延寿今昔物語集
蓮夢 −序−
 むかしむかし、それはそれは千もの年月よりも遥かにむかし、延寿(エンジュ)の京(みやこ)に平雅信(たいらのまさのぶ)という貴族がいた。
 先の帝、陽浄帝(ようじょうてい)と女房で前関白葛原元経の娘、園子との間にもうけられた男子であった。しかしながら春宮には既に長子である昌明王が立太子されていたため、元服の後は臣籍降下され平氏の名を賜り、左京の五条四坊に屋敷を授かることとなった。
 この平雅信、顔立ちは大変彫りが深く、また背丈も五尺と半という稀なる高身長であったにも関わらず、哀しいかなそのような容貌の男は当時としては受け入れがたいものだったため、あまり女にもてるというものでもなかった。
 しかしながら楽を深く愛しその腕前も大変巧みなるものだった。いずれの時か鈴の塔にて楽献納に参加した折、それはそれはまるで天人の奏でるが如き美しい横笛を披露したため、主上から「雅信の笛声、まさに飛天のごとし」と讃えられ以降内裏で催し事が行われる際は必ずと言って良いほど呼ばれることとなった。もちろん奏でる楽器は横笛(おうてき)だけでなく琵琶、箏、笙、篳篥(ひちりき)などなど雅信公に奏でられぬ楽器はこの世に无しと囁かれるほどであった。
 さて、そんな平雅信公であるが、これは後の世に伝えられた寓話の一つ。

 ある日内裏での公務を終え、屋敷へと大隻牛(ケンタロス)の引く牛車に揺られて帰っていた。空は鮮やかな茜色に染まり、間もなく夜の帳が落ちようとしている。雅信は早く屋敷に戻り、月を眺めながら一曲奏でたいものだと思っていた。
 そんな折、雅信の耳を楽の音色がくすぐった。延寿京でこの雅信を他にして楽への愛の勝るものはなし、背筋をピンと伸ばし公務の疲れはどこへやらか吹き飛んでしまったかのよう。そして一音たりとも聞き漏らすまいと耳をすました。それはそれは甘美なる笛の音色。その声味たるやまさに醍醐味なるかな。
 そこで雅信は是非ともこの稀有なる調べを奏でている奏者に是非とも会ってみたいものだと考え、牛車から顔を出して牛を引く童にこの調べが聞こえる方向へ向かえと指示した。ところが童はよしましょう、もう屋敷へ戻りましょうと反対する。それもそのはず、空を見るともう日は西の山の向こうへ姿を消し、西空が名残惜しく朱を交えたように赤く染まり、その手からこぼれたほとんどはもう真っ暗に近い藍色に支配されていたのだから。
 なにせ夜の灯など朱雀大路に燃やされる篝火くらいしか他に無い時代のこと。少し通りから外れて小路へと入り込むと一寸先は闇という言葉がそのままに表されるほど暗闇に覆われてしまう。それだけならまだしも、夜は物の怪の領分。特に実態が見えなかったり、人を化かしたりする霊鬼“たまおに”“りょうき”と呼ばれる物の怪が跋扈すると言われている。霊鬼にあてられた人間は魂を吸い取られたかのように無気力になったり、重い病気を患って死に至ると信じられていた。他にも喰われて喰い残しの死体は羅成門に捨てられるだとか、霊鬼絡みで死んでしまった魂は摺鉢山(すりばちやま)にあるとされる地獄への門の奥へ連れられるだとかいう話もまことしやかに語られていたのである。それらのことを鑑みるに、童の言い分も至極まっとうなことであった。
 しかし楽のこととなれば寝食も忘れてしまうこの平雅信。嫌がる童に食い下がり、命令だからこの笛の聞こえる方へ牛を走らせよと声をいからせる。しかし童は地に頭を付けてお願いですからどうかご勘弁をと遂には泣き出してしまう始末。楽のこととなると見境のなくなる雅信であるが、元来はとても慈悲深い気概。笛の音色の方へ牛車を走らせるのは諦めることとした。
