第五十三話「ヒグチ・マコの混乱」
「これ、全部? 全部ダイゴさんの関連って事?」
部屋に入るなり書類の山が目に入った。博士は、「これでも整理したんだ」と話す。
「必要ない資料はすぐさまシュレッダーにかけて、で、履歴も全部消して足がつかないようにしたんだが、これが結構難しくってね。サキにご教授してもらったほうがよかったかな。こういう時、パソコンが上手く使えないと難儀だよね」
博士の言葉尻には苦労が滲んでいる。マコは書類の一束を手に取った。そこには「人とポケモンの遺伝子組成の違い」と銘打たれている論文があった。
「遺伝子組成なんて、違って当たり前じゃないの?」
「人と結婚したポケモンもいた。大昔にはポケモンも人も同じであった=v
そらんじた言葉にマコは疑問を挟む。
「何それ」
「習わないのか、今は。シンオウ昔話だよ。そこには異種婚礼もある。正直、人とポケモンの混血は不可能じゃないんだ」
その言葉にマコは瞠目する。
「嘘でしょ?」
「本当」
椅子に座った博士はキーを叩きディスプレイにその資料を呼び出す。
「混血児の報告は正式にはないが、歴史の裏には多く隠されているものさ。存外、成果を挙げてきた優秀なトレーナーは祖先を辿るとポケモンと人間の混血の話があった、というのもそう聞かない話じゃない」
「私は、初めて聞いた」
「研究分野では、の話だからね。一般には流布していない。危険な思想でもある」
「何で?」
小首を傾げるマコに博士は一つ一つ解きほぐした。
「まず一個。混血なんて真っ先に差別を受けるはずだ。なにせこの星には混血種よりも純血種のほうが多いんだからね。人間の」
それは、その通りではないのか。混血種のほうが多いなど聞いた事もない。
「当たり前じゃないの?」
「当たり前を疑え。昔、私が師である研究者に言われた言葉でもある。当たり前ってのは、実のところこの世には案外ないって話。皆が当たり前だと思っているところにこそ、真実があるってね」
マコには分からない事だらけだがその混血種がダイゴと密接に関わっている事だけは分かった。
「ダイゴさんが、その混血種だって?」
「可能性の一つとしての考慮だよ。だが、恐らくこれはないね」
博士は自分で上げた可能性を早々に取り下げた。マコはそれこそ分からない。
「自分で言ったのに」
「自分で言ったから取り下げられるんだよ。他人の理論をすぐに否定したんじゃ研究者はやっていられない」
博士は手元にあった資料を手繰って、「こういう資料もある」と口にする。
「人工的に、ポケモンと人間の混血種を造り上げようとした、という話。遺伝子研究が全く盛んでなかった四十年前の資料だ。私自身、こんなものが見つかるなんて思いもしなかった」
髪をかき上げた博士は手に取った資料を睨みつけていた。まるで忌むべき産物のように。
「それって、やっぱり違法……」
「違法というよりも外法だ。あっちゃいけない研究だよ」
言い放った博士の声は父親の優しい声音というよりも研究者の厳しさをはらんでいる。それほどまでに異端なのだ、とマコは思い知った。
「四十年前、って何があったっけ?」
「符合する事柄としては一つだけ」
博士はマウスで選択しキーを押す。すると新聞記事が浮かび上がった。そこには「第一回ポケモンリーグ開幕」とある。そこでマコは大学で教えられている事を結び付けられた。
「あっ! ポケモンリーグ」
「そう。カントーの第一回だ。それがちょうど四十年前。この資料と一致する。でも、実際にその被験者が存在するかと言えば、答えはノーだろう」
頭を振る博士にマコは疑問符を浮かべた。
「でもいるから資料はあるんでしょ?」
「いてもいるって言い出さないだろう、普通は」
顔を拭った博士の声にマコはハッとする。もしかしたら隣人がポケモンと人間の混血種かもしれない、となれば再現されるのは疑心暗鬼と魔女狩りである。
「でも可能性はあるんだよね……」
「ない、と言い切れない。こんな資料が見つかれば嫌でもあると思わなくては」
博士は資料を捲りつつ綴られている事柄を口にする。
「当初よりクローンの人体実験は盛んに行われていたが、秘中の秘とされたその技術そのものは今でも開示されていない。一時、カントー政府がその利権を握っているとされたが真偽は不明。そもそも、では誰が、どうやって、という話になるのだが、その当時最もそういう領域に近かった研究者も相次いで失踪している。あるいは行方不明」
