10
翌朝、昨日の予告通りロビンは宿に電話をかけてきた。とりあえずのお互いの無事を確認すると、ロビンは手短に要件を伝えただけですぐにそっけなく電話を切ってしまった。その要件は次のようなものだ。
「宿を出て南に少し歩くと橋があるはずだ。その脇に階段があるから水路に降りろ。やがて水路は地下に入る。地下に入ってすぐの場所に協力者を待たせてあるから、そいつから女王からの返事を受け取ってくれ。テレーゼには悪いが俺は昨日の時点で先に読ませてもらった。」
その待ち合わせの時間は午前七時とのことだった。電話が終わり部屋に戻った二人が時計に目を向けると、時刻は午前六時四十分を少し過ぎたあたりだった。すぐに二人は寝間着を着替え、最低限の手荷物を取るとフロントに「少し朝の散歩をするから」と言いやってから出かけた。
扉を開けると朝のひんやりとした物静かな空気が二人を纏わる。上を仰ぐと朝焼けによって澄み切った鳥の子色の空が広がる。街中にはまだ寝ぼけ眼でぼんやりするように霞がかかっていた。立ち並ぶ建物に遮られて二人と一匹た立つ通りにはまだ陽の光は注がれない。少し寒いのかそれともまだ眠っていたかったのか、いつも元気にはしゃぐラッフルは何も言わずに静かだった。ルナは外に出る時はやはりボングリの中に入れておかなければならない。早くこの身に振りかかっている事態を解決してルナを心置きなく外に出してあげたい。テレーゼはムンナの入った丸い木の実を手に、しみじみとそう思った。
まだ眠気に包まれている
静寂の街をしばらく歩くと、やがて水路にかかる
件の石橋へと差し掛かった。そして橋の左脇にはロビンの言った通り、水路の側道へと降りる階段があった。
階段を降り、側道を水路の流れを遡る方向へと歩く。水路の水は音も立てず、ほとんどあるか無いかの判断がつかない勾配をゆっくりと流れていく。その水路から漂ってくる臭いにテレーゼは閉口した。生臭く、食べ物が腐敗したような臭い。水は排水や繁殖した藻によって黒っぽい緑色に濁っている。
「大丈夫?」
思わず鼻をおさえたテレーゼの肩をイレーヌは支えた。
「大丈夫です。ちょっとこういうのに慣れてなかっただけ」
ようやく鼻が慣れてきたテレーゼは気丈に頷いた。この臭いにはラッフルも参ってるらしく、口をおさえている。
「ごめんねラッフル、しばらく我慢して」
己の主に頭の花弁を優しく撫でられると、ラフレシアは百人力でも得たように顔を上げて胸を張った。
鼻は慣れたものの、不快に疼く悪心は残る。
やがて二人には地下に入る入口へと差し掛かった。水路はある建物にぶつかるとその下にぽっかりと開いている穴から水が流れ込んでいた。そして側道もまたその穴に吸い込まれるように続いている。口を開くトンネルの上部の煉瓦には小さく「13」と番号が刻印されていた。
その時、遠くからセントラル大教会時計塔の時鐘の音が冷えた空気に乗って届いた。ここから聞こえる鐘の音は三方向に囲まれた建物に反響し、まるで二つの時計塔が一瞬遅れで鐘を鳴らしているかのようだ。
「七時ね」
ロビンの言っていた約束の時間だ。ロビンの言う協力者がきちんと時間を守る人物であるなら、もう来ているはずだった。
「やっぱり中に入らないと駄目でしょうか?」
テレーゼがおずおずと地下への入口の奥を見渡しながら呟いた。二人がこれ以上中に入るのに抵抗を覚えるのも無理もない。地下は臭いの逃げ場がない。そうなるとこの水路から臭ってくる臭気は外とは段違いなものだろう。ここでさ閉口するほどなのに、中は如何程のものだろうかということなぞ考えたくもない。
揃ってため息をつき、中に入ろうという意を固めようとしているその時、虚無へと続いているかのような穴の向こうから物音が近づいてきた。何か硬い爪のようなものが軽やかに地面を駆ける音。ロビンの言う『協力者』というのがてっきり人間だと思っていた二人は面食らうことになる。やがて姿を現したその者は人間の姿ではなかった。全体的に楕円を描くような体型で、小麦色のゴワゴワとした毛が全身を包むネズミ型の獣。白く他に比べて長く鋭く発達している前歯を剥いて炯々とした目を二人と一匹へと注いでいた。それはラッタという種族。そしてラッタの頭の上にはもう一匹、獣が乗っかっている。ラッタに比べるとそれこそその頭の上に乗れるほど小さいが、やはり発達した前歯を輝かせ、紫とも灰色ともつかぬ色の毛に覆われ口元とお腹の辺りは練色である。ラッタが進化する前の姿。
テレーゼとイレーヌの二人は始めこの意外な展開に呆気に取られるが、すぐにテレーゼの目があるものを発見した。
