13
テレーゼはテーブルの上に母からの手紙を広げ、その文面に何度も目を通す。この光景はこの日ラッタの親子から手紙を受け取ってから幾度と無く繰り広げられたものだ。テレーゼは暗澹たる念に駆られている。
今こうしている間にも母の身に危険が及ぶかもしれない。だというのに、自分に出来る事はただ待ち続けることだけだ。そして同時にテレーゼの気持ちを支配するものがある。今王宮にいる母の姿をした何かはこうしてやはり偽者だということが分かった。今こうして手紙を受け取ったからには母が生きていることが分かって安心した。しかし同時に約二ヶ月というもの間、王宮にいる者が母ではないと疑いながらも二週間前の指輪の一件まで確信が持てなかったことがたまらなく悔しい。
テレーゼの目に手紙に書かれているアルゴス侯爵の動機に関すると思われる部分が目に止まった。
――思い出さず玉座に居座り続ける。それが罪。
同時に昨日、ロビンが見せてくれた新聞記事のことが思い出される。あの新聞記事に書かれた事件には全て小さな子供が関わっていた。だとすれば、記事に書かれていた子供たちのいずれかが今のセルゲイ・アルゴスなのかもしれない。テレーゼは記事にはどんなことが書かれていたか記憶を掘り起こす。
一つ目は大臣の国庫横領事件。大臣の子供たちは事件後離散する。二つ目は一人の女が自分の子は王の子だと言い立てた騒動。子供は女と一緒に街を追放された。三つ目は王の馬車がグラエナの群れに襲われた際、護衛兵の一人が噛み殺された事故。遺族の女は王宮からの保証を受け取らず故郷に帰ったという。四つ目は辺境公爵による謀反事件。子供は他の一族ごと国外に永久追放となった。
一体どの件が関わっているのか、テレーゼは頭を抱えた。しかし少し経つとその手を放し、ため息を付いた。よそう。明日ロビンが帰ってきたら全てが白日のもとに晒される。素人の自分がこれ以上考えたところで詮ない。あまり考えこみ過ぎるとさっきイレーヌに話した自分の決意がなぜか揺らいでしまいそうだった。
イレーヌに提案してそろそろ消灯しようとランプの明かりを絞ったその時だった。コツコツと何かが窓枠を叩いているのに二人は気づいた。目を向けるとムクホークが嘴をやはり窓枠にコツンコツンとぶつけていた。
「ラフト」
二人はほとんど同時に声を上げ、イレーヌが窓へと駆け寄る。枠を持ち上げてガラス戸を上げる。
「どうしたの?」
イレーヌが問いかけるとムクホークは静かにするよう促すような仕草を取る。その様子にはただならぬ気配が感じられた。テレーゼとイレーヌの二人はハッと何事かを悟り、互いに顔を見合わせる。
「まさか追手?」
ムクホークはこくりと頷く。そして人間の二人が何かを言うのも待たず、鳥は外へと出るよう目で促した。それから上を見上げると屋根伝いに跳ねるように登り、視界からは見えなくなった。
緊張が走った。
「でもここにいれば連中は下手に手を出せないはずよ。ちょっとでも騒ぎ立てれば周囲から気付かれないはずがない」
「しかし、もう明日ですから。ひょっとしたらもう形振り構ってられないかもしれません」
テレーゼからそう言われるとイレーヌの自信も萎んでしまう。アルゴス侯爵たちから見れば、最も恐れるのは野放しである王女たちに明日の前夜式典の邪魔をされること。それを防ぐためにはどんな手段をこうじようと構わない。
「今ラフトは外に出るよう促してるようでした。ひょっとしたらロビンから何か策を預かってるのかもしれない」
そういえば、とイレーヌは思い起こす。あいつのことだ。きっと事前にラフトにこういう事態に陥った際にはどう行動するべきかきちんと対策を打っていたのだろう。
二人は顔を見合わせて互いに頷くと、すぐさま荷物のまとめに取り掛かった。そしてテレーゼはルナに一言謝りつつ、ボングリを取り出しその中へ獣を入れる。
