INSANIA











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世界の向こう側
第九十三話「罪深き」

 ほとんど眠れなかった。

 ダイゴはカーテンの隙間から陽が差し込むのを黙って見つめていた。朝になってしまう。もう、この日が訪れてしまった。イズミから事前の打ち合わせはあったものの自分がデボンに踏み込むなどやはり尋常な出来事ではない気がしていた。

 部屋を出て吹き抜けの二階からリビングに視線をやると支度をしているコウヤと出くわした。朝食を準備しているのはコノハである。昨日の口づけも、話も全て忘れてしまったかのような無表情だった。

「コウヤさん、どこかに出かけるんですか?」 

 ダイゴが声をかけるとコウヤは振り返って、「まぁな」と応じる。化石バトル後の事に触れようともしない。

「どこへ……」

「トクサネだ。∞エナジーの実用実験のために打ち合わせが迫っている。もう出ないと。コノハさん、後片付けよろしく」

 コウヤは一時すら惜しいとでも言うように立ち上がってしまう。ダイゴは背中に声をかけた。

「っていう事は出張で?」

「ああ、また三泊くらいは泊まりかな。悪いな、ダイゴ。出たり入ったりの忙しい家庭で」

「いえ、別に……」

 コウヤは何とも思っていないのだろうか。ダイゴの化石バトルでの意義も、何もかも。許した、というよりはもう覚えていない、というような振る舞いだ。

 コウヤが出て行ってからコノハへと振り返るがコノハは一言だって余計な事を言わなかった。ツワブキ家では常に敵の根城にいるようなものなのだろう。

「俺も、朝食をもらおうかな」

 椅子に腰かけようとすると起き出してきたイッシンの姿が目に入る。イッシンはスーツに身を包んでいた。

「どこか、出かけるんですか?」

「ん、ああ、幹部総会で今日は早出だ。夜も遅くなるかな」

 腕時計を確かめつつイッシンは口にする。幹部総会。そこに自分が踏み込もうと考えているなど露にも感じていないだろう。イッシンはいつも通り、朝食を取った。続いてリョウが欠伸を掻きながら洗面所に向かい、レイカがフォーマルな格好で二階の自室から出てきた。レイカがこの時間帯に合わせるのは珍しい。

 朝食の席につくとレイカはいつもの通り端末を弄り出した。それをイッシンがいさめる。いつも通りの光景だが違うのは自分の心境だ。この後、この家族を出し抜く真似をする。そう考えるだけで飯が喉を通らなかった。

