第百七話「魂の争奪者」
誰かの声を聞いたような気がした。
しかし空耳だったのだろう。聞くとすればそれは敵の声に相違ないからだ。ダイゴは階段を駆け上り目標の場所を捉える。
「幹部総会は、この先の会議室か」
しかし駆けながら、どうする、という思いが去来する。イッシンを問い詰めて、初代再生計画を止めるか。あるいはこのデボンでのスキャンダルを公表するか。自分だけではない。ディズィーも、クオンも、サキだっている。自分一人ではないのだ。その事実が勇気を奮い立たせる。
「俺は、一人じゃない」
家族を裏切った感覚があった。しかし今は、それと同時に満たされている気持ちもあるのだ、ようやく隠し事をしないで済む。自分が何者なのか分かれば、後はツワブキ家とデボンの企みを止めればいい。もう迷いはしない。自分の身体が初代再生の要だというのならばそれさえも乗り越えよう。絶対に初代にこの身体を明け渡さない。その気持ちさえ揺らがなければ自分が傷つく事など何も怖くない。
「どこへ行くのかね」
不意にかかった声にダイゴが足を止めようとするとポケモンの殺気が膨れ上がった。咄嗟にメタングで受け止める。影から躍り出た極彩色の鳥ポケモンが爪を立てて舌打ちをした。
「何だ、お前は……」
「私の名前はF。その身体の、本来の持ち主、フラン・プラターヌの人格データを移植された、ポケモンだよ」
フラン・プラターヌ。その名前にダイゴは硬直する。目の前の鳥ポケモンがフランだというのか。
「馬鹿な。証拠でも」
「証拠は、お前が全て知っているはずだ。もうここまで来たんだ。仕上がっているはずだろう? 初代の依り代として」
「何を言っているのか、分からない、なっ!」
呼気一閃。メタングの放った拳が鳥ポケモンを取り押さえた。この鳥ポケモンはさほど強靭なわけでもない。いなせる、という確信を得た直後だった。
「いいのかな? 私を殺せば、コノハが悲しむぞ」
昨夜の口づけが思い出される。この鳥ポケモンは本当にF……フラン・プラターヌだというのか。うろたえたダイゴの隙をついて鳥ポケモンが離脱する。
「分かってきたようだな。お前はワタシの前に服従以外の道がない事を」
「……コノハさんの事を言えば、俺が動けなくなるとでも」
「なるさ。コノハは私の……いいや、ボクの恋人だからね!」
鳥ポケモンの声音にダイゴは硬直する。
本当にフランなのか? だとすれば、自分には何も出来ない。コノハは自分のためにこの道を切り拓いてくれたが、それは何よりもこの身体の持ち主であるフランのためだ。その想いには勝てない。どう足掻いたとしても。自分の身体がフランのものだから、コノハはある程度受け容れてくれている。フランでなければ、もう価値はないのだ。
「俺、は……」
「さぁ! 一つになる時だ! D015! ボクの肉体!」
ペラップの放った風圧でダイゴは倒れ込む。一瞬の交錯。ペラップの瞳に映る自分が大写しになった。初代の顔。それ以上に、フラン・プラターヌという個人の顔。
「俺は、都合のいい道具じゃない!」
Fが嘴を開いて息を吐き出した。弱々しく床を転がる。ダイゴは荒い息をつきながらFを睨んだ。
「俺は、ツワブキ・ダイゴだ!」
ダイゴの声にFが哄笑を上げる。
「ボクの身体で、初代の精神体の入りやすい被造物だぞ? その権利が、何者でもない、所詮は流されるだけのお前にあると思っているのか?」
「俺は、自分の意思でここまで来た」
立ち上がり、Fへと言葉を浴びせる。Fも持ち直して翼の刃を研いだ。
「だから、俺は進まなきゃいけないんだ! 俺自身のために、俺が何者なのか!」
「だから、ボクの肉体だと――」
Fが羽根の内側に空気の膜を溜める。ダイゴは咄嗟にメタングに防御させた。
「言っている!」
