第百五話「牙」
「ジョウトでトレーナー修行を受けた時、私だけどうしてだかスパルタ教育を受けたのよ。その時、ヤナギ、とかいうジムリーダーに教えを乞うた。私達、兄弟は多かれ少なかれ、トレーナーとしての素質が見込まれ、それぞれの専門分野を極めている。そして、これが、氷の極点」
レイカが指揮棒のように手を振るう。ここにいてはまずい。それが直感的に分かったが既に遅かった。自分に出来たのは咄嗟にポッタイシをモンスターボールに戻すだけだ。自分の足までは気が回らなかった。足が凍り付き、サキは倒れ込む。ほとんど神経が通っていないのか、瞬時に奪い取られたのを感じた。痛みすらない。
「……わ、私を」
「ポッタイシを狙ったついでで、あなたを狙ったのだけれど、浅かったわね」
レイカが指を鳴らす。自分のような人間を始末するのに数秒とかからないだろう。サキは目をきつく瞑った。ここまでなのか。それとも、ここまで来られた事が善戦なのだろうか。そのような思案を他所に歩み出たのはレイカではない。
「……博士?」
プラターヌがどうしてだかサキの前に立っている。その理由が分からず尋ねていた。
「何やっているんです、博士。あなたは、こんなところにいる場合じゃ……」
「それを言うのならば君とて、だ。大体、もう勝負は決した。もういいだろう、ツワブキ・レイカ」
プラターヌはこの期に及んで懐から煙草を取り出し、火を点ける。一服してから言葉を継いだ。
「急くようで悪いが、わたしはね、君らの戦いとて、二次戦とでも言うべきか、本来の意図から離れようとする戦闘のような気がしてならない。問い質そう、ツワブキ・レイカ。本当にここで、ヒグチ・サキ刑事と戦っている場合か? あるいは、もう何もかもが決していて、これが消化試合だと分かっていて、やっているのか?」
何を言っているのだ。サキはレイカを見据える。ここでレイカを止める事こそ、自分に出来る唯一の、ダイゴへの手向けのつもりだった。
しかしレイカは否定もしない。それどころか口角を吊り上げてプラターヌを目にする。
「……本当に、食えない男ね」
「それほどでも」
プラターヌのちぐはぐな返答にレイカが手を払う。凍結範囲が広がってプラターヌを覆い尽くそうとしたが、その手はプラターヌのくわえた煙草を落とすに留まった。
「嫌煙家なの、私」
プラターヌが意外そうに目を見開いてから、「すまなかったね」と腰を下ろす。するとレイカも同じように腰を下ろした。先ほどまで敵対していた事など何もかも忘れたように。
「な、何をやっているんですか! そんな事、している場合じゃ」
今も命を狙おうとしている輩を前にして。しかし、プラターヌは冷静だった。
「いや、今しか出来ないだろう。ヒグチ・サキ刑事。君は、彼女と戦う事でこの事象が止められると感じていたようだが、実のところわたしの考えは全く違ってね。ポッタイシを怒らせるようなものだから、黙ってたんだが」
何が言いたいのだ。サキは眉根を寄せるがレイカはある程度の理解を持っているらしい。プラターヌを見据え、「面白い判断をするのね」と評した。
「それは彼女を裏切らないため?」
「裏切る、裏切らないで言えば、わたしの立ち居地ってのは相当にアンフェアでね。例えば、君が何も言わなければ、ここにいた事さえも嘘になるのだろう?」
サキがハッとする。プラターヌの身柄を押さえたのは自分の独断。比して、レイカからすれば自分が調子に乗り過ぎた、という一事なのだ。
「博士! 最初から、そのつもりで」
「そのつもりもどのつもりもないよ。結局のところ、ツワブキ・レイカ。彼女だって傍観者のポジションだ。ここから動くのはお互いに賢くないって分かっているのだろう?」
サキの視線にレイカは笑みを浮かべる。
「どこまでも、読めない人ね、プラターヌ博士。それはもう歳を取らないから? それとも、超越者としての意見なのかしら?」
