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王都のセントラル・ステーションは大教会のある中心街から北よりの海にほど近い地域に位置する。巨人が横たわるように堂々と聳える駅舎はこの街のほぼ全ての建物の例に漏れず燃え上がるような赤レンガ造りで、ホームは列車がさながら岸に着けようとしている船のように形となる頭端型を表していた。何本もあるホームにはほとんど列車の姿は無く、また日中なら全く絶えることのない人々の影も見えない。まるで冬の間何も植わっていない農地のよう。灯りも落ちて光の元となるものは端々に備え付けられた業務のための最低限のランプのみ。
改札付近に塔のように立つ時計は長針がXII、短針がIVとちょうど午前四時を指していた。旅客運転始発までまだ二時間もある。未明の時刻で外に出ると東の空がほんのりと目覚めようとするかのように淡くなりつつあるが、街はまだまだ起きる気配を見せない。駅もまた同じでこれだけ広大な構内で幾つもの人工物に囲まれているというのに、不気味なほどにひっそりとしていた。ただ、ほんの一箇所を除いて。十ほどもある乗り場の内改札から見て最も右に位置する乗り場の待合ベンチに一人、女が座っていた。そして傍らにはラフレシアが一体。
――誰もいないってのはそれだけで空気を冷やすのね。
イレーヌは人一人見受けられない構内の端から端までを見渡しながらそんなことを考えた。あるいは無意識にポツリと零したかもしれない。傍らで不安げに主人を見上げるラフレシア。ラッフルはどうすればいいのか分からず、とにかく自分にできることと考え、主人の手をさっきからずっと握っている。イレーヌもそんな彼女の心遣いに応えようと微笑みかけるが、どうしても『微笑み』という型で作った仮面を貼りつけたようになってしまう。
物音一つ流れてこない構内。世界の全てが氷に閉ざされたかのようだ。ただ、ラッフルが握ってくれる手だけがほのかに温かい。
*
アルゴス侯爵の一団から取り押さえられた際、彼らはまるで荷物を仕分けるようにテレーゼをイレーヌのもとから引き離した。二人は互いに名前を叫びあったがすぐにまずテレーゼの声が聞こえなくなった。さらに取り押さえられたイレーヌも口に猿ぐつわを入れられ、声を出せなくなってしまう。さらには男の一人から後ろ手に押さえられ、その状態で両手を縛られる。その痛みでそんな時だ、アルゴス侯爵の氷のように冷徹な声が聞こえてきたのは。
「その女に用はない。適当に処分しておけ」
――処分! その言葉の意味する事柄は、この状況下ではもはや考えることすら愚の骨頂。
そして一団はそこで二つの集まりに別れた。すなわちテレーゼを連れて行く方と、イレーヌを処分するそれとだった。侯爵本人は当然ながら前者の方へと立ち、すぐさまテレーゼを連れてその場から姿を消した。後に残された集団――人数は四人と、それぞれが連れてる獣たち――は、侯爵たちが行ってしまうのを見届けるとまるで何かの合図でもあったかのように機械的にイレーヌへと目を向けた。
その時、足元に何かが転がり込んでくる。先程からずっとラッフルはなんとか奮闘していたが、これだけの相手に加えて苦手とする炎の属性を持つヘルガーまで居たのではまるで刃が立たなかった。そのラッフルがすっかり弱りつつもまだなんとかしてイレーヌを守ろうとしているのだった。
――ラッフル、もうやめなさい!
そう叫ぼうにも口に嵌められている猿ぐつわで声は喉の奥で篭るばかり。そのときイレーヌを後ろ手に押さえていた男が乱暴に突き飛ばし、イレーヌは前のめりに倒れこんだ。そしてその一瞬ののちに男たちはまるで無邪気な子供がやる遊びにようにイレーヌとラッフルを囲い込む。男の一人の手元がきらりと光った。イレーヌが感じたのは背筋が凍り付くなんてものではない。まるでまるで氷そのものへと変化してしまったかのようだ。それは刃渡りが二十センチにも昇る銀色のナイフ。
死。あんまりだ、とイレーヌは心のなかで叫ぶ。確かに生きている以上、いつかは死を迎えるということくらいは理解している。病気で死んだ人間も、不慮の事故で死んだ人間も、あるいは天寿を全うして大往生を遂げた人間も知っている。だけどその死がよもやこんな形で自分に牙を剥こうとしているということがどうしても受け入れられない。大好きだった夫が世を去ったあの時、自分はもういつ死んでもいいと思った。あの人の居ない今後の人生なんて何の意味もないとあの時は考えた。だけどそれは違うということをあの馬鹿探偵は教えてくれた。
男の一人が歩み寄る。その手に持ったナイフを何の躊躇いもなく振りかざして。すぐさまラッフルがその前に立ちはだかる。しかし男の合図とともにラフレシアにヘルガーが大口を裂けるほどにまで開いて襲いかかった。
――駄目! ラッフル、やめて!
