第四十七話「魔窟へ」
「与えられた情報は一欠けらのパンと地図と羅針盤かい?」
背後から振りかけられた声にサキはハッとする。野暮ったい白衣を纏ったプラターヌがコーヒーをマグカップに注いでいた。
「冗談だよ」
彼はマグカップを呷る。サキは手を差し出した。プラターヌはわざとらしく手を置く。嫌悪の表情を浮かべて払った。
「何のつもりですか」
「何のつもりって……、あれだよ、猿回し」
「馬鹿にしているんですか?」
「馬鹿になど。そのようなわけがない。少なくとも尊敬はしている。保護派のプログラムを解読するために半日以上パソコンに張り付いていられる君がね」
暗に自分の半日は無駄だった、と言われているようなものだった。Fから受け取った外部メモリに記されていたのは複雑なプログラムマップだ。その構築過程にどうやらいくつかのメッセージを紛れ込ませているらしい。サキは今まで四つのメッセージに行き会った。
「皆目ですね……。半日張り付いても四つしか情報を引き出せない」
「上等なほうだろう。わたしが見るに、それは研究者向けのプログラムだ。よく解読出来るな」
新たにコーヒーを入れるプラターヌを見ずにサキは吐き捨てる。
「研究者の娘だって言ったでしょう。昔から、父親の研究成果を見て育っていますから。遊び相手もそれだったわけです」
「おや、それはいけない子だな」
わざとらしい声にサキは振り返ろうとして目と鼻の先にマグカップを突きつけられた。
「……何です?」
「見て分からんほど馬鹿になったのかな? コーヒーだよ」
目を凝らせば自分のマグカップである事が分かる。まさかプラターヌが入れてくれたのだろうか。
「半日分の労いはするさ」
マグカップを受け取ったサキは怪訝そうに口にする。
「……何ですか。何か裏でもあるんですか」
「心外だな。わたしは褒めているのだと、言っているだろう。研究者向けのプログラムを一警察官が解読、大したものだ」
「それにしちゃ、褒めている感じじゃないですけれど」
サキの糾弾にプラターヌは無精髭を撫でる。
「まぁ、何ていうか、人を褒める器官が麻痺しているんだよ、わたしは。何年も病院で軟禁、分かるだろう?」
「要するに、対人恐怖症じみたものってわけですか」
サキの結論にプラターヌは息を漏らす。
「……君はもう少し敵対心や攻撃心を露にしないほうがいい。そんなのでは嫌われるぞ」
「別に、嫌われても……」
脳裏にリョウや一係の同僚達の顔が浮かぶ。その中で不意にダイゴの顔が過ぎった。どうして、今――。
「何て事はないですから」
「嫌われる事が職業の義務かい? 君にしては随分と消極的というか、後ろ向きというか」
「私は前向きじゃないと思いますけれど」
「違うんだな、表層の性格じゃない。君は、ある一点では弱者を見捨てられない傾向にある」
プラターヌの人物解析にサキは抗弁を漏らす。
「……病院に軟禁されていたんじゃ?」
「錆び付いた理論だろうと、君には必要だ。メンタルヘルス」
「必要ないですけれど」
目元を拭うサキにプラターヌは嘆息をついた。
「女性の顔立ちじゃないな」
「放っておいてくださいよ」
そっぽを向いたサキへとプラターヌは声を振りかける。
「シャワーでも浴びて、ついでに風呂にも入るといい。わたしを保護してからろくに休みも取っていないのだろう」
「だから、放っておいてくださいって」
「休息を含めて作業効率は上がる。君が休んでいる間にわたしが仕事をすればいいだろう」
その言葉にサキは胡乱そうな目を向ける。
「仕事って、博士は何もしない事が仕事なんですよ」
「つくづく病院でも言われたものさ。博士は何もしないでください≠ニ。もう聞き飽きたんだよ。」
サキを退けてプラターヌはパソコンの前に座る。サキは肩のこわばりが酷く、もう長時間モニターを見つめられなかった。
