第七十一話「ツワブキ・イッシンという男」
ドアノブを握って部屋を出る。イッシンの姿は一階にはなかった。コノハが後片付けをしている。ツワブキ家ではお互いに知らない振りを決め込んでいたがこの時だけは尋ねた。
「イッシンさんは?」
「外のガレージにおられます」
「ガレージ?」
聞き返すとコノハは目も合わせずに答える。
「ガレージでの彫刻が、イッシン様のご趣味ですので」
初めて聞いた。ダイゴは礼を言ってからガレージに向かう。明かりが点いておりイッシンがいるのが窺えた。シャッターが開いておりその中で椅子に腰かけたイッシンが材木を磨いている。声をかけるべきか憚られたがこちらの気配に気付いたイッシンは尋ねた。
「何の用だ? ダイゴ」
「いえ、その……」
イッシンが作り上げているのは精密なポケモンの彫刻でありコイキングと裸体の女性が瑞々しく刻まれている。
「この趣味か? 私にはこれが唯一の楽しみでね。まぁ表向きデボンの社長なんてしているもんだから肩が凝る。でもって、こういう細かい趣味だから余計に肩凝りは持病みたいになってしまって」
笑い話にするイッシンだがダイゴはここに来て世間話をするつもりはなかった。
「イッシンさん」
「何だ、いつになくマジな声を出して」
ダイゴは一呼吸置いてから、「聞きたい事が」と口火を切った。イッシンが彫刻刀を止める。振り返り、ダイゴを見据えた。
「私にか?」
「ええ、あなたに」
ここで戦闘になるかもしれない。ダイゴは周囲を見渡す。ガレージにはアウトドア用の品々と車が三台ほど。少し狭苦しいが戦えない地理条件ではない。
イッシンがやおら立ち上がりダイゴに聞き返す。
「私が答えられる事ならば、何でも答えよう。何だ?」
改めてイッシンを目にすると隙がなかった。さすがは家長と言ったところだろう。ダイゴは唾を飲み下す。
「俺は知らなきゃいけない事がたくさんある」
「うん? さっきの食卓の事ならば気にしなくっていい。知らない事が罪だとは思わない」
「いいえ、俺からしてみれば罪なんだ」
ダイゴは決意を新たにしてイッシンを見据えた。
「俺は知らなければならない。でなければ前に進めない」
「そこまで思い詰める必要はないさ」
「例えば、俺が何者なのか」
ぴくり、とイッシンの眉が跳ねる。ダイゴは続け様に言い放つ。
「俺の名前、ツワブキ・ダイゴは初代のポケモンリーグの王であった、そのダイゴと意味があるのか。どうして俺の顔つきと初代が似ているのか、あなたはそれを知っていて、俺を招いたのか」
「質問が多いな。一つにしてくれ」
イッシンの要求にダイゴは頭の中で整理する。この状況で、イッシンに問い質さなければならないのは。最も重要な事は――。
「あなたはツワブキ・ダイゴを、自分の父親を殺したのか?」
その言葉にイッシンも息を呑んだのが伝わった。ダイゴは畳み掛ける。
「あなたが、ツワブキ・ダイゴを殺したな? 落し物の小道で、俺は聞いたんだ。あの場に居合わせる事の出来たのは研究者とツワブキ家の人間のみであったと。だったらあなただってツワブキ家の、しかも跡継ぎだ。何か殺す理由があったんじゃないだろうか。あなたは――」
「おいおい、いきなりだな。だが、お前の言いたい事は分かった。それと置かれている状況も」
イッシンはダイゴの混乱を制するように声にしてから、「一つだけ」と告げる。
「違う! 私は初代を、親父を殺していない」
本当か、その真偽を疑う前にイッシンは繰り返した。
「私は初代を殺していない。それどころか、逆だ! 私はこの二十三年間、ずっと。ずっとだ! 毎日のように探している。親父を殺した、その張本人を!」
思わぬ告白に今度はダイゴが面食らう番であった。殺していないどころかイッシンは犯人を捜しているのだという。にわかには信じ難い。
「……ダイゴ。お前が信じられない、という顔をするのも分かる。なるほど、私ならば、初代、つまり親父を殺す事に何の躊躇いもないのだと。そう判断した条件、いや情報源を聞き出したいところだが」
「俺は口を割りませんよ」
