17
セルゲイ・アルゴスはサン・シュモール宮殿にいくつもある客間の一室で、金糸を縫いこんだ更紗模様の入ったソファに腰掛けていた。さすがは一国の宮殿にある客間ということだけあり、天井の意匠から履物に至るまで豪奢に贅を尽くしていた。南側に面した窓は壁に対してかなり広いスペースを占め、日光をふんだんに招き入れていた。戸棚は白く塗られた上で細かい模様が彫られており、その上に乗る調度品類もさる著名な芸術家の手による彫刻だとか雪のようにまっさらな磁器の花瓶だとか妥協を許さない。一対のソファで挟むように置かれたテーブルの面はガラス張りで、上から見下ろすと鏡のごとくぴかぴかに磨かれていた。客間の窓から見渡すことのできるのは宮殿の中でいくつかある中庭のひとつで、生垣がさながら迷路のように配置され、出入り口から続くすべての道がたどり着く庭の中央にはいくつもの放物線を描く噴水が鎮座していた。この空間はまるで他と隔絶されているようで、催事で賑わう外の喧騒もここまでは届かない。
客間には彼以外に誰もいない。家来たちは一応形式上、別所にある使用人控え室へと引っ込んでいる。
静かだ。と、侯爵は思った。今日がその日、今日が自分にとっての最大の試練であり運命である日、あと半日もすれば自分のすべてが決まる。そんな大事な日だというのに、心は不気味なほど落ち着いていた。屋敷でも一人になるときはたびたびあれど、今この時ほどに気持ちが落ち着いていたことがあっただろうか。思えば今まで生きてきたのは今日というこの日のためだったのかもしれない。今日で最後だ。今日という日が無事に過ぎ去りさえすれば、この二十余年という月日は今ようやく報われる。いや、あるいは今日という日が過ぎ去ったそのときこそが始まりなのかもしれない。
――そう、全てはこの時のために……
そのとき、回廊へと出る扉から通常に比べて極めて早いリズムのノックが四度響き渡った。そして一瞬間を置いて同じリズムで二度ノックされた。このノックの合図は彼だ、とアルゴスはぼんやりとしていた頭を振り払って顔を上げる。
「入れ」とセルゲイはノックに応えた。戸が部屋側に開き、黒い礼服に身をまとった背の高い男が入ってくる。セルゲイはその見知らぬ姿に驚くこともせず肘掛けに寄りかかった。男が戸を閉め、中から鍵をかけると侯爵は薄く笑う。
「良いのですかな。『陛下』ともあろう方が未だただの客人にすぎない私を私的に訪ねても?」
セルゲイは大儀そうに腰を上げると窓枠の端に近づき、薄手のカーテンを閉める。そうして全てのカーテンを閉じて後ろを振り返ると、そこにもう男の姿は無くなっていた。代わりにそこにあるのは一体の獣の姿。ヒトに近い体型で全身を黒い体毛で覆われ、頭から背中にかけての部位から豊かな血のようにどす黒い鬣が床に接するほど長く生え、先のあたりで丸い玉がそれらを束ねていた。そして口元と目元の毛は鬣と同じ朱で隈のようである。今は跪くような形となっているため、目の位置は侯爵より下にあるが、きちんと直立したら長身を誇る彼の背と同等あるいは凌駕するほど大きな身体をしていた。獣は顔を上げ、ヒトの言葉を口にする。
「『女王』は今自室に戻って休んでいることになっている。『良い』と言うまで誰も部屋を通すなと女中に口添えして」
なるほど、と応えセルゲイは再びソファに腰を下ろす。
「お前も楽にするがいい。もうずっとヒトの姿――それもこの国一堅苦しい身分に化けっぱなしでいささか疲れているだろう」
獣は何も答えなかった。その代わり口元にセルゲイと同じように薄く笑みを浮かべた。
「お前のおかげだ」
出し抜けにセルゲイは言う。どういう意味でのその言葉であるのか意味を捉えかねて、獣は一瞬呆けた。
「あの時偶然お前に会っていなかったら何も手を出すことが出来ないまま惨めと屈辱の中で一生を終えていただろうよ。まったく、めぐり合わせというのはつくづく不思議なものだ。まだこれから、むしろこれからが一番の大勝負だが今のうちに礼を言っておく」
