第百三話「地図にない未来」
非常階段を駆け上っていると何度か振動を感じられた。下階で、クオンやディズィーが戦っているのだろう。
「無事ならば、いいんだけれど」
この状況で無事を願うのは筋違いかもしれない。しかし、彼女らには被害が及んで欲しくなかった。
「出来れば、俺だけで……」
その言葉を遮ったのは不意に立ち上った殺気の渦だ。メタングを前に出し、ダイゴは防御する。放たれたのは氷柱の針だった。
「氷柱を、散弾みたいに」
「鋼タイプ。確かに、厄介には違いない」
立ち現れた影に、やはり、という思いと、来たか、という思いが混在した。
「あなたも、一枚噛んでいたんですね。ツワブキ・レイカさん」
レイカが非常階段を上り切った先に待ち構えていた。既にリョウから連絡を受け取ったのだろう。敵意しかその眼にはなかった。
「困るのよね。勝手にプランを変えられちゃ」
レイカの傍にいるのは角ばった氷のポケモンだ。レジスチルに似て中央部に細かい目のような意匠がある。どうやら同系統のポケモンらしい。
「レイカさん、あまりあなたの事は知りませんが、俺は押し通ります」
メタングが跳ね上がり銀色の拳を放った。
「バレットパンチ!」
弾丸の速度を伴った拳をレイカは無感情に見下ろして命令する。
「レジアイス。攻撃」
「遅い! 確実にメタングの拳が打ち込まれる!」
そう確信した。しかしメタングの拳はレジスチルに叩き込まれる寸前で静止する。何が起こったのか分からなかった。ダイゴが怪訝そうにしているとレイカは呟く。
「何が起こったのか、理解出来ていないでしょう。人間の活動に際し、最低限必要な体温は三十四度と言われている」
レイカが歩み出る。なんとその手でメタングに触れた。しかしメタングは反撃さえもしない。何かがメタングの体内で起こっているに違いなかった。
「ではポケモンの活動に際し、最低限の体温とは? 種類によって異なるものの、人間より遥かに高い体温を必要最低限とするものから、人間と同程度か、あるいはさらに下を最低限にするものもいる。レジアイスにはその程度が分かる。それを操っている私にもね」
まさか、とダイゴは巻き起こった事態を理解した。
「メタングの、鋼タイプの最低体温を奪った、っていうのか……」
「メタングは、鋼タイプは無機質系だから活動最低限の体温は低めに設定されている。零度を下回っても、鋼タイプは動ける。元々耐性があるからね。でも、的確に、関節だけを狙って、例えばマイナス三十度まで操れるとすれば? そうなればいくら弾丸の勢いを誇る拳としても、硬直するに違いない」
ダイゴは理解する。レジアイスは周囲の温度だけではない。ポケモンの体温を自在に奪えるだけの正確無比な攻撃が出来るという事を。
「メタング! 動けないのか?」
「聴覚神経を麻痺させた。凍結した脳波があなたの声をメタングに伝える事はない。つまり、メタングは今、何も聞こえないし、感じられない状態だと言う事」
きっと視神経もやられているのだろう。レイカが隣を通過するのにもメタングは気付いていないようだ。
「ツワブキ・ダイゴ、いいえD015。どうして我々の邪魔をする? あなたは理想的な初代の依り代として、これから準備を行おうとしていた矢先に。こんな大っぴらな事なんてしなくていい。家族ごっこも少しくらいなら付き合ってやれたのに」
「もうそんな、偽りは御免だって言っているんだ」
ダイゴの強気な声にレイカがぴくりと眉を上げる。
「そう言う事を、造物主に言っていいと思っているのかしら?」
「その傲慢さが、お前らを破滅させる」
その言葉に表情の変化に乏しかったレイカは笑い始める。度し難い、とでもいうように頭を振った。
「まさか、ここまで理解していないとはね。あなたの行動はどちらにせよ、ツワブキ家に、デボンに恩恵をもたらす形となる。望もうと望むまいと。そういう風に、もう出来ている。システムを突き崩す事なんて、出来っこないのに」
「俺は、やってみせる」
「では、メタングの爪の一つでも動かしてご覧なさい。それも出来ずして、デボンの企みを阻止しようなど片腹痛い」
ダイゴはメタングを動かそうとするがメタングの感覚器官が確実に死んでいるのが分かった。レジアイスの射程を逃れない限り、元の状態には戻れないだろう。
「頼む……」
「頼んで感覚器官が戻ってくるはずもない。さぁ、ダイゴ。あなたにはまだ役目が残っている。それを捨てて、ただ闇雲にこんな愚行を繰り返すのは、我々穏健派としても制したいところ」
「穏健派……。ニシノの管轄とは、違うのか」
「元々、そのニシノとかいう人間の目的とツワブキ家、つまりデボンの目的は違う。私達は、あなたを殺そうだとか、そういう野蛮な考えは持っていない。欲しいのは初代を降ろせる肉体と、その素体となる人格データ」
「人格……?」
ダイゴは頭を押さえる。先ほどからくらくらと眩暈がして足元がおぼつかなかった。
「ようやく、レジアイスの凍結領域が効いてきたようね」
レジアイスが下げられるのはポケモンの体温だけではない。人間の体温などポケモンのそれより容易いに違いなかった。
膝をついたダイゴにレイカが言い放つ。
「D015のパッケージを確保し、このまま初代を降ろすため、沈黙してもらう。なに、特別な事は望まないわ。何もしなければ、それでいい」
レジアイスが迫る。どうする事も出来ないのか。ダイゴの思考が闇に消えかけたその時、エレベーターの到着音が耳に届いた。
「この状況で誰が――」
その声を遮ったのは甲高い声と鋭い爪による攻撃であった。鳥型のポケモンがレジアイスへと背後から切りかかる。その一撃は感知出来なかったのか、レジアイスの凍結攻撃が緩んだ。その一瞬の隙を見逃さない。
「バレットパンチ!」
鋼鉄の拳がレジアイスの額を打ち据える。後退したレジアイスのお陰でダイゴは階段を上り切る事が出来た。その先に待っていたのは、意外な人物であった。
どれだけ、会える事を切望していただろう。相手も意外そうに目を見開いている。
「サキ、さん……」
「ダイゴ、か……」
お互いにどうして、という思いがあった。硬直している二人へと差し込むように冷気の網が走る。先行していた鳥型のポケモンとメタングが防御した。吹き抜けた冷気にサキが声を振り絞る。
「ダイゴ! 行け!」
サキは理解しているのか。その眼差しには迷いがなかった。
「お前の記憶のために! お前自身のために!」
その声に背中を押された気分だった。ダイゴは、「いつか、また」と言い置く。話したい事、話しておかねばならぬ事がたくさんある。自分が何を思って戦ってきたのか。サキが何を思ってここまで来てくれたのか。
だが今は、問い質している場合ではない。
自分は前へと進まなければならない。
非常階段に足をかけ、ダイゴは上層を目指した。