怖気が走った。博士の語っているのは歴史の裏側だ。
「研究者って、たとえばどんな?」
「フジ博士、っていう最年少で博士号を取った人物がいた。彼の残した研究成果には明らかに遺伝子操作と人造ポケモンの生成技術が記されていたのだが、実際の彼は第一回のポケモンリーグ中に行方不明となった。タマムシ大学とカントー政府が目を皿にして探したが、結局は見つからなかったという」
奇妙な話だ。天才の失踪劇とは。マコは今までの自分の記憶を総動員してフジ博士とやらの記録がないか探したがやはり見当たらなかった。
「表沙汰じゃないって事なの?」
「まぁね。表になっていない事件なんて私達が知らないだけでたくさんあるんだ。それこそ星の数ほどに」
博士はフジ博士について書かれた資料を置いて次の資料を手に取った。
「ただまぁ、そういう事を知らない人間ばかりでもないって事が、私の調べでは分かってきた」
資料の文頭には署名がしてある。「オーキド・ユキナリ」と読めた。
「オーキド博士?」
「あの人も第一回ポケモンリーグの参加者だったからもしかしたら、と思ってメールで聞いてみた。するとね、あの人はこう返してきたんだ。知らないほうがいい事もある、って。恐らくオーキド博士は何かを知っている。でも語ろうとしない。研究者の間では割と有名な話でね。オーキド博士のホラ話ってのが」
「ホラ? 嘘って事だよね」
「一般的には信じられない事、と言い換えてもいい」
博士は書類の束に視線を落として呟く。
「オーキド博士は本当に嘘を言っているのか。それとも真実を言っているのかは誰にも分からない。お酒が入ると饒舌な人だったから、本当なのか嘘なのか分からない話を聞かされたっていう研究者は多いんだ。まぁ皆、お酒の席での話なんて嘘か真かなんて気にしないもんだけれど」
しかしもし、オーキド博士が本当の事しか言っていなければどうなるのだろう。マコは好奇心に負けて尋ねていた。
「どういう事を、オーキド博士は喋るの?」
博士は後頭部を掻いて、「参ったな」とこぼす。
「娘に聞かせるような話じゃなかったかもしれない」
「答えて」
強い口調に博士は嘆息を漏らす。
「そういうところ、サキと同じ眼だ。まぁ姉妹だから当然か。オーキド博士は、ポケモンと完全同調出来た人間だと言われた事があったね」
「完全同調……」
聞き慣れない言葉に戸惑っていると、「そりゃそうか」と博士は納得した。
「同調そのものが眉唾だからね」
「同調って、ポケモンと意識とかがシンクロするっていう、あの?」
大学で都市伝説の講義を受けた時に聞いた事がある。博士は、「うん、その同調」と首肯した。だが、それは机上の空論のはずだ。
「そんなのないはずじゃないの? だって同調自体」
「そう、眉唾。だから学会とかで大っぴらに言うと笑われる。オーキド博士もその辺りは心得ているみたいで学会とかじゃ言わないがお酒の席では言う事もあったんだ。自分とオノノクスは完全同調だったって」
「オノノクスっての、イッシュのポケモンだよね。つい最近、オノンドの生態系が分かってきてその進化系として提唱されたって言う」
「おや、マコも結構勉強しているじゃないか」
博士の言葉にマコはむくれる。
「そりゃあね。カナズミ大学はコネや伊達じゃ入れないから」
散々サキに馬鹿にされているものの勉学では人一倍努力はしているつもりである。博士は、「いい事だ」と感心する。
「オノノクス、って名付けたの、オーキド博士らしい」
「それもお酒の席の」
博士は頷き、「あの人は普段無口だから」と付け加えた。オーキド博士には直接会った事はないが何度か教鞭を振るう様子をテレビ中継された事ならばある。端正な顔立ちの初老の紳士、という印象だった。
「あの人がポケモン図鑑を開発、拡充させなければ今の私達の研究はないからね。ポケモンの父、とも呼ばれている」
「でも、それと今回、ダイゴさんの事と何の関係が?」
混血種の話から随分と逸れてしまったように感じる。博士は、「混血種を語るには」と書類を手にする。
「まずは基本からってね。基本に忠実でなければ、これは全く成立しない。簡潔に、今までの事を言おう。同調は存在するかどうか分からない、だが混血種は存在するかもしれない。ポケモン遺伝子工学の権威は行方不明、だから混血種の存在を全肯定も出来ない」
