロビンが小さく囁いた。
「誰かいる」
暗がりでよく見えないが、ロビンはおそらく前方を指さしたのだろう。その先には確かにぼんやりと緋色の光が揺らめいていた。
「やはり見張りがいるな」
ここからの通路は奥に向けて左側へと湾曲を描いていた。ロビンたちの進行方向へ向いて通路は水路の左側を通っているため、奥の方に居る人間が灯りによって確認できるが、こちらの姿は見えないという状況を作り出していた。
「どうするの? 別の通路を探す?」
「いや、あいにくそんな時間はないし、あったとしてもそっちにも手が回ってる可能性だってある」
「でもどうやって通り抜けるつもり? 通路は一本道で隠れようがないわよ。まさか水中を潜るなんて考えてないでしょうね」
「いや、ここはシンプルに――」
ロビンは間をおいて、振り返った。
「強行突破と行こうか?」
*
水位は今やもう首を越えて顎のあたりまで到達している。テレーゼは無意識のうちにもがいていた。しかし虚しくも足は縛られ、腕は後ろ手に欄干にがっしりと結び付けられている。どんなに渾身の力を込めてもテレーゼの力程度ではまるで足りず、びくともしなかった。このまま水位が上がり続ければ間違い無く溺れ果てる。
嫌!
生への渇望が声となり喉を昇る。しかしそれは猿轡に阻まれて虚しいうめき声にしかならない。
嫌、死にたくない。いったいどうしてこんな目に合わなきゃいけないの? 私達が一体何をしたっていうの? こんなところで、見ることも叫ぶことも出来ずにこんな死に方を迎えるなんて理不尽だ。
テレーゼは助けを求めた。自分の知る限り、思いつく限りの人間の名前が頭をよぎる。母女王をはじめとして、侯爵の策略によって王宮を去っていった召使いたち、大小様々な式典のたびに顔を合わせ眩しいほどの笑顔を向けてくれる親衛隊の隊員たち、そしてロビンにイレーヌ。
誰でもいいから、助けて――。
そのときだった。
水の流れる音にまぎれて遠くから何か声のようなものが聞こえた。それは最初獣の雄叫びのようなものに思ったが、すぐにそれは人の叫び声だということが分かる。同時に衝撃音がそれを彩る。犬型のだと思われる獣の咆哮に、また別の人間の叫び声。さらに別の声が聞こえた。
「ラッフ……ねむりご……」
耳に入った瞬間、涙が零れそうになった。イレーヌの声だ。するとロビンもいるはず。
テレーゼの胸の内で自分に言い聞かせる声が響く。
――ほら、ロビンはちゃんと助けに来てくれたでしょう? みんなあなたの思い違いよ。
テレーゼから漏れる安堵の溜息。
その瞬間、口の中に冷たい水が流れ込んできた。