「イレーヌさん、コラッタを見て」
テレーゼが指さした先――コラッタの背には丸めた羊皮紙が乗っかっており、それが細い紐によってコラッタの体に括りつけられていた。
「やっぱり、あなたが協力者?」
イレーヌが少しずつ距離を狭めながら尋ねると、ラッタはこくんと頷く。その頭の上に乗っていたコラッタはバランスを崩したついでに音も立てずに地面にひょいと飛び降りた。そして己の背中に結び付けられている羊皮紙を顎で示しながら小さくきぃと鳴いた。その仕草の愛くるしさに二人の人間は互いに顔を見合わせて笑みをこぼした。
*
キースは山間に広がる長閑な田舎町だった。もう何百万年とも何千万年とも遡るような大昔、この地は天を貫くほどもある火山だったらしい。それが三万年ほど過去に起きた最大級の破局噴火によって山体は崩壊し、残った山壁によって巨大なカルデラが築かれた。以降火山は長い長い眠りにつくように活動を停止し、残ったカルデラはそのまま広大な盆地となった。そこに後世、人が移り住み始めたのがキースの始まりという。町を、まるで巨人が横たわっているかのように囲むカルデラは、元はもっと険しく切り立っていたのが、長い年月による雨風の侵食によって緩やかな稜線を描くに至っている。なだらかな山裾には葡萄畑が広がり、この地で収穫される葡萄やその葡萄で製造されるワインがこのキースの主要な産業となっていた。盆地の底の部分となる平地には小麦畑が広がる。しかしそれらはこのカルデラによる盆地の南側に過ぎない。盆地の北半分は未だ未開で広闊な森林が横たわっているのだ。その森と街とのちょうど境にある小高い丘にその館はあった。石造りの土台や屋根に柱。壁には元は白い漆喰が塗られていたらしい。しかし今、それはある部分は剥がれ落ち、またある部分は風雨にさらされ黒ずんでいる。そして長年の放置によって生え放題になっている蔦が全面に絡みついている。館は丘の上に佇んでいるためにカルデラ南部に広がる町のどこからでもその姿が見受けられた。さながら町全体を長年にわたって監視しているかのように。
この廃墟こそがセルゲイによって王都に移る前、代々アルゴス侯爵家が住まいとしていた館だった。
家は生き物だ、という話をロビンは聞いたことがある。家は人が住んでいると多少荒い扱われ方をしようとちょっとやそっとのことでは朽ちることはない。しかし人の影が消え、無人となった家は恐るべき速度で朽ち果てていく。この館もセルゲイが去ってからまだ五年も経過していないはずだ。だというのにこれほどまでに哀愁に満ちた姿を晒すものだろうか。館の周囲には王都のそれほどではないにしろ、やはり鉄格子のような塀で覆われており、唯一の出入り口となる門は板を何重にも重ねて厳重に封鎖してあった。
さて、どうやって中に入ったものか、とロビンは腕を組む。同時に昨夜、列車の出発前に読んだ女王からの返事の内容を思い出す。
【テレーゼ、あなたが無事でいるというだけで私のこれまでの苦渋が報われた思いです。見張りがいつ戻ってくるとも分からないので必要なことだけを記します。
まず一つ目の質問への回答。これは正直に言って分からないとしか申しようがありません。侯爵はこう言ってました『思いだせ。思い出さずのうのうと玉座に居座り続ける。それが貴様の罪だ』と。そしてこうも言っていました。『罪の告白をするのは俺に対してではない』とも。王である以上、己のあずかり知らぬ所で罪を作っているというのは理解しているつもりです。しかし侯爵の口ぶりでは私は彼の動機となることを知っているはずのようです。しかし私には情けないことに本当に何もわからないのです。
二つ目。私の偽者についても残念ながら分かりません。しかし今になって囚われの身となった夜のことを思い起こすと妙な感じがします。というのも、月明かりがあの者を照らした瞬間、私はあの者を目にしたのですが、月明かりが降り注ぐ直前まであの者の姿は別の形を取っていたように思えるのです。
三つ目。私が囚われている場所は侯爵の邸宅内にある中庭の隅に位置する離れのような建物です。この建物の中でなら自由に動けるのでおそらくはあなた方がお考えになっているよりは不自由していません。ですが庭にはヘルガー、グラエナ、ハーデリアといった犬型の獣が放されており、ひとたび建物を出ようとしたりあるいは誰かが侵入しようものなら一気に襲い掛かってくることでしょう。離れには常時見張りを兼ねた女中が二人駐在しており、時々その女中たちを統べる男が見回りにやってきます。彼女らは私とは何も口を利きませんし、目を合わせることもありません。侯爵は週に一度やってきて私に思い出したかと尋ねてきますが、私が何も知らないことを述べるとそれ以上は何も言わず去っていきます。