「あとは私が請け負う、と言っているんだ」
「……私がいない間にパソコンをいじったりは」
「しないよ。このプログラムの迷宮を解くために動くだけだ」
半信半疑なサキはなかなかその場を離れられなかった。プラターヌは顎をさすって疑問を発する。
「……分からないな。ここまで優秀で、なおかつ安易に他人を信じない君が、どうして身元不明の彼を引き取り、なおかつ深淵に歩を進めようとしているのか」
サキは自分の中に答えを探ったが全く見つからなかった。どうしてなのだろう。ダイゴを放っておけないと告げるこの気持ちは。
「保護派も抹殺派も、わたしから言わせれば行き過ぎのタカ派に見えてしまう。ツワブキ・ダイゴそっくりの人間など別に放っておけばいい。特に害がないのならば」
害があるからその二つの派閥が生まれたのだろうか。サキはぼそりと口にする。
「……博士は、何で彼が殺されるとか生かされるとかの話になっているんだと思いますか?」
サキの質問にプラターヌは間を置いた。考えているのだろうか、と思っていると、「そのような質問」とプラターヌはキーを打ち始める。
「ナンセンスだろう。彼は現在にツワブキ・ダイゴがいてはならないから、消されそうになっている」
「でも、全く別人かもしれない」
「その可能性は君が消したはずだが違うかな?」
違いない。サキが示した遺伝子情報によって彼は初代と全く繋がりのない人間じゃない事が分かっている。
「でも、血縁者じゃないって言うんですよね?」
「おかしな事が?」
「多過ぎですよ。遺伝子情報が九割一致なのに血縁者じゃないなんて」
プラターヌはキーを打つ手を止めて振り返った。サキを指差す。
「……何ですか?」
「君は、たとえば父親や母親と全く同じ人間か?」
意味するところが分からずにサキは、「はぁ?」と聞き返す。
「もし兄弟がいるとするのならば、その彼や彼女と全く同じ外見で全く同じ遺伝子か、という事だ」
「そんなわけないじゃないですか。私は私だけです」
「……何だ、答えを持っているじゃないか。つまり、そういう事だよ」
プラターヌの言葉にサキは疑問を浮かべているとディスプレイを睨んだまま声がかけられる。
「血縁者だって全く同じ遺伝子なんてあり得ないんだ。それが逆に血縁者じゃないって事を補強しているだろう」
その段になってようやくプラターヌの言わんとしている事が分かった。血縁者じゃない、という結論に至ったのはその理由なのだ。血縁者ならば二十三年前に死んだ初代と同じ遺伝子のはずがない。同じなのが逆に奇妙だと。
「……意地悪く言わないで、すぐに教えてくれればいいのに」
「君は与えられた結果のみをよしとするのか? その過程にこそ重きを置いている人間だと思っていたが」
プラターヌはサキのプロファイリングを終えているようだ。サキが苛立つ言葉ばかりをぶつけてくる。
「でもですね、結局彼が初代と同じ人間だけれど、血縁者じゃないってのは私達の希望的観測も入っているんじゃないですか?」
「入っていない、と言えば嘘になる。だが可能性を絞らなければ真実は見えない。この場合、わたし達に都合のいい解釈、というのも充分に考察のうちに入る。なに、一つ一つ、可能性を潰していって最後に残ったものを探求すればいい」
「……でも、それが望んだ結末かどうかは限らないですよね?」
サキの言葉にプラターヌは安易な返事を返さなかった。その代わり、「読み取ったメッセージ」と話題を変える。
「今まではこの四つか」
ディスプレイに表示されたのは四つのキーワードだ。サキは読み上げる。
「カナズミシティ、Dシリーズ、ツワブキ・ダイゴ、デボンコーポレーションの四つ……。正直、もう分かっている事を言われただけのような気がして……」
「決して無駄ではないさ。保護派、と君が呼んでいる一派がこれらのキーワードをきちんと踏まえている、というのはね。つまるところ、彼らにとってもこの言葉が重要だという事なんだよ」