 しかし笛の音色を求めることを諦めたわけではなし。雅信公は車副(くるまぞ)いの一人から松明を受け取ると家来たちに先に帰っても良いぞと言い、彼らが止めるのも聞かず笛の声の聞こえる方へと一人で歩き始めてしまった。

 さて、雅信は笛の音色の主を求め歩く。音のする方向へ音のする方向へと足を向ける。大路を横切り真っ暗な小路に入り込んだと思ったらまた大路に戻り、そうするうちについに空は完全なる夜に覆われ、まるで壮大な浄土図でも描くが如き星の輝きがそっと降りてきた。
 笛の音は少しずつであるが確実に近づいている。そして近づくに連れてその妙なる響の仔細が表れてきた。それは妖艶にしてこの世のものとは思えぬ微妙音(みみょうおん)。
――嗚呼、私の耳に狂いはなかった。主上から飛天の如き笛声と讃えられた私だが、この音色こそ天界の楽と呼ぶにふさわしいではないか。
 雅信ははしたないと知りつつも次第に小走りになる。やがてそれまで通っていた小路道を抜けると壮健たる塔の前へと出た。ここは大内裏より戌亥(北西)の方角に佇む鐘の塔。今の主上より六代前の高武帝が都をここ延寿に移す折、姥女大社より授かった託宣により同じく大内裏より艮(北東)の方角にある鈴の塔と共に建てたという九重の塔。
 その塔からこの天界の楽と呼ぶが如き笛の音色が聞こえてくる。空はもはや完全たる闇に染まり、摺鉢山の向こうから折しも昇った半月が鐘の塔を青白く照らしていた。
――まるで冥府に迷い込んだかのようだ。
 雅信は自分が手に持って掲げている松明がどうにもこの場にとって些か場違いであるかのように思え、さりとてもしこれを手放して霊鬼に当てられるようなことになったらという考えも浮かび、その二つが堂々巡りとなっていた。するとその時、塔の側に誰か人影がちらつくのを目にした。雅信の松明の明かりにぼんやりと照らされ、彼の人物の足元では影がゆらゆらと波のように揺れていた。しっかりと明かりに対して影が映るのを見るにどうやら人であるらしい。
 するとその人影も雅信に気づき、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。そのうちにどうやらこの者は笛の主とは違うらしいと気づいた。その者は草色の僧衣、あずき色の袈裟を身に纏っている。どうやらどこかの寺の僧であるらしい。齢は四十、あるいは五十くらいと見受けられた。柔和でありながらどこか厳しそうな皺を顔に刻み、背丈は五尺ほどと雅信に比べれば大分小さい。尤も、雅信のほうが大きすぎるという話でもあるのだが。両者は互いに深々と頭を下げると、雅信の方から切り出した。
「おぬしもこの笛の声に誘われてやってきたのであるか?」
「ええ。拙僧は摺鉢山延妙寺の浄厳(じょうがん)と申す」
「浄厳殿とな。お噂はかねがね伺っておる。市井に出て名も無き人々のために念仏を唱えたり、田畑を焼く炎狐(えんこ)を退治したりと」
「いえいえ、そのようなこと世の人々の誇張でしょうに」
 それから雅信は次に己の身分をこの浄厳に明かした。浄厳はほうほうと頷きながら興味深げに雅信の足元から烏帽子の先までを反芻するように眺めた。
「こちらこそ雅信殿の噂は耳にしておりますぞ。その楽の才は世極まるところにて主上からも深く気に入られているらしいではありませぬか」
「ハハハ、楽しか取り柄がないだけであるさ。一応官位も頂戴しているものの、政(まつりごと)のような難しきことはとんと分からぬ」
「そしてその楽が、雅信殿をここへ連れてきたというわけでありますな」
