延寿今昔物語集
蓮夢 −破−
 中は真闇にして己の手足さえ目に映すには容易ではない。木の格子からわずかに月明かりが漏れ入っているものの、その申し訳程度たるや気休めという他ない。
 二人はゆっくりとだが奥へと入っていく。
 雅信は震えていた。物の怪とも知れぬ得体のしれない笛の主や己を飲み込むように包みこむ暗闇に恐怖したのではない。それは感動の震え、興奮の震え、魂の底より体全体へと伝わる震えだった。それを起こさせているのは他でもない、この龍笛の音色だった。外で聴いている時も十分すぎるほどの感動を味わったはずだったが、塔の中へと入るとまた一味も二味も違う。笛の音が発する波紋が塔を形作る木材一本一本に伝わり、それが跳ね返って大気に木霊し、その跳ね返った音がまた元の笛の音とぶつかり合い絶妙なる調和を描いている。まるでこの鐘の塔全体が龍笛そのものになったかのよう。自分が主上から飛天の如しと讃えられた鈴の塔での楽献納の時でさえ、このような音は決して鳴らなかった。これは奏者のなせる技なのか、はたまた楽器のなせる技なのか。
 雅信は感極まるあまり、ついに涙を流さんばかりとなった。
「嗚呼、いとめでたし」
 感情の昂ぶりのあまり、ついに雅信はつぐんでいた口より声を漏らした。そのときだった。帰り道の牛車の中で初めて耳にしてから今までずっと絶えることのなかった笛の音が、まるで水を打ったようにピタリと止んだのだ。雅信はハッと息を飲んだ。しまったと思い、慌てて足を踏み出そうとしたが、しかし同時に暗闇の奥から声が聞こえた。それはか細い今にも消え入りそうな女の声だった。
「そこにいらっしゃるはどなたでございますか?」
 胸が高なった。しかし今度は感動や驚嘆によるものではなく、緊張によるもの。思わず頼るように浄厳へと目を向けた。しかし浄厳はじっと闇の奥へと顔を向けたままじっと動かない。しかもこの暗がりのせいでその表情も全く読めなかった。暗闇の奥は女の声が聞こえたっきりやはり何も物音がしない。このまま黙りを通すわけにも行かず、ええい儘よという気持ちで雅信は口を開いた。
「私は平雅信という者なり。宮中から帰る折、この世のものとは思えぬ美しき笛の音を聴き、是非とも奏者にお目にかかりたいと思い、ここまで来た。さきほどまで笛を奏でていたのはおぬしであるか?」
「はい」
 女の声はやはり枯枝のようにか細い。
「実に見事であった。この延寿京……いやこの世のあらゆる笛の名手であってもそなたの調べにはきっと敵わぬであろう」
「有難き御言葉を。しかしながらそれは私の成した技ではございませぬ。この蓮夢が成した妙技……」
「やはりそれは蓮夢であったか?」
 浄厳が壮年らしい乾いた声で張り上げた。女の声は横から入ってきた浄厳の声に驚いてしまったかのようにぷっつりと途絶える。しかし居なくなってはいない。雅信も浄厳も暗闇の奥にまだ何かが居るという気配を感じ取っていた。
 浄厳はつい声を荒らげてしまったことを気恥ずかしく感じ、こほんと咳払いをすると同じ人物とは思えぬほど声を穏やかに落とし言った。
「いや、失礼した。拙僧、摺鉢山延妙寺の坊主で浄厳と申す。何を隠そう、今より十日前に寺の宝物蔵から盗まれた蓮夢を探すためにここへやって来た」
 そこで一旦言葉を切るが、女からの返事はない。浄厳は続けた。
「只今の汝の調べ拝聴いたすところ、さぞかし名のある龍笛の名手とお見受けする。これほどまでの名手に奏でられるとは蓮夢もさぞかし喜んでおろう。しかしながら、その蓮夢は延妙寺の大切な宝物。今なら先ほどの素晴らしき調べに免じて手荒な真似は控えよう。どうか蓮夢を返してはくださらぬか」
 暗がりのせいで雅信は浄厳がどのような顔をしているのか見定めることができない。しかしその声の調子で自ずと想像されるようだった。穏やかに語りかけているようで、腹の深い所、奥底ではしっかりと相手を逃すまいと、声でもって睨んでいるようだった。
 そんな浄厳を知ってか知らずか、女の声は依然として聞こえない。あまりに続く静寂に雅信はまさか相手に逃げられたのではないかと、自ずと自分たちの入ってきた出入り口に振り返ろうとした。しかしそのときになってようやく暗闇の向こうから女の声が戻ってくる。