それからフロントに降りると、イレーヌはチェックアウトの手続きをした。フロントの女性はこんな夜中にチェックアウトなのかと訝しんでいる様子だったが、特に深く問いただすわけでもなくお金さえ受け取ってしまうとさっさと手続きを完了してしまった。
扉を抜けて通りへと出るとすぐそこにムクホークが待っていた。ムクホークは二人と一体の姿を確認すると、ふわりと飛び上がり、低めの高度を維持しつつ進み始めた。視線を投げかけ、後を追うように促す。
通りに面して軒を構えるアパートメントの窓からは明かりが漏れ、道にもちらほらと歩行者が見受けられた。ムクホークはそんな折往来から路地に入りテレーゼたちもその後を追った。いったい追手はどこまで迫っているのだろう。宿にいる時にはまだ何かが迫るような気配は感じなかった。
ふと、そのときイレーヌの声が耳に届いた。その声は彼女が口の中で小さく呟いたもので、テレーゼはイレーヌが何と言ったのか聞き取れなかった。テレーゼが何と言ったのか聞き返そうとした時、イレーヌは音量を高くしてその呟きを繰り返した。
「おかしい」
今度ははっきりと聞き取れた。思わず当惑の声を漏らすテレーゼ。どういう意味かと問いかけようとした時、不意にイレーヌがムクホークに逆らい足を止めた。
「イレーヌさん」
テレーゼもラッフルと一緒に足を止めて、それ以上進むのをやめたイレーヌに駆け寄る。
「どうしたんですか。早くしないと」
するとイレーヌはテレーゼの声を無視して両側を挟む建物の屋根のあたりに浮かぶムクホークを爛然と睨目した。
「どういうつもりラフト?」
何を、というかのように高い位置にいるムクホークは振り向いた。
「こういう時はこんな人影の少ない場所よりも目立つ表通りの方がかえって相手が行動しにくいことくらい分かってるはずよ。いくら向こうが形振り構わない手を使おうとね。例えロビンからの指示があったとしても、こういう不自然な行動を取る時にはあいつからあたしたちにも事前に説明があるはず。いくらあいつが馬鹿みたいに秘密主義でもそこらへんはしっかりしてるわ。それは今も昔も変わってないわ」
イレーヌは一気にまくし立てた。イレーヌは何が言いたいのかテレーゼは捉えかねる。しかし何か事態がおかしな方向へと向かっていることだけは悟った。ムクホークへと目線を移すと、鳥は何も反応を示さずただそこで飛び続けている。
そのとき強い力が不意にテレーゼを引っ張った。イレーヌがテレーゼの腕を強く握り、これまで来た道を逆走する形で走りはじめたのだ。しかしその足もすぐにピタリと止まる。
「イレーヌさん。いったいこれは……」
転びそうになりながら足元ばかりに目を落としていたテレーゼがようやく顔を上げると、もはや質問に答えて貰う必要のないことを悟った。表通りから外れて奥まり入り組む細い路地。月から降り注ぐ青白い光も建物に遮られ、ここには闇がはびこっていた。それでもこんなところに暫く居た二人には目が慣れてしまって、目の前にいるものの正体が朧気ながら掴める。
響く犬獣の唸り声、それも一体だけのものではない。前にも後ろにも少なくとも併せて五、六体は居た。前方には三体の獣の影。そしてその後ろには何人もの人影。
すっかり囲まれてしまった。その事実にテレーゼは背筋に氷をあてられたようだった。獣たちと人影、それらが一つに合わさって一体の禍々しい怪物のように見える。
「全く、黙って王宮を抜け出すとは。しかたのない方だ」
若々しく朗々とした声が響き渡った。すると前方の人影から内一人が前へと歩み始め、石畳に硬い靴がぶつかる音が鳴る。イレーヌがテレーゼを一方後ろに押しやり、腕で男を阻む形となる。
「良い子に大人しく私室に篭っていれば良いものの」
その姿はこの暗がりの中でもはっきりと目に映った。炭のように黒いローブを纏う。すらりと直木のように高い背に、燃え上がるように輝く金色の髪。その容貌にテレーゼは見覚えがあった。思わずイレーヌの手を握る。