それと私と一緒に側近の一人で相談役となっているデジレが囚われております。デジレの励ましがなければ私はとっくに全てを諦めていたでしょう。
テレーゼへ。あなたが無事で本当に良かった。私を救うために奮闘していると聞いて、私は本当に素晴らしい娘を賜ったと神に感謝します。だけど自分の身が本当に危ないと感じたら私のことは構わずお逃げなさい。
協力者の方へ。あなたには心から感謝申し上げます。あまり有力な情報を提供できず申し訳ない思いです。言葉少なですが、どうかテレーゼのことをお願いします】
ロビンは敷地を囲む鉄柵に沿って歩き始めた。別にそんな面倒なやり方をせずとも入れる方法はあるのだが、万一誰かに見られてしまえば面倒だ。
鉄柵は門に面した道から外れ森の奥へ入ってく。それに誘われるようにロビンは森の中へ足を踏み入れる。
偽女王の正体の予想はもはや確信となった。今までずっと想像していた者はいたのだが、女王からの手紙はその想像を確信へと変える後押しにすぎない。あとは侯爵の動機を知るだけだ。そのためにも一番何かが残っている可能性が高いここを探る必要があった。
「おっ」
僥倖は唐突に到来する。鉄柵に沿ってしばらく歩いていると、獣が行き来したように草が左右に倒れた道が出来上がっており、その道と格子がぶつかった所で鉄の棒がぐにゃりとこじ開けるように歪んでいた。どうやら獣が迷い込んで無理に通った跡のようだ。歪んだ幅は折よく人一人なんとかくぐり抜けられるような大きさになっている。
ロビンは口元に笑みを浮かべ、歪みによって出来た穴の前に屈みこんだ。そしてゆっくりと手を入れ頭を入れそしてなんとか身体を通し切ることに成功する。
「意外と楽にいけたな」
先ほど門の前に立った際、正面の大扉はやはり封鎖されていた。この分だと裏口のようなものがあったとしてもやはり同様に封鎖されていることだろう。そんなとき、ちょうどよく窓が一枚破れていたのでそこから中に入った。何もない空っぽの部屋。誇りとカビの入り混じった臭いが鼻を刺激する。床板は腐り、ガラス片があたりに散らばっていた。天井に吊り下げていたシャンデリアが何かの拍子に落ちて粉々になっているのだ。ガラス片に気を配りながらその小さな部屋の扉を抜けると左右に回廊が通っていた。薄暗く先が見えない。
「時期にゴーストの巣になりそうだな」
人の住まなくなった廃屋は長い時間が立つとどこからともなくゴーストたちがやってきて住み着く。もちろん彼らも好き嫌いがあるからどんな建物にでもやってくるわけではない。その好き嫌いがどのような点で判断されるのかはまだ明らかになっていないのだが。
一歩踏みしめるごとに床板が悲鳴を上げる。突き破って怪我でもしたら笑えない。なるべく踏みしめる時の衝撃を柔らかくし、比較的にしっかりしていそうな場所を選んで足を置く。
やがて扉に突き当たったのでドアノブに手を掛ける。そのとき、朽ちた扉が蝶番の部分からガタンと外れ、腐った床を砕きつつ向こう側へと倒れこんだ。床板と扉枠が悲鳴を上げる。そして激しい音を立てながら扉が奥側の床に打ち付けられるとまるで火薬でも破裂させたように埃が舞い上がった。さすがのロビンもこれには肝を少々ながら騒がせてしまう。
「弁償代の請求は勘弁してくれよ」
そうぼやきながら倒れこんだ扉の上を踏み渡った。
一気に天井が開ける。そこは玄関ホールだった。右手に大扉が位置し、その大扉からすぐ右へと折れた所に階段があった。階段は玄関ホールの壁に沿って折れ曲がりつつ二階へと続いていた。たくさんの窓がはめこまれ、本来であるならばこの玄関ホールを太陽の光で明るく照らしているに違いない。しかし窓はやはりどれも封印を施され、その板の隙間から微かに絹のカーテンのような薄い光を投げかけているに過ぎなかった。
そして微かに感じた。何かの気配。いや、気配というのにはちょっと言葉が足りない。何かが潜んでいるとか、生きているものの気配とは言い難い。それは寧ろ誰かが残していった残留思念、もっと分かりやすい言い方をすれば怨念。
「やはり何かあるな……」
そしてロビンは誰も居なくなった館の中を隈なく捜索した。一階から順に一部屋一部屋を調べて回る。一階が済めば二階へ。クローゼットや風呂場に至るまで全ての部屋を回る。しかし、結果は芳しいものとはいえなかった。やはり最初に窓から入った部屋と同様に、どの部屋も家具はもちろんのこと調度品に至るまで徹底的に物を運びだされており、せいぜい残っているのはかつてここを人が出入りしていたことを示す床の凹みくらいのもの。