「分かりました。お返ししましょう」
 その言葉に雅信がほっと胸をなでおろしかけるが、そこで女の声が「しかし」と続いた。
「お返しする前に、どうしても叶えていただきたいことがございます」
「申してみよ」
 浄厳が返す。
「まず一つ、お二方にこの蓮夢の謂れを聞いていただきたいのです」
「ほう、蓮夢の謂れか」
 こう返すは雅信。雅信はちらりと浄厳に目をやるが、やはり暗がりのせいでよく分らない。しかし彼が何も言ってこないので、雅信はこれを恙なしという意向に汲み取り、女に言った。
「ぜひ聞かせていただきたい。これほどの音色を生み出す楽器。よほど腕の立つ職人の技であろう」
 雅信の返事に、女は「おお」と歓喜とも感動ともつかぬ声を上げ、その声はあるいはすすり泣いているようにすら聞こえた。やがて疼いていた痛みが治まるかのように声も止むと、女はポツリポツリと語り始めた。
「この蓮夢、今より百年(ももとせ)もの昔、ここより西方の大陸にある国の職人の手によって生み出されました。職人の名は高榮(こうえい)と言い、数々の名器を生み出した天才的な楽器工でありました。特に笛に関しては百年に一人となしと呼ばれるほどで、その音色は何人もの諸侯、果ては皇帝に至るまで魅了しました。やがて彼国の都に呼ばれ、いくつもの名器を献上する身分となったのです。そして高榮には一人の妹がいました。この女もまた楽器、特に笛を鳴らすことに関しては類い稀なる才を持っており、高榮が作った名器を妹が鳴らして世に広めるという図式が成り立っていたのです。世の人はこれを『高之二楽才』と讃えられました」
「その妹というのは……もしや?」
「はい……何を隠そう私でございます。私たち兄妹はまだ年端もいかぬ内に身寄りを流行病で亡くし、二人で互いに支えあい生きてきました。幸いにも一族は楽師、楽器工を代々輩出しており、私たち兄妹も幼き頃より兄は楽器工、私は楽師としての手ほどきを受けており、それを職になんとか食べることは困らずに済みました。
 そのうち、先ほども申し上げましたように都に呼ばれ、宮廷の宴にて皇帝の御前で演奏するという誉をいただき、その宴のために兄はそれまでの経験の粋を結集した一品を紆余曲折を経つつ完成させました。それがこの蓮夢。そして申し遅れましたが、私は名を高蓮(こうれん)と言い、蓮夢というのも兄が私のために付けた名なのです」
「なるほど。元々蓮夢はそなたの兄がそなたのために作ったものであったのか。しかし、それがどうしてかような土地にまで?」
「はい。それで件の宴は大変な成功をおさめ、私ども兄妹は皇帝のご寵愛を受けることとなりました。しかしわずか数年でもとよりご高齢だった天子様は崩御あそばされ、そこから悲劇が始まりました。後継者をめぐって内乱が起こり、その混乱の中で兄は死罪に……そればかりか兄が作り上げてきた数々の名器も焼き捨てられてしまったのです」
 高蓮と名乗る声の主はそこでいったん言葉を切り、その頃の事を思い出したのか泣いているように呻いた。
「私は兄や先帝の側近だった方々の計らいでどうにか都を脱し、各地を放浪しました。しかし生き延びたものの先の希望も見いだせず、死ぬことさえ考えました。そんな折り兄の楽器の内、蓮夢だけがどういう因果か焼亡の難を逃れ、はるか東のこの成杜に渡ったという噂を耳にしました。全ての希望を失っていた私がこの報にどれだけ救われたことか……。せめてもう一度だけ蓮夢を奏でたいという思いで、港から貿易船に潜り込み、さらにいくつもの歳月を経てようやく成杜へとやってきたのです。しかし……」
 高蓮は語調を落とす。
「それまででした。成杜の地を踏んで間もなく病に伏しそのまま果てました。しかしそれでも蓮夢だけはもう一度……と願う心が成仏を許さなかったのでしょう。私の魂は現世に留まり、なおも百年に近い歳月をかけて蓮夢を探し続けました。そしてつい先日、ついに延妙寺の蔵にて悲願だった蓮夢との再会を果たしたのです」