その刹那。路地のイレーヌの見る前方から凄まじい勢いの風が流れこんできた。その勢いは尋常なものではなく、まるで決壊したダムから流れこむ濁流のように。その勢いに押されてラッフルに飛びかかろうとしたヘルガーは牙を噛み合わせるタイミングを逃し、二体の獣はゴツンと頭をぶつけた。ヘルガーはそのままの勢いで止まることが出来ず、突風に体が持ち上がると倒れ込んでいるイレーヌの頭上を飛び越え、後ろ側に囲んでいる男の一人にぶつかり、ぶつかった男は悲鳴をあげて後ろ側にヘルガーと一緒に倒れこんだ。一方でヘルガーと頭をぶつけたラッフルは目を回し、そのまま風に流されイレーヌの胸へと飛び込む形となった。他の獣たちはなんとかその場を踏みとどまろうとしたが、ただ一体空中を漂っていたムウマたちだけは依るべとするものが何もなく、そのままたんぽぽの種のように飛ばされていった。
ようやく濁流のような突風が収まると、路地の向こう側から鬨の声を上げるかのような鋭い叫びとともに、ムクホークが猛スピードでこちらに接近していた。
――ラフト! イレーヌは喉の奥で叫ぶ。男たちは何事か叫び、その声で獣たちは攻撃の標的を接近するムクホークへと変える。しかし、その攻撃態勢が整うよりも先にムクホークが手を出すが早かった。相手は吹き飛ばされたムウマたちと、後ろ側に倒れこんだヘルガーを除いてあとはグラエナが三体。その三体の獣めがけてラフトは鋭い鉤爪のついた足で連続で蹴飛ばすような動きを取る。初手の遅れたグラエナはその猛烈な蹴りの応酬。まるで飛び石を次々と移るようにグラエナを弾き飛ばす。そしてついに道が開けた。ムクホークからイレーヌへと続く一直線のラインが現れる。
「女を押さえろ!」黒服たちの一人が叫ぶ。
その声を聞いた後ろにいる男の一人がイレーヌを取り押さえようと駆け寄った。
今この機会を逃してはならない。男の手がイレーヌの肩に触れた瞬間、彼女は思いっきり身体を起こした。上体がぐわんと上がる。男はまさか女が反撃に出ようとは夢にも思っていなかったらしい。イレーヌの頭が取り押さえようとした男の下顎に直撃した。「うごぉ!」と言葉にならぬ声をあげて男は仰け反る。その手からぽろんとナイフが落ち、キンと音を立てて地面を滑った。
「くそ!」
もう一人がもはやなりふり構わずイレーヌ目掛け、高々とナイフを振り上げた。今度は今のような不意打ちはもう通用しない。
だがその時折よく、目を回していたラッフルが覚醒し目下の状況を瞬時に察知すると、頭の上にある大きな穴からぼふんと大量の粉を飛ばした。その“しびれごな”を大量に吸い込んだ男は、もはやイレーヌを刺すどころではなく、むせこんでその場に蹲った。
そしてようやくイレーヌとラッフルの頭上を巨鳥の博い翼が覆う。イレーヌはその瞬間息を呑んだ。ラフトの身体はあちこち傷つき、特に胸に縦一直線に刻まれた傷は深く、今見ている間にも血が滴り落ちている。どうしてラフトが偽物と入れ替わっていたのかイレーヌは悟った。
ラフトはそんな傷など意に介する様子もなく、鋭利な嘴をイレーヌの手を縛る縄へと近づける。そして刃物のように一瞬の内にその嘴は縄を切り刻んだ。拘束からようやく解き放たれるとともに、ずっと同じ状態から動かせないでいた腕がにわかに痺れる。猿ぐつわを外し、汚いものでも落とすかのように投げ落とした。
そのときラフトはイレーヌの後ろ襟を噛み掴むと、放るように乱暴に素早く己の背に乗せた。
「ラフト、待ってその身体じゃ無理よ!」
しかしラフトはその言葉を無視し、翼を大きく羽ばたく。ふわりと浮いたついでに足でラッフルを掴むと何度も羽ばたかせ、上空へと飛び上がった。ラフトが羽ばたく度に胸の傷から血が滴るのをイレーヌは目にする。
「やめて! 降りなさいラフト、ラフトったら!」