「どちらでもないよ。わたしは、歳を取らないと言っても見た目だけだ。細胞は劣化するし、老化する。それはきっと、避けられない事だ。だからこそ、フラットに、このイカレた研究を見据えている。永遠を手にしようとして失敗した男と、永遠になろうとは思わなかった男の末路まで、わたしならば見届けられる」
「なり損ないはどちらか、という議論でもなさそうね。いいでしょう。プラターヌ博士。今ならば、今のあなたの理解ならば、この計画を許容出来るはず。どうします? いつまでもヒグチ・サキにつきますか?」
最後通告のようだった。これで分の悪い賭けには負けたな、とサキは面を伏せる。しかし、プラターヌはくいっと自分の顎に手を添えたかと思うと、静かにその唇を重ねた。
一瞬の出来事。
自分でも何が起こったのか分からなかったし、レイカも唖然としている。唯一冷静なのはプラターヌだけだった。
「君は死ぬべきじゃない」
唇の隙間から煙い吐息が漏れる。まるで春の日の木漏れ日のように、その一瞬は優しかった。
「それが、答えだと思っていいのかしら? プラターヌ博士」
レイカの声音にプラターヌは頭を振る。
「嫉妬は見苦しいよ」
「あなたほどの頭脳ならば賢い選択をするのだと、思い込んでいた節があったわね。男って本当に、馬鹿ばかり」
レイカが手を払う。凍結攻撃を受けてプラターヌはよろめいた。思わず叫ぶ。
「博士!」
「……唇を奪った色男の名前を、まだ呼んでくれるとはね」
プラターヌは口調に精一杯の余裕を窺わせてみせるが、この状況。好転するとは思えなかった。
「博士! 今ならば逃げられます、早く!」
「おいおい、逃げるだって? それは男が廃るってもんだ」
プラターヌはレイカを真正面に捉えている。その背中は戦う男のそれだ。
「逃げないって言うんですか。それはおかしいでしょう! 私達は、真実のために」
「その真実のために、今まで犠牲にしてきたもの。見ないようにしてきたもの、それらを全て、わたしが背負おう。なに、この身は既に穢れている。君のような人間が感知するべき事でもないよ」
プラターヌの言葉にサキは頭を振って叫んでいた。
「博士が、ここまで私を導いてくれたから!」
ここまで来られた。だというのに、ここで降りると言うのか。その事実を突きつけると、「ズルイねぇ」とプラターヌは微笑む。
「わたしに、逃げられないように、男の立場を尽くさせてくれるんじゃないのか。それ以外の道もあるって言うのか」
「いいえ、プラターヌ博士。真実に辿り着きたいと真に願うならば、あなたの立場でさえも遠い」
レイカは手招いてみせる。
「こちらなら、もっと上手くあなたの要求に添えますが」
何とこの状況でレイカはプラターヌを抱き込む事を考え出した。
「とても魅力的な提案だな。だが」
肩越しに振り返ったプラターヌの双眸には最早迷いなどない。自分と最後まで共にあるという光が眩いまでだ。
「悪いが命を賭ける女性は少ないほうがいいと人生経験で知っている」
「後悔しますよ」
レイカが指を鳴らすと瞬間冷却の波がプラターヌへと押し寄せる。プラターヌは膝をつきそうになったが笑い声を上げてそれを制した。
「とてつもない使い手じゃないか。ここまで猫を被れたのもさすがだよ、ツワブキ・レイカ」
「そちらこそ、ここまで酔狂な真似をしておいて今さら鞍替え、という輩でもないようですね、博士。言っておきますが、今が分水嶺ですよ」
ここでイエスと言わなければ二度とチャンスは訪れない。そう言いたげのレイカへとプラターヌは言いやる。
「分かっていないな、ツワブキ・レイカ。君は人心掌握の術は心得ているはずだろう。だったらこの世で最も尊いもの、誰にも奪えないものを知っているはずだ」
レイカはプラターヌの目を見据えて舌打ちする。
「欲望……独占欲」
「言い方が悪いな。愛情、だよ」
レイカが手を払う。プラターヌの半身が凍て付き、その身体が遂に膝をつく。
