第六十四話「ヒグチ・サキの決意」
「いつまで吐き出し続けているんだ、そのクチート」
オサムと今しがた名付けられた彼が歩み出そうとするとディズィーと呼ばれた女性がいつまでも歩み出さない事に気付く。敵同士だったから警戒しているのか。オサムが歩み寄るとディズィーは突然振り返ってナイフを取り出した。小型のものだが首筋に当てられると息が詰まる。慣れた動作に悲鳴を上げる暇もない。
「声を出すな」
押し殺した声音にオサムはマコに助けを求めようとする。しかしディズィーは冷酷に口にする。
「マコっちを抱き込もうとしたり、彼女を傷つけたりしてみろ。オイラ、お前を迷わず殺すからな」
嘘偽りの気配はない。射竦められた形のオサムはディズィーの青いコンタクトレンズが月光の加減で赤く染まったのが目に入った。
「赤い眼……。それにディズィーだって……」
オサムの眼差しはディズィーの捲り上げたジャケットの内側に行っていた。二の腕に「DIZZY」の刺青。
――違う。
あれは刺青ではない。オサムは察知する。「DIZZY」ではなく、この文字の本当の呼び方は――。
「お前、Dシリーズ――」
「マコっちの前で、オイラの事をDの名で呼べば即座に殺す。マコっちがお前を信じていようといまいと」
ディズィーの殺気に当てられてオサムは全身から汗がどっと噴き出したのを感じる。それと同時に先ほどの戦闘は全く本気ではなかったのも伝わった。血を大量に飲んだ状態のクチート。恐らく機動性が落ちていたはずだ。それなのにあそこまで立ち回った。
「……何が目的なんだ。お前とて、ツワブキ家に管理される、いや管理されていた側だろうに」
「目的? そんなのシンプルさ。オイラが正義の味方だって言うね」
ナイフが外され、ようやく呼吸が出来る。ディズィーは短く言い放つ。
「忘れないようにね。その首、いつ掻っ切ってやってもいい」
脅しでも何でもない。オサムは今落ちてもおかしくなかった首筋をさすり、クチートの吐き出す鮮血の量に戦慄した。
望もうと望むまいと自分は彼女達に付き従うほかない。それが自分の役目なのだろうとオサムは左足をさすりつつ歩み出した。
役目を終えたはずだった。
全てが闇に没し、もう助かるまいと、そこまで覚悟出来ていた。しかし覚醒の瞬間、自分の身体にまだ血脈のある事とどこからも出血していない事、そして何よりも鼓動がある事に驚愕していた。
「……生きている」
生きているはずがないのに。胸元をさすった彼女は遠く天上を仰ぐ。小さなダストシュートから落下し、数十メートルの衝撃に襲われたはずだ。通常ならば転落死だろう。しかし、自分達の命を守ったのは今も展開され続けている泡だった。
「これは、真水の泡?」
指先で突くと、「触らないほうがいい」と声が発せられた。暗闇の中に白衣の男性が浮き彫りになる。思わず息を呑んでいた。
「プラターヌ、博士……」
「とんだハードラックだ」
彼は顔を拭って彼女を指差す。
「君も、強運だったわけさ。ヒグチ・サキ君」
サキはようやくそれで生きている実感を取り戻せた。だがどうして、その思いが先行する。
「生きているはずがないのに」
「その原因はこいつだ」
指差された先には小さな鳥型のポケモンがいた。群集で泡を吐き続けている。水色の体表にまだらの白色。小さな両翼と丸っこい身体は戦闘用とは思えない。
「このポケモンは?」
「ポッチャマ。水タイプのポケモンでシンオウでは初心者用のポケモンとして使われている」
そんなポケモンがどうして群棲しているのか。サキの眼差しに気づいたのか、ポッチャマのうち一体が鳴き声を発する。
すると連鎖的に泡が解除され、蜘蛛の子を散らしたようにポッチャマの集団が引いていく。サキは突然に自分を支えていた泡が消失したものだから姿勢を崩して転がった。プラターヌは抜かりなく着地する。
「……何でです?」
「習性だろう。見なよ」
ポッチャマ達は流れ込んでいる水を啜り、それを泡として放出している。そのお陰か空気が澄んでいた。
「この場所を棲めるだけの場所にするために、あのポッチャマ達は下水を真水に変えるだけの化学反応を体内で起こした。まさしく生命の神秘だね」
「どうしてポケモンの集団なんて」
身体についた水を叩き落す。泥水ではなくほとんど川の水と遜色ない。
「珍しい事じゃない。ポケモンの群れってのはカロスだとざらにある光景だ」
プラターヌが煙草を取り出して火を点けようとすると水の弾丸が飛んできた。プラターヌの顔のすぐ脇を掠めた弾丸の威力は岩肌が削れただけでも想像がつく。
「……恐れ入ったよ。禁煙かい?」
それもそうだろう。自分達でよくした環境を汚されるのが我慢ならないのは理解出来る。
「博士。このポケモン達は……」
「デボンとは無関係の野生だろう。大方大ブームに乗っかって大量輸入されてきたポッチャマが逃がされてきた末路ってわけかな。ポッチャマは初心者向けだが、同時にとてもプライドが高い。隷属というよりかは自分達がトレーナーを助けているという意識が強いんだ。だからペット感覚だと反感を買う」
ポッチャマ達が歩き出す。何体かは翼を振るった。まるでついて来いとでも言うように。
「どうします?」
「行くっきゃなさそうだ。ダストシュートに落ちたのは見られていたかもしれないし」
サキはズーが最後の瞬間まで自分達に希望を繋いでくれたのを確信する。そうでなければあの場でレイカに殺されていた。
「ツワブキ・レイカ……。何で穏健派の一人に」
「その議論は歩きながらしよう。今は、そうだな、ポッチャマ達の早足についていくまでさ」
ポッチャマ達は身を寄せ合って足早に歩いていく。サキはその背中を追いかけている途中、不意にマコの事を思い出した。今頃どうしているだろう。自分が何日ほど家を空けているのかも分からなかった。あの妹は自分がいない時に無茶をする。妙な事に巻き込まれていなければいいのだが。
「どうかしたかい?」
プラターヌの問いかけにサキは頭を振る。
「いいえ。何でも」
今は一歩でも進む事だ。それが未来を掴む事になるのならば。
第五章 了