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風の強い夜は決まって何かが起こる。もはやこれは物語というジャンルにとって定石とも言って良いお決まりであるが、この話が始まるきっかけとなる出来事が起こるのもやはり大風の吹き荒れる晩のことだった。
ジオノ王国の王都、赤煉瓦風景の美しい街の一角にあるアパートメント。そこの一室のソファでうとうとと眠りかけていた男の耳をドンドンという乱暴で礼儀を知らない音が打った。最初、彼はこの大風で窓が揺れているのものだと思った。気にすることはない、そのまま眠ってしまおうと被っている毛布により深く潜り込んだ。しかし何かが打つ音は明らかに誰かが叩いているように規則的に繰り返され、さらには次第に強く耳障りになっていく。ようやく彼はこれは玄関の扉を誰かが叩いているのだと気づく。
これから寝ようって時に一体誰だこんな時間に。いくらなんでも非常識が過ぎるだろ。
イライラしながら毛布をはねのけると、ナイトテーブルに置いてある燭台に火をともした。別に暗闇なんて慣れてるものだからわざわざ燭台を持ち出す必要など無いのだが、誰かを前にするとしたら話が違ってくるものだから面倒なことだった。中間を抜けて玄関へ出ると音はますます大きくなる。途中の壁にかけてある振り子時計に目をやるともう午後十一時に回りそうな時刻だった。彼ははあっとため息を付き、玄関の扉を前にした。
「わざわざこんな時間にご苦労なことですが、あいにく店じまいの時間をもう“四時間近く”過ぎてますよ」
“四時間近く”という言葉をイライラも手伝って毒っぽい皮肉を交えて強調した。すると扉を叩く音がピタリと止む。部屋とアパートメントの回廊を隔てる板一枚を隔てているので直接目で確認は出来ないが、明らかに向こう側に誰かがいる気配を感じた。奇妙に間が空いてしまったので彼は腹の中のいらだちを抑えながらまた何か言おうと口を開きかけた。しかしそれよりも早く扉の向こう側から微かに声が聞こえた。
「ごめんなさい。どうしてもお願いがあるんです。中に入れてもらえませんか」
驚いたことにその声の響きは女性のものだった。更に言うとまだあどけなさの抜け切らない少女という感じの。
「悪いが時間外の受付は一切お断りだ。しかも年端も行かないお嬢さん相手とあっちゃ尚更だ。言いたくないがこっちはこんな時間に叩き起こされてイライラしてるんだよ」
「このような時間にお伺いする非礼は百も承知です。ですがどうか……。私はこの時間しか、どうしても来ることができないんです」
相手は己の非を認めているようではあるが、引き下がる様子はない。
「どんな事情か知らないが駄目なもんは駄目だ。あんまりしつこいようなら警察を呼ぶぞ」
十分な脅し文句のつもりだったが、少女はそれにすら引き下がらず、さらに食い下がった。
「なら警察の方がいらっしゃるまでの間、ご近所中に聞こえるほどの声である事ない事叫んでやりますよ」
その声には今まで殊勝に秘していた気の強さと張りを感じさせた。彼の勘がこの少女は本気でやりかねないと警鐘を鳴らす。ひときわ大きな風が通り過ぎ、窓をガタガタと鳴らした。彼はしばらく考えた後、再び大きくため息をつくと玄関の扉に大股で近寄り、錠を外した。
「負けたよ。ほら、鍵を開けたから入るならさっさと入ってくれ」
彼はそう言って扉から一歩離れた。しかし扉が開くまでに間が入った。ここに来て扉の向こうの人物が躊躇しているのか。しかしやがてゆっくりと回廊側に扉が引かれ、その向こうから彼より頭一つと半分ほど低い背丈の人影が現れた。彼の持つ燭台の明かりに照らされ、少女の全体像がぼんやりとした暗闇から浮かび上がった。おそらく出来るだけ宵闇に紛れられるような服装を選んだのだろう。頭からは喪服として使われるような黒のベールを被り、首には同じように黒のふわりとしたショールを巻いている。服にはダークグレイで袖の長いワンピースを選んでいる。しかしそれらは外のこの大風に相当煽られたと見える。この建物に入った折に一応改めて整えたと思われるが、それでもあちこちに乱れた跡が残っている。