イレーヌが叫ぶのをひたすら無視し、ラフトは襲撃された場所から一キロと半ほど飛んだところでゆっくりと降り立つと、そのまま力尽き倒れこんだ。最初イレーヌはそのままラフトが死んでしまったのかと思い、頭が真っ白になった。
前にも似たような感覚を味わった気がする。あれはいつのことだっただろう? ギャロップの嘶きと人々の悲鳴。誰かが叫ぶ。「人が轢かれたぞ!」群がる野次馬。泣くように降りしきる雨。人々の垣根を越えて見えたのは、つい数十秒前に送り出した大好きなあの人。蹄に頭を割られ、そこから流れだした紅の液体が雨水と一緒に排水口へと吸い込まれていく……。
そのとき、頬を何かからパチンとはたかれ、イレーヌは我に返った。ラッフルが真っ直ぐにイレーヌを見上げ、何事かを伝えようとして倒れているムクホークを指す。ラッフルが伝えんとしようとしていること悟り、イレーヌはラフトの顔もとに身を乗り出す。
息をしていた。すっかり弱々しくなっているが、ラフトはまだしっかりと生への執着を諦めていない。こんなにまで傷つきながら自分を助けてくれた彼を今度は自分が助けなければ。
「待ってなさいラフト。誰か呼んでくるから」
そうして周囲を見回したイレーヌは、ここが自分の家にほど近いよく知る地域だということに気づいた。ラフトはちゃんとそのことを分かってここまで頑張って飛んだのだった。イレーヌは獣相手を専門としている知り合いの医師の家へと走り、そろそろ就寝の準備に取り掛かっていたその医師をほとんど連れ去るような形で引っ張り、ラフトの状態を診てもらった。
すぐさまラフトは医師の家へと運ばれ、治療をされたが最終的に下された診断は「正直助かるかは五分五分だ」というものだった。胸の傷が酷く、おまけに相当不潔な水に落とされたらしく、もし感染症を患っていたら体力が落ちている今手の施しようがないだろう、と医師は補足する。
医師は一体イレーヌたちに何があったのかは聞こうとはしなかったが、なんとなく悟ったのか「今夜はうちに泊まるといい」と慮った。
一旦はその言葉に甘えたイレーヌだった。しかし夜が更けるに連れ、どうしてもじっとしていられない思いに駆られていく。状況は最悪だった。テレーゼは侯爵たちに攫われてしまい、しかもロビンはまだ帰らない。与えられた布団で横になっても眠気がやって来るどころか、時間とともに目が爛々と冴えてしまう。とうとう午前二時を回った頃、ラフトのとりあえずの診察代を置くとイレーヌは外へと繰り出した。そして何も言わずに主人へとついていくラッフル。ラフレシアも幾つか傷を負っていたが、それはラフトに比べれば無いにも等しいもので、動きまわるだけの気力は十分に残っていた。
*
そうしてどこへともなく彷徨う内に、最後にたどり着いたのがセントラル・ステーションだった。ロビンの帰りは今日の昼すぎ。こんなところでぼんやりしても、すぐにやってくるとは思っていない。なのにどうしてもこの場から動く気にはなれなかった。医師の家に居た時はずっとこみ上げるものがあった。だけど、テレーゼが連れ去られた今こんなところで感情を爆発させるわけにはいかない。そう思っていたのに、今はその感情も鳴りを潜め、自分でもぞっとするほど落ち着いていた。
そのとき、どこか遠くから機関車の汽笛の声が過ぎ去っていった。一瞬何かを期待しかけたが、すぐにかぶりを振る。こんな時間に駅に来るのは貨物便くらいだ。貨物駅はセントラル・ステーションに隣接する位置に置かれている。
ロビンが帰ってきたら、なんと言おう? そんなことを考えた時、腹の底で蠢くものを感じる。
そう、帰ってきたら……。
再び蒸気機関車が吠えるような汽笛を響かせ、貨物駅の方へと吸い込まれるように入っていった。
イレーヌはずっと握ってくれていたラッフルの手を握り返した。
頭に映像が浮かび上がる。それはテレーゼが連れ去られるときに目にした、ムクホークから女王の姿へと変わった何か。あたしは知っている。あれが何なのかを知っている。二年前にあたしたちの前から居なくなった……
