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世界の向こう側
第九十一話「くちづけ」

 指差されてダイゴは返答に窮した。これは冗談なのだろうか。

「冗談とかじゃないのよ」

 見透かしたようにコノハが口にする。

「殴り込みって……。そんな事をすれば、俺の居場所がなくなる」

「もう結構な崖っぷちに立っていると思うけれど。ツワブキ・コウヤに怪しまれれば近いうちにあなたを排除する動きがあってもおかしくはない。記憶喪失のDシリーズなんて消すのに難しい事はないわ」

 ダイゴは思案する。コウヤは何も言ってこなかった。それこそが逆にこちらの状態の危うさを示している。

「コウヤさんは、もう俺の正体を知っている?」

「どのレベルまで、初代再生計画が知れ渡っているかは謎だけれど、次期社長と目されるコウヤが全くのノータッチ、ではないと思うわ」

 ダイゴは顎に手を添える。だとすれば、リョウか、あるいはレイカか。どちらかが敵になる。

「その感じだと、コウヤさん自身が俺を問い質すってのはなさそうだな」

「次期社長のポストを危険に晒すとも思えない。ツワブキ・コウヤは傍観者のポジションが一番似合っている」

 攻めてくるとすれば今まで通りのDシリーズ。あるいはギリーのような暗殺者。

「Dシリーズが襲ってくる」

「それも試算の内に入れておいたけれど、手数のDシリーズの所有数がちょっとおかしな事になっている」

「おかしな事?」

 コノハは書類の一部の文面を指差した。

「D200は廃棄、D008は所在不明、D036は行方不明、とある。D008は私がこの間殺したDシリーズよ。右腕の所有者だった」

 初代のオリジナルパーツ。ダイゴはそれも気にかけていた。

「初代のパーツをDシリーズに移植するメリットは?」

「耐久時間か、あるいは何らかのポケモンを操る際に生じる効果があると考えられるけれど詳しくは不明よ。ただこのD036、こいつにもオリジナルパーツが移植されていたようなの」

「どの部位なんだ?」

 コノハは、「左脚ね」と答える。

「初代の部位は八つ。心臓はデボンが絶対に所有するだろうから、それ以外、頭部ってのも無理そうだから実質六部位。で、そのうち一つ、右腕が私の所有している。だから残り五部位」

「全部揃えると、何かがある、ってわけじゃないだろうな」

「分からないけれど、躍起になっていないところを見るともしかすると初代のオリジナルパーツには大して意味はないのかもしれないわ」

 もし初代再生計画に必要ならば既に動き出しているはずである。その動きがないところを見るとパーツには頓着していないのか。

「でも、奇妙なのはそれをDシリーズに組み込む事。それを草として放っておいて片や所在不明に行方不明。これではDシリーズを運用するのに支障が来たすと考えられる」

「つまり……もう不用意に出せない、って事か」

「パーツを所有するDシリーズはね」とコノハが付け加えた。

「所有していない奴なら動かせるって?」

「それでも、あなたという人間がいる前で容易く動かすとも思えない。それにDシリーズの百番台以前はほぼ欠陥商品。実質使えるのは限られてくる」

 ダイゴは自分の肩口に刻印された「D015」の表記を見やる。

「俺は、十五番目、ってなるんだよな?」

「表記を信じるならね」

「じゃあ、なんで俺は普通に生きていられるんだ?」

 初代のパーツを仕込まれた覚えはない。そもそも記憶喪失なのだが。

「それが分からないのよね」

 コノハは腕を組んで呻った。コノハでも分からないのか。

「正直なところ、あなたも他のDシリーズと大差ないと考えていた。だからこそ、潮時みたいなものがあると思っていたんだけれど、誰が管理しているのかも分からないDシリーズの消耗期限なんてどこを探っても存在しない。それに、これは調べてみて驚いたんだけれど、デボンにあなたの番号、つまりD015はないのよ」

 語られた事実にダイゴは思わず肩口に触れる。

「この番号が……ない?」

 では自分はDシリーズではないのか、という問いは無駄だ。実際、自分と寸分変わらぬ似姿に出くわしている。

「014、016はあるのよ。そこまでは探れた。でもどうしてだか015、つまりあなたの番号はいくら探しても存在しない」

 ダイゴはその事実に戦慄する。どうしてだか存在しない番号。それは自分が透明人間としてこの社会に存在しているような感覚だった。

「食い違い、とかじゃないよな……」

「食い違っているにしては作為的なものを感じるのよね。何者かの意思、とでも言うべきか。どちらにせよ、あなたは他のDシリーズとは違う管理がされている、というのは一つの事実」

