鳴らない鐘が響く時
12
 日が暮れようとしている。部屋の中の置き時計があと十分弱も経てば午後六時を迎えるほどの時間を指していた。いつもならこの時間になれば人々はもうすっかり各々の家へと戻り、家族とともに過ごす時間を享受するものだった。しかし今街を取り巻く空気は未だ熱っぽい気流のようなものが流れ、顕在としていないものの内に秘める熱気のようなものが感じられた。明後日はこの国の建国記念日であり、その前日である明日には前夜祭とその式典が執り行われるからだ。
 ジオノの建国記念日行事は当初は当日だけで完結していたが、いくとせもの年月を経るに連れて徐々にその規模は盛大化しいつしか細々とした式典を前夜に回すようになった。それがさらに年月が経ると最初は押し出されるように回された前夜の式典も形式が整えられ、いつの間にやら建国記念日はその前夜から行事が始まるという認識が根付いた。そのため一口前夜祭と言えど、その重要性は当日に引けをとらない。
「まったく、ロビンの奴には呆れたもんだわ」
 イレーヌがソファで両腕と足を組んだポーズでふんぞり返っている。その隣でラッフルも似たような、というよりほぼ同じようなポーズでやはりふんぞり返っていた。パートナーとなる獣は主に似るものだという話をテレーゼはいつか聞いたことがあったが、この二人はまさしくその典型例みたいだと小さく笑った。
 十分ほど前、ロビンから再び宿へと電話があった。大分色々分かってきたが帰るのは明日の昼ごろになるだろうと言う。イレーヌは愕然とした。当初戻るのは明日の朝だと伝えられていた。どうしてそんなに遅くなるのかと問うと今ウォンダリーにいるからだと返ってきた。イレーヌは思わず「はぁ?」と口を開いてしまう。ウォンダリーという街はキースから鉄道でさらに東へ二時間ほど進んだ国境に近い街である。その街から王都に戻るにはやはり二時間かけてまずキースに戻り、そこから接続の列車に乗り継いでさらに五時間かかる。どうしてそんなところにいるのよ、と口を尖らせると調べることが増えたからだと素っ気なく返ってきた。そして、とにかく俺が戻るまでそこを出るなと受話器が言うとイレーヌの返事も聞かずにプツンと回線は切れてしまった。
「前から自分の手の内は明かさない奴だけど限度ってもんがあるわ」
 テーブルを挟んで向かいの椅子に腰掛けるテレーゼはムンナを抱きながら棘のような怒気を飛ばすイレーヌを宥めた。
「仕方ありません。今はあの方を信じるしかないんですし」
「あーあ、悔しいけどホントそうね」
 イレーヌはようやくふんぞり返ったポーズを解き、燃え上がるような手のひらを頭に滑らせた。燃え上がるような金髪がふわりと揺れる。
 それでようやくイレーヌは矛を収めたが、それによってなんとなく静まってしまい、テレーゼは今まで何となく尋ねてなかったことを口にした。
「あの、ラッフルっていつからイレーヌさんの側にいるんですか?」
 不意に名を呼ばれたラフレシアが目をぱちくりとさせた。イレーヌもラッフルが話題に昇ったことが意外らしく「あぁ」とあらぬ声を漏らした。
「そうね、もう十年以上も前になるなあ。当時結婚したばかりで、旦那があたしが実家を恋しがるだろうからってこの子をくれたの」
 ようやく今頃になってテレーゼはイレーヌの口から不意に亡くなった夫の話が出ても心を動かさずに済むようになってきた。それでもイレーヌ自身がどう思っているかはともかく、どうしても胸の内に違和感のようなものを抱かずにはいられない。
 イレーヌは隣に座るラッフルの頭の花弁に手を当てる。それから今のラッフルの大きさから縮めるようにその手ともう一方の手とでバッカーに使うボールほどの大きさを作る。
「まだこんなに小さいナゾノクサだったわ。今は人懐っこくて強気な子だけど、あの頃は人見知りですごく怖がりだったっけ」
 イレーヌはラッフルをからかうようにその顔を覗きこみ、「ねっ」と意地悪く笑った。心外だったのかイレーヌの笑顔を突っぱねて怒ったように鳴くラフレシア。
「立派にお育てになったんですね」
「そんな立派ってほどでもないわよ」
「でも……」
 不意にテレーゼはルナを抱く腕の力強くする。
「私はこの子の力をうまく引き出せないんです。いつか近衛兵の方が教えてくれました。人と一緒に暮らす獣の力は使役する者が上手く引き出すことでコントロールできるし、強くもなるって」