――コツ
靴が硬い床に触れる軽快な、どこか重たいような音。ハッとしてイレーヌは顔を上げた。そして音のした左側へと頭を動かす。
「遅くなった」
探偵がそこに立ち、物言わぬ静かな視線をイレーヌへと投げかけていた。これは夜明けが近いから? 周りを取り巻く空気が少しだけ冷たいものから一歩引いた気がする。探偵の目には何があったのかを全て理解したような色を見せていた。
女は弾かれるように立ち上がり、大股で探偵の元へと近づく。すっかり鳴りを潜めていたものが、まるでたくさんの空気を受けた火種のように燃え上がり昇っていく。やがて探偵と女は一歩ほどの距離まで接近する。
イレーヌは震える手を振り上げた。
耳に痛そうな音を快哉に響かせた。
「この大馬鹿!」
イレーヌは全身に力を込めて叫んだ。ロビンは叩かれた頬を隠すように手で抑え、すぐに放す。ぼんやりとした薄暗い灯りの中、叩かれたところが紅に染まる。
「知ってたわよ! 知ってたんだから!」
ロビンを迎えたら何を最初に言おうか、ずっと考えてたというのにそれらは全てイレーヌの意識の外へと追いやられる。代わりに出てくるのはずっと秘めていた言葉。それはずっと溜め込んだ言葉だった。特に此度の事件が起きてからはずっと。
そしてついにイレーヌはその言葉を目の前の探偵に向かってぶつけた。
言葉は膨張するように広がり、駅舎をこだまし、まるで世界中へと放たれていくかのよう。イレーヌ相手にずっと表情を崩して来なかったロビンの顔についに困惑の色が浮かぶ。
そのときロビンの顔に次々と浮かんだ表情はひとつの言葉では表せないほどに転々とした。困惑から始まり、わずかに笑ったかと思うと、やがて目線を落とす。
「知ってたんだな……」
「あたしを誰だと思ってるのよ! あの女王が何なのか、どうしてあんたがこの事件に妙にこだわっているのかも。分からないとでも思ってたの!?」
まるでせき止めていた水が一気に流れこむように、イレーヌは言葉を何度も投げつける。
テレーゼが攫われてしまったこと、ラフトが命をかけて自分たちだけを助けてくれて、今生死の境を彷徨っていること。そして最後にイレーヌはこう言った。
「攫われる少し前、あの子はあたしに言ったわ。もしこの事件が解決したら、お母様に大鐘楼の再建を進言しようと思いますって。あの鳴らない鐘をもう一度響かせようって、あたしに約束してくれたわ。それなのに……」
そこまでだった。イレーヌはその場で泣き崩れ、口から漏れる声はもはや言葉にならなかった。
探偵はうずくまる女を前に宙を見上げていた。そして膝を折ると、イレーヌに手を伸ばした。しかし一瞬その手が強張る。何かとんでもない間違いを犯しているという思いに駆られながら、ロビンは強張った手を緩め、イレーヌの方をおさえた。
「すまなかった」
目を瞑りながら、イレーヌにそしてその向こう側に居るような気がするもう一人に向かうように彼は言った。イレーヌは顔を見上げた。涙と洟とでぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで拭うと、肩を掴んでくれているロビンの手を乱暴に握り返す。
「謝ってる場合じゃないわ。あなたは探偵なんでしょ。この王都レマルクが誇る名探偵でしょ。だったら一度受けた案件は最後まで責任を持って引き受けなさい」
そしてさらに勢いこんで叫んだ。
「そうでしょ? 答えなさい、ロビン・クインズ!」
言葉をぶつけられた探偵はまた複雑な表情をした。しかしその逡巡はすぐに断ち切られる。ずっと引きずっていた重りからようやく開放された気がする。
「当たり前だろ」
ロビンはイレーヌの目へまっすぐと見据えて答えた。そして彼は腰を上げ、掴んでいた腕に引っ張られるようにイレーヌも立ち上がった。