 では誰が? とダイゴはツワブキ家の面々を思い浮かべる。誰が、自分を「ツワブキ・ダイゴ」にした? リョウが名付けたとの事だが、その裏にはあの秘密基地で死んだニシノと、あれ以降出会っていないサキの事が思い出された。

 サキに会いたい。会えれば、何かしら状況が動き出すような気がする。

「ツワブキ家に関するきな臭い事実は以上ね。それで、あなた、明日の幹部総会に喧嘩を売る?」

 この作戦が失敗してもコノハに失うものはない。逆に自分の立場がなくなるだけだ。

「……どうやってデボンを相手取ればいい?」

「あら、存外にやる気なのね」

「俺は、自分の事が知りたい。そのために必要な事ならば、何でもやろう」

 ダイゴに言えるのはそれだけだ。幹部総会がどれだけ危ない場所だろうと、そうする事で拓ける道があるのならば。

「泥を被る、覚悟はあるって事か。そうね、あなたが考えているほど、デボン本社のセキュリティは甘くないわ。社員証を出して潜り込むって手もあるけれど、その外見じゃあね。真っ先に怪しまれる」

 自分の姿は初代と同じ。当然、デボンで怪しまれないわけもない。

「変装でもするか?」

「実際に変装して潜り込むなんて、そんなのフィクションよ。変装して一企業の上層部まで行けるわけがない」

 冷静なコノハの言葉に、ではどうすれば、とダイゴは歯噛みする。自分に出来る事はないのか。

「じゃあどうすればいい? 俺は、チャンスがあれば逃したくない。その幹部総会で、俺の事を知っている人が一人でもいれば」

 その時、コノハは、「知っている人……」と呟いた。何か当てがあるのだろうか。

「何かあるのか?」

「知っている人ってのとは違うかもしれないけれど、話が分かる相手ならば少しは当てがあるわ。明日の幹部総会に、彼が出ていれば、だけれど」

 コノハはポケナビを操作して電話をかける。この時間帯だ、起きていても動けないのでは、と考えたが相手先は電話に出た。

『もしもし?』

 女の声だ。コノハは、「私よ」と短く返答する。

『コノハ? 何でこっちに電話かけてくるの?』

「あなたの協力が必要になってきたのよ。ちょっと明日の幹部総会に一人だけ招き入れたい人物がいる。彼の手助けを行えないかしら?」

 無茶な言い分だが相手は、『その彼、ってのは』と聞く調子だった。コノハは少し思案した後、「ツワブキ家で匿われている」と説明を始めた。

「ツワブキ・ダイゴ、という名前の青年」

『ふざけているの?』

 当たり前の返答だったがコノハは真剣な声音でダイゴの身の上を語った。すると相手の調子も変わってきたようだ。

『その彼、とは今は?』

「目の前にいるわ。替わる?」

『お願い』

 ポケナビが手渡される。ダイゴが面食らっているとコノハが囁いた。

「大丈夫、味方よ」

 ダイゴはポケナビを受け取って声を吹き込む。

「あの、もしもし?」

『あなたがツワブキ・ダイゴ君?』

 その問いにダイゴは気後れ気味に答える。

「ええ、一応、そうなっています」

『一応、ね。アタシはイズミ。デボンに勤めている社員よ』

 ダイゴはコノハへと目線を向ける。大丈夫なのか、という意味の眼差しにコノハは首肯した。

「あの……デボンの人って事は、この通信まずいんじゃ」

『大丈夫よ。アタシの研究部門は内偵だから。情報が漏れるなんて事は一番にあっちゃいけない』

 どうしてデボンの内偵部門とコノハが繋がっているのかは謎だったがダイゴは話を進めた。

「その、幹部総会に、俺が入って行く事は」

『通常は不可能ね。あなた、自分の姿、容姿までもが初代と同じなんでしょう?』

 これに関してはどうしようもないのではないか。ダイゴの懸念にイズミは、『まぁ背格好レベルならば』と応ずる。