空気の刃をメタングの鋼の肉体が防御するが、ペラップがそれを嚆矢としたように飛び上がる。飛行する敵は思っているよりもやりづらい。
「メタング……、鋼・エスパーか。確かにこの肉体、飛行タイプのペラップでは効果抜群を狙いにくいだろう。しかし、お前を主軸に狙えばどうかな? D015!」
Fが翼を払う。メタングが腕を突き出して弾くも突然に背後から襲い掛かってきた風圧にダイゴは瞠目する。いつの間に仕掛けたのか、遠隔操作で放たれる風圧の刃が迫っていた。
「挟み込むような攻撃を……」
「この身体にも随分と慣れてね。お陰でエアスラッシュやその他の混合技をポケモン以上のパフォーマンスで撃てるようになった。今のボクをただのペラップだと思わない事だ。言ってしまえば同調の域。ポケモンと人間が同じレベルで存在しているのだと思いたまえ」
つまりFとやり合うのは得策ではない。ダイゴは背後から迫った空気の刃をメタングの弾丸の勢いを持つ腕で相殺する。
「知っているよ。バレットパンチだな。その速さならば、なるほど、ボクの放った攻撃くらい相殺出来るだろう。しかし分かっていないのかね? それこそが仕上がった証だと」
「仕上がった?」
他に風圧の刃が迫ってこないか。ダイゴは緊張を走らせながらFの言葉を聞く。
「ダンバルからの進化、メタングが手足のように使えるまで、結構時間はかからなかっただろう? だがね、メタング、いいやダンバルの進化系列は育てるのが大変に難しいんだ。それこそがツワブキ家、デボンがお前に仕込んだ罠。試金石と言い換えてもいい。もし、ダンバルが進化し、メタングを手足のように使えるのならば、もう時は迫っているのだと」
ダイゴはメタングへと命じる。Fを叩き落そうとしたがFは軽やかに回避して言葉を継ぐ。
「ボクの言葉が耳障りかな? しかしお前は聞かなければならない。これこそが真実に他ならないのだと」
「真実かどうかは、俺が見極める。自分の目と耳で」
「……度し難いな。ボクはそこまで馬鹿ではなかったはずだけれど」
「メタング、バレットパンチ」
迷いなく放った言葉にメタングの腕が推進剤の勢いを帯びてFへと突き刺さろうとする。しかしFは身体を軽やかに挙動させて回避した。
「バレットパンチを……」
「避けたのがそんなにおかしいかね? 言っておこう。ボクはダンバルからメタング、それに至るまでそのポケモンのデータを全て知っている。だからこそ、お前の前に立っているのだと」
偶然だ、とダイゴは再度命じる。しかし結果は同じだった。放たれた拳は掠りもしない。
「ボクが、トレーナーとして優れているわけでもなければ、このペラップの躯体が飛び切り飛行タイプとして優れているわけでもないよ。言っただろう? 同調だと」
まさか敵はその域に達しているというのか。ダイゴの焦燥を見透かしたようにペラップが笑い声を発する。
「怖いかな?」
「怖い? 怖いのは、ここで歩みを止めてしまう事だ。せっかくここまで来た。色んな人達が、俺と同じように真実を探している。その真実を探す人達の目を曇らせてはいけない」
ダイゴの言葉に、「立派だな」と形だけの賞賛が送られる。
「だがそれは、自分を死地に追い込む事と何が違う? いいか? ボクらはもう一心同体になれるんだ。こっちとしては仕上がっているお前の身体が一刻も早く欲しい。そうでなければ、お前の身体は初代に取られる」
「……分からないな。お前達の目的は俺の身体に初代の魂を通す事じゃないのか?」
「そうだよ。そうだとも。だから、だよ。仕上がってきたという事は、その肉体が精神を透過しやすいという事なんだ。ボクの精神を先に入れてやれば、もうぶれているその肉体の所有権が揺れ動く事もない。なぁ、ボクに返せよ! その身体!」