「博士! もういいです! 私なんて、守る価値なんて……」
そこから先は言葉にならない。プラターヌのような純粋な研究者はもっと守るべきものと時を弁えているはずなのだ。だというのに、何故。戦えない自分なんて足手纏い以外の何者でもないのに。
プラターヌは肩で息をしながら、「煙草を」と口元に指を持ってくる。
「吸わせてくれないか。一服だけでいいんだ」
「禁煙よ、プラターヌ博士」
レイカがもう一度手を払う。プラターヌの顔面に氷が纏いつき、その目を凍傷が襲い掛かった。思わず、と言った様子でプラターヌが仰け反る。しかしそれ以上は後ずさる事もない。
「何故です? ここで我々の側に下るほうが、遥かに賢く、なおかつあなたの知的好奇心を満たせます。デボンはあなたを切ったわけではありません。それに、Fと初代の調整には、あなたこそが相応しい」
「息子を弄び、その上に侮辱と恥辱を塗り重ねるような真似を、是とすると思うか?」
レイカは眉根を寄せる。プラターヌの意見が心底理解できないというように。
「あなたは、本当のところを知りたいのではないのですか? 初代再生計画の向こう側、それに自分の息子がどこに行ったのかを。そこまで知っても、なおかつあなたならば正気を保てる。研究者としてどこまでも実直に、それでこそプラターヌ博士! あなたに相応しい名誉ではないですか」
「名誉? ヒグチ・サキ刑事。彼女は名誉と言ったか?」
聞き返されてサキは狼狽する。プラターヌは鼻を鳴らした。
「血を呪うような所業を名誉と、君は言ったのか? いいか、名誉とは。真に名誉ある事とは! 自分の正義に忠実である事さ! わたしはわたしの正義に殉ずるまでの事。そこに介在するのはわたしの価値観だ。君達の価値観じゃない」
邪魔をするな。自分の道だ。そう語る背中にサキは涙ぐむ。プラターヌはここで命を落としたとしても惜しくはないと考えている。それでこそ正義に殉ずる行動なのだから。
「……博士。研究者にとって一番に無縁な価値観はなんだと思います? 正義ですよ、あなたの語るそれです。それこそ、研究においては最も邪魔で、なおかつ一番に障害となる分野なのです。あなたの語る正義に振り回されて、私達は歩みを止めている場合ではないのですよ。一刻も早く、初代を再生させる」
「そして知るというのかい? 初代の遺志を。彼が最後に何を感じたのかを」
プラターヌの言葉には自然と重みがあった。彼は初代を知る数少ない人間。初代の肉声を聞き取った人間なのだ。
「それが何か不都合でも?」
「彼が最後に何を感じたのか、か。それこそ、知るも無粋ではないのかな? なにせ、彼が最後に望んだ事はもしかすると家族の事なのかもしれない。遺していく我が子の事なのかもしれないし一族の事だったのかもしれない。ほんの些細な事だろう。わたしには分かる。人間、死ぬ瞬間に何も高尚な事を考えているもんじゃないと」
「何の根拠に――」
「わたしこそが、根拠そのものだが? 今、君の手によって死のうとしているわたしが自身の体験から発している言葉だ。とても裏打ちされていて充分じゃないか」
レイカは舌打ちを漏らしてプラターヌに言葉を浴びせる。
「いいですか? 初代は、そんな凡俗な考えを持った人間じゃありません! それこそ、ツワブキ家の将来に関して絶対に必要な事を知っているはずなんです。この先、どうするべきなのか。ツワブキ家は、デボンはどうあるべきなのかを」
「それこそ、遺族の身勝手な押し付けだ。偉人が必ずしも考え方までもが偉人だったわけではないよ。今際の際に、わざわざ予言めいた事なんて考えるかね。それこそ、もっと単純な事だ。人を愛する事、そういう、もっと分かりやすくってもっと単純な事を、初代は考えていたんじゃないかな」
「黙れ!」
凍結の息吹がプラターヌの身体をなぶる。サキはそれ以上見ていられなかった。ポッタイシを繰り出そうとするがもう戦闘不能なのは分かっている。これ以上、何をするというのだ。
