第五十八話「ヒグチ・マコの邂逅」
いつの間に眠っていたのかまるで分からなかった。起き上がるといつものベッドではない事に気づき、次いでシャワーの一つも浴びていない事に気付いてマコは飛び起きた。時刻は午前五時を回ったところだ。こんな時間に普段は起きない。しかし周囲の状況が自分の部屋でない事が分かるとマコの覚醒は早かった。
「えっ? 何、どこ?」
間抜けな声に、「気がついた?」と声がかかる。レイカがトーストを焼いていた。マコは寝ぼけ眼を擦ってここが自分の家でない事を再確認した。
「あっ、私、寝ちゃったんだ」
「疲れていたみたいよ。すぐに寝ちゃったから起こすのも悪いかなって」
そういえばサキの行方を探してほとんど休息もしていない。自ずと疲れは溜まっていたのだろう。マコは背筋を伸ばした。レイカがトーストを皿に乗せて、「お手伝いのコノハさんはまだ寝ていてね」と口にする。
「私じゃ普段キッチンに立たないからこういうのしか作れないけれど」
それでも使われているパン生地が普段自分が食しているものよりも高価なのが分かった。マコは慌てて首を振る。
「そんな、悪いです……。一日お邪魔した挙句に朝食なんて」
「いいのよ。ただし、マコちゃんを泊めたのはコノハさんまでで留めてあるから悪いんだけれど早目に家を出て行ってもらうしかないの」
残念そうに肩を落とすレイカにマコはそれも仕方がない、と感じていた。勝手に押し入ってダイゴならばこの状況を打破出来るなど自分勝手だ。ダイゴにはまた違う機会に会う事にしよう。マコはそう決めてトーストを手に取った。
「あの、ここで食べても……」
ソファの上である。レイカは食べるように促した。
「いいって。コノハさんが掃除してくれるし。マコちゃんのいた形跡が残るような事はしないから」
「助かります」とマコはトーストを頬張った。口の中で広がる芳醇な香りはやはり一味違う。これほどまでに味覚と嗅覚に語りかけてくるトーストは初めてだ。ツワブキ家の人間は毎朝このようなものを食べているのかと思うと少し恨めしかった。
「あの、おいしいです……」
たかがトーストの感想をいうのも何だか貧乏性だな、と感じたが素直に口にする。レイカは笑顔になった。
「そう、よかった」
マコはさっさとトーストを平らげて出かける準備をする。すぐに家にも帰らなければ。ホロキャスターを見やると博士からの着信が五件もあった。
「お父さん、心配してるみたいですから、その……」
ろくに挨拶も出来ずに黙って帰る事を許して欲しい、という旨を言おうとしたがレイカは全てを察してマコを玄関まで案内してくれた。
「また改めてね」
手を振るレイカに手を振り返してマコはツワブキ家を後にする。すぐに帰らねば、と前を向いて走り出そうとすると真正面から駆け込んできた人物と激突した。「ふぎゃっ?」と小動物のような呻き声と共にマコは仰け反る。相手も、「うん?」と何かが当たった事を関知したようだ。マコはすぐさま平謝りする。
「す、すいません! 急いでいて」
「いや、いいけれど」
爽やかにそう返す人影にマコは見覚えがあった。ランニング用のジャージを着込んでいるが一つに結った赤い髪は見間違えようがなかった。
「あっ! もしかしてディズィーさんですか?」
マコの声に相手の女性は眉を上げた。
「あれ? 分かっちゃうもんかなぁ。今まで分からないと思い込んでいたんだけれど……」
「ディズィーさんですよね! この間、ライブでサインをいただいた……」
マコはホロキャスターに保存しておいたライブ映像と記念写真を見せ付けた。すると相手の女性は、「うぅむ」と頷く。
「こりゃ間違いなく、オイラだね」
その独特な口調からもディズィーである事が窺えた。ディズィーは一人称がオイラで通っており、芸能界ひいては音楽界でも異端の女性ボーカルだ。あまりに本人のイメージからはなれた口調のせいで逆に非難される事も少なくはないが彼女自身、それをものともしないメンタリティだと雑誌のインタビューで書いてあった。
「あの私、ファンなんです」
しかし今はろくな色紙もない。マコが困惑しているとディズィーは、「いいって」とマコの腕を捲り上げた。するとマコの取り出したマジックペンを使ってサインする。
「DIZZY」のサインにマコは有頂天だった。
「ホラホラ。お揃いじゃん」
ディズィーの右の二の腕にも同じような刺青がある。マコは一瞬で浮かれてしまった。
「何でこんな早朝に……。いやすごい幸運ですけれど……」
「オイラ、出来るだけ人と会いたくないからこうして早朝ランニングしているんだよね。大体カナズミシティ全部回るよ」
「全部! すごっ……」
カナズミシティはそれなりに広い。学園都市であるカナズミ全域を走り回るとなれば二時間ほどはかかる。
「オチが家だから帰ってすぐシャワー浴びて、その後お仕事、ってわけ。で、夜は」
「十時には眠る、でしたね!」
