鳴らない鐘が響く時
15
 これは毎年のこの日になると繰り広げられる光景だ。建国記念日の一連の式典事業で賑わうのは何も王宮に限ったことではない。この年に一度の式典に乗じて街中でも民間の事業者たちが数々のイベントを催す。大九州編の大通りやセントラル大教会前にある円形の大広場には有象無象の露店が並び、各地の大道芸の旅芸人の団体もこの前日と当日の二日間に合せてまるで号令でもかけられたかのように各々集結する。そのように各催事が集まると自ずと人間も集まってくるというもので、毎年大勢の人間がまるで海嘯でも起こすように王都であるレマルクの街へと訪れる。近年鉄道がこの街を中心に葉脈のごとく国中の主要な都市や地域に施設され、『旅行』というものが一般大衆にも広がり始めてからは特に顕著なものだった。中には王宮の式典には興味は無いが、この日催される催事を目的としてはるばる遠方からやってくるという人間も少なくなかった。
 セントラル・ステーションやその近郊の各隣接駅は朝方から普段の倍以上の人間が詰めかけ、午前中から既に大変な賑わいを見せていた。ところでこれだけ多くの人間が王都を訪問するとなれば問題となるのは泊まり先をどうするかということである。当然ながら主だったホテルや宿は既にいっぱいになっており、中にはギリギリまで相部屋させて蛸部屋の如く人を押し込むような所まであった。旅行者の中には王都に住居を構えている親類縁者を頼るものも居る。住民の方もまた、この期間限定で自分の家の一部を民宿として開放している者までいる。
 これだけの人間が集まれば自ずと常ならぬ事態もやってくるというもので、喧嘩・スリ・ひったくり・事故といったトラブルが頻発し、警察の関係者は毎年この期間になると胃と頭を痛めるのだった。特に獣を連れた者によるトラブルが多い傾向にあり、近年は建国記念日に合わせた旅行では獣を連れることを禁止するべきという議論まで昇っているほどだった。
 街は異様な熱気と喧騒に包まれ、熱病のようなものが蔓延している様相を呈していた。海の方角からはこの季節特有の強い風が吹きすさび、それがかえって祭りの機運を高めているようだった。



 薄明かりの中でぼんやりと浮かぶ部屋。まるでタペストリー画でも見ているようだった。テーブルに置かれている燭台を中心にして徐々に照らされる範囲が広がっていく。テーブルを挟むように置かれたソファ。周囲に置かれた本棚や調度品の数々。思い出した。ここはロビンの探偵事務所だ。壁に据え付けられた大きな外開きの窓。そういえば事務所には夜中にしか訪れたことがなかったけれど、昼間はこの窓から日光が入ってくるのだろうか?
 ふと気がつくとソファに腰を下ろしていた。そこは自分が探偵事務所を訪れた際に決まって座っていた位置だ。そしてまた気がつけば手に持っているのはフェルトで出来た厚手のブランケット。そうだ、最初の夜は自分があんまり寒そうにしていたからこれを渡されたんだった。嬉しかった。お母様のことについて王宮で誰にも相談できず不安の渦中に溺れそうだった自分にようやく助けの浮き輪が差し出された、そんな気分だった。
――悪いが後にしてくれ。もう時間がねえ。とにかくそのボングリを持ってこっちに来るんだ。
 ロビンの声がする。その声の響きには聞き覚えがあった。いつのことだったろう? そうだ、二度目に訪ねた夜だ。ルナの“みらいよち”で追手が迫っていることが判明して、事務所を抜けだした時のことだ。ルナ……どうすればもっとあの子の力を引き出すことができるんだろう。
 映像は続いていく。そう、今のロビンの声に促されてボングリの中に入ったルナを手に持ち、彼の後に続いた。隣の部屋へと続く扉を抜ける。奥にある彼の自室には梯子が天窓にかけてあって、私たちはその梯子を昇り……。
 あれ? 今何か……?