しかしここまで黒系に徹底するとは。よっぽど人目につきたくなかったのか。
そして少女は部屋の空間へと入り込み玄関の扉を後ろ手に閉めると、被っていたショールを外しまるで水中から浮上したようにぶるんと頭を一振りした。それと共に現れるのは毛先がふわりとパーマがかり、燃え上がるような栗色の髪。そしてショールを外し、手に装着しているブラウンの長手袋も外すとその下から磁器のように白い素肌が晒された。
彼は少女が「この時間にしか来られない」と言った理由を推理する。なるほど、この上品な出で立ちから考えるとどこぞの男爵だか伯爵だかのご令嬢といったところか。昼間は家族や召使の目が厳しくてどうしても来られない。そこで宵も更け、自室で眠ったふりをしてこっそり家を抜けだしてわざわざやって来た、ってところだな。
「あの、こんな本当に非常識な時間に非常識なやり方で入れてもらってこのようなことを訊くのもなんなのですが……。あなたが、あのご高名なる名探偵のクインズ様でございますよね?」
少女はすがるような目をして彼を見つめた。彼は一瞬目を逸らすと、「立ち話もなんだ。奥で話を聞こうじゃないか」とくるりと背を向けた。少女は顔をパッと輝かせ音を立てぬように注意を払った足取りで後に続いた。部屋の中を歩く途中、またも一際強い突風が吹きつけ、カーテンの向こうにかかった窓がガタガタと叫んだ。少女は思わずどきりと飛び上がりそうになる。
彼は来客用のテーブルに燭台を置くと、椅子を引いた。少女は吸い込まれるようにその椅子へと腰掛ける。そしてクインズと呼ばれた男は対の位置にある椅子に腰掛けると、億劫そうに肘をテーブルにつけた。
「改めて、ようこそクインズ探偵事務所へ」
「そう言う割りにはあまり歓迎されてないように見えますわ」
「そりゃあ、これから寝ようって時に叩き起こされたら誰だってこうなるさ。おっと、謝らなくていいからな。なだめるのも面倒だ」
男は両手を組んで後頭部に当てると、背もたれに寄りかかった。なんの予告もなしに荷重をかけられた椅子がギィギィと悲鳴を上げる。その仕草を目にして少女は緊張が解けてきたのか、口元を思わずほころばせた。
「面白いお方ですね」
「そりゃどうも。それで? ここに来たからにはそれなりの依頼があってのことなんだろう?」
何か順番を間違えているような、と彼は思ったがとりあえず脇に置いておくことにした。
少女はベールとショールをたたんでテーブルの端に置くと、両手を膝の上に乗せそして顔を伏せる。
「お母様が……」
そこで少女は言葉を飲み込んだ。まるでこれから要件を言わんとしている自分に対して重業な罪深さを感じているかのように。男は何も言わない。依頼人が土壇場になって自分のやろうとしている行いに対して罪悪感のようなものを感じ、なかなか口に出せない光景は何度も目にしていた。そういうときは相手の口を急かすような事はせず、粘り強く待つのだった。タバコでも吸いたいところだが人前で吸う姿は決して見せられない。
少女はギュッと握りしめて中に汗を溜めていた両手の力をようやく弱め、おずおずと顔を上げた。
「お母様が、知らない誰かと入れ替わってるかもしれないんです!」
顔を上げた少女の目は涙でいっぱいに溢れ、今にも溢れださんばかりだった。
母親が知らない誰かと入れ替わってるかも知れない。想像よりも随分大きな話だ。しかしそれだけ言われたのでは何も把握できない。
「詳しく聞こうか。と、その前に」
彼は席を立って一旦奥の間へと引っ込むと、やがてその手にフェルト製で厚手のブランケットを持ち出し、それを乱暴に少女へ投げ渡した。ブランケットはふわりと周りの空気を包み込みながら少女が反射的に伸ばした手の内へと吸い込まれた。
「肩から被るなり膝にかけるなり好きにしてくれ。相手が寒そうにしてるとこっちまで移る性質(タチ)だからな」
少女はそこにきてようやく自分が全身をかたかたと震わせていることに気づいた。ここに来るにあたっての緊張のせいもあったが、外の大風に吹きさらされてすっかり体温が冷え切ってしまっていたのだ。
「あ、ありがとうございます」
「どのくらい外を歩いた?」
「ここまでの地図を持ってましたからほとんど迷わずに来られましたけど、なにぶん風が強くて。だいたい四十分くらいかかりました」
