第五十四話「冒険の始まり」
部屋には大量のポケモンのぬいぐるみがある。
マコはマリルのぬいぐるみを引き寄せて寝転がっていた。博士から聞いた事、それは誰かに容易に話せるものではない。もしかすると自分まで秘密を抱え込んでしまったのではないか、という疑念が過ぎる。自分から知りたいとわがままを言ったのにこれでは身勝手にもほどがあった。どうして自分は他人の気持ちにこうも鈍感なのだろう。
「……私が駄目なのかな。それとも私に力がないから、どうこうも出来ないのかな?」
天井の照明へと手を伸ばす。血脈が浮いて出ていた。血筋、ポケモンと人間の混血。あるいはポケモンの値が半分の人間。博士は率直な言葉を避けていたが恐らくそれはあってはならない存在。まさかダイゴがそのような存在だとは思わなかった。喋っても普通に会話をしていた。どこにもおかしなところはなかった。
あるいはおかしいのは自分か? マコは自問する。どうしてこうも自分には相手の気持ちを慮る部分が欠けているのだろう。
「サキちゃんに……」
覚えずホロキャスターに手をかけそうになっていてマコは慌ててそれを制した。またサキにすがろうとしている。サキとて大変なのだろうに、自分だけ誰かに頼る事を前提に考えている。マコはマリルのぬいぐるみに顔を埋めてどうしよう、と呟いた。
「このままじゃ、サキちゃんもお父さんも、遠いところに行っちゃう気がして……」
こんな時に相談出来る友人は多いつもりだ。だが本当のところで繋がり合える友人はいなかった。大学で作った友人にも相談出来ない。マコはそれこそ絶対の孤独に近いものを味わった。どうして自分には資格がないのだろう。マコの悩みを察知したようにその時、ホロキャスターに着信があった。手に取って画面を眺める。
「サキちゃん?」
その期待は脆く消え去る。画面に表示されたのは「非通知」の文字だった。普段は非通知着信など取らない。だが今は藁にもすがる思いで電話を取った。
「もしもし……」
『ヒグチ・サキさんの妹さん、ですね?』
相手は変声器でも使っているのか声が男とも女ともどっちともつかない。
「そう、ですけれど……」
『このままではあなたのお姉さん、ヒグチ・サキさんに危険が迫っている』
どういう事なのか。マコはホロキャスターを耳に当てて問い質した。
「サキちゃんが危険って、どういう意味? それに何で私の番号……」
『今はそのような些事にかかずらっている場合ではなく、ヒグチ・サキさんの命がかかっているのです』
そう言われてしまえばマコは素直に信じ込んでしまった。サキの命。それだけは絶対に守らなければならない。
「どういう意味ですか? サキちゃんはどこに?」
『ヒグチ・サキさんの家と職場を調べなさい。きっと、あなたの望むものが出てくる』
それっきり通話は切られた。かけ直したが繋がらない。奇妙な電話には違いなかったがこの示し合わせたようなタイミングにはマコも運命を感じた。もしかするとサキはとんでもない陰謀に巻き込まれたのではないだろうか、と。ホロキャスターをぐっと握り締める。
自分がやるしかないのだと、マコは胸に誓った。
サキの家を直接訪れる機会は実のところ全くと言っていいほどなかった。それはサキに迷惑がかかるから、というのもある。しかしそれ以上に同じ女性としてプライバシーの一つや二つくらいは守りたいだろうという理解があったからだ。だが昨日の電話がマコに強引な手段を取らせた。
「ヒグチさんの、妹さん?」
マコは学生証を見せて大家に尋ねる。
「私の姉、ヒグチ・サキは帰っていますか?」
大家の中年女性は怪訝そうな顔になって、「分からないねぇ」と口にする。
「さすがに住んでいる人間のプライバシーまでは」
「じゃあ鍵をもらえますか? その、姉に頼まれまして」
咄嗟の嘘でもマコは自分の心が磨り減るのを感じた。嘘がつけない性質なのだ。出来るだけ大家の目は見ないようにする。
「ああ、鍵? いいけれど、きちんと返しておくれよ」
存外に簡単に部屋の鍵が手に入る。マコは鍵を手に部屋の扉の前に立った。深呼吸を二度ほどして、自分の中で覚悟を整える。サキが居るならばそれに越した事はない。マコはノックをしてから鍵を開けた。すると部屋は真っ暗で電気もついていなかった。マコは電気をつけてから、「サキちゃん」と呼びかける。返事はない。
「サキちゃん、やっぱりいないの? いないならいないって――」
返事を、と言おうとしたマコの目に入ったのは灰皿と煙草である。それを手に取ってマコは瞠目する。サキは煙草を吸わない。なのでこれは必然的に別人のものだ。
「一体誰の……、まさか彼氏?」
あり得ない話ではない。マコの知らないうちにサキが男を連れ込んでいようとも。決定的証拠ではないがマコはその煙草をポシェットに入れた。次いで目に入ったのはパソコンだ。いつもホロキャスターのメールはパソコンとサキのポケナビ両方に通知が来るようになっているはずだ。
パソコンを立ち上げたが当然の如くパスワードの壁がある。マコはしばらく考えた後、思い切って自分の生年月日を入れてみた。すると「ようこそ」の画面に入る。マコはまさか自分の生年月日がパスワードだとは思っていなかったので驚いていた。
デスクトップ画面は初期のものであり、フォルダ分けされて整理された画面は見やすい。そのお陰か、サキが最近まで触っていたフォルダはすぐに見つかった。
「ツワブキ・ダイゴに関する捜査資料と天使事件……?」
初耳の事件名だった。マコはUSBメモリを差し込んでそのフォルダをコピーする。履歴からサキが今まで見ていたであろうサイトにも遡ったが仕事関連のものばかりだった。その中で一際異彩を放っていたのが、遺伝子研究分野のサイトである。
「研究機関のサイト、えっとパスワード?」
パスワード入力が要求された。マコは直前までサキが触れていたのならばブラウザに記憶させていたかと思ったが当然の事ながら抜かりはなく消去されている。
「でもここ十件くらい、サキちゃんらしくないサイトばっかりなんだよねぇ」
あるいは別人物が操作していたか。マコはそのサイトもコピーしてUSBメモリに入れる。部屋を出て行く際、マコは自分の証拠を消そうとしたがどうしても方法が見当たらず仕方なく掃除機を使って部屋掃除を始めた。その時、部屋に落ちている髪の毛を手に取る。黒髪の時点で、マコはそれがサキのものでないのだと悟った。
「やっぱり彼氏を連れ込んでいるのかなぁ?」
覚えずベッドに視線が行ってマコは赤面する。掃除を終えて大家に鍵を返す際、尋ねられた。
「ヒグチさんは模範のように部屋を使ってくれているからこちらも助かっているよ」
普段のサキの行いがいいお陰だろう。マコはそれとなく訊いていた。
「その、姉に、男友達とかいる感じでしたか?」
「男友達? さぁ、見ないねぇ」
ホッと胸を撫で下ろそうとすると大家は、「ああ、でも」と思い出した。
「ちょっと前に白衣の男の人を連れ込んだのは見た。あれがヒグチさんの家だったのかまでは定かじゃないけれど」
白衣の男性。それこそがサキの彼氏なのだろうか。マコはそこまでを聞くに留めておいた。
「すいません、突然に来て」
「いえ、いいですけれど、ヒグチさんの妹さん」
マコは怪訝そうに小首を傾げる。
「あんた目つきがお姉さんと正反対だね。お姉さんは釣り目でいかにも気が強そうなのに、あんたは真逆だ」
マコは微笑んでその話題を誤魔化した。