 カーテンレールを駒が滑る音でテレーゼは誰かから肩を叩かれたように目を覚醒させた。水をかぶったように身を起こす。横たわっていたのは柔らかなベッドの上。厚い羽毛布団を被っており、頭上には瀟洒な刺繍模様の入った天蓋が吊るされている。その天蓋からはベッドを他の空間から切り取るように透き通った白い布が降りていた。
 テレーゼはゆっくりと身を起こす。そのとき頭に電流が走ったようにズキンと痛む。思わず小さな呻きを漏らした。同時に自分の身に降りかかった出来事を全て思い出す。
 宿でラフトの姿を模した何かにおびき出され、アルゴス侯爵の一団に襲われた。テレーゼはイレーヌの名を叫ぼうとした。しかしテレーゼは一団の一人に何か薬品のようなものを無理矢理吸わされ、一気に昏倒してしまった。
 ここは一体どこなのだろう。テレーゼはあたりを見回した。すると薄い白のショール越しに誰か人が動いたのを目にする。ドキンと胸の底が蠢くような感触を覚える。そうだ、そもそも今目を覚ましたきっかけは誰かがこの部屋のカーテンを開けた音でではないか。そうなると少なくとも一人の人間が同じ部屋の中にいることを意味する。
 鼓動が早くなる。自分が目を醒ましていることが知れると、何か酷い目に合うのではないか、そんな根拠のない恐怖がじわじわと広がる。じっと目を凝らした。ショール越しではまるで霧がかかったようにぼんやりとして相手の姿が掴めない。それこそ隔てている布のこちら側とあちら側とで世界が違うかのようだった。少しずつ掴んできたところによると相手は女性のようだった。こちらに背を向けている状況で何か隅のテーブルで何かしているようで、テレーゼが起きていることに気づいていない。ヤミカラスのように漆黒の衣に見を包んでおり、まるで修道女のように見える。頭のフードは脱がれており、自分と同じように豊かな栗色の髪の毛が後頭部で束ねられて垂れ下がっていた。その時、テレーゼは思わず「あっ」と声を漏らした。確信は無いが何か見覚えのある雰囲気。
 テレーゼの漏らした声は女の耳に届き、ゆっくりと振り向きショール越しにその顔が顕になる。テレーゼは思わずショールを払った。
「テレーゼ……」
 女はか細い声を向けた。ショールを払いのけたそこに現れたのは、明らかに疲弊したようにやせ細ってしまっていたが、確かに母レオノーラの姿。
――お母様。 その言葉を口にしようとして途端、テレーゼは唇を結んだ。もう騙されない。眼前にいる母の姿をしたこの者はどうせまた偽物できっとこれも侯爵の何らかの企みに決まっている。テレーゼの目に警戒の色が浮かんだ。明らかに変化したテレーゼの様子に女は狼狽を浮かべた。
「テレーゼ、大丈夫。私ですよ」
 女は優しく語りかけながら静かに歩み寄り、そして右の手を差し伸べた。駄目だ、騙されてはいけない。どうせ侯爵がどこからかこの様子を覗いて、嘲笑っているに違いない。囚われの身となってしまった今、アルゴス侯爵の思う壺にはまらないことだけがせめてもの抵抗だった。女が差し出した手がテレーゼの顔に触れようとする。
「近寄らないでっ!」
 反射的にテレーゼはその手を乱暴に払いのけた。パシっと音が響き、テレーゼは顔を逸らして身を縮めた。その時、テレーゼの目に小さなものが映る。それはテレーゼの手に払われた女の右手の袖口から現れ、緩やかな放物線を描きながら宙を泳ぐと、テレーゼから見て左側――払われていないショールにぶつかると音もなくベッドの上に落ちた。
 テレーゼは目をいっぱいに見開き、その小さなものを視線で追いかけた。そしてベッドに落ちたそれにおもむろに手を伸ばす。再び鼓動が昂ぶる。やがてテレーゼの手はその小さなものに触れ、拾い上げてゆっくりとした動作で顔の前に近づけた。
 それはリング。派手な宝石も凝った意匠も無い簡素な作り、しかしそれは夫婦の永遠の愛を誓う絆の結晶。見覚えがあった。それは父王アルベルトが存命の頃、その左手の薬指に収まっていたもの。そして父王の死後それは誰にも知られること無く母の手に渡り、以来母王はお守りのようにそれを肌身離さず持ち続けていた。そして偶然そのことを知ったテレーゼ。これを知っているのは母と娘、二人だけの秘密。同時にそのリングは王宮で母親の正体を疑った決定的なきっかけとなったもの。この指輪こそが全てのきっかけになったのだった。
 全身に震えが襲う。そして胸の底からずっと秘めていた感情が堰を切ったようにこみ上げてくる。目が熱い。身体と同じように震える喉でテレーゼはようやく言葉を出した。
「お母……様?」
 二人の視線が一つの線に結ばれる。母は悟っていた。どうして娘が自分を拒絶しようとしたのか。だからこそ母は今の娘の取った行動を全て許し、微笑みかける。
