第八十一話「D122Y」
息を切らしてクオンは部屋に逃げ込んでいた。久しぶりに走ったので肺が痛む。鼓動が爆発寸前であった。それは秘密裏にダイゴを援護した事と、目の前の人物の出現によるものだ。
「あの、あなたは……」
クオンが顔を上げる。すると赤い長髪を結った女性が、「参ったね、どうも」と声にする。
「オイラ、ツワブキ家に潜入しちまった」
独特な口調にクオンは戸惑う。てっきりマコが来ると思い込んでいただけに彼女の登場は全くの予想外であった。
「どちら様、ですか……」
「どちら様かも分からないオイラの指示によく従ったね、君も」
相手の不躾な言葉にクオンは思わず眉根を寄せる。
「あの、あたし、ツワブキ・クオンですけれど」
「知っているって。マコっちから聞いたもん」
マコの名前が出てクオンは目を丸くする。
「何で? 本当に誰なんですか?」
「いや、うーん、知らないかぁ。まぁあんまりテレビ出演はしないしなぁ」
有名人なのだろうか。相手の反応にクオンは参っていた。
「一刻を争うんですよ。だって言うのに、マコさんは来ないし」
「マコっちはどんくさいからねぇ。オイラが来たほうがいいって進言したんだ。フライゴンに指示を飛ばす方法だけ聞いておけば、マコっちは疑われない。これ、ナイスアイデアじゃない? だってもしさ、君の端末が逆探知されていてもマコっちは動いていないからモニターしようがないよね」
そこまでは考えていなかった。ただダイゴの役に立ちたい一心だったのだ。マコに危険が及ぶ可能性は確かにあった。
「おや、その顔。マコっちがどうなろうと知ったこっちゃないって顔だ」
見透かされてクオンはますます不愉快になってしまう。自分にここまで踏み入った事を言える人間は少なかった。
「あなた、誰なんですか?」
「ディズィー、って名前で歌うたってる。年齢はヒミツ」
「茶化さないで。ダイゴが危ないんですよ」
ふざけたような語調にクオンは思わず声音が荒くなる。ディズィーと名乗った相手は口笛を吹いた。
「オイラ、ヒーローのつもりで来たのに随分な言い草だ。まぁ頼んで助けてもらったわけじゃない、ってのはヒーローものでよくある台詞だけれどね」
「ヒーロー? マコさんは何であなたなんて適当な人を……」
「適当かどうかは、ツワブキ家に潜入したオイラの手腕を見てから言ってもらおうか」
ディズィーが立ち上がる。クオンはその手にあるホロキャスターとUSBメモリに視線を落とした。
「これさえあれば、ダイゴは……」
「ダイゴ、とかいう子は、今一番危ない目に遭っているだろうねぇ」
救われる、と言おうとしたのを遮って放たれた声にクオンは反感の目を向ける。
「あの! あたしとダイゴの仲のほうがいいのに、分かった風な口を」
「ああ、ゴメンゴメン。でもオイラ、ダイゴとかいう子は絶対に危ない目に遭っていると思う。だからあそこで音響攻撃に踏み込んだ」
ディズィーがフライゴンに「ばくおんぱ」を命じたのはどういう確信があったからだろう。あのタイミングでクオンはコウヤの部屋の直下の裏庭にディズィーと共にいたのだ。マコが来ると思ってタイミングを見計らっていた。もしもの時はUSBとホロキャスターを回収するためのディアンシーでも仕方がないと思っていたのだがその手間は省けた。ディズィーの登場によってクオンは部屋にとって返す結果になった。
「どうするんですか……。だって、あたしの部屋には何も」
「そうなんだよねぇ。一番逃げ込んじゃまずかったかな。相手の策としてまず足跡から追跡してくると思うし」
追跡攻撃。コウヤの手持ちポケモンは自分には分からないがそれくらいは出来るはずだ。
「足跡なんて、消せばよかったんじゃ」
「ダメダメ。なかったらなかったで別の痕跡があるはず。オイラはあえて足跡を残した。そのほうが他の痕跡に気付かれないからさ」
「何で、そこまで……」
「言い切れるのかって? まぁ百戦錬磨だしなぁ、オイラ」