 テレーゼは自嘲気味に笑う。イレーヌはなぜ急に彼女がこんな話を始めたのか、なんとなく悟った。
 歴代のジオノ王の中でも賢帝と呼ばれた王には、獣を側においていた者が多い。そのことは国民の多くが知っている。イレーヌもまた例外ではない。
 テレーゼは考える。今から思えば両親が自分にムンナを授けたのは、既にあの時からテレーゼが将来の王となることに期待していた故なのかもしれない。
「ロビンから聞いたわよ。探偵事務所で難を逃れられたのはその子の“みらいよち”のおかげだって」
「この子自体はすごく強い力を持ってる。でも強すぎて持て余したり、本当に必要なときに使うことが出来なかったり。それを上手く引き出すのが私の役目なのに、どうすればいいのか分からないんです」
 過去の賢帝に獣を使役する者が多かった理由は人ならぬ存在である獣と心を通わすことと、数多くの臣下を従え民を動かすこととに何か通ずるものがあるからなのかもしれない。だからルナと心を通わせ、その力を引き出すことは自分が将来、王になることの必要な条件。テレーゼはそう考えていた。
「そうねえ。全然参考にならないだろうけど、こういうことって教えられてすぐ一昼夜で出来るようなものじゃないんじゃないかな? ラッフルも最初はすっごく怖がりであたしの言うことをなかなか聞いてくれなかったから。なにせ当時のこの子ったら変な表現だけど、頑固に臆病だったわ」
 イレーヌはからからと笑った。ラッフルとくれば当時のことを言われるのがやはり恥ずかしいらしく、両腕をパタパタと振り回しながら猛然と抗議の声をあげる。
「だからね、あんまり焦らなくてもいいんじゃないかな? あたしとこの子みたいに長い時間でいつの間にか出来るようになる人もいれば、ある日急に霊感でも降りたみたいに力を引き出せるようになる。そんなもんよ」
 イレーヌに言われるとそんな気がしてくるから不思議だ。
「そうなのかな……?」
 ふわり、とルナが体を浮かせる。風船のように浮かび上がった丸い獣は目の高さを主であるテレーゼのそれへと合わせる。互いの目が一つの直線で結ばれる。テレーゼはムンナの小さな二つの目にひたすら視線を注いだ。改めてこの子の目をじっと見るけれど、なんて綺麗な目をしているのだろう。
 ふと、前にも同じようなことがあった気がする。そんなに昔じゃない……。
 刹那、開けていた窓の外から鐘の音が流れてきた。その音に驚かされて、知らずの内に集中していたテレーゼの意識がぷっつりと途切れた。
「六時ね」
 セントラル大教会の時計塔が秒が零になる時間から三十を数える刻から下層の鐘楼にある四つの鐘を鳴らす。そして長針がXIIぴったりを指すその時、交互に鳴っていた音程の違う鐘が同時に鳴らされる。しかし六時と〇時では本来上層の鐘楼である大時鐘がなるはずなのだ。にもかかわらずその音は今は鳴らない。
 鐘の声が流れ去った後にやってくるのは静寂。午後六時の鐘が鳴ると街の空気がガラリと変わる。まるで鐘の音を合図に世界がそっくりそのまま似たような別の世界とすげ替えられたように。しかしここ一年は午後六時を挟んでも街の空気がどうにも変わり切れないきらいがある。その理由は誰もが知っている。大時鐘が上層の鐘楼ごと失くなっているからだ。
 つと、テレーゼが椅子を立った。窓辺に近づきそっと外を覗いた。日もすっかり沈んで街には夜が訪れようとしている。その中で堂々と佇む時計塔。ここからでも目に出来た。しかし大時鐘のあった最上部は失われている。その姿がどうにも物悲しい。
「イレーヌさん、私決めました」
 テレーゼはくるりと振り返り、両手を前に揃える。その様相に思わずイレーヌも背筋が伸びた。
「決めたって何を?」
 イレーヌの問いにテレーゼはにこりと微笑みで返した。



 ムクホークのラフトの姿はテレーゼとイレーヌが泊まる宿から人の足で五分ばかり歩いた位置にある建物の屋根の上にあった。そこからは宿のある交差点の三俣の全ての方向がちょと顔の向きを変えるだけで確実に見渡すことが出来た。すぐ下には路地が広がり、建物同士によって複雑に入り組んでいた。また裏手には水路が横たわっている。既に日も落ちてしまったことも相まり、元から濁っていた流れは炭のように黒々とした淵の様相を呈していた。