「さぞ辛い思いをさせてしまったでしょう。本当にごめんなさい」
 そして母は世界のすべてを包み込むように、テレーゼの背に腕を回し、柔らかに抱擁した。テレーゼの視界がぼやけた。ずっと張り詰め続けていた精神が解き放たれたように、テレーゼはレオノーラの背に腕を回し胸が潰れんばかりに固く抱きしめた。頭がホワイトアウトするように真っ白になる。口から漏れる声は自分でも何を言っているのか、何を言おうとしているのか分からない。ただ溢れ出る感情がそのまま声となり、まるでこの時だけ赤子に戻ったようにただひたすら母の胸に甘え委ねるのだった。
 しかしそのとき、パッと幕が落ちるようにレオノーラは己の身を娘から引き離した。そのときテレーゼの目に映った母の表情は逡巡と苦渋とか綯い交ぜになっているようだった。
「テレーゼ、あなたに恙無いようで本当に安心しました。本当ならもっと抱きしめていたい、ですが今はその時ではありません」
 レオノーラの言わんとする事をテレーゼは悟る。今この場で二人が再会するということは、則ち最悪の状況に陥ってしまっていることを意味する。ここがどこなのかももうテレーゼには合点がいっていた。それを理解すると、テレーゼはあふれていた感情に再び蓋をする。
 気がつくと、部屋の中にもう一人人物が増えていた。その何度も見覚えのある顔にテレーゼはあっと息を漏らした。
「デジレさん」
「ご機嫌麗しゅうテレーゼ王女殿下、……なんて申している場合ではございませんね」
 デジレはほほほと苦笑いを浮かべる。デジレもまたレオノーラと同じように修道女のような黒い服をまとっていた。デジレも一緒に囚われているということは水路で会ったラッタの親子から渡されたレオノーラからの手紙で分かっていた。
 テレーゼは母の手を握る。もはや自分とあまり変わらない大きさとなっている母の手は、わずかに暖かに思えた。
「良かった……」
 今はそれだけだった。
 その時、扉の向こうからきびきびとした足音が迫ってきた。レオノーラとデジレの二人は反射的に扉の方へと振り向き、弾かれたように身のふりを整えた。二人の様子でテレーゼは自ずと誰が扉の向こう側に来ているのかを悟り、思わずベッドから降りた。
 それとほぼ同時に扉が三回ノックされ、その返事を待たずに向こう側とを隔てる一枚板が口を開けた。
 華やかな礼装を身にまとった男が大股で入り込む。
「ご機嫌麗しゅう。母子の再会はお済みでしょうかな、国王陛下ならびに王女殿下?」
 セルゲイ・アルゴス侯爵が自身の勝利に酔いしれるような表情を滲ませながら、それを何とか顔の皮膚の下に収めようとするように低く尋ねた。
「侯爵、なんの用です。それにその服装は?」
 レオノーラは毅然と相手を睨みつけ尋ね返す。
「今日が何の日か知らないはずはございますまい」
 閉じた口の奥でレオノーラは歯を噛み締める。今日が何の日であるか、口に出さずともその場にいる全員が分かっていた。建国記念日の前夜祭。前夜といえども、今日の夜に執り行われる式典で何がなされ、侯爵が何をするつもりなのかももはや明らか。
 無意識の内にレオノーラは娘であるテレーゼを隠すような位置取りに立った。セルゲイはその動きを目にして口元に笑みを含ませる。セルゲイは一つ深呼吸をすると両手を後ろに回し、部屋をぶらぶらと歩き回った。そこでテレーゼの顔がレオノーラの身体の影から覗く位置へと立つと、その深い碧を湛えた両目の視線を彼女へと向けた。
「全く……殿下、あなたには面倒をかけられましたよ」
 テレーゼは黙して顔を歪ませながらもセルゲイの視線を受け止める。
「まさか王宮からお逃げになるとは。しかも探偵まで雇って随分こそこそとお調べになったようだ。それならひょっとするともう分かっているかもしれませんな。あなたの母の罪が」
 侯爵はじりじりと距離を詰めながら穴が空くほどに刺すような視線をテレーゼへと注ぐ。テレーゼは気圧されて思わず仰け反る。裁判というものを実際に目にしたことはないけれど、きっとこんな気分なのかもしれない、とテレーゼは思った。そのとき、セルゲイの視線がふと横に逸れる。
「まあいいでしょう。今日のところはここまでとしておきます。私も今日はいろいろ忙しくてね、これから王宮へ参ります。あなた方にはこのあと迎えが来ます故、それまでせいぜい親子の親睦を深めておくことですな」
 セルゲイは身を翻し、部屋の扉へと向かった。そしてドアノブに手をかけると、最後に三人を一瞥し「ではまた明日……いや、明後日になるやもしれませぬが」とだけ付け加えると大股で部屋を出ていった。



わたぬけ ( 2012/10/20(土) 21:35 )