インタビュー記事に書いてあった通りの事をマコは口にする。ディズィーは、「照れるな」と後頭部を掻いた。
「そこまで熱心なファンとなると、オイラも名前を覚えたくなっちゃったな」
「えっ、私のですか? あの、その……」
まごついているとディズィーの目つきが急に鋭くなった。何かまずい事を言っただろうか、と考えているとディズィーが低い声を出す。
「おい、そこの。隠れていないで出て来いよ」
ディズィーが振り返って見据えた先には黒服の男が三人ほど立っていた。いつの間にか自分達との距離を詰めている。
「何か用? そんな殺気丸出しでオイラに近づくって事は、何かい? 熱心なファン二号かな」
茶化すがディズィーの目は笑っていない。黒服達は目配せした。
「どうする?」、「次いでだ。消せばいいだろう」
結論をつけた黒服達はホルスターからモンスターボールを抜き放った。マコはその威容に怯える。何でこの黒服達が殺意を剥き出しにしてこちらに近づくのかさっぱり分からない。
「そこで止まれ、黒服ちゃんよ」
ディズィーが踏み込んで声を出す。だが黒服達は止まらない。ディズィーが一瞬だけため息を漏らした後、マコに言いつけた。
「ちょっと荒事になる。見たくなければ見なくっていい」
そう告げた刹那、ディズィーの姿が掻き消えていた。どこに、と探したのはマコも黒服達も同時にだった。ディズィーは跳躍して黒服達の真上を取っていた。放たれた手刀が黒服二人を昏倒させる。手慣れた技術にマコは空いた口が塞がらなかった。相手も同様のようでディズィーの動きに気圧されている。だが対応は出来たようだ。緊急射出ボタンを押し込んでポケモンを繰り出す。
「いけ! グラエナ!」
飛び出したのは漆黒の獣であった。四足で毛並みには艶がある。頭部には鶏冠のような装飾があった。グラエナが吼えてディズィーに飛びかかる。当然、ポケモンと人間の膂力が同じのはずはなく、ディズィーは押し倒された形となった。黒服が荒い呼吸を次ぐ。
「くそっ、邪魔をしてくれたな、小娘」
邪魔、という言葉にマコはどういう事なのか、と感じる。黒服は振り返るなり懐から拳銃を取り出した。マコは目を戦慄かせる。
「一人始末するだけだって言うから三人体制で万全にしたってのに、これじゃ台無しだ」
始末。マコの視界には銃口が映っている。視線を逸らす事も逃げる事も出来ない。足が竦んで言う事を聞かない。引き金を指が引こうとする。その瞬間、グラエナに食いかかられているはずのディズィーから何かが飛び出した。マコも黒服もその姿を認める。
黄色い袴のような形状の表皮をした小型のポケモンであった。頭部は黒く小ぶりな顔立ちでそれ自体は無害を装っている。だが真に特徴的なのは後頭部より生えている長大な角だった。ポニーテールを思わせる形状の角をそのポケモンは突き出す。直後、角が割れて口腔が視界いっぱいに広がった。角はただの飾りではない。それそのものが攻撃器官であった。乱杭歯の並んだ角が黒服の腕を食い千切る。拳銃ごと黒服は腕を持っていかれた形となった。血飛沫が舞い、黒服が地に突っ伏す。代わりに立ち上がったのはディズィーであった。ボロボロになったジャージをさすりながら、「女の子相手にさぁ」と声にする。
「いきなり飛びかかるっての、紳士じゃないよね」
長大な顎型の角を持つポケモンは黒服の足も食いかかった。黒服が悲鳴を上げて涙と鼻水にまみれた顔でばたつく。
「クチート。ちょっと分からせてやろうか。いきなり飛びかかられてどういう風に怖いかって事を」
クチートと呼ばれたポケモンは黒服の足首に噛み付いたかと思うとそのままぺっと吐き出してしまった。黒服が地面を転がる。ディズィーが高笑いを上げてクチートの頭を撫でてやった。
「ああ、まずかったんだ。そりゃ悪い、クチート。オッサンの足なんて不味いもんだし」
黒服は足を引きずりながら逃げ去ろうとする。ディズィーはその逃げ腰に追い討ちをかけるように睨んだ。
「待ちなよ、オッサン」
ディズィーの凶悪な視線に黒服はたじろいだ。マコも圧倒されている。当のグラエナは地面に突っ伏しまま動かない。昏倒させられているのだ。ディズィーのクチートが一撃の下に始末したのが分かった。
「オイラはさぁ、一応有名人で通っているから殺人はしないよ。でも正当防衛ってもんがある。殺されそうになれば、同じくらいの痛みを背負うよね、普通」
ディズィーは黒服の胸元をねじり上げて口にした。
「今ならば、この程度で逃がしてあげよう。でも、今度オイラと彼女を害そうとしたら、痛いどころじゃ済まないよ」
囁きかけたディズィーの声音に黒服は慄いてもう二人を起こそうとする。しかしディズィーの手刀を受けた二人の仲間はそう容易く起きそうになかった。ディズィーがマコの肩を叩き、モンスターボールを突き出す。
「戻れ、クチート」
クチートを戻してからもう一度ディズィーは肩を叩いた。それでマコはようやく正気に返った。
「走るよ」