ディズィーの謎の自信に裏付けはないらしい。クオンはため息をついて、「どうするんです」と追及する。
「出て行こうにも、あなたは目立ちますよ」
「だなぁ……。もっと地味な髪色ならよかったかも」
「髪の毛だとかそういう問題じゃなくって!」
思わずクオンは声を張り上げていた。あまりにもマイペースなディズィーの言葉が煩わしかったのもある。
「どうするんですか。ここはツワブキ家の邸内ですよ?」
「別にうろたえる必要はないと思うんだよね」
「だからその自信はどこから――」
「だって君、ツワブキ・クオンだって言うんでしょ? 君が疑われる事はまずないわけだ」
指差されてクオンは眉をひそめた。
「……そんなの、分からないじゃないですか」
「いーや、分かるね。だって疑われる心配があったらマコっちに助けを求めないよ。いや正確には元々マコっちのお姉さんであるサキさんとやらに助けを求めるつもりだったか」
そこまで見透かされている事にクオンは素直に驚愕する。ディズィーは余裕の笑みを崩さない。
「だったら一番デンジャーで一番安全なのって、実はこの部屋なんじゃないかな、ってオイラは思っている」
「……矛盾していませんか?」
「だっていちいちプライベートスペースを確認するほどツワブキ家は干渉が過ぎないでしょう? 君以外にこの部屋に入る可能性の人っている?」
そう言われてみればクオンは自分の部屋に人を通さない。
「だからって騒げば」
「気付かれるだろうね。でも逆に言えば相当騒ぎでもしない限りこの部屋に第三者がいるって可能性には至らないと思うんだよね」
ディズィーの声にクオンは扉に耳を当てる。廊下を歩く足音は幸運にも聞こえてこない。
「防音性くらいあるでしょ。女の子の部屋ならなおさらね」
「だからって、どうするんです……」
クオンはディズィーと付き合ってすっかり疲れていた。この女性は何が目的なのだ。
「オイラはね、マコっちやオサムと組んでツワブキ家の悪事を暴こうってよりかは君みたいなのを抱き込んだほうが速いんじゃないかって思っている」
悪事、という言葉には辟易せざるを得ない。
「うちは悪い事で成り上がった会社じゃありませんが」
「えっ、そう? まぁ君が箱入りなだけかもしれないけれど、世間じゃデボンには黒い噂が絶えないよ。でもいいや。君がそう思いたくないんなら、オイラは別に君を諭すつもりもないし、そそのかすつもりもない」
ならばどういうつもりだというのか。クオンは問い返していた。
「じゃあ何で、マコさんの代わりに来たんですか?」
「簡単な話さ」
ディズィーが屈み込んでクオンの鼻先を指差した。これほどまでの接近を他人に許した事のないクオンからしてみればそれだけでどぎまぎする。
「マコっちに危ない橋は渡らせたくないし、オサムじゃこっちの戦力としては不足だ。でもツワブキ・クオン。君を味方にすれば案外簡単にいけるんじゃないかってオイラが独自に判断した」
クオンは拳を握り締めて言い返す。
「……随分と、軽く見られたものですね」
「軽く見ちゃいない。だって悪くすればオイラは一瞬で消されるよ? ツワブキ家の廷内だ。何が起こっても不思議じゃないし、誰が殺しに来てもまぁ理解出来る」
「それほどまでの危険を押してまで、何で」
難問をディズィーは容易く答える。
「君やマコっちが危なっかしいからね。オイラ正義の味方なんだ」
それが答えだというように彼女は手を振った。当然、クオンは理解出来ない。
「正義の味方だとか、そんな子供騙しの理論で……」
「あれ? 通じない? 君とは初対面だし、そりゃ信じられないのも無理はないけれどオイラと協力したほうが身のためだと思うなぁ」
ディズィーの言葉にクオンは、「何故です」と返す。
「だってもう、君は足がついているよ。足跡で兄弟ならある程度分かっちゃうんじゃないかなぁ。オイラの足跡から割れる事はないにしても、君はちょっとばかし監視の目が注がれる事だろう」