つまり否定も出来ないが肯定も出来ない。そのスタンスにマコは、「何それ」と唇を尖らせる。
「結局、何も分からないって事じゃ」
「客観的証拠に欠ける話ではある。しかし主観的な意見と物的証拠ならば存在する。これを」
マコに手渡されたのは血液サンプルの比率だった。自分が見てもちんぷんかんぷんだったが博士が補足する。
「本来、あり得るはずの成分表に合致するものはあるのだが、ないはずのものもある。一番下のほうにある数値を見て欲しい」
博士に促されてマコは文末の成分表を見やる。しかし何の事やら、という感覚だ。
「この成分が何か?」
「それ、ポケモンの血液に含まれる成分なんだ」
マコは驚愕した。もう一度、その数値を凝視する。数値は50パーセントとあった。どういう意味なのか、問い質す前に博士が口にする。
「ツワブキ・ダイゴ。彼は五十パーセント、半分ポケモンの血が残っている。でも拒絶反応、その他諸々のおかしな挙動は一切ない。強いて言えば記憶のない事くらい」
「記憶、ないって」
博士はその段になってあっと口を噤む。記憶がない、など聞いていなかった。
「サキからの依頼で調べたんだが、そうだった、マコには言っていなかったか」
「記憶がないの?」
隠し立て出来ないと悟ったのだろう。博士は素直に頷いた。
「うん、そうみたいだ。でも生活に困るような記憶の欠落じゃない。ただ単に自分が何者なのか思い出せない事と、自分の周辺で起こる事柄に全く関連性が見出せない、とある。サキも彼に関する事で独自に調べているみたいだけれどね」
独自に調べている。マコはその言葉と連絡がつかない事を繋ぎ合せた。
「じゃあ、サキちゃんの連絡がつかないのって」
「いや、そこまで深刻に考える事はないと思う。サキだって大人なんだから。連絡のつかない日の一つや二つは」
マコはホロキャスターを確認する。博士の目の前でサキへと繋げたがやはり電波のないところにいるか電源を切っているか、というアナウンスだった。
「警察署内なら電波のないところってのもあるかもね」
「……ダイゴさんについて隠していたのもそうだけれど、サキちゃん、そこまで抱え込んでいたって言うの?」
「言えないんだよ。守秘義務だろう。それにマコを巻き込みたくもなかったんだ」
「勝手だよ! 私だけ、蚊帳の外にして……」
発せられた言葉に博士が肩をびくつかせる。マコは目の端に浮かんだ涙を乱暴に拭った。隠されていた事も悔しいが、それ以上に自分の鈍感さに腹が立つ。サキはもしかすると自分にだけは教えてくれてもよかったのではないだろうか。それだけ馬鹿に見られているという事もマコの怒りに拍車をかけた。
「落ち着くんだ、マコ。サキは警察官なんだ。言えない事のほうが多いのは当たり前だし、私だって研究者。言えない事のほうが多い」
「……私が馬鹿だから、だから言えないっていうの?」
「そうじゃないさ。母さんにも言っていないし、研究員の皆にもだ。私は、これはあまり公にするべきではないと感じている」
「それはダイゴさんがツワブキ家の人間だから?」
「それもあるけれど」と博士は濁した。きっと何かしら言えない事情があるのだろう。マコとて混血の存在やクローンの存在を示唆されれば及び腰になる。
「サキは事件を追う当事者として、この疑問からは逃れられない。だからこそ、家族である私達には最小限の協力でいいと感じている節もある。正直なところ、あんまり首を突っ込むのもいいとは言えない」
マコも内心、これ以上は駄目だ、と感じていた。一線を引いていたのだ。これ以上踏み込めば、それこそ取り返しがつかない、と。
「あの、お父さん……」
「うん、何?」
「私、お父さんともよく喋る」
「そうだね」
「普通、女の子ってお父さんとは喋らないのに、それでも私達って結構理想的な親子関係だと思う」
「私も時折そうだと思うよ」
「でも、何でもかんでも言えるわけじゃないんだよね。私も、お父さんも」
当たり前の事だ。誰だって秘密がある。その秘密に勝手に分け入っていい道理はない。
「それさえ分かれば、マコはとても物分りがいいと思う」
博士は微笑んだ。マコは勝手気ままに分け入った事を謝ろうと思ったが、喉から謝罪の言葉は出なかった。