 雅信は笑いながら頷き、そして二人は今一度鐘の塔を見上げた。笛の音色は二人が話している間も鳴り止むこと無く流れ、どこまでも響きわたっていくかのようだった。
「そういえばなぜ摺鉢山の僧侶たるおぬしがここへ?」
 雅信はかねてより抱いていた疑問を浄厳へ投げかけた。
 延妙寺とは摺鉢山に建つ寺院である。摺鉢山は延寿京より艮の方角にそびえる山で、成杜国(じょうとのくに)の霊山の一つであった。広大な洞窟が走り東方の伏戸(ふすべ)などの地方へ行くための重要な交通路であるのだが、都から艮すなわち鬼門に位置するためそれを抑えるべく、山には壮麗なる伽藍を持つ寺宇が建造された。それが延妙寺であった。
 浄厳は塔を見上げる視線を揺らがさぬまま、少し躊躇するように間を置くと、やがて語り始めた。
「実はですな。今より十日程前のこと、延妙寺の宝物蔵が何者かに荒らされたのでございます。結構な騒ぎになりましてな、すぐさま蔵を整理し所蔵目録と照らしあわせたのですが、奇妙なことにたった一つの物を除いて何も盗まれても壊されてもいない。どうやらその一つの物だけが目的であったようでな」
「その盗まれた一つとは?」
「龍笛です」
 言葉を強調するように浄厳は言った。雅信はゴクリと唾を飲み込む。
「蓮夢(はすゆめ)というそれは見事な笛でして、西方の唐土よりもたらされた名器でございまする。笛が吹き手を選ぶと言われるほど気難しい楽器であるが、ひとたび手懐けるとその音聲その名のごとく夢を見ているような心地にいたすと言われております。そしてその名器が何者かに盗まれた。私は数日前より市井に降りてみ仏の教えを民に説くとともに、盗まれた蓮夢を探しておりました。するとさきほどこの先にあります庵に戻る折り、どこからか笛の音が聞こえる。もしやと思い音を辿ってみるとこの鐘の塔にたどり着き、雅信殿に会ったという次第。いやはや、盗まれた龍笛を求めてかの有名たる雅信殿に会おうとは、これも必然と申しますかもしくはみ仏のご縁というものでございましょう」
 浄厳はそっと手を合わせると鐘の塔に向かって頭を下げ、小さく念仏を唱えた。
「ではこの笛の音が盗まれた蓮夢かもしれぬということか」
「決まったわけではありませぬがおそらくは……。なにせずっと蔵に収められていた故、拙僧もまだ一度も蓮夢が奏でられているところを見たことがなかったので」
「なるほど。となるとますますにこのまま奏者も分からぬままただ聴いて帰るだけというわけにはいきますまい」
 浄厳は低く笑った。つられて雅信も笑う。改めて二人は鐘の塔を見上げた。そして何も言葉を交わさぬにも関わらず、申し合わせたように歩き始めた。ザッザッと白洲の砂を踏みしめる音が鳴る。塔の入り口の前に差し掛かった時二人は同時に気づいた。
「これは……錠が壊されておるな」
 中に誰かがいるのはどうやら間違いない。そこで雅信はもしうっかり塔を焼くようなこととなると笑えぬということで松明の灯りを消した。唯一の光がなくなり、あたりに墨をかぶせたように暗闇が覆った。そうなるとさすがの二人もこの暗闇を前にしては多少の恐怖を感じないでは居られない。しかしそれでも笛の音はこの場を離れたくないという欲求を起こさせるに十分であった。
 二人は暗がりの中で塔の扉を開く。幸いにも塔を上まで登る必要はないようだった。なぜならこの笛の音は明らかにこの第一層から聞こえてくるからだ。雅信と浄厳は顔を見合わせるとやがて両者意を決して音を立てぬように塔中へと足を踏み入れた。

わたぬけ ( 2012/06/06(水) 11:29 )