クオンは目を見開いていた。コウヤが自分を疑う? あり得ないと言い返したかったが化石バトル以外では全て冷徹に物事を俯瞰出来るコウヤならばやりかねない。
「……あたしが疑われる?」
「もう疑われていると思うよ。だってこの家、女の人って三人しかいないんでしょ? その中で背丈とか体重とかで簡単に導き出されるし、植え込みに行くのが可能だった人物、っていえばもっとだ」
その段になってクオンは植え込みで待機していろという命令がこのディズィーのものであった事を悟った。
「……はめたわね」
「ばれたか。そうだよ、わざと君を足跡なんて残る植え込みに待機させたのはオイラの判断だ」
クオンは思わず掴みかかっていた。これではせっかく得た情報も台無しだ。
「どういうつもり? あたしが疑われているんじゃ、ダイゴの自由も!」
「落ち着いて、落ち着いてってば! 声が漏れるよ」
クオンは口元を慌てて覆う。ディズィーは佇まいを正して、「だからこそ取引が成り立つ」と口にする。
「取引?」
「オイラと一蓮托生で、ちょっくらツワブキ家が何考えているのか暴いてみない?」
差し出された手にクオンはきょとんとしていた。言っている意味が分からない。
「どういう事なの……」
「分かんないかな? 頭の回転が鈍いほうじゃないと思ったんだけれど」
「何で、あなたなんかと」
侮蔑の眼差しを向けるとディズィーは、「毛嫌いしないで欲しいな」と肩を竦めた。
「だってオイラに頼るしか、君がこの家で疑いを避ける方法ってないもん」
「ダイゴがいるわ」
「そのツワブキ・ダイゴだって、もう充分に疑われている。監視の目が君達二人に注がれる事だろう。ダイゴに関して追放はないにしても、コウヤとか言う奴から疎ましげに思われるのは違いない」
「だからって、あなたと組む意味が」
クオンの語調にディズィーは小首を傾げる。
「どうしてこうも君がオイラを拒むのかは分からないけれど、オイラの意思はマコっちの意思でもある。言っちゃえばオイラ、マコっちの代理だ」
「代理って……」
ここまでずかずかと踏み込んでおいて代理を名乗る神経が信じられない。そのような目を向けていたせいだろう。ディズィーは後頭部を掻いた。
「ここまで信じてもらえないのも新鮮だなぁ。オイラ、人が悪そうには見えない顔だと思うけれど」
ディズィーが勝手に鏡台で自分の顔を確認する。それだけでも我慢ならないのに彼女は協力しろと言っているのだ。
「無理よ。生理的に無理」
「……それは同性に言っちゃ駄目じゃないのかなぁ」
クオンは後ずさり扉に背を預ける。
「そのくらいなら、ダイゴに任せたほうが」
「物分りの悪いお嬢さんだね。頭は賢そうなのに。ダイゴは、しばらく身動きなんて取れないよ。仕掛けたんだ。それなりの覚悟はしておくべきさ」
クオンはディズィーを睨み据える。当の相手はにこやかに応じていた。
「ダイゴは通信手段もなければこの家の中での自由もない。そんな彼にこれ以上何を任せる? オイラ達は、これを預けてもらっただけでも儲けもんじゃないかな?」
ディズィーが手にホロキャスターとUSBを握っていた。いつの間に、とクオンは手を開く。
「こういうマジック得意なんだよね」
「返しなさい! さもないと」
クオンの警句にもディズィーは臆した様子はない。
「さもないと、何? 誰に言う? 誰を味方につける? 君が信じられるのはダイゴだけだ。でも彼には監視がついている。数日は会えないと思って諦めなよ」
「数日……。何を根拠に」
「そんなの、ちょっと考えれば分かるだろ。ツワブキ・ダイゴには元々監視がついているってのに噛み付いたんだ。余計に監視がつく。その相手に、むざむざ近づいて? それでこれを渡したら苦労が水の泡って奴」
ホロキャスターとUSBメモリをディズィーが振る。クオンは歯噛みしていた。
「……どうしろって言うの」