 普段は自由に適当なところを飛び回っているラフトであるが、相棒から仕事を受けた時はその態度は一変する。ラフトが主に勤める役割は偵察、それから監視、見張り。今もこうしてテレーゼとイレーヌに不審な影が寄り付かぬかを見張っている。相棒から受けた指示は『少しでも怪しい影が近づくようなら無理して戦わずに二人を逃がすことを優先しろ』だった。何かを乗せて飛ぶ力には自信があるつもりで、現に二日前の夜も二人を乗せて飛んでいる。
 暗くなってきた。日は西方へと去りゆき、世界には夜の闇が闊歩する。まだ茜色を残していた西の空もすっかり黒の天幕を張られ、空にはほんの少しだけ端が欠けた月が、まるで世界を見下ろし支配するかのように浮かぶ。サルビアの花畑と讃えられた赤レンガの街も影の中へと沈む。唯一つセントラル大教会の時計塔だけが、まるで巨人がどっしりと佇んでいるかのように、巨大な影を形作る。
 そのとき、何かが猛スピードで過ぎ去ったかのようにラフトはほんの僅かにバランスを崩した。ずっと気を張ってたから少し眠くなってきたのかと自分の中で完結させる。しかしふと、前にも似たような感覚を覚えたような、という思いがよぎる。。一体それが何なのかと思い出す間もなく、それはやって来た。
 ギロリ。何かの気配を察知し、ラフトの目は瞬時に黒く口を開けた路地の奥へと注がれた。
 誰かが走ってくる。耳に入ってくるあらい息遣い。何かに追われている。
 そして月明かりがその走っているものに優しく淡い光を投げかけた時、ラフトは愕然とした。
 その姿は紛れもなくずっとその姿を見張っているこの国の王女、テレーゼその人だったのだから。そんな馬鹿な。ラフトは思わず宿の方へと目を向ける。同時に目を見張った。二人が泊まる部屋の明かりが消えている。何がどうなっているのか理解できなかった。自分はほんの少し前までずっとあの部屋を見張っていた。目を離したのはなんとなく空に浮かぶ月を仰いだのと、一瞬眠気のようなものを感じ、そのあと足音の主を追っていた時だけ。時間にすると三十秒とない。その間に何が起きたのか。
 しかし考える暇はなかった。間もなくテレーゼの後ろから獣の姿が月の下へと晒されたのを見たからだ。二藍の布が意思を持ったようにふわふわと浮かび上がり、それが人形のような形を作って猛スピードでテレーゼへと迫る。ムウマと呼ばれる奴らだ。さらにその後ろに犬型の獣が数体続く。使役する人物の姿は見えない。別の場所にいるのだろう。
 すぐさまラフトは飛び立ち、まっすぐテレーゼのもとへと向かう。余計な戦いはしない。とにかくテレーゼを連れてここから離れればそれでいい。例え相手が鳥型の獣を使役してこようと、全力で逃げれば自分の翼なら撒ける。
「ああ、助けて!」
 テレーゼがラフトの姿に気づき、手を伸ばす。ラフトはさらに高度を落とし、テレーゼの前へと降り立った。
 だが、同時にその時違和感に襲われた。何かがおかしいと心の奥底で警鐘が叩かれる。よく見ると服装がおかしい。ずっと町娘の姿に扮していたはずなのに、どうして王宮で見るような服を……
 その時、ラフトは察知する。瞬時に翼で前に風を送り、その反動で自身を後ろに退かせる。しかしそれよりも早く、王女の姿をした者から斬撃が放たれる。その切っ先がムクホークの胸を刻んだ。走る痛覚。しかし大丈夫、掠っただけだ。つい今しがたまで助けを求めて必死だった王女の顔の口元に笑みが浮かぶ。
 刹那、王女の姿が水のように溶けたかと思うと、周囲の空間がぐにゃりと歪み、ガラスが砕けるように弾けたかと思うと元の路地の姿が現れる。そして水のように溶けた王女の姿はやがて一体の獣の姿を形作った。
 ラフトはその獣には目もくれず力強く羽ばたき、一気に上昇する。路地の谷を抜けて空が開ける。そして今一度遠くにある宿の方角へと目を向けると、予想した通りの光景がそこにあった。テレーゼとイレーヌが泊まる部屋の明かりが灯っている。さらに言えばラフトの遠くからでも見分けられる鋭い目によって、開いたカーテンからテレーゼが先ほどまでと変わらぬ様子でイレーヌと談笑している様子も映る。全てはあの獣が見せた幻影。しかも範囲が限られるであろうとはいえ、空間ごと目に見えるものを変えるほど強い力。
――無理して戦わず、二人を逃がすことを優先しろ。