しかしついにそれはロビンの手によって発見される。
地下室を探っている時だった。地下室といっても傍目から見れば特に怪しいところはない。どうやら元はワイン貯蔵庫として使われていたらしく、空になった木箱や割れたワインボトルの破片がいくつか見受けられた。地下室事態もどういう構造なのか地上から空気が吹き抜けるような造りになっており、幾分ひんやりとする。
ロビンがある壁の一角に手を当てる。目を凝らして注意深く見る、なんてことをしなければ誰も気づかないだろう。壁の漆喰が微かにだが塗り直された跡が残り、その跡をたどるとちょうど扉一枚分の大きさになる。
「ビンゴだな」
ロビンはようやく口元に笑みを浮かべた。壁に衝撃を加えると塗り直された部分は存外簡単に剥がれ落ちた。剥がれ落ちた部分から漆喰をぼろぼろと落としていくとやがて姿を表すのは一枚の扉。ノブが外されており、そしてこれもまた厳重に板で封印されていた。
そして板を剥がしつつ、扉を破った。
瞬間、走る悪寒。館を捜索している間じゅうずっと何となく感じていた怨念のようなものの元がここにある。
部屋の大きさは五メートル四方といったところだ。四方が石壁に囲まれ、天井は低い。ランプをかざすと妙なものが見えた。始め、壁に黴が生じているように見えた。一面が黒ずんでいる。いやそうでない部分のちらちらと見受けられる。よくよく目を凝らすとそれは何かが這ったような跡に見えた。つんと鉄のような臭いが鼻につく。そしてロビンは壁に手を当て、ランプをかざしてさらにその這ったような跡に目を凝らした。
刹那、仰け反る。それは黒いインク……否……、この部屋に閉じ込められた者の血によって書かれた文字だった。四方の壁に一面同じような意味の言葉がひたすら、ただひたすらに繰り返されている。
『出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれ出してくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれだしてくれ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せダシテクレダシテクレダシテクレダシテクレダシテクレダシテクダシテクレダシテクレダシテクレダシテクレダシテレダセダセダセダセダセダセダセダセダセダセダセダセダセダシテクダサイ……』
びっしりと書かれた血文字。それは今にも壁から離れ襲いかかってきそうな気迫さえ感じる。たまらず目を背けたロビンは部屋の隅に“それ”を発見する。それは一見ボロ布が打ちやってあるように見える。しかしそのボロ布は明らかに下に何かがあるように盛り上がりが生じている。徐にロビンは布の一部分を剥ぐ。その下に隠れていたものが顕になる。
それは横向きに倒れている骸。肉のあった部分はもはや完全に腐り果て、一部分がボロ布に張り付いているがほぼ全身が白骨化していた。もはや骨と頭骨に張り付いている髪の毛だけになっている顔は一部がひび割れており、息絶える直前まで錯乱し苦悶していたことを物語っている。そして自らの身体を傷つけ、傷口から垂れた血を使って壁一面にこの狂気の文字を書き続けたのだろう。
「誰だか知らんが……」
この人物はどうしてこんな場所に、扉を封印されるまでに閉じ込められていたのだろう。ロビンはかつて服だった布切れの手を離そうとしたその時、はだけた内側の隙間から紙切れが顔をのぞかせているのに気づいた。
破れないように慎重に引き抜くとそれは四つ折りに折りたたまれた便箋のようだった。元は白かったのかもしれないが、経年と骸の腐敗に巻き込まれてシミのような茶色に染まり、表面がとろりとした感触に覆われていた。開くのにも一苦労で紙同士がパリパリに張り付いているので、ちょっと力加減を間違えれば破れてしまいそうだった。分単位にも渡る時間をかけて慎重に紙面を開いた時、そこに書かれている文章を目にしてロビンはここに来たのは正解だったと確信した。
『私の中にまだ正気が残っている内に、これまであったことをここに書き留めておこうと思う』という一文で始まっていた。そして便箋の末尾にはうっすらだが署名されていることが分かる。そこに書かれている名前は……
――ダニエル・アルゴス
セルゲイ・アルゴスの父であり、先代アルゴス侯爵家当主であり、私生児であるセルゲイに家督を譲った後は天寿を全うし一族代々の墓に葬られたはずのその人の名前だった。