『一時的に監視カメラを逸らして、警備員とかも出払う時間を指定するわ。その時間にあなたが入ってくれば、問題ないでしょう』

「そんな時間があるんですか?」

『ないわよ、もちろん。今からアタシが作るの』

 コノハが、「彼女は錬金術師みたいなものよ」と口にする。

「時間やデボンの隙を作れる、ね」

『あまり頼られても、黄金は積めないわよ』とイズミも答える。

「どういう意味なんですか?」

「産業スパイなのよ、彼女は」

 思わぬ返しにダイゴは唖然とする。イズミは、『実際に言われちゃうと現実味ないでしょうけれど』と笑った。

「産業スパイ……。どの企業なんですか?」

『それこそ言えないなぁ。だってこの後もお仕事あるし。あなたがもし失敗してもアタシはノーダメージでいきたい』

 絶対の秘密、というわけだ。同時にコノハのような一個人がツワブキ家に入り込めた理由も得心がいった。

「イズミさん。俺が入れる隙を作ってもらえるんですか?」

『今からタイムスケジュールを組むわ。五分後には返答出来ると思うから、ちょっと待っていてね』

 通話が途切れる。ダイゴは狐につままれたような気持ちだった。

「産業スパイなんて、本当にいるんですね……」

 そのような言葉が漏れてしまう。コノハは、「いるわよ、たくさん」とポケナビを受け取った。

「あなたが知らないだけの世界ね。デボンが一社だけの寡占状態だから、この状態をどうにかしたい、って思う企業は山ほどある。カロスやイッシュ、あるいはシンオウでもホウエンの技術は欲しいって思っているものよ」

 それだけ敵の多い企業だというのか。ダイゴは改めてそのような企業を相手取れるのか不安になった。

「デボンを敵に回すってのはね、こういう事なの。誰も信じられない。殊にカナズミではデボンの支配は絶対だから」

 反逆を企てればそれは死に直結する。唾を飲み下すとポケナビが鳴った。コノハが通話に出る。

「早いわね」

『早いに越した事はないでしょう? タイムスケジュールを組んだ。お昼の一時に入ってきたら、ちょうど手薄よ。でもどうする気? 入ったとして、幹部の横っ面を引っ叩く?』

「それもいいかもね」とコノハは鉄面皮を崩さずに応じる。自分としては穏やかではなかった。

『あともう一つ特ダネ。アタシにタイムスケジュール作れって依頼してきた人間がいる。裏稼業ではアタシの存在を知っている時点で、もう随分と怪しいわね』

「何者?」

 コノハの質問にイズミは、『これだけでも一つの秘密になり得る』と答える。ダイゴはその意味を察した。

「イズミさん、コノハさんを信じていないんですか?」

 ダイゴの声にコノハのほうが瞠目する番だ。しかし慣れているのだろう、イズミへと問いかける声音は静かなものだった。

「そうなのかしら?」

『まぁ、優位に運べるというだけ。アタシだってほら、商売なわけだし』

 コノハは迷わずカードを切る。

「十倍払うわ」

『オーケー、引き受けた』

 それだけで鞍替え出来てしまうイズミもイズミならば、気前よく報酬を払えるコノハもそうだ。彼女達は自分の及びもつかない次元で話しているのではないかと思わせられる。

『名前はメアリー・マッケンジー。でもこれは偽名ね。すぐに潜れば分かった。本名は不明だけれど通称ならば』

「教えて」

『ギリー・ザ・ロック』

 その名前にダイゴは息を呑む。まさかここでギリーとかち合うとは思ってもみない。

『依頼人も、これは……、もう一声欲しいな』

「二十倍」

『依頼者はツワブキ家の誰か。これ以上はアタシの身が危ういので言えない』

 なんとギリーを雇った人物はツワブキ家の誰かなのだという。ダイゴは静かに思考を巡らせる。誰だ? 誰ならばイッシンを暗殺しようとする? 真っ先に浮かんだ人物をコノハが言い当てた。