イッシンは肩を竦め、「冗談だ」と言った。
「口封じなんてしないよ。私は、これでもデボンコーポレーションを真っ当な企業として育て上げたいと思っているんだ。だって言うのに、汚れ仕事など」
イッシンの口調には心底そのような事を侮蔑している声音があった。しかし、ならばDシリーズや初代に関する様々な事と食い違う。
「あなたは、デボンが真っ当な企業だと思っているのか」
「社長である私がそう思わなくって誰が思うのかね? 存外、大企業は皆悪人、だっていう先入観は間違いだぞ」
微笑みさえ浮かべてみせるイッシンは本当に一片たりとも思っていないようだった。まさかデボンのやり口を全く知らないのか。
「俺は、デボンが本当に、クリーンな企業だとは思っていない」
「陰謀論か? 流行らないぞ、ダイゴ」
「あたながそうやって普通に俺の名前を呼べる事も分からない」
ダイゴの言葉にイッシンは怪訝そうな目を向ける。
「何でだ? 家族だろう」
「かつて家族であった者の名前を、何の感情もなく、あなたは別人に投げられるのか」
恐らくは殺されたであろう父親の名前を、全くの他人に。ダイゴの感情が伝わったのかイッシンは深く息をつく。
「お前の気持ちは分かる。だが私は、二十三年、二十三年間だ。ずっと父親殺しの犯人を捜してきた。それこそデボンの力を使えば容易かったかもしれない。この街はデボンの庭も同義だからね。しかし、だからと言って私は企業が私物であってはいけないとも感じている。デボンには五百人を超える社員がいる。彼らの生活がある。それを私は守らなければならない、とも感じているんだ。だからデボンを勝手に見限る事も出来なければ、思うがままにデボンを扱う事さえも出来ない」
ダイゴにとっては意外そのものだ。イッシンは最初から怪しいと踏んでいた。この人物ならば全ての意図の終着点を持っているのではないかと思われていた。しかし蓋を開けてみればこれほど善良な人間だとは。驚愕と共にダイゴはどこか気後れしていた。もしかすると当たる人間を間違えたのではないだろうか。
「その、俺は……」
「だが、お前が私を怪しいと思うのも、初代殺しの犯人だと思うのも分かる。それは警察からずっとそう思われて監視されてきた私ならば誰よりも理解出来るからだ」
監視。ダイゴにとっての意外な事実が二つも出てきた。イッシンは監視を受けていたというのか。驚愕に目を見開くダイゴに、「一時だがね」とイッシンは答える。
「私は、警察に監視、いいや保護されていた」
「保護?」
「ツワブキ・ダイゴの死は明らかに殺人であった」
改めてイッシンの口から言われると真実味が増す。イッシンは、だが、と濁す。
「その近親者が犯人だとは思われていなかった。何故ならば初代ツワブキ・ダイゴの遺産などまるで存在しなかったからだ」
それは自分の聞いた情報と食い違う。ダイゴは言い返していた。
「でも、精神エネルギーの技術に貢献してメガシンカの地位を不動のものにしたって」
「詳しいな。だがね、それは初代しか知り得ない方法でのメガシンカであった。それが間違いその一だ」
イッシンが指を立てる。ダイゴは、「それは、おかしい」と頭を振る。
「それならばデボンがこれほどまでの優位を築いている証拠にならない」
「だから、二代目の社長がその技術を不動のものとした。つまりツワブキ・ダイゴの死の真相を一番に知っているのは二代目社長であった。これが間違いその二、かな」
二代目社長。ダイゴはイッシンを見据える。それはお前だろう、という目線にイッシンは嘆息をつく。
「それは私、だと言っているね、眼が。言い忘れていた。私は三代目社長だ。私の前に、もう一人社長がいた。彼女が全てを管理していた」
「彼女……?」
ここでどうして女性らしきものが存在するのか。ダイゴの疑問にイッシンは視線を振り向ける。
「考えてもみるんだ。男一人でどうやって家庭を切り盛りする? 当時、私はまだ右も左も分からない青二才。それがいきなり社長になんてなれるか?」
