第百四話「鋼の精神」
「ヒグチ・サキ……」
忌々しげに発した声音はあの時と寸分変わらない。サキは先行したポッタイシをいさめる前にレイカと対峙する事となった。プラターヌが、「再現だな」と呟く。
「まさかこれほど早く見えるとは思っていなかっただろう? ツワブキ・レイカ」
どこか余裕を感じさせる声音にレイカは、「そうね」と落ち着きを取り戻そうとしている。
「生きていたとは」
「ツワブキ・レイカ。何を目的に彼を襲う? 彼の、何を知っているというんだ、お前は」
サキの急いた声にレイカは、「何を、ね」と自嘲する。
「全てを、と言えばいいかしら?」
ふざけているのか。内に湧いた憤慨を感じ取ったようにポッタイシが跳ね上がる。喧嘩っ早さは自分よりも上だ。ポッタイシが命令してもいないのに羽根の内側にある鋼の爪でレジアイスに立ち向かう。
「メタルクロー、ね。なるほど、このポッタイシ、分かっていて攻撃しているわけか」
ポッタイシは甲高く叫ぶばかりで理性も何もあったものではない。ほとんど野生に等しかった。
「博士……、ポッタイシは」
「憎しみでいっぱいだろう。今まで自分達を見下してきた連中の大元だ。人間がそうでなくとも憎いのさ」
ポッタイシの連撃にさしものレジアイスとて防戦一方に思われた。レジアイスはさばくだけで精一杯のようだ。
「この勝負、勝てる……」
サキの確信に冷や水を浴びせるようにレイカが声にする。
「何を勘違いしているのかしら? ポッタイシとて、その集中力がいつまでも続くわけないでしょう」
ポッタイシが一瞬だけ攻撃の手を緩める。何度も撃てるわけではない。その一瞬だけでポッタイシが突然に動きを止めた。身体を沈めさせ、荒く呼吸をついている。
「ポッタイシ。水タイプね。水タイプは変温だから、人間や鋼とかとは逆に考えればいい。体温の上昇を止めなければ、いずれ脳細胞まで沸騰する」
レジアイスはポッタイシの体内を操り、熱暴走させようというのか。しかしポッタイシは憎悪に染まった眼差しを背ける事はない。
「……主人に似て、なんとも忌々しい目をしていること。でもヒグチ・サキ。あなたが真実に辿りつけないように、このポケモンも志半ばで倒れる。それは決定事項よ」
「そんな事はない。大体、お前らは何を企んでいる。初代を再生させて、何をしたい?」
レイカは口元だけで微笑んで、「いいでしょう」と答える。
「初代の再生計画。その先に待っているのは何なのか。ちょっとだけ教えてあげるわ。どうせあなた達も自分なりの答えに至っているでしょうし」
「初代をダイゴに降ろす。そうする事によって何かが起こるんだな?」
レイカは、「彼を、まだダイゴと呼ぶのね」と挑発する。サキは睨み据えたがそう容易く挑発には乗らなかった。
「あれは入れ物よ。初代を入れるに相応しい、入れ物に仕立て上げた」
「ポケモンの血を入れたのは、お前のアイデアか?」
「そこまで調べ上げているのには恐れ入るわ」
レイカは少しも悪びれる様子もない。この計画に、全く迷いもないのだろう。
「どうかしている。人間とポケモンの血を入れ換えるなんて」
吐き捨てる声音だったがレイカは恐ろしく冷静に返した。
「あら? でもそれがとてもいい方法だったのはそこにいるあの肉体の基を知っている博士がご存知でしょう?」
プラターヌへと視線を向ける。彼はダイゴの肉体の基を知っている?
