第五十六話「ヒグチ・マコの不安」
講義に出る、と言ったが今日の講義日程は別に出席の必要はなくマコはホロキャスターを開いて地図を呼び出していた。カナズミシティの複雑怪奇な道路が表示される。マコは試しに声紋で検索をかける。
「プラターヌ」
すると表示された住所があった。驚くべき事にプラターヌ家の邸宅はマコのヒグチ家のすぐ近く道すがらであった。
今まで交流のなかったのが不自然に思える近さにマコは大学から直通で出ているバスに揺られ、目的地に到着する。プラターヌ邸は庭の生け垣が作り込まれておりつい最近まで人の出入りがあった事が窺える。マコはおっかなびっくりに邸内に入る。わざわざ、「お邪魔しまーす」と声にしたが誰の返答もない。インターフォンを押したもののやはり反応がなくマコは玄関を開けた。鍵がかかっていない。無用心な、と思いつつ上がり込んだ。邸宅の外に比べて中は少しばかり埃っぽい。
マコはハンカチを取り出して口元を押さえつつゆっくり進んでいった。入ってすぐの脇には応接室がある。ソファも埃を被っていた。応接室は見て回っただけで奥に行く廊下の途上に座敷があり突き当たりには居間があった。今時珍しい平屋建てで座敷の横に不自然ながら机があった。
本がうず高く積み上げられておりもしかすると書斎スペースを確保していたのでは、と推測させられる。マコは積まれている本のうち一番上の本を手に取った。「遺伝子工学の初歩」、「ポケモンと人間」、「ホウエン地方の歩き方」など、専門書からただの趣味本まで様々であった。机には引き出しが一つある。引き出しを引くと一冊の本が入っていた。表紙が分厚い本でマコは手に取ってみる。ずしりと重く捲るとしおりが落ちてきた。拾い上げる。しおりはルーズリーフであり文字が複数書かれていた。
「何これ……? 文字列?」
マコはホロキャスターの写真機能でそれを撮影する。しおりを本に戻そうとするとその段になって本が日記である事に気付いた。マコは最初のページを見やる。どうやら育児日記のようで日時は掠れて読めないが内容は読み取れた。
「長男をわたしは、フラン・プラターヌと名付けた。プラターヌ家の次期後継者として育て上げるのに相応しい名前である……。自画自賛じゃん」
親ばかも甚だしいと思いつつページを捲っていると不意に途切れていた。どうやら一年に三回つける習慣であったらしく五十ページ前後で止まっているという事はこの日記に書かれているフランという長男は十九歳辺りまで書かれていたという事だ。自分と同い年、という部分にマコは惹かれた。
「でも、それ以降の記述はなし。結局、親ばかの記録かな?」
しおり以外に目ぼしいものもなかった。ふと視線を感じて振り返ると姿身があった。自分の全身が映っている。マコは急に自分が泥棒をしているような感覚になり慌てて邸宅を飛び出した。落ち着いていた呼吸は自然と荒くなっていた。何かを盗んだわけではない。だが立派な空き巣だ。罪悪感が胸を締め付けた。
ホロキャスターを起動させマコは撮影したしおりの文字列を見やる。アルファベットと数字で構成されている。どれも法則らしいものはないが何故数列に渡って並んでいるのかは分からない。
「何だかすごい、悪い事しちゃった気分……。何の文字列なんだろう?」
マコはそのまま家に帰る。研究員達に出迎えられマコは部屋に篭った。ふとパソコンが目に入り起動させる。サキの部屋で目にした研究機関のパスワード。もしかして、とマコは文字列を打ち込んだ。するとパスワードが入力認証されウィンドウがいくつも開く。焦ったマコは慌てて消そうとするがその前に表示された文字に釘付けになった。
「人造生命体の研究進捗について……。何、どういう事?」
研究機関のページから複数のサイトを巡って辿り着いたらしいそのページには人造生命体についてのレポートが表示されていた。マコはスクロールさせる。様々な国の研究機関が人造生命体を成立させようと躍起になっている情報が溢れる中、一つの団体が出資している事に気付いた。
「ネオ、ロケット団?」
試しにリンクをクリックしてみる。すると赤色に塗り固められた画面が表示された。ホウエンの地図が表示され、次いで明確な像を伴って映し出されたのは間違いなくカナズミシティであり、マコのいるヒグチ家であった。
「嘘、今ので特定された?」
そんなはずはない、と感じたがずっと赤色画面のままのパソコンは何をしてもうんともすんとも言わない。博士に相談するべきか、と考えてマコは自分が身勝手に情報を取得しようとした事を知られたくなかった。叱責の声が恐ろしいのではなく、博士に不安の種を芽生えさせるのが怖い。マコはケーブルを抜いて電源を切った。そうする事で画面が暗転したが気持ちは移り変わらない。心臓が早鐘を打っている。このままではいずれまずい事になるのは自明の理であった。
「どうしよう……」
サキの行方を案じてのことだったが結果的にこちらの不利に回るような事になっている。あくせくするマコの不安につけ入るようにホロキャスターが鳴った。着信音にマコはびくつく。非通知着信、それだけでも怪しいがこのタイミングである。マコは慎重に電話を取った。
「はい……」
『困った事をしてくれましたね』
第一声が責め立てる声だったのでマコは言い返す。
「あなた達が、私にやれと言ったんじゃ」
『確かに動け、とは言いましたが、不用意過ぎる。これでは相手に察知してくれと言っているようなものです』
不用意、という言葉にマコは硬直する。今の画面で何が分かったというのか。マコは問い質した。
「今、何が起こったんですか?」