そこでダイゴもハッとする。当たり前だが見落としていた事実。
「初代の、配偶者……」
イッシンは頷き、「彼女、というのは語弊だったかな」と口にする。
「私の母は、初代が死んだ後の数年間、社長をしていた。だから私が三代目だ。初代の死について最も知っているのは母だ。いや、母だった」
含めたような言い回しにダイゴは慎重に尋ねる。
「お母様は……?」
「亡くなったよ。ちょうど三年ほど前かな」
またしても聞いてはならないことを聞いてしまったのではないか、という後悔が胸を締め付ける。だが今は少しでも前に進む事が先決だった。
「お母様から、イッシンさんは何も……」
聞いていないのか。それが重要である。
「何も、か。確かに母は何も話してくれなかった。どうして親父は死んだ、いいや殺されたのか。でも私なりに推論は多数立てた。警察に保護されている時何度か警察官の話も聞いた」
「その、保護ってのが分からない。何でですか?」
イッシンは自分の彫った彫刻を見やり呟いた。
「あの事件が連続殺人になりかねなかった、からだろうね」
まさかの言葉であった。連続殺人? どうして初代の死が連続殺人になる? ダイゴの疑問に答えるかのようにイッシンは、「そこまでは聞いていない、か」と納得した。
「そうだろう。社内の人間、それも高レベルのポストの人間でも、あれが連続殺人事件のきっかけであったかもしれない、などは知る由もない。かん口令が敷かれ、家族しか知らない事実だ」
ダイゴは一つでも取りこぼせば重大な見落としになると言葉を選ぶ。
「初代の死。それに対して考えられた推理は?」
「外部犯、という可能性はまず却下され、内部犯であるとされた。しかしそれにしては家族全員にアリバイがあり、なおかつ高ポストの研究員には殺すほどの理由もありはしない。動機のない殺人。だがデボンの社長を殺すというのは動機なしではあり得ない。ホウエンが引っくり返る重大事件だ」
「それに、初代は王でもあった」
「調べたな」とイッシンが口元を緩めてダイゴを褒める。自分にとってしてみれば一つでも多くの情報が欲しかった。
「そう、ポケモンリーグの王。防衛成績がさほどだったとはいえ実力者だ。それを殺すなど並大抵ではない。当然、高レベルのトレーナーが参考人として挙げられた。しかし距離や動機の不在、あるいはポケモンの相性などの関係性でことごとく却下され、結果的に家族の線に戻ってきたわけだ」
「それが、何年前ですか?」
「二十年、いいやまだ十九年程度かな。リョウが産まれていたくらいだった気がするし」
ツワブキ・リョウ。彼は初代の死に深く関わっていると思われたが事件の時まだ子供だ。実行犯はあるとすればイッシンだろうと判じていた自分にとって二転三転する事件の概要は困惑の種になった。
「家族の、誰かが殺したんですか?」
「過激な物言いをするな」
イッシンは首を横に振る。
「いいや。家族でもないだろう。私は親父に恨みはなかったし母親も特別不満もなかった。デボンのような巨大企業を牛耳るため、だとか思われそうだがそもそもそのような巨大企業を動かすノウハウを私も母もほとんど知らないんだ。素人考えで遺産だとか、企業の利益だとかは言わないでもらいたい」
つまりイッシンは初代が死んでから初めてデボンという巨大な歯車を動かす機会が得られた事になる。そのようなハイリスクを負うとも思えなかった。
「お母様は、その、企業に望むところだとかは……」
「なかった。これだけは断言出来る。母は親父を愛していたし、わざわざ巨大企業を選んで嫁いできたとも思えない。つまるところ、私にも母にも初代を殺すような動機は存在しない」
ダイゴはイッシンの母親、というものに関してはまるで知らない事に気付く。これでは勝手な物言いに聞こえるだろう。
「お母様の、名前は?」
「サヤカ、だ。ツワブキ・サヤカ。子供である私から見てもとても大人しい人だった。それこそデボンという巨大企業の頭には相応しくないと思えるほどに」
初めて出た名前だがダイゴにとっては重要な事の一つだ。初代の配偶者。当然、真っ先に非難の矢が飛んだ事だろう。