「なるほど、そりゃ冷えるはずだ。じゃ、話のほうを続けてくれるか」
少女は「はい」と答え、男から渡されたブランケットを肩から被り身を丸めた。そこで再び言葉につまるような間が空いたが、今度は先のように長いものにはならず、すぐに少女は口を開いた。
「先程も申しましたように、私のお母様が全くの別人と入れ替わってるのかもしれないんです」
「『かも』ってのが解せないな。別人に入れ替わってるってのにそんな自信が持てないものなのか?」
「いえ、姿形や私への接し方は確かにお母様に違いありません。ですが……ここ最近人が変わられたようになって」
「なるほど、人が変わったようにか」
彼が少女に顔を向けた時、少女は目を逸らしていた。両手をテーブルの上に置いて互いの指をせわしなく組み直す。彼女が顔を動かす度にふわふわとした髪がまるで炎が揺らめくように動く。やがて意を決したように「あの」と漏らすと、搾り出すような声で言った。
「きっと信じてもらえないでしょうけど、実は私の名前は――」
「テレーゼ・シェルストレーム。この国の統治者、レオノーラ女王の第一王女、テレーゼ王女――だろ?」
彼のその言葉に少女は思わず驚愕の叫びをあげた。その声はどこからかのすきま風によって生じる空気の唸りの中へと吸い込まれる。きっとクインズ探偵を驚かすことになるだろうと思っていたところ、逆に自分のほうが驚かされるとは。少女はしどろもどろになりながら「どうして」とようやく言葉を引っ張り出す。その声はまるで字を覚えたばかりの子供がたどたどしく書いた文章のようだった。
「簡単な推理だよ。別に深く考えなくたって分かる。まずこんな時間にしか来られないということで、理由として最初に思い浮かぶのは昼間は何らかの監視みたいなものがあって自由に動けないってことだ。監視と言っちゃ大げさだがその事情は学校だとか仕事だとかいろいろ考えられる。が、終業の午後四時、五時以降には来られる。わざわざこんな夜更けに来る必要なんてない。一応ここは七時まで開けてるからな。となると残った候補の中で一番考えられるのは朝から晩まで家族やら家庭教師やらの目のあるどこぞの良家の娘さんってことになる。それに服装も地味で夜に目立たない物を選んできたようだが、このショール一つ取っても生地はマユルドのシルクをふんだんに使ったかなりの高級品だ」
「でも、この街には他の貴族の方もたくさん住んでらっしゃいます」
「もちろん、これだけの推理じゃどこかのご令嬢ってだけで、王女様とまでは分からんさ。次にほとんど迷わずに大風の中を四十分ほどかけて歩いて来たって言ったろ?」
彼は椅子から立ち、テーブルの燭台を手に取ると後ろの壁へと近づいた。そして燭台の明かりを壁に近づけるとそこに掛けられているこの街の地図がぼんやりと暗闇の中から浮かび上がった。そして地図の一点を男は指差す。
「この位置がこの探偵事務所だ。ここからお嬢さんくらいの足で四十分ほど歩くとなると大風に逆らうことを踏まえて移動できる範囲はだいたいこのくらいだな」
彼は指さした点を中心にゴルフボールより一周り大きいほどの円を描いた。円の中には王宮であるサン・シュモール宮の敷地の一部も含まれる。
「この範囲に含まれる主だった王侯貴族の屋敷は王宮方面を中心にコーネル伯爵家、アルタ侯爵家、鉄道会社社長ベルギーニの邸宅、そしてサン・シュモール宮殿とある。まずコーネル伯爵だが彼はそもそも女児を儲けてはいないので除外。次にアルタ侯爵にはちょうどお前さんくらいの娘がいるがここから近すぎる。ゆっくり歩いても十分で着ける距離だ。道に迷って時間がかかったなら分かるが、お前さんは迷わなかったと言ったので断定はできないにしろ可能性は低い。ベルギーニは男児四人、女児二人と子沢山だが、娘さんたちは二人とも成人していて更に言うと既に別の家に嫁いでいるのでこれもやはり無し。すると最後に残るのはサン・シュモール宮の主、レオノーラ女王陛下の一人娘テレーゼ王女殿下となるわけさ」