『どこで知ったのか知りませんがあなたは相手の突かれたくない脇腹を突く手段を持ち合わせてしまった。その第一回目の警告でしょう。警告は無視すれば大変な事となる。我々としてもあなたに助力したい気持ちはある』
「サキちゃんは、サキちゃんはどこ?」
身も世もなくマコは訊いていた。サキならば自分を助け出してくれるような気がしたのだ。だがその予感は淡く打ち砕かれる。
『いつまで、姉に頼っているつもりです? 今はお姉さん、ヒグチ・サキさんのほうが危ない。だというのに、あなたは薮蛇を突いてしまった。このままではあなたの周囲に危害が及ぶ』
「どうにかしないと……」
急く心に対して相手は冷静に声を放った。
『落ち着きなさい。今は、単に警告です。ですがあなたに危険の及ぶようになってからでは遅いのです。ある人を頼りなさい。その人ならばあなたを救ってくれる』
「誰だって言うの?」
『よく知っているはずですよ』
相手の発した名前にマコはポシェットを手に取り家を飛び出した。一刻も早く向かわなければ、という思いに時間も関係なかった。家を出る際に研究員と鉢合わせしたがマコは、「ちょっとコンビニ」とだけ言って誤魔化す。場所はすぐそこだ。駆け足のマコは息を切らしてその場所へと訪れる。
白亜の建築物と広めに取られた屋敷に圧倒されるがマコは進み入った。インターフォンを押すと相手の声が聞こえる。
『はい?』
「あの、ヒグチです」
その声音に尋常ではないものを感じ取ったのか相手は、『ちょっと待ってね』と言ってから家から出てきた。その姿にマコは安堵する。
「よかった……。まだ手が回っていないみたいで」
「どういう事なの? 説明して」
「あ、そうですよね……」
マコは一つずつ説明しようと考えた。目の前の相手――ツワブキ・レイカに。
「お茶を入れたから。落ち着けると思う。ハーブティ」
出されたお茶の香りにマコは早鐘を打つ心臓を鎮めようとしたがやはり急いた気持ちは変わらない。ぎゅっとポシェットを握り締めてマコは、「その……」と声にした。レイカは、「うん?」と小首を傾げる。
「今日はリョウさんや、クオンちゃんは……」
「ああ、リョウは忙しいみたいで。クオンはもう寝たんじゃないかな? 私も帰ってきたばっかりだし」
「すいません……」
謝るマコにレイカは明るく返す。
「なに、いつものマコちゃんらしくない。ウチに来る時はいつも明るいじゃん」
「その、こんな時間に来てしまったのはちょっとまずかったかな、って」
時刻は二十一時を回っている。マコの困惑を他所にレイカは、「いつでも歓迎だけれどね」と応じていた。
「晩御飯は早いから、一緒に晩御飯は取れないけれど」
「いえ、そんな」
図々しいように映っているのだろうか、とマコは感じる。だがあの電話が来てから心が休まらなかった。自分しか出来ない、と思うと同時にとんでもない事に首を突っ込んでしまったのではないかと感じる。
「マコちゃんらしくないね。何かあった?」
目ざといレイカの声にマコはサキの事を言うべきか迷ったが言わないでおいた。
「あの、ダイゴさんはいらっしゃいますか?」
ダイゴに会えれば少しばかりはこの孤独感が癒えるかもしれない。しかしレイカは、「さぁ」と言っただけだった。
「ダイゴの事は私にはよく分からないから」
「そう、ですよね……」
ツワブキ家からしてみてもダイゴの存在は異質なのだ。それを容易く受け容れられるはずもない。レイカはソファに座り込んで尋ねる。
「テレビ、観ていい?」
「あっ、どうぞ」
レイカがテレビをつける。すると中継が繋がっており一昨日に出火の見られた工場地帯への立ち入りが規制されている事が報じられていた。
「物騒ね」
「ですね。工場地帯なんてあんまり行かないですけれど」
一体何があったのだろうか。ニュースによれば小火らしいがそれでも出火原因の特定を急いでいるらしい。
「何でこんな時間に?」
レイカはテレビをじっと観たまま訊いていた。なので最初、自分に問われたのか分からなかったくらいだ。「へっ?」と不格好な声が出る。
「いつも昼間だしさ。こんな時間に来るって事は理由があるのかな、って思って」
マコはどうするべきかまごついた。言えない。プラターヌの事、サキの事、アクセスしたサイトの事も非通知着信の事も。
「……最近、ちょっと調子が悪くって」
「調子が悪いからって幼馴染の家には来ないでしょ」
違いない。マコは言葉を間違えたのだと感じて赤面する。
「姉が行方知れずで。電話にも出てくれないし」
「サキちゃんが? 何で?」
マコは頭を振る。分からないから怖いのだ。今までこのような事はなかった。
「分かりません。何でなのか。私にも……」
悲痛に顔を歪ませたマコへとレイカはそっと肩に触れてきた。マコの恐怖を包み込むように優しい手つきだ。
「何だかよく分からない事に巻き込まれたみたいね。すごく怖がっているのは分かった」
マコはその手に自分の手を重ねる。自分の手は思っていたよりもずっと冷たかった。他人のぬくもりがここまでありがたいとは思わなかった。
「マコちゃん。私でよければ力になるけれど」
思わず甘そうになる。マコはぐっと堪えた。ここで素直に話せてしまえばどれほど楽か。しかし自分にはそれ相応のものが待っているはずなのだ。
「いえ、私は、その……。まだ何も言えなくって」
「怖いのね?」
それだけは認めた。何が迫っているのか。あるいは何がこの先待っているのかが怖い。震える指先をレイカが握り締めた。
「大丈夫よ。サキちゃんの事も私達に任せてくれれば」
「はい。あの……」
「どうかした?」
眩暈がする。マコは額を押さえて目をしばたたいた。
「何だかすごく眠くって……」
そう口にした直後、マコの意識は闇に没した。