「ツワブキ・コウヤ?」

『言えないって。アタシ、死にたくないし』

 イズミは笑い話にしようとする。しかしダイゴとコノハからしてみれば真剣だった。

「分かったわ、イズミ。情報ありがとう。それに抜け道も」

『ああ、いいって。持ちつ持たれつ、でしょ。それにしても、あんたも相当ね。そこにいるダイゴ君、例の彼でしょう?』

 例の彼。どのようにコノハが紹介したのかは分からないが記憶喪失である事くらいは露見していそうだ。

「ええ、そうよ」

 コノハは鉄面皮を崩さない。全くの無表情のまま、イズミへと返す。鉄の女、という響きを連想させた。

『なるほどね。今の声の感じで、彼に関してどういう風に関わっているかがよく分かった』 

 ダイゴには一切分からなかった。しかし今の一言でイズミは感じる事が出来たのだろう。コノハの隠された心情を。彼女は否定しない。

「どちらにせよ、隙を見つけてくれた事は感謝する」

『いいって、だから。そうね、彼に替わってみて』

 イズミの提言にコノハは、「必要ある?」と問い返す。イズミは、『取り消すよ?』と脅しをかけた。ポケナビが再び自分のほうに回ってくる。ダイゴは両手で受け止めて、「もしもし?」と声を吹き込む。

『あー、ダイゴ君? 大変ねぇ、あなたも。ギリー・ザ・ロックは名の通った暗殺者よ? 彼と敵対するかもしれない時間帯にしか穴開けられなくってゴメンね』

 まず謝罪の言葉が出た事が意外だったが、彼女からしてみればこれも仕事だ。仕事ならば、まず謝罪するのは当然と言えよう。

「いえ……俺の危険はいいんです。ただ、その場合、コノハさんは」

『大丈夫。コノハは強いから、それなりの距離感は絶対保つ。あなたに近づき過ぎたり、遠ざかったりもしない』

 言い切った声音にダイゴはどれだけイズミの中でコノハが信頼に足る存在だと思われているのかを実感した。

「俺は、手持ちが強いわけじゃない」

『データでは、ダンバルだって聞いたけれど』

「メタングに、進化しました」

 それは初耳だったのだろう。コノハも、「進化を?」と訊いていた。

「ああ、そういえばコノハさんにも言っていなかった」

 迂闊な言葉にイズミは笑った。

『なるほどねぇ、あなた分かりやすいわ。どちらかと言えば好みのタイプよ』

「茶化さないでくださいよ」

 ダイゴは困惑する。コノハはどのような気持ちなのだろう。かつての恋人の身体を乗っ取った形の男が友人らしき女性にタイプだと言われるのは。その複雑な胸中は慮る事さえも出来ない。

『今のも、彼女のためを思ったのよね』

 だからか、イズミの言葉は意想外だった。まさかダイゴのたった一言で見透かされるとは思ってもみなかったのだ。「だから言ったでしょう」とコノハが呟く。

「彼女は産業スパイ。誰も信じていないし、同時に何人もの信用を置く事の出来る存在。彼女は信じるものは少ないけれど、彼女を信じる者は多い」

『言いえて妙、と言ったところかしら』

 ダイゴは感想を述べていた。

「宗教みたいだ」

『違いない。アタシは連中の間じゃ神様。その代わり、この業界じゃ他の宗教への鞍替えも、何でもござれの世界』

 不用意な一言で消されるかもしれない自分以上に危うい綱渡り。ダイゴは改めてとてつもない相手と話しているのだと自覚する。

「その、俺なんかを顧客にしても」

『記憶喪失から取れるものはない? そうね、あなたからは取れないかもね』

 暗にコノハからならばいくらでも強請れる、と言った声音だ。ダイゴは思わず語気を強くした。

「そういう意味じゃない」

 ダイゴの声の調子が変わったのを感じ取ったのか電話先のイズミが黙り込む。

「――コノハさんに、指一本でも触れさせない。俺の前では」

 思わぬ言葉だったのだろう。コノハでさえも固まっていた。当のイズミと言えば、僅かな沈黙の後、なんと笑い転げた。その笑い声は秘密やら機密なんてものとはまるで縁のない、ただ真実に可笑しいという調子だ。