「礼などいらない……」
獣の受け答えにセルゲイはくっくと笑う。そして再び腰を上げて跪いたままの獣の近くに身を寄せた。
「謙遜だな。それともお前の一族は皆そうなのか?」
セルゲイは獣の周りをうろうろと歩きまわり、頭の中でこれまでのことを思い返す。母の姿。記憶の中の母の姿はいつもその目に憎しみを宿していた。ことあるごとに母は口を酸っぱくして子に囁いていた。
――お父様はね、あいつらのせいで死んだのよ。そして今私達がこんな惨めな暮らしをしているのも全部あいつらのせい。
やがて聞いた母の話は当時の彼にはおおよそ信じられぬことだった。何よりもどうしてそんなことが起こるのか意味が理解できない。しかし、それでも気づけば自分の中に沸き起こっているのは憎悪。その憎悪はいつしか心のなかで自身そのものの形に姿を変え、囁くのだった。
――あいつらを殺せ。両親が味わったのと同じように惨めと屈辱の沼に沈め、絶望の中で殺すのだ。
しかしそう心に誓ったものの、当時の彼にはそれを実行する力も手段も何もなかった。成長するに連れて彼はそのことを自覚し、ますます心のなかに惨めさを溜めていった。そんな時だ。獣と出会ったのは。
「お前は神とか、あるいは運命というのを信じるか?」
目線を落とし、跪く獣に向かって問う。
「神?」
「なんというかな。一部の人間に言わせれば、あらゆる生命はこの世に生を受けてから死んで骸になるまで、一本の筋道にあらかじめ決められているそうだ。連中の理屈では私とお前が偶然会ったのも、今私たちがこうして事を成そうとしているのもあらかじめ決まったことなんだと」
神――。獣はヒトの真似をしていく内にその概念を知った。
「その筋道のことを運命と呼び、そして運命をあらかじめ用意しているのが神という存在。お前はそういう話を信じるか?」
獣はしばらく黙していた。獣もセルゲイもみじろぎ一つ見せず、ただ次の場面がやってくるのを待っているようだった。そのとき初めて獣が立ち上がる。突然木が生えてきたかのようにやはり高い身長だった。あっという間に目の高さの差は侯爵と変わらぬほどに縮まり、そこで止まった。
「くだらない」
言って獣は視線を侯爵のそれへと注いだ。この種族特有の青い目だ。
「もしそういうものがあるとしたら、あの老人にあんな最期を迎える運命を与えた神とやらは非情の権化だ。オレに言わせればそんな確かめようのないことなど考えるだけ無駄だ」
侯爵は一瞬意外そうに相手を見つめると、その顔を豪快に破顔させて笑いあげた。笑い声は部屋中をこだますると吸い込まれていくように虚空へと消えていく。
「実に獣らしい意見だ。確かにそれではダニエルの爺さんの生涯は何だったんだという話になるな」
「そういうあなたはどうなんだ?」
「概ねお前と同じだよ。自分の人生だ。そんな会ったことはおろか、いるかどうかさえも分からん存在に鉄道のレールの如く未来を決められていたのでは堪ったものではない」
セルゲイは大股に獣に近づき、自身の大きな手を獣の肩に掛ける。
「柄にもなくつまらん話をしてしまったな。今日という日を迎えて感傷みたいなものに浸ってしまっていたのやもしれん。何はともあれ今日で最後だ。あと半日もすれば全てが報われる。頼んだぞ――」
そして侯爵は語尾に獣に与えられた呼び名を加えた。
「――ギデオン」
セルゲイは手を獣の肩から離しため息をつくと崩れ込むようにソファへと腰を下ろした。獣は腰掛けた己の主を一瞥すると顔を伏せた。そのとき獣の姿が赤く光ったかと思うと身体の輪郭が溶け、やがてその姿は部屋に入った時と同じ黒い礼服に身を包んだ人間の男の姿へと戻った。もはや何度も目にした光景だがやはりその完璧なまでの文字通りの『人真似』に改めて舌を巻かざるをえない。
「何度見ても見事な変化ぶりだな」
「ヒトの言葉で言えばこれがオレたちの最大の武器だからな」
「前から訊こうと思っていたが、お前は獣でありながら人語を口にするが……、それもお前たちの種族の特性か何かか?」