 そこでようやく高蓮は話を終えた。
 雅信はただいまの話にいたく感銘を覚え、気が付けば両の目よりはらはらと涙を流している。直衣の袖で目元を拭い、今一度暗闇の奥に目を凝らした。依然として何も見えないがそこには唐土衣装に身を飾り龍笛を手に持ち、麗しくたたずむ女の姿が幻視されるようであった。
 この高蓮という女はどのような思いをして病の地で果てたのだろうかと雅信は思いを馳せる。過去に偲んでは涙を流し、兄を偲んでは顔を埋める。
「さてもうら悲しき物語よ。かように美しき音色の裏にそのような謂れがあったとは。品のほとんどを焼き捨てられるとは、さぞ高榮殿も高蓮殿も無念であったろう」
 袖を涙に濡らしつつ、雅信は今の我が身がいかに幸福であるかを思う。今の主上の御代は安寧を持し、政争の種は転がっていないとは言えぬが、好きな管弦を鳴らし暮らしている。いつかこの平穏も崩れてしまうのだろうかとぼんやりと考え、にわかに寒気が襲った。
「蓮夢の謂れにつきましてはこれで終わりにございます。そしてこれから申し上げるのがもう一つの願い。
 蓮夢を再び取り戻した翌日から十日かけて、かつて天子様に献納した十の曲を一日一曲ずつ奏でてきました。そして今日が九日目。明日の最後の一曲で今度こそ私の未練も尽くでしょう。ですので、どうかお願いです。蓮夢の返却を一日だけ待って頂けませぬか。明日の晩の最後の一曲が終わりましたら、必ずやお返しすると約束いたします」
 そのとき雅信は何か奇妙な物音を耳にした気がした。縄のような太い何かが床を擦るような乾いた音。しかし音はその一度だけで以降は何も聞こえなかったので、すぐに意識の外へと追いやられた。
「どういたしますかな、雅信殿?」
 浄厳が殊勝に身を低くして尋ねる。
「どうするも、やはり明日まで待とう。高蓮殿がそれで未練が晴れるというのなら」
「私も賛成にございます」
 浄厳の口調はなにか自分と違う意味が込められているような響きを感じ、雅信は少し眉を寄せた。しかし雅信はすぐに思い直して高蓮の声のする暗闇の奥へと向き直った。
「分かった。約束いたそう。明日の晩、同じ時刻にまたここへ来よう」
「おお、有難き幸せ。出来ることならあなた方のために今一度楽を奏でたいところでございますが、故あって叶わぬところ。どうかまた明日お越しくださいませ」
 その言葉が終わるとともに、なにかと板が外れたようなガタンという音が鳴り渡り、雅信は夢から叩き起こされたようにビクリと体を震わせた。
 それっきり高蓮の声も、龍笛の音色も何も聞こえず、鐘の塔は夜の静寂が再び支配することとなった。浄厳は雅信に塔を出ることを促し、彼もそれに続いた。
 外に出てから再びこの九重塔を見上げる。夜空の星々その陰で黒々と隠す様はまるで巨人のようだと雅信は思った。
 今一度耳を凝らすがやはり笛の音は聴こえてこない。
「浄厳殿、蓮夢は延妙寺の宝物であるということを忘れて勝手に決めてしまって申し訳ない」
 雅信は今しがた高蓮と交わした約束事を、浄厳の前で軽はずみだった己を恥じる。しかし浄厳は大らかに笑いを返した。そういえば塔の中ではずっと暗がりの中で浄厳の表情がわからなかったが、今外に出ると月明かりに照らされてようやくその顔が見えるようになっている。
「なあに、構いませぬ。もう一度あの笛の音を耳にすることができると考えれば」
 顔がようやく見えたことによって雅信は得も言われぬ安心感を感じた。
「それより雅信殿、私めは明晩は少々野暮な用事を済ませてから参上する故、少々遅れるかもしれぬことをお許しください」
「ほう、いったい何用で?」
「鈴の塔へ」
「鈴の塔?」
 ここ鐘の塔と真反対に位置する鈴の塔まで何しに行くのかと雅信は気になったが、それ以上問いただすのもさすがに野暮だと思い直し、そこで問答は終わりにした。
 雅信と浄厳は同時に東の方角へと目を向ける。摺鉢山の山肌から十五夜の月が昇り、青白く淡い光を降らせていた。その光を背後に背負って鐘の塔に相対するもう一つの塔、鈴の九重塔が高々とそびえていた。


わたぬけ ( 2012/06/05(火) 23:32 )