「オイラの言う通りにすれば、元の生活に戻れるよ」
信じられなかった。だがコウヤは自分を疑っている可能性も否定出来ない。
「コウヤ兄様が隙のない性格だって言うのはあたしがよく知っている」
「じゃあ好都合じゃん」
「でもあたしが外部との接点を完全に絶つのもまた不自然だわ」
「不登校だったんでしょ。またすればいいじゃん。不登校」
何と容易く言ってのけるのだろう。クオンは呆れて物も言えなかった。
「……そんなの」
「出来なくはないよね。どうせこれの解析に回るんだ。昼夜問わず、家にいたほうが都合がいいよ。そうしておけば妹の部屋に勝手に入るなんて兄弟でもしないでしょ」
呆れた。ディズィーはこの部屋に居座る腹積もりらしい。それだけでもふてぶてしいという他ない。
「本当に、あなたなんかにダイゴが……」
「間違えちゃいけないよ、君、クオンって言ったっけ? オイラはあくまでマコっちが最大限に活かせる場を作る事が大前提。見た事もないツワブキ・ダイゴのために命を張るような無様な真似はしない」
その言葉にはクオンも言い返す。ダイゴを侮辱されている気分だったからだ。
「ダイゴは、一身にその使命を背負っているのよ」
「使命、ね。それがどれほどの重荷なのかも知らぬまま、背負おうとしている。何が行われているのか、クオンちゃん、いやクオっちは知っていてダイゴに協力している?」
謎の愛称を譲り受けたがクオンは心を許すつもりはない。
「知っていてって……。ダイゴは包み隠さず話してくれるわ。だからあたしはダイゴを応援する事に決めた」
「真っ当だけれどどこか歪んでもいるよね。記憶喪失でなおかつDシリーズの中でもロストナンバーに近い人間だって言うのに」
「ロストナンバー?」
知らぬ単語に反応するとディズィーはわざとらしく首を傾げる。
「あれ? クオっちとダイゴには知らない情報なんてないんじゃなかったっけ?」
自分とダイゴの関係を土足で踏み入ってくる声にクオンは眉をひそめた。
「……ダイゴでさえも知らないのかもしれない」
「そうかな? それは楽観的過ぎやしないだろうか」
ディズィーは何なのだ。自分を試しているのか。クオンは堪りかねて口にする。
「あなたは、第三者でしょう?」
「そう、第三者。言ってしまえばそうだけれど、だからこそ誰よりも客観的に事態を俯瞰しているつもり」
第三者だからこそ出来るポジションと言うわけか。しかし自分からしてみればいざと言う時逃げ切れる立場などずる賢いだけに思える。
「それが一番都合のいいから、でしょう?」
「そうだよ。やっぱりばれるか」
あっさり認めた事もそうだがディズィーはどこか自分を小ばかにしている節がある。クオンが苛立ったのは何よりもそれだった。
「あなた……あたしはツワブキ・クオンなのよ」
こういう風に自分の立場を誇示したくはないがディズィーは何もかも見下しているようで気に食わない。クオンの声にディズィーは一拍空けてから、「君に話しておくか」と首肯した。
「ツワブキ・ダイゴの肩口に刻印のある事は知っている?」
凝視した事はないが上着から垣間見えた事ならば何度かあった。
「ええ。D015っていう痣が」
ディズィーが腕を捲り上げる。クオンは息を呑んだ。そこにあったのは「DIZZY」という刺青であったからだ。しかし先にダイゴの話を持ち出していたお陰か、それがただの刺青でない事が分かった。
「刺青じゃ、ない……」
「これ、何て読む?」
やはり馬鹿にしているのか。クオンは頬をむくれさせて不本意ながら答える。
「D、I、ZZ、Y、でディズィーでしょう?」
「じゃあこうすると?」
ディズィーが刺青の一部を隠す。指で隠されるとよくよく見れば文字同士の大きさが異なっている事に気付く。つまり、アルファベットではない文字が最初のD以降並んでいた。
「D、122、Y……?」
「そう。オイラ、Dシリーズで唯一の女性個体。シリアルナンバーD122Yの個体だよ」