畳み掛けるような彼の言葉に少女――テレーゼ王女は身じろぎも出来なかった。まるでピンで留められた標本のようにぴったりと空間レベルで貼りついてるようだった。やがて彼女は肺の中に溜まっていた空気を押し出し、呼吸を整える。
「お見事です。噂に聞いたとおりでございますね」
「なあに、師匠に比べたらまだ足元にも及ばないさ」
「あなた様のお師匠様ですか」
「まあな。……さて横道にそれるのはこれくらいにしよう。しかしこりゃ妙なことになったな。お前さんのお袋さんの話ってことは、つまり女王陛下が何者かと入れ替わってる可能性があるってことじゃねえか」
彼は腕を組んで再び背もたれに寄りかかる。
「それまで親しくしていた側近を急に蔑ろにしたり、昔なじみの召使いたちを次々に入れ替えたり、政務のないときは自室に篭りがちになったり。とにかく今のお母様は普通じゃありません」
「でもそれだけじゃ性格的な変化が生じただけとも取れるぜ」
「私だって最初はそう考えました。でも……」
テレーゼは拳をギュッと握りしめた。爪が手のひらへと喰い込む。探偵は悟る。まだ何かあるのだ。この王室嫡流の娘が己の母を母ではないと確信する決定的な何かが。
「指輪を……」
「指輪?」
「先王であるお父様が二年前に病気で亡くなった時、最後の別れの際にお母様は誰にも気付かれないようにお父様の指から結婚指輪を外しました。お母様はそれが罪深いことだと自覚していましたが、お父様との契りの証をどうしても手元に残しておきたいとお考えになって、左手の薬指には自分に贈られた指輪をはめ、そして懐にはお父様の指輪を年中毎日肌身離さず持っていたのです。このことは誰も知りません。私でさえ一年前ちょっとした偶然でお母様がお父様の指輪を持っているのを目にするまで気づきませんでした。そのときにお母様は今申しました事情を私に教えてくれて、そしてこれはどうか誰にも言うなって固く忠告なさいました」
なるほど、話が見えてきたぞ。彼は胸の中でそうひとりごちた。テレーゼは一呼吸置き、話を続けた。
「お母様の様子が変わってきたのはふた月ほど前からです。先程も申しましたように最初は何か気持ちの変化のようなものが生じたのかと思ってたのですが、一週間前……」
テレーゼはごくりと唾を飲み込んだ。話の核心をこれから語るにあたって王女はその時に自分が目にした光景を未だに信じることができないようであった。自分の気持と目にしたものとの隔離の大きさに彼女のまぶたからついに熱い涙が溢れ出す。
「私は……最初は冗談のつもりだったんです。いえ、違う。お母様が自分の知るお母様だと確かめたかったのかもしれない。私……お母様に訊いたんです。『お父様の指輪はどうしているか』って。そしたらお母様、びっくりしたように『なんのこと?』っておっしゃったんです。『もう持つのはやめた』とか『失くしてしまった』とかならまだ分かります。でも……でも、最初から知らなかったみたいに『なんのこと』だなんて……」
ひときわ大きな風が窓をガタガタと鳴らし、すきま風はなにか得体のしれない怪鳥のように唸る。しかしその中あってもテレーゼ王女の嗚咽ははっきりと彼の耳に届いた。彼の目に映るその姿は華やかな王宮で暮らし、何かあっては潤麗なる舞踏会で可憐に舞う王族の嫡流の娘ではなく、どこにでもいるようなごく普通の少女と何の変わりもなかった。
「それで私、怖くなって……。もし本当にお母様が誰かと入れ替わってるのなら、本物のお母様は今どうなっているのかって。もしかしたら……」
それ以上の言葉をテレーゼは口にしなかった。しかし言わんとしていることは推理するまでもないことだった。彼はぼんやりと燭台が映しだしゆらゆらと揺れる影に視線を落としていた。入れ替わり……か。
「なるほど、もしこれが何者かによる陰謀だとすると、召使が入れ替えられたのはそいつの息のかかった者によって王族を監視するためとも言えるな。そしてもはや王宮に頼れる者がほとんどいなくなっちまったアンタは藁にもすがる思いで俺のところに来たってわけか」
テレーゼはポケットからハンカチを取り出し、顔を拭った。ほとんど下品さを感じさせない仕草で洟をかむとようやく嗚咽が落ち着いてきたようだった。彼女は伏せていた顔を上げ、探偵の目に視線を注いだ。