 相棒の言葉が心中にこだまし、すぐさま彼は翼の行き先を宿の方角へと向けた。しかしその瞬間目の前を阻む者が。それは王女の姿をしたあの獣の後ろからついて来ていたムウマたち。
 その時、目の前に並ぶムウマたちが一斉にその目を瞼が裂けんばかりカッと見開き、そのすべての視線をラフトへと向ける。須臾、ラフトの視界全ての空間にそのムウマたちの目玉がおおった。己を睨む無数の目。その目の浜から一斉に視線を注がれた時、ラフトの体は無意識の内に宿の方向へと向かうことを拒んだ。意識は確かに宿へと向かおうとしているのに、まるで別の誰かから操られるかのように体がそれを拒否する。何をされたのか分かっている。“くろいまなざし”だ。
 心臓が早鐘のように鳴るのを感じる。
 今しがたラフトが抜けた路地の谷から影が飛び出した。振り仰ぐと、獣は丸い月を背負いながらラフトに迫る。
 咄嗟に身を翻し攻撃をかわす。ラフトがいた場所の煉瓦屋根が破裂するように弾けた。更に獣はラフトを追うことをやめない。
 こいつを倒し、周囲のムウマたちを蹴散らさぬことには宿に向かえない。
 ラフトは一気に上昇した。とにかく体勢を整えないことには迎え撃つことが出来ない。流石に獣の手の届かぬところまで昇ると、下を見下ろす。ふと、ラフトは自分の使える技を思い出した。そうだ。なにもいちいち相手を倒さずとも“ふきとばし”を使ってしまえば“くろいまなざし”からは逃れることが出来る。そのために必要な隙は一瞬だけでいい。ラフトは翼を構え、照準をあの獣に合わせると速力全開で急降下した。獣はまっすぐこちらを見据える。そしてラフトの体が獣のそれへと目前に迫った瞬間、その姿は消えた。一指弾にラフトは再び体勢を整える。避けられることは承知の上だった。整えると同時に翼を構える。その相手は周囲を囲むムウマたち。
 お前たちが目障りだ。そしてラフトは“ふきとばし”を起こそうと翼を大きく広げた。
 が、その刹那体が固まる。後少しで“ふきとばし”を起こそうとした翼はまるで石膏を塗られたようにぎくしゃくとし、まともに風が起こせない。何が起きたのか、と思う間もなくその原因が目に飛び込んできた。なんだ、あの動きは。見ると獣はラフトに向かって指のように長く鋭利な爪をちょいちょいと手招きをするように動かす。“ちょうはつ”。これにて“ふきとばし”も封じられてしまった。人間の場合だとこういう時歯ぎしりをするのだろう。
 獣へと睨みつけるラフト。進退窮まるこの状態から抜け出すにはもう相手を倒すしか選択肢は残っていない。
 ラフトは弾丸のように飛び出したかと思うと獣へまっすぐ突進する。獣はまたも跳躍にてそれをかわす。だがラフトもそれを予見してのこと。獣の姿が上方向へと消えるとほぼ同時にくるりと身を翻す。そこにはまだ宙で弧を描く獣の姿がある。そこを確実に追撃する。どんなに素早く動こうとも翼のないあるいは宙に浮く力を持たない相手は空中ではどうにもできない。
 捉えた。ラフトは飛び上がりつつ広げた翼を思いっきり獣へと打ち付けた。鋭い手応えを感じる。しかし瞬間、ラフトは耳を疑う。聞こえてきた苦痛の叫びは明らかにあの獣のものとは違う。屋根へと降り立つと同時に振り向く。そこに倒れていたのは黒い獣ではない。周囲を飛び回っていたムウマたちの中の一体。
 あっと理解した時には既に遅かった。更に上空から獣が腕を大きく振りかぶっていた。
 身体を引かせる、が数瞬遅れた。赤黒く光を帯びた爪はムクホークの肩のあたりを大きく引き裂き、同時に邪まな気に満ちた衝撃波を発生させる。
 一瞬にしてホワイトアウトする意識。ラフトの身体は衝撃波に吹き飛ばされ、翼は力を失い、吸い込まれるように水路へと落ちていく。途切れそうになる意識の中で、相棒のことを想う。知っていたのだ。この獣の持つ力も、使う技も。だのにそれはラフトの覚えているものとはあまりに違う。
 黒く口を開けた淵の向こうで大きなものが水面へと叩きつける飛沫を伴った音がこだました。
 獣はその様子を屋根の上から見届けると、口もとに毒念を含んだ笑みを浮かべた。そしてまたしてもその姿が水のように溶ける。次に取った姿は、今しがたその手で仕留めたムクホーク、ラフトの姿だった。

わたぬけ ( 2012/08/30(木) 00:08 )