『いや、悪い悪い。まさかそこまでマジになるなんて思っていなかったから。なるほど、こりゃイカレているわ』

 笑いを鎮めつつイズミは声にする。

『分かったわよ、ツワブキ・ダイゴ君。あなたの前では淑女を気取りましょう』

「ふざけているんじゃ……」

『ふざけていないわ。大マジよ。アタシを笑い転げさせられるの、あなたくらいだわ』

 ダイゴはどうしたものかと迷っていた。コノハが手を差し出すのでそちらにポケナビを手渡す。

「イズミ、随分と楽しそうね」

『そうね、楽しい。マジになる客ってのはこうも面白いものかしら』

 まだ喉の奥でくっくっと笑っている。コノハは言いつけた。

「あまり遊び調子で世渡りしていると痛い目見るわよ」

『肝に銘じておく。じゃあね。そろそろ業務外だし』

 イズミの声にもう十時に近い事を自覚する。ダイゴは少しだけ慌てた。

「帰らなくっても」

「ツワブキ家じゃ怪しまれるかもね。そろそろ帰る準備をしたほうがいいわ」

『何よ、泊まるんじゃないの?』

 イズミの余計な一声にコノハは、「そういう気分じゃない」と言い返した。

『そりゃあね。彼とそういう気分になれないのは承知しているわ』

「切るわよ、イズミ」

『またご贔屓に』

 その言葉を潮にして通話が切られた。ダイゴは腰を浮かせる。

「あの、俺、帰りますんで」

「送っていくわ」

 意外だった。コノハは自分との接点はなるべく持たないようにしていると思ったのだ。

「でも危ないですよ」

「危ないのはどっちだか。メタングに進化したと言うのならば、脅威度が上げられている可能性がある。闇討ちの危険があると言っているのよ」

 そう言われてしまえば立つ瀬もなく、ダイゴは従った。たった一つの監視カメラを潜り抜けてコノハと共に夜のカナズミの空気を吸う。そういえば、夜半に出歩くのは初めてではないのか。しかも異性と。

「明日の幹部総会で、何が動くかまでは分からない」

 コノハの言葉にダイゴは、「ですね」と答える。

「もしかするとこれからのデボンの将来を左右する何かなのかもしれない。ギリーの依頼人がイズミを使って道を切り拓いているという事は、明日誰かが死んで、誰かが覇権を握る可能性がある」

 誰かが死ぬ。ダイゴの脳裏に撃ち抜かれたイッシンの姿が浮かんだ。その像を振り払う。イッシンは容易く死ぬはずがない。それと同時に家族で合い争うなどあって堪るか、と感じる。コウヤがどれだけ次期社長のポストを狙っているのかは知らない。イッシンとの間に確執があるのかもしれないが、自分には窺い知れない事だ。

「一つ、忠告をしておくわ」

 前を行くコノハの声にダイゴは顔を上げた。振り向いた彼女は言い放つ。

「私に頼らない事、私もあなたを頼らないし、最悪の場合は無関係を装えるようにしておく事。イズミの事だから私との接点は切っているはずだけれど、どこから情報が漏れるか分からない。その辺は隠密に行きたい」

 ダイゴは首肯する。コノハを裏切るはずがない。ここまで自分を導いてくれた。

「俺は、逆にありがたいと思っています」

「ありがたい?」

 胡乱そうな眼を向けるコノハにダイゴは言い繕う。

「俺、コノハさんの役に立てているのかな、と思うと」

 コノハは一瞬呆気に撮られた様子だったが、すぐに持ち直した。

「勘違いしないで。私はあなたとの協定関係にメリットが見出せただけ。それにフランの肉体も諦めたわけじゃない。あなたはフラン・プラターヌである事はどうしても拭いようのない事なのよ」

「それでいいんです、きっとそれで……」

 ダイゴの沈黙の意味をはかりかねたのだろう。コノハは腕を組んで、「言いたいことがあるのならば」と唇を尖らせた。

「言いなさい。明日以降は言えなくなるかもしれないのだから」

 どこまでも毅然としたコノハにダイゴは一つだけ言葉にする。

「ありがとうございます。俺、コノハさんからしてみれば恋人の身体を不当占拠しているとんでもない輩だ。だって言うのに、ここまでしてくれる。本当に、ありがたい事だと――」

 そこから先を発する前に唇が塞がれた。気がつくとコノハが歩み寄り、ダイゴの唇に自分の唇を重ねていた。

 言葉が消える。

 僅かな瞬間だったがまるで永遠のように感じられた。

 ダイゴが感じたのは、女性の唇の柔らかさと、彼女の体温だけだった。それだけで、ああ、この人は冷徹な人間ではないのだ、と言う事が今さらに再確認された。

 肩に手を回そうとすると、今しがたの出来事が嘘のようにコノハが離れる。

 永遠は一瞬のものとして儚く消え去った。

「……一つ、嬉しかった事があるから、そのお礼よ」

 コノハは顔を伏せたまま呟く。ダイゴは言葉を継ごうとしたが気の利いた台詞は出なかった。

「さっき、イズミに言い返してくれた時、嬉しかった。今でもフランは、私を守ってくれているんだって」

 ああ、やはり……。ダイゴは眩暈のような感覚を覚える。

 彼女を守ったあの一言はやはり「ツワブキ・ダイゴ」の台詞ではなく「フラン・プラターヌ」のものであると感じられたのだろう。当然の事だ。自分は「ツワブキ・ダイゴ」の名を与えられただけの、偽物に過ぎない。コノハからしてみれば、フランの奪還こそが本物であり真実なのだ。