「あなた様のことは、いつか噂で耳にしていました。プルスコ通りの一角に凄腕の探偵がいるって。それでなんとか地図などでこの場所を調べて、今日自室で就寝したふりをしてこっそり王宮を抜けだしてきたのです。本当はルナも連れてきたかったんですが、あの子はなにかと目立ってしまいますし」
「ルナ?」
「私と一緒に住んでるムンナのことです。今回の件ではあの子も何かを感じてるらしく、ずっと怯えています。あ、ムンナってご存知ですか?」
「ああ、知ってるよ。こう丸っこくて夢を食べるって生き物だろ?」
彼は手振りで大きな卵を横に倒したような楕円形を宙に描く。テレーゼはそれを目にしてくすっと笑いながらうんうんと頷いた。
「さすが探偵をなさってるお方は博識ですね」
「大したことない。分からないことにぶつかると必要ならその都度調べてただけだ。ところでだ」
探偵は身を乗り出した。テレーゼはその勢いに気圧され、思わず身を固くする。そのときテレーゼは探偵の目を否応なく見つめることとなる。その瞳の奥を燭台の炎が照らし出す。最初は気だるそうに見えた黒い瞳が、炎のあかりと重なって金色に輝いているように見える。少し気を許してしまえばその瞳の奥へと吸い込まれてしまいそうだった。
綺麗な目……。
「まだ色々話したいことはあるだろうが、そろそろハッキリさせてもらいたい。つまりだ、お前さんは俺にどうして欲しいんだ?」
テレーゼは息を呑んだ。そうだ、自分は何のためにここに来たか。ただ王族的な世間話をするためではないだろう。
胸が昂った。どうしてこんなに動悸がするのだろうか、テレーゼは理解出来ない。
「どうか……」
声が震える。喉がかすれる。
ぶるんと柵を振り払うように頭を振るうと、つばをごくりと呑み込みお腹のあたりに力を入れた。
「どうかお母様を今宮廷で起こっている陰謀を暴きそして、お母様を……お助けください」
瞬間、探偵は椅子が倒れそうな勢いで席を立った。そして後ろにある戸棚の引き出しをごそごそと探ると、やがて一枚の書類を取り出しそれをテーブルの上に叩きつけた。
「ちょっとばっかし面倒な事になりそうだから、その分報酬はたんまりといただくが、いいな?」
「ええ、私に出せるものならば何でも」
「じゃあ、そこの契約書にサインするんだな」
彼がテーブルの上に置いた書類は調査契約書だった。上半分に諸々の契約規約が細々と連なり、そして下半分に契約者の名前欄が用意されている。そして彼は書き物を用意していなかったことに気づき、素早く別の引き出しから万年筆とインクを取り出し、滑らせるように契約書の横に用意した。
その動作が少しばかり滑稽に映りテレーゼは小さく笑う。
「やっぱり面白いお方」
そしてテレーゼは万年筆を手に取り、ペン先にインクを吸わせるとサラサラと契約書にサインした。
Therese Kjellstrom
テレーゼがペンを置くなり、彼はひったくるように契約書を取り上げしっかりとサインされていること確認する。育ちの良さが滲みでている見事な筆跡だった。そして契約書の影から王女の顔を覗き込むように視線を注ぐとにやりと笑った。
「決まりだ。よろしく頼むな、テレーゼ王女殿下」
「あの、クインズさん。そんな硬い呼び方じゃなくて、テレーゼって呼んで頂けませんか?」
テレーゼはにこやかに笑い返す。テレーゼは自分を王女だと既に分かっていながら、軽い口調をやめないこの男にとまどいを覚えながらも一種の好感のようなものを感じていた。今まで自分をこんな気さくな態度で接した人はいない。いつだってこの国の嫡流の王女として扱われてきた。だからこのような態度には逆に新鮮さを感じるのだった。
「それでいいのなら、そう呼ばせてもらうぜテレーゼ。そうだな……じゃあ俺のこともロビンって呼べ。その方が楽だ」
「ロビン……」
テレーゼはその名前を胸のうちで反芻する。ありふれた名前だというのに、なんだか不思議な響きを感じる。
あれほど激しく吹き荒れていた大風はいつの間にか弱まっていた。赤レンガの美しさからサルビアの花畑と讃えられたこの王都の夜は静寂さを取り戻していた。窓からは静謐な空を支配する月がそっと柔らかな光を投げかけている。あと数日もすれば美しい満月が見られるだろう。