獣は言おうか言うまいか少し考えるような仕草を見せ「確かに――」と語りを続けた。
「オレたちの種族は元々何かを真似る、真似て化かすということに長けてる。だがそれでもヒトの言葉を習得できるのは極稀だ。そうだな、才能とかいうやつ以外にも何をしてでも人の言葉を覚えるという強い意志があれば出来んこともないだろう」
「するとお前はその『何をしてでもヒトの言葉を覚えるという強い意志』とやらがあったということか?」
獣はその問いには答えず、セルゲイに一瞥を投げただけだった。セルゲイは特に不快に思うこともない。侯爵自身この獣のことを深く知ろうとは思わない。ただ、この獣の持つ能力を最大限に利用させてもらってる。それだけで十分だった。
初めてこの獣にこんな能力があると知った時の気持ちを思い出す。まるで幼い子供のように呆然とそして感動に満ちた目でその様子を始終網膜に焼き付けたあの日。あの時だった。惨めと屈辱の沼に溺れ、憎悪を内に宿しながらもそれをぶつける手段を持たないことに嘆いていたあの時、獣の持つこの能力を目の当たりにして大いなる武器を手に入れたと感じた。自分のやるべきこと、考えが頭の中でギャロップの如く猛烈な速さで走りぬけ、まるで崩壊した建物が時の逆行によってみるみるうちに完成していくように計画が構築されていった。
――全ては憎らしいシェルストレームの血を絶やすために……。
獣が人間の男の姿で回廊へと出ようとしたその折、激しい勢いで扉が三度ノックされた。ただならぬ予感がして不意に侯爵と獣は顔を見合わせた。一瞬躊躇したがすぐにセルゲイは「入り給え」と声を張った。と、同時に獣が入ってきた時に鍵を掛けさせたことを思い出して舌打ちする。「開けてやれ」と獣に視線を投げた。獣は何も言わず内鍵のつまみを回した。すぐにバタンと慌てた風で扉が開き、そこにソバージュの髪をしたやはり礼服に身を包んだセルゲイに比べるといささか背の低い男が狼狽した表情で入ってきた。雇っている家来の一人だ。
「旦那様、大変なことが……」
「とりあえずまず戸を閉めろ」
ぴしゃりと言葉をぶつけられ、男はあたふたと入ってきた扉を元のように閉じ、さらに鍵を回した。そしてとにかく気を落ち着かせようと、深い呼吸を何度か繰り返すとツカツカと侯爵の座るソファへと歩み寄る。
「キースに残していた者どもから先ほどお屋敷の方へ連絡が届きまして」
ぎくりと腹の底に冷たいものがよぎった。キースにある広大な農地はほとんどが侯爵家の領地。同時にその町は侯爵家の元々の邸宅があった地。屋敷を王都に移してからも領地であることは変わりなく、公的な出張所を置いている他、町の役所や警察隊には侯爵の息のかかった人間を多く潜り込ませていた。そのキースから電報が届くとは、何を意味しているのか。セルゲイは最悪の可能性を予想しながら、今傍らにいる家来からその言葉が出ないことを願わずに居られない。やがて家来の男はおずおずと言葉を続けた。
「キース郊外駐屯の王師が元屋敷に乗り込み先代ダニエルの本物の遺体を発見したとのことです。同時に埋葬したことになっている墓地も暴かれました」
「なんだと!?」
セルゲイは思わずテーブルに拳を降ろした。もう少し力がこもっていたら硝子の面に罅が入っていたのではないかというほどの強い力だった。
「馬鹿な! 王師は国王直属の部隊。国王の許可無くば動かせないはずだぞ?」
言葉を紡いでから、セルゲイはハッとした。
ジオノ王国の軍隊には二種類あり、一つ目は各州の州候が長官を兼ねる州軍がある。王都とおよびその周辺の地域に属する軍のみ、州軍ではなく都軍と呼びこれは内大臣が長官を兼ねた。