 だから彼女は嬉しかったのだろう。フランの肉体を持つ自分が、彼女を守るような発言をした事が。ダイゴは先ほど自分を衝き動かしたイズミへの反感がどこから生まれたものなのか決めあぐねた。

「ツワブキ・ダイゴ」の意思か、それとも「フラン・プラターヌ」の意思か。どちらがコノハを守ろうとしたのかはもう分からなくなってしまっていた。自分がダイゴである事は間違いのないのに、コノハを前にして守りたいと思った事は、やはり元の身体の持ち主の感情なのだろうか。自分には誰かを守りたいなど過ぎたる感情だと言うのか。

「俺は、その……」

 しどろもどろになってしまう。先ほどの口づけでさえも、あれは永遠にしたいと思ったのはフランの側なのではないかと勘繰ってしまう。自分の中にもう一人いる。誰かが囁いている。

 ただこの女性を守りたいと思っただけなのに、その感情の行方さえも誰の所有物か分からない。半端者だ、とダイゴは自身を叱責した。声を上げて彼女を守る、と言い切る事さえも出来ない。自分は何者で、何のために生まれ、何のために生かされているのか。

 それを明確にしない限り、誰も守れないし誰も救えない。自分の意思さえもない、がらんどうを持て余すだけだ。ダイゴは拳をぎゅっと握り締めた。与えられてばかりでは何も出来ない。何にもなれはしない。

「俺、コノハさんを守る側になりたいんです」

 だから、この言葉さえも借り物に過ぎないのだとしても、あるいはこの感情でさえも、紛い物であったとしても、ダイゴは言っておきたかった。あなたに、与えたいのだと。

 しかしコノハは、「フランが戻ってくれば」と返す。

「自然とそうなるでしょう」

 つまり自分では、ツワブキ・ダイゴには守らせてくれないのだ、この女性は。それだけコノハの意思が堅い事と、フランへの気持ちが勝っている事を物語っている。

「俺じゃ、駄目ですか……」

 だから今の言葉は本当に、負け犬の遠吠えめいていてダイゴは自分で発してから気付いた。こんな、卑怯な言い草……。

「ダイゴ、あなたは何も背負う必要はない。本来ならば、ツワブキ家で飼い殺しにされ、その記憶がどのようなものであったのか、そもそもフランであったのかさえも明らかにならなかったかもしれない。でもあなたは知りたがった。自分のルーツを。自分が何者であるのかを」

 エゴなのかもしれない、とダイゴは感じていた。自分が何者なのか、誰も分からずに明日へと疾走しているのに、自分だけ指針が欲しいなど。

「俺、やっぱり駄目なんでしょうか」

「駄目とは言っていないわ。ただ、あなたが求める真実は、あなたが思い描いているよりももっとどす黒く、そして汚らわしい代物である、それだけは確かよ」

 どす黒い真実。自分の追い求めているものは理想とはかけ離れている事を改めて認識する。ダイゴは、「それでも」と口にしていた。

「俺は、俺が何者なのか、自分の事だ、自分で知らなければならない」

 たとえコノハからしてみればフランであったとしても、自分が何者なのかを知るのは自分自身以外あり得ない。コノハは嘆息を漏らす。

「別に、強制しているわけでもなければ、あなたに背負い込ませているわけでもない。今の口づけは忘れて。単なる気紛れだから」

 気紛れのキスは淡く、ほろ苦く、ダイゴの記憶に残るものとなってしまった。コノハが身を翻す。もう先ほどのキスなど悠久の時の向こう側に置き去りにしてしまったかのような立ち振る舞い。女性は、男ほど湿っぽく感じていないものなのかもしれなかった。


オンドゥル大使 ( 2016/02/03(水) 21:29 )