「セルゲイ・アルゴス侯爵……」
テレーゼが小さくつぶやくと、男は口元にご機嫌な笑みを滲ませる。
「顔を覚えておいでとは恐悦至極です、王女殿下」
セルゲイは更に歩みを進め、両者との距離を詰めていく。その歩みを妨げるようにイレーヌが声を上げた。
「あなたがアルゴス侯爵? 王家を乗っ取って何をするつもりよ。それにラフトは。ラフトをどこにやったの!?」
イレーヌの声にセルゲイは露骨に不快感を顔に表した。
「ラフトというのか、あのムクホークは。王女をお迎えするのに邪魔だったのでね。今頃はあの汚い水路で行水でもやってるんじゃないか?」
さっと冷たいものが二人の腹の内によぎる。言葉を失った。
何事か言おうと口を開きかけると、ひゅんと空気を切る音とともにすぐ上をムクホークが通りすぎていった。そのとき二人とラッフルの目にムクホークの脇にさらにもう一体の別の獣が浮かんでいるのが見えた。暗い紫の布を被っているように襞をひらひらと舞わせ、そこには二つの炯眼が張り付いている。ムウマ、イレーヌは無意識に口走った。
ムクホークはセルゲイのすぐ横に着地した。その次の瞬間、テレーゼたちは目を皿のように見開いた。ムクホークは何か暗い色の光りに包まれたかと思うと、溶けるようにみるみるうちに形を変えていく。それはアルゴス侯爵より幾分背の低い人間の女性の形となり、さらに造形が細かになっていく。
そして姿の変化が終わった時、またしても驚愕の衝撃が襲う。殊にテレーゼに至ってはもはや隠しようもなく全身を震わせた。
「テレーゼ。どこに行ってたの? 心配したのですよ」
それは紛れもなく母、レオノーラ女王の姿。しかしこの場に居る者はそれが本物ではないことを既に知っている。
レオノーラの姿をした者が侯爵に目を移し、まるで談笑を楽しむかのように微笑みかけた。
「さあそろそろ参りましょうか、侯爵」
「ええ。あまり誰かに見られてもまずい」
その言葉とともに、追手の壁が前からも後ろからも一斉に襲いかかった。瞬く間に手足を抑えられる二人。ラッフルもまたこれだけの数の獣が相手では為す術がなかった。
*
知るべき情報はもはや全て揃った。ウォンダリーでロビンのやった事は街の中心にある教会と、その教会の管理する墓場を訪ねることだった。そこで知った事実によってロビンの中でアルゴス侯爵の謎のピースがすべて一つに繋がった。あとはこれからどうするかだ。しかしそれも手抜かり無い。キースへと発つ前に取るべき手も打った。キースではひょっとしたら自分の動きを悟られて証拠隠滅を図られかねないと考え、対抗手段も打っておいた。
ウォンダリーの駅のロータリーで何となくロビンは空を見上げる。暗くなった空には、漆黒の広がる空に一箇所だけ突破口が開いているかのように丸い月が青白い光を地上へと静かに注いでいた。よくよく目を凝らすと端がほんの少しだけ欠けている。
「明日は満月か……」
ぽつりと零すように呟いた。
そのとき一陣の風が吹き抜け、その風に背中を押されるようにロビンは駅の公衆電話に向かった。明日に備えてテレーゼたちに予め指示を出しておこう。受話器を手に取り、硬貨を三枚ばかり投入する。そしてダイヤルを王都宛に回す。
「はい、こちら交換台です。どちらへのお繋ぎですか?」
そしてロビンはもう何度も電話をつないでいる宿宛てへの頼んだ。無機質なコール音が鳴り、やがて受付の女性とおもわれる声が響いた。
「208号室のダニエラ・ハートネルを頼む」
三度目となると例え偽名と言えど言い慣れる。すると返ってきたのは怪訝そうな声だった。
「208号室のハートネル様なら先ほどチェックアウトなされましたが」
「なんだって?」
耳を疑った。一瞬相手が何を言ったのか理解できないほどに。動揺を抑えてロビンは電話口に問いただした。
「いつごろ?」
「一時間くらい前ですね」