「お母様は、ポケモントレーナーだったんですか?」
「ああ、たしなむ程度にはね。だが取り立てて強かったわけでもない。元々、家柄同士の結婚、という意味合いが濃かったから血の繋がりを重視しての事だったのだろう」
「血筋……、失礼ですがお母様の旧姓は?」
「こう言うと勘繰られるから嫌なんだが」
イッシンは前置きしてから述べた。
「旧姓はフジ、だ」
フジ。その名前に聞き覚えがあるような気がしたがダイゴの記憶には該当する者がいなかった。
「どのような家柄で?」
「ああ、そうか。これは一時話題になったんだがお前は知らないか。カントーで遺伝子工学での天才だと持て囃されたフジ博士。その一族の末裔であった、とされている」
「されている?」
妙な言い草だ。まるで不確定なような。
「実際、母はそれ以上語りたがらなかったし警察もお手上げ状態でそれ以上調べ上げられなかった。何せ、フジ家は没落した家系だからな」
「没落……、何でですか?」
「フジ家はシルフカンパニーで優遇されていたと聞く。シルフ、の名前は?」
「それは辛うじて」
かつてカントーでポケモン企業のシェアを行おうとした企業。しかし四十年前の第一回ポケモンリーグで本社ビルが倒壊。それ以降デボンに吸収合併されたと聞く。
「シルフなんてほとんど意味を成さないも同義な経歴。その企業で優遇されていた一家の末娘、であったらしい。らしい、というのはその家の家長も、あるいは家族も何も存在せず、ただ母であるフジ・サヤカと、彼女を支持する人間がいた、というだけだからだ」
不明瞭な流れではあった。没落した家柄とこの世の春を謳歌するデボンとの婚礼など。イッシンは、「推測だが」と告げる。
「母の家系は焦っていたのではないだろうか、と思う。だからデボンの御曹司である初代との結婚を取り付けた。元々そういうのに疎い人だったから結婚程度ポーズだとでも思っていたのかもしれない。誰でもよかった、というのは母に失礼ではあるがね」
イッシンは客観的に事実を語っている。しかしなおさら分からないのは支持する人間という部分だ。
「シルフにそういう支持派がいた、という事なのでしょうか?」
「いいや。私にも全く不明だが、叔父、とでも呼べばいいのか。そういう人の出入りがあった事だけは確かだ。その叔父の家系がどうにかして母と初代を結婚させたかった、と一度か二度愚痴られた記憶がある」
「叔父、ですか」
ここに来て出てきた新たな勢力。その叔父はどこへ行ったのか。聞き出さなければならない。
「叔父はどこに行ったのか、なんて聞くなよ」
先回りした声にダイゴは身を強張らせる。
「ホウエンの警察機構が目を皿にしても探せなかった一族だ。私が知るはずもない」
つまりホウエンの警察はその叔父が犯人である説も捨てなかったという事だ。ダイゴは、「叔父さんについて、知っている事は」と口にしていた。
「まるで尋問だな」
「すいません。でも俺にはこういうのしか出来ない」
「いいさ。何度も聞かれた事をそらんじる事くらい。私も叔父には何度か会っただけだ。母の死に際と、葬式の時くらいか。それと初代の死の時。もちろん、警察だって馬鹿じゃない。叔父を調べたはずだ。何も出なかったから叔父は無罪放免なのだろう」
「叔父さんの、名前って分かります?」
イッシンは、「名前、か」と呟く。
「それを知っていれば私とてどれだけ楽な事か」
「知らなかったんですか?」
「ならば逆に聞くが、親戚一同全員の名前を言えるか? お前は」
ダイゴは返事に窮する。記憶喪失の自分にそのような問いなど。イッシンもそれを感じ取ったのか、「悪い」と謝った。
「お前にとっては酷な質問だったな」
「いえ……。でも客観的に、それは難しいですね」
親戚全員の名前が言えるのか、と問われれば答えはノーだろう。ただでさえツワブキ家は多いのだ。それを全員把握するだけでも難しい。
「そう、難しいんだ。私だって親戚一同が集まっても、この人は私より偉いおじさん、程度しか分からんよ」