Fが真っ直ぐに飛んでくる。ダイゴは迎撃すべきだとメタングに命じようとしたが今までの攻撃ではどうせ間一髪避けられるだけだ。ならば、太く短く――。
ダイゴが指示しない事を好機と見たのかFの動きは直線的だ。メタングを飛び越えて自分の頭部を引っ掴むつもりか、あるいは引き裂くつもりか。
「ボクの身体だ!」
その声音にダイゴは言い返す。
「違うな。俺の身体だ」
そう発した瞬間、メタングが打ち込む。Fが攻撃の気配を悟って天井に逃げようとする。
「メタングの射程は所詮、超近距離! 上に逃げれば、なんて事――」
「それこそが、狙い通りだった」
Fが瞠目する。メタングの放った「バレットパンチ」の射線はFに、ではなく、床へだった。床へと超高密度の弾丸の拳が同時に放たれる。それは結果的にメタングの身体を急速に浮上させた。その勢いは鈍いメタングの動きでも飛行タイプのFに追いつけるほどだ。
目線が合い、Fが息を呑んだのが伝わる。
「ぼ、ボクの身体だぞォ!」
うろたえたFへとダイゴは言い放つ。
「いつまでも未練タラタラはみっともないって、分かる事だな」
放たれた拳がFの肉体を捉える。Fが短い悲鳴を発する。即座にもう一撃、Fの腹腔へと打ち込まれた。Fがよろめき、嘴から血を流す。
「馬鹿な……。ボクのなのに……」
「所有権を主張したいんなら名前でも書いておくんだったな」
Fが力なく床に突っ伏す。これで決着はついただろう。ダイゴが歩み出そうとすると、「いいのか?」と声が発せられた。
「ボクこそが、フラン・プラターヌの帰還こそが、コノハの待ち望んでいる事なんだ。お前は、自分の願いのために誰かの幸せを潰せるのか? コノハとはもう会っているだろう? 余計に情も湧いているはずだ。ボクが死ねばコノハは悲しむ。お前への復讐も考えるかもしれない。そういう子だった。ここでボクを殺したっていい事なんて何もないぞ」
行き場所を失うだけだ。帰る場所も、もしかしたらなくなるかもしれない。そのような予感が一瞬だけダイゴの身体を硬直させたが、ダイゴはそれらの懸念を振り払った。
「……確かに、俺にはもう帰る場所も、帰りを待ってくれている人もいないのかもしれない。偽りの家族関係は崩れたし、俺の事を望んでくれる人も」
「そうだろう。ならば」
「でもだからって、俺はやっぱり、俺が誰なのか知りたい。俺が何者で、何の意味があってこの世界にいるのか。それを知りたいだけなんだ。きっと、それだけの、ほんのちょっとした事がきっと、何者にも替えられない俺の価値なんだと思う」
自分が本当にこの世界にとって意味があるのかを問い質したい。それだけなのだ。それ以外は何もいらない。たとえ帰る場所がなくとも、この世界が自分を結果として拒んだとしても、自分が誰なのかを知る事はいけない事なのだろうか。
「自分の価値……。そんなもの、お前は初代再生のために与えられている。本来ならばその初代再生だって、副次的な産物だ。ボクは、ボクの肉体を投げ打ってまでこの日を待った! お前の肉体がボクの精神に耐えられるその日を! だからこんな臭いポケモンの肉体でずっと待っていたんだ! その執念を、誰にも邪魔させるか!」
Fの言葉もある一面では真理。だからこそ、自分は立ち向かう。乗り越えなければならば、戦うしかない。
「俺が俺であるために戦う必要があるのならば」
Fはもう虫の息だ。
あと一撃で勝負が決まる。ただし、それは自分とて同じ。ポケモンの技を生身で受ければ、自分も危うい。Fが最後の力を振り絞って立ち上がろうとする。
飛び上がった次の瞬間が勝負。ダイゴが身構える。今度こそ、この肉体を巡っての戦いが終息する。メタングに思惟を注ぎ、次の一撃を待ち構えた。Fが飛び上がろうとする。
来る! と身構えた神経を遮るように声が放たれた。
「――雑魚同士で喰い合いとは、恐ろしく醜い光景だ」