「何か言ってたり、変わった様子は?」
「いえ特には何も。ただ……何だか慌ててるご様子でしたね」
「宿の方では何か変わった出来事とか無かったか? 何か騒ぎが起きたとか」
この問いへの答えの声には訝しむような空気が漏れていた。
「いいえ。そんなことありませんでしたよ」
「そうか……」
それから簡単に礼を述べるとロビンは受話器を置いた。昂ぶる胸を抑えて深呼吸する。そして側に設置されていたベンチに腰掛け頭に手を当てた。
恐らく追手が迫ったことは間違いない。ラフトが事前に危険を察知し、テレーゼたちに逃げるよう指示した。そう考えていいのか? しかしどうにも腑に落ちなかった。確かにラフトには危険を察知したらテレーゼたちを逃がすことを優先させるよう言ってある。しかしイレーヌが選んだあの宿は周囲を警戒する意味合いにおいての立地はほぼ完璧と言っても良かった。三叉路の突き当りで横に抜ける通りは幹線道の役割を果たすほどの大通り。さらにその大通りを見渡せる窓のある部屋だと言っていた。侯爵一味も下手に手出しできないほど目立つ位置にある。下手に動くより宿に居座る方が安全だという判断をラフトが出来ないはずがない。それともその宿に逗留し続けることさえ憚られるほど形振り構わない手を講じてきたというのか。いや、それも考えにくい。そんな衆目を厭わないような手を使ってきたというのなら宿の方も何らかの事態に巻き込まれている可能性が高い。だというのにさっき電話応対した受付は「そんなことありませんでしたよ」と答えた。
ロビンは頭をガリガリと乱暴に掻いた。
宿の安全性は非常に高い。敵方は衆目を集めるような形振りた構わない手を使ってきたわけではない。この前提を踏まえた上でなぜラフトはそれでも宿を離れる選択をしたのか。
その時、ロビンの胸中にはらわたが絞られるような考えがよぎった。偽女王の正体。もしそれが今度はラフトの姿を模して近づいてきたとしたら……。結論を出すには早いが、そうなると辻褄が合うような気がした。だとすると……。
ロビンは電撃が走るように公衆電話に飛びついた。そして再び王都の交換台へとつないだ。交換手が受けるとロビンは叫ぶように接続先を吠える。
「プレスコ通りのクインズ探偵事務所へ!」
交換手が吠え声に驚きながらも了解と受け答え、言われた先へとつなぐ。しばらく接続音が響いた後、ブツリという耳障りな音とともにキィキィした声が返ってきた。
「あい、こちらクインズ探偵事務所ってか」
ロビンはわずかに笑みを浮かべる。もしもの時を考えて手を打っておいて正解だった。
「アルジャーノン、俺だ。予定が変わった」
相手がふざけた応対をしながらも要件を手早く伝え、ロビンは電話を切った。そして駅のロビーへと入り、時計に目をやる。時刻は午後八時を少し過ぎた辺りだった。
こうなったからには一刻も早く王都に戻らねばならない。しかし今から一番早い鉄道に乗ろうと、どちらにしろ乗り継ぎ駅であるキースで一晩待つことを強いられる。もっと早く着く手は……。
そのときロビンは改札の向こう、旅客用プラットホームよりさらにその先に見えるものが目に写った。
貨物駅。ウォンダリーは国境の街であるため、この駅は隣国から輸入される物資を運ぶ拠点となっている。そして今貨物駅には何両にも連結された貨物車両とそれらを引っ張ると思われる機関車が停車しており、機関車からは煙突より煙が出ていた。ロビンは改札に歩み寄り、駅員に尋ねる。
「あの貨物列車はどこへ行くんだ?」
特にロビンのことを疑いの目で見るわけでもなく、快活そうに笑った。
「ありゃ王都行きだな。お隣さんはモーモーミルクの一大産地だからな。新鮮な内に運んで翌朝には都の食卓に並ぶってわけさ」
そういうもんか、と興味の無い風を装ってロビンはその場を離れた。
「良いこと聞いたよ」
駅員に聞かれないほどの距離を開けてからぽつりと零した。