もう一つが国王およびそれに準ずる立場の王族が直接指示を出す、謂わば国王の私軍とも呼べる軍隊がある。これを王師と呼び、この王師の存在こそがジオノの王権をより強固なものにするのに一役買っていた。国王が元帥を兼ねてトップに鎮座しているだけあって通常の軍隊に比べて権限が大きく、また各州の要所要所に駐屯地を置いていた。警察や州軍が様々な手続きや事実関係の確認なくば動けないような事態でも、王師ならば国王の一声で行動を起こすことができる。ただそれ故に王師の兵士には常に絶大な責任がつきまとう。もし王師が不祥の出来事を起こせばそれが例え一兵卒であろうとも、国王の威光に瑕がつく。王師というのは謂わば眠れる巨人なのである。そこにあるというだけで威を振るうことが出来、また王師が動くというのはそれだけ重大な事態なのだということを国民は認識していた。
セルゲイの頭の中にはもう一つの考えしか浮かんでいない。
そうだ、逆に言えば国王自身でなくとも王に準ずる立場の人間なら王師を動かせる。女王はずっと私の手で監視下においていた。女王に化けていたギデオンなど言わずもがな。だったら、もうひとつしか無いじゃないか。『国王に準ずる立場の人間』それは皇太子に他ならない。テレーゼ王女だ。テレーゼ王女はまだ立太子宣下はなされていないものの、シェルストレーム嫡流の王子が居ない今、もはや実質的な皇太子とも言える立場で世間もそれを認めているような空気となっている。正式に立太子なされていない王女が果たして王師を動かせるのかという疑問も残るが、実際に動いてしまっているのだからこれ以上疑う余地もない。
セルゲイは立ち上がり、天井を仰ぎながら片手で頭をもたげた。
「なるほど、そういうことか。それで、そのあと王師はどうするつもりだ?」
「先代侯爵がこのような形で見つかったということで、当局は旦那様に説明を求めようとしています。さらに悪いことには……」
「なんだ? さっさと言わんか」
「この件を聞きつけたキースの住民が役所と出張所に押しかけ、大変な騒ぎとなっています。貴方様を出せ、とのことで」
言葉の終わりの方になるともはや震えながらセルゲイは聞いていた。歯を砕かんばかりに食いしばり、頭に昇った血をなんとか押しとどめると卒倒するようにソファに倒れこんだ。
先代侯爵、ダニエルはキースの領民から愛されていた。王都にも顔が利くほどに力を持ちながらいたずらに私腹を肥やすようなことはせず、領民への還元を惜しまなかった。病院や教会にも多大な寄付を施し、街への鉄道誘致も彼の功績が大きかった。そこへ来てのセルゲイの出現は領民にとってまさに青天の霹靂だった。何処の馬の骨とも分からぬセルゲイによる侯爵家継承はキースの住民にとっても歓迎できるものではなかったが、他ならぬダニエル様のご決定ならと不満をそれぞれの胸の中で黙殺していたのである。しかしキースの人間の不満はこれだけではない。長年キースに代々受け継がれていた屋敷を放棄し、出張所を残して王都へと移ったこともキースの民の
顰蹙を買っていた。そこへ来ての王師による敬愛するダニエルの遺体の発見はキース住民のセルゲイへの反感を爆発させるきっかけとしては十分過ぎるものだった。
ぐったりと力の抜けたような体勢でセルゲイは片手で顔を伏せると何かが弾け飛んだように豪快に笑い上げた。それは先程のものとは異なり、狂気に満ちたもの。
「全く、事はギデオンに王師を引っ込めさせるだけではもはや収まらんということか。ああ小賢しい小賢しい!」
刹那、顔を覆っていた手をまっすぐテーブルの上に振り下ろした。ビシっと鋭い悲鳴のような音が響き、今度こそ硝子のテーブル面には放射状に罅が入った。そしてその勢いに任せてセルゲイは身体を起こした。
「一旦屋敷に戻る。まだ今から行って戻るだけの時間はあるはずだ。ギデオン、
国璽で以ってひとまずキースの王師を引っ込めろ」
「止めるのはいいが、その後どうするつもりだ」
「運命が私に味方し無事今日を乗り越えられたら、今一度王師を使ってキースの騒ぎを力で押さえ込む」
セルゲイは獣も入ってきた家来も押し退けるようにして部屋を横切ると扉に手をかけた。そして扉を引こうとしたが鍵がかかっていることを思い出して腹の底から悪態を吐き出した。
「ああ忌々しい! 王女も! 探偵も! キースのゴミ屑どもも!」