「レイカ、今日は早いんだな」

「ええ、まぁね。たまには早く起きるわ」

「コノハさん、オレの飯も用意してくださいよ」

 まだ寝巻き姿のリョウが声にする。イッシンは、「非番か?」と尋ねた。

「非番だけれど、疲れを引きずっていて眠れなかった。まぁ、せいぜい留守番中に寝るとするよ」

「ごちそうさまでした」

 半分ほどしか食べられなかったが箸を置く。イッシンが、「食べないのか?」と尋ねた。

「食欲が」

「朝御飯くらい食べろよ。力出ないぞ、ダイゴ」

 リョウは、化石バトル後に絶対コウヤと結託したはずなのだ。それをおくびにも出さないのは何らかの作戦が遂行されていると考えるべきだろう。

「俺も今日は寝ようかな。眠れなかったし」

 部屋に取って返そうとするとちょうどクオンと出くわした。クオンは目を見開いて自分を眺める。どうしてだかその一瞬、クオンの呼吸が止まったような気がした。

「おはよう、クオンちゃん」

「おはよう、ダイゴ……」

 その声もどこかか細い。ダイゴは思い切って尋ねてみる。

「何か、俺に用?」

「そんな事。あたしは何も」

 何か含んでいる様子だったがダイゴにそれを解する勇気はない。昨日のコウヤから取り上げたホロキャスターやUSBの情報端末について聞こうにも人の目があった。

「クオンは、今日は登校日だったか」

「ええ、父様。何かご用事?」

 観察しているとどこかクオンの表情は硬い。イッシンは、「仕事だよ」とだけ答える。

「クオンは学校へ行くのか。いいよなぁ。学校でぐーすか寝られるし」

 リョウが身体を伸ばす。レイカが、「あんただけでしょ」と口を挟んだ。ダイゴは考えてしまう。

 もし、今日デボンに押し入る用事がなければ、あるいはそのような賢しい真似を考えなければ、この人達と家族でいられたのだろうか。益のない思考だと分かっていても考えてしまう。ツワブキ家は一切無害な家系ではない。全員が腹に一物抱えている。しかし、そのような家庭がないとは言い切れない。全員が全員に秘密がある。それでも成立するのが家族ではないのだろうか。自分は短い間とはいえ、ツワブキ家の家族だった。欺く事はあったし、秘密はあったものの家族であった事実は消えないのだ。

「どうした、ダイゴ? ぼぉーっとして」

 イッシンが声にする。ダイゴは、「いえ」と顔を背けた。

「俺みたいなのでも、その、朝御飯は食べられるんだな、って」

「分からん事を言う奴だな。お前はツワブキ・ダイゴだろう?」

「そうだぜ、ダイゴ。別に朝飯代くらい、どうって事ないさ。何も気に病む事はない」

 ダイゴは、少なくともツワブキ家のほとんどが敵だと思っていた。その考えは変わらないし、その判断に間違いがあったとも思えない。しかし紛い物でも家族でいられた、この時間を果たして壊していいものか。胸中には迷いがあった。

 偽りでも、この人達は受け容れてくれた。

 何もなくても、例えば自分がD015でなくとも、あるいはフラン・プラターヌの姿であっても、この人達はこの関係を築いてくれただろうか。

 きっと無理であった。この空っぽの「ツワブキ・ダイゴ」でなければ訪れなかった心の平穏。家族であった、という証。

「俺、戻ります。寝不足で、考えが纏らなくって」

 半分は本音だった。イッシンは満足そうに笑う。

「寝不足はいかんな。クオンの送り迎えだけはしてやってくれよ」

「ダイゴ、何も気負う事はないんだ。クオンにも定期を持たせればいいだけの話だし」

「いえ、何もする事がないのは嫌なので。その頃には起きますんで」

 ダイゴは自室へと向かった。扉を閉めて、部屋の中で嗚咽を漏らす。耐えられなかった。この人達と何も知らぬまま、家族でいられればどれほど楽か。

 いっその事、無知な「ツワブキ・ダイゴ」のままでいいではないか。

 何かを知ろうとはせずに、ただただ毎日を過ぎ去っていれば、自分には誰しもにある平和がある。

 ツワブキ家で面倒は看てもらえるだろう。クオンの送り迎えをする、家事をする、あるいは相談相手になる、それだけでもいい。自分はそれだけの価値でもいいではないか。どうしてそれ以上を望む必要があるのだ。

 昨夜のコノハとのキスが思い出される。あれはもう戻れない、という署名だった。きっとあれを受け入れるまでは自分はツワブキ家でいられたのだ。

「俺は……、俺自身の事が知りたい。何よりも自分の手で自分の記憶は探すべきだ。だっていうのに、今さら何も知らない頃に戻りたいだなんて……」

 身勝手もいいところ。自分は結局、どの立ち居地にもいたくないのだ。コノハの恋人になりたくもない。クオンのよき相談相手になりたくもない。リョウの温情を受けたくもない。イッシンと対等の立場にならなくっていい。レイカとはこの距離間でいいし、コウヤにも包み隠す事はない。

 コノハとは……。ただの家政婦とその雇い主の家系でいい。それだけでいいではないか。何を高望みする必要がある? 

 だが自分には、戻れるだけのチケットがない。逆方向だ。もう片道切符しか残されていなかった。「ツワブキ・ダイゴ」でいられなくなるか、それとも「ツワブキ・ダイゴ」で居続けるかどうかだけの。

「俺は……」

 蹲りダイゴは涙を拭う。恐れを捨てる事も出来ないし非情になる事も出来ない。きっと、中途半端のまま、自分はその時を迎えてしまう。

 時は無情にも、ダイゴの意思とは無関係に進んでいった。


オンドゥル大使 ( 2016/02/03(水) 21:35 )