「本当なんですか、博士」
「……いや、憶測の世界だがね。何となく彼が他人とは思えなかったのは、やはりそういう理由か。ツワブキ家は、なんとおぞましい」
「はっきり言ってください! 知っているんですか!」
取り乱したサキの声にプラターヌは調子を乱さずに答える。
「ツワブキ・レイカ。あれはわたしの業だった。だから、血の宿命があったとはいえ、息子を巻き込んでくれたのは正直、怒りを覚えるよ」
「……息子?」
わけが分からない。サキの狼狽にレイカは口元に笑みを刻む。
「やはり、分かっていたのね。何となくでも、あのD015の素体が自分の息子、フラン・プラターヌであった事を」
フラン・プラターヌ。聞いた事のない名前だったがプラターヌという部分の符号は偶然ではないだろう。サキはプラターヌに問い質す。
「博士、では、ダイゴは……」
「そう。わたしの息子だ」
思わぬ返答にサキは眩暈を覚える。では、ダイゴの本当の人格は? そもそも、ダイゴの記憶は? 迷宮に入ろうとしたサキの思考に差し込むように、「記憶喪失じゃない」とレイカは答える。
「本当は、記憶なんて基から存在しないのよ。だってフラン・プラターヌとは違う、ただの擬似人格なんだもの。あの躯体を動かしているのは、初代の降臨に必要なプログラムの素。つまり何だってよかった。あれがツワブキ・ダイゴでも、別の名前でも。まぁリョウの趣向でツワブキ・ダイゴっていう悪趣味な名前に落ち着いたけれど、あれが記憶を追い求めたところで何も解決の糸口なんてないのよ。だってないんだもの。答えなんて」
それはあまりにも残酷だ。ダイゴが追い求めたものが幻想だなんて。プラターヌは、「皮肉なものだ」とこぼす。
「彼を構成する最も重要な部分はそれだったというのに。自分が誰なのか知りたい。自分の記憶は自分だけのものだと。だが、彼には自分が誰であったかなんて最初からなかった。彼は誰でもなかった」
そんな事があるだろうか。この社会で、あるいは世界での絶対的な孤独など。
「彼は何者でもない。本当に、何者にもなれない。でも、初代を降ろすにはぴったりの、入れ物なだけ」
レイカの言葉に怒りを覚える。サキははらわたの煮えくり返るような憤怒のまま命じた。
「ポッタイシ!」
ポッタイシがサキの命令を受け鋼の爪を繰り出す。しかしポッタイシは一歩進んだだけで倒れこんでしまった。
「馬鹿ね。今のポッタイシは集中の糸が一本切れただけで死んでしまうのに。もうすぐ脳細胞が沸騰して死に体になるのは目に見えている。もう降伏する事ね。どちらにせよ、あのツワブキ・ダイゴには最も残酷な運命が待っているのだから」
自分が何者でもないと知るよりも残酷な運命などあるのか。サキは叫んでいた。
「お前らが! 何もかもを奪ったから!」
「それが違うわ。何もかもがなかったところに意味を与えた。褒められどすれ、貶められるなんて」
ではダイゴの生きる意味は? こうして今も必死に自分の過去を探している彼の、本当の意味とは。
「そんなの、悲し過ぎる……」
「悲しい、ね。それでも彼は現実と向き合わなければならない。自分が初代を降ろすのに相応しい入れ物だという事と、もう一つ。彼本来の人格を狙っている人物と」
本来の人格。その言葉にサキは顔を上げる。
「初代再生だけが、目的じゃないというのか」
「確かに初代の再生がツワブキ家の悲願。でも協力者である彼は自分がただ死んでいくのを目にしていくわけがないでしょう」
彼。新しく出てきたその言葉にサキは戸惑う。
「誰がいるっていうんだ。ツワブキ家以外に、彼の身柄を狙うっていうのか」
「抹殺派に彼の肉体が殺される前に、取り戻したいのね。――F」
F。自分達を導き、裏切った張本人のペラップ。あれはどうして人語を解していた? プラターヌはあれを見た瞬間、プログラム人格と言っていた。その答えは……。
「まさか、博士は最初から知っていたんですか?」
サキの問いかけに、「半分は」とプラターヌは答える。
「まさか自分の息子の人格がポケモンに宿っているなんて、知りたくもなかったが」
だとすれば、ツワブキ・ダイゴを狙っている勢力は二つある。抹殺派とF個人。今ここにFがいないのは何故か。サキの視線を感じ取りレイカが答える。
「Fの狙いは究極的にあの肉体の所有権。いずれあの肉体を所有するためだけに、ポケモンに転移し、今までこちらの勢力に与していた。でもあの肉体を所有したのならば簡単に裏切るでしょうね」
どうするというのだ。レイカでさえもそれは邪魔するべきではないと感じているようだった。
「Fは充分に役に立ったし、無論彼に肉体を返す事はやぶさかではないわ。でも、最終目的は初代の降臨。いくら自分の昔の肉体を彼が追い求めたところで、届かないものは届かないのだと、思い知らせる必要がある。だから泳がせた。Fは今最上階へと上っているダイゴを、必死に追いすがっている。それこそが、私達の仕組んだ自滅プログラムだと知らずに」