「お前に、何が分かるって言うんだ! 私達の未来を、初代は考えていてくれたはずなんだ!」
「いい加減、一人の人間にそこまで背負わせるのは止めるんだな。魂がたとえ二十三年間、このカナズミを彷徨っていたとしても君達のような愚行を見つめたまま、初代はツワブキ家の先の事なんて考えられただろうか。もしかしたら今すぐにでも成仏したい心地だったのではないか」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
再三打ち付ける凍結範囲の手がプラターヌの身体を貫通する。何度も白衣を凍結の風に晒されながらプラターヌはそれでもレイカを睨み続ける。
「いいかい? 何度も言わせるな。初代は、そこまで大それた事を望んじゃいないよ」
プラターヌの諭すような口調にレイカは怒りの沸点を超えたような形相で喚く。
「お前らなんかに、何が!」
レジアイスの放つ凍結の切っ先が凝結してプラターヌの左胸を貫く。ふとした事のように、プラターヌは自分の胸に突き刺さったそれを見下ろした。
「心臓を貫通させた」
レイカの声にようやく身体感覚が追いついてきたのか、プラターヌが倒れ込む。サキはその身体を抱えた。
「博士! 博士!」
「……喚くんじゃない、ヒグチ・サキ刑事。君は、職務を全うするんだ」
いつものように落ち着き払った口調でプラターヌは道を示す。
「まずはマルボロだ。そこからストーリーは始まる。わたしはね、それ以上も以下もないと考えている。わたしと君のストーリーを始めるのに、それ以上の言葉があるだろうか?」
サキは震える手で手渡された箱に視線を落とす。プラターヌから差し出された安物の煙草の箱を手で抱え込んだ。
「大事にします……」
「そんな、後生じゃないんだ。好きな時に吸って、好きな時に一服つけばいい」
「吸えないの、分かっていて……」
プラターヌは少年のように笑う。朗らかに。何の打算もなく。
「そうだったかな。そうだった。君は、いつだってそうだった。わたしの言う事を聞かないんだ。だから、そこまで歩んでいって、だからここまで歩んで来れて……。だからそんな先に、行っちゃいけないよ、フラン……」
ここにはいない息子を幻視したプラターヌはそこで一切の生命活動を停止した。呼吸もなく脈拍もない。レイカは息を荒立たせている。
「そっちが悪いんだ……。私の言う事を否定する、そっちが……」
サキはぎゅっと煙草を握り締め懐に仕舞った。反撃が来ると感じたのだろう。レイカが警戒する。
「今の私では、ツワブキ・レイカ。お前を倒す事は出来ない」
レイカがひっと短い悲鳴を上げる。サキは鋭くレイカを見据えた。
「いつか、きっと。貴様を追い詰める。それまで私と、私達がどこまで来れるのか、せいぜい上で見ている事だ。その余裕がいつか仇になる事を、肌で感じているといい」
サキは身を翻す。この場で自分に出来る事はない。プラターヌを弔う事も、今の状態では出来ないだろう。
「警察にタレこむつもり?」
「無駄だな。私の立場では、どう考えてもツワブキ家を抑える事なんて出来ないし、ホウエンの警察はもう当てにならないだろう」
「だったら、どうすると言うの? どこかに隠居でもして、反逆の牙を研ぐとでも?」
「敵に何故、そこまで教える必要がある?」
サキの眼差しには既に敵としてのツワブキ・レイカしか映っていなかった。自分ではどう足掻いても届かない高みに彼女はいる。しかし届かないのは今だけだ。今を超える力を自分が持っているのだと、プラターヌが教えてくれた。
「だから、ここでの勝負はお預けだ。私達はきっと、お前に追いつく。お前らの闇をいつか引っぺがすその時まで、覚悟しておくんだな」
サキの言葉にレイカは何も返さなかった。サキは天井を見やる。涙がつうと頬を流れるのを止められなかった。今は、少しでも止められるように、上を向いて歩くしか出来なかった。