「自滅、だと……」
思わぬ言葉にサキは困惑する。レイカは、「隠しておく必要もないか」と口にした。
「Fにダイゴの、D015の肉体を返すわけがないでしょう。あれは最後のピースになる。あれを破壊する事で、この計画は完遂する」
「ダイゴ、彼を依り代にして初代を降ろそうとしている君らからしてみれば、彼の人格を奪うFは敵同然か」
プラターヌの落ち着き払った声音にレイカは鼻を鳴らす。
「息子が危ういのに随分と落ち着いていられるのね」
「フランは、何一つ親らしい事をしてやれなかった。今さら親子だなんて言える立場じゃないよ」
思いのほかドライなプラターヌの意見にレイカは頬を引きつらせる。
「そう……。親子でも、やはりそういうものなのね」
まるで何か、自分に重ねたような言い草だ。サキは、急ぐべきだと駆け出しかけてレイカの声に制せられる。
「ここから動いたところで! 状況は好転しない!」
その通りかもしれない。ダイゴは、Fに取り込まれるか、それとも初代の肉体にされるのか、どちらかしかないのかもしれない。しかし、とサキは歯噛みする。
「あいつは、彼は、まだ何も知っちゃいないんだ。この世界の美しさも、この世界の醜さも、何一つ。だって言うのに、何も知らせないままに奪うって言うのか? それが正しい事なのか?」
美醜の分け目も知らず、この世界でただ消費されていくためだけに生きていくなんて許されるのだろうか。レイカが、「何を今さら」と嘲笑する。
「現人類なんて消費されるために生きているようなものじゃない。初代のような人間が一人いるだけで違うのよ。そうなら、そちら側に賭けたいと思うのが人情じゃないの」
初代一人にすがり、今もまた、初代という妄執に取り憑かれている。レイカも、ツワブキの人々もまた、愚かしい。誰かが止めなければならない。狂った夢はどこかで終わらせなければ。
「私は」
サキが歩み出る。ポッタイシもサキの闘志を感じ取ったように羽根を払った。空間がビィンと震える。ポッタイシの鋼の爪は、まだ折れちゃいない。
「私は! 絶対に諦めない! 彼の記憶がないと言われても、彼なんて最初からいなかったと言われても! この世に生まれ落ちた以上、その生は意味がなくっちゃいけないんだ!」
ツワブキ・ダイゴが最初から初代降臨のための肉体だと言われようとも、あるいはフランという人物の後釜に過ぎないと言われても。それでも、自分は、ツワブキ・ダイゴという彼が居た証明を忘れない。忘れてはいけない。
「綺麗事ね。ツワブキ・ダイゴはたった一人のみ。その事象を誰も覆せない。もう転がり出した石よ。Fを止める事も、ましてや初代の意志を止める事なんて出来やしない」
「止めてみせる! 私が、彼を認めたのならば、彼も私を認めてくれるはずだから」
レイカが眉をひそめ、レジアイスに命令する。
「彼に、人格も、人権もない。あれはツワブキ・ダイゴの入れ物なのよ」
「そんな理屈、私が切り裂く!」
ポッタイシが鋼鉄の爪を払う。レジアイスは僅かに後退した。怯えているわけでもない。ましてや先ほどまで全く通用しなかった「メタルクロー」一つに。レジアイスが竦み上がっているのは意思の光だ。自分とポッタイシの作り出した闘志に怯んでいるのである。
「……そこまで出来るのが分からない。他人なのよ」
「もう、他人じゃないって言っているんだ。私は、ダイゴの人生を、彼を捨て去ってまで必要なのが初代だとは到底思えない」
その言葉が癇に障ったのか、ぴくりと眉を跳ねさせる。
「……言葉に気をつけなさい、死に損ないのヒグチ家。私達は選ばれて、その上で存続しているのよ。ホウエンのどの家とも違う。どの血縁とも違う。ツワブキ家と並べるのは同じツワブキ家だけだと思いなさい」
「その傲慢を、私とポッタイシが断ち切る!」
ポッタイシが足に力を込めて跳ね上がった。一刹那に込めた最大膂力。ポッタイシが螺旋を描き、身体ごとレジアイスへと特攻する。レジアイスとレイカの反応が一拍遅れた。
「潜り込んで……」
「そこでメタルクロー!」
螺旋を描き、レジアイスの表皮を削ったポッタイシが鋼の爪を立ててレジアイスの腹部を引き裂く。氷の皮膚が焼け落ちた。ポッタイシの鋼の爪痕が熱を持っているのである。
「レジアイスの氷に、傷跡を……」
「嘗めてかかったツケだ。ポッタイシ、攻撃を――」
その言葉はそこで途切れた。何故ならば、レジアイスの放った凍結の息吹が瞬時にポッタイシの羽根を凍らせたからである。この場で誰も対応出来なかった。戦っている最中のポッタイシでさも反応が追いついていない。
「どうして、攻撃中にレジアイスが何を……」
「瞬間凍結、レベル1」
放たれた声音にサキは慄然とする。今の攻撃は、ポケモンの放つ技ではない。