再確認の場を与えられた、と前向きに考えるべきだろうか。しかしサキは踏み止まっている感覚に歯噛みする。
「何とか、一つや二つは進めないものですかね」
「結果をすぐに求めても出ないよ。結果と言うのは然るべき過程を経た人間にのみ開かれるご褒美だ。このように」
エンターキーが押されると瞬時に五つのウィンドウが開いた。サキが目を凝らすと、それは新たなメッセージであった。
「どうやって……」
「君がやっていた事をやっただけだ。云十倍の速度で」
サキは頬をむくれさせる。
「……最初から、云十倍の速度でやれるならそう言ってくれれば」
「言っただろう。君は与えられるがままの人間ではないと。一度、この鍵がいかに大変かを知っているから、どれだけ困難なのかが分かっている。物事はそれの積み重ねだよ。いかなる技術も考えも、それを組み立てる苦労を知らなければ瓦解、あるいは消失する。苦労を知るのは人間にとって必要な機能なんだ」
プラターヌの物言いに、サキは唇を尖らせる。
「でも、しなくていい苦労もあるんじゃないですか?」
「そんなに不満かね? まぁ元々研究者用のプログラムだ。君よりわたしのほうがその分野で優れていただけ。そういうものさ」
サキは釈然としなかったが新たなメッセージを読み取った。
「カナズミシティ、に設営されている工場の情報……、住所と稼動しているかどうかの情報なんて、何に使うって」
「クローンの製造工場かな」
プラターヌの言葉にサキは息を呑む。まさか、と思い工場を調べると有害物質の除去実験を行っている工場の情報だった。
「ほら、そんな簡単にクローンの製造工場なんて出るはずがないでしょう」
「いや、今のは出たも同然なんじゃないか?」
その指摘にサキは表示されている内容を見つめる。だが有害物質の除去作業の画像しかない。
「これのどこが……」
「有害物質の除去って事は、少しばかりの騒ぎじゃ壊れもしないだろう。なにせ、そういう風に設計されているだから。さらに言えばセキュリティも最高レベル。当然だろう。有害物質がばら撒かれた、なんて事にならないように、だ。もっと言えば廃棄されるものも極秘で通る。クローンの製造にはもってこいじゃないか。さらに、これを見るといい。地図上の、百メートル圏内」
プラターヌが指差したのは俯瞰図に記された廃工場だった。サキが怪訝そうな顔をしていると、「人間を押し詰める場所の確保」と付け加えられた。
「つまり、廃工場なんてものを所有しているのは攫ってきた人間を閉じ込めておくため」
「待ってください。早計過ぎますよ」
「早計なもんか。これでも充分、確証がある」
「私にはないです。これだけじゃ、まだ充分とは……」
「しかし、これだけ分かっている、という事は、だ。保護派の連中が動き出すかもしれないね。それこそ、今夜辺りでも」
サキは時計を見やる。午後七時を回っていた。保護派が動く、という確証もない。だがプラターヌの予感は馬鹿には出来なかった。
サキは立ち上がってコートを突っかける。
「行きましょう」
「おや、わたしの言い分を信用してくれたのかな」
「信用はします。でもどう使うかは私次第。今夜の確信はないですが、張っておく価値ぐらいはありそうです。下見に行きましょう」
拳銃と道具を確認し、サキは出かける準備をする。
「んじゃ、わたしは他のメッセージを読み解くとしましょうか」
「何を言っているんです? 博士も来るんですよ」
その言葉にプラターヌは目を瞠った。
「わたしが?」
「メッセージを読み解いている間にも状況は動く。それに博士がいたほうが保護派の連中ともうまく話が通せる」
「酷いな。人を交渉道具みたいに」
「実際に博士は私をそう使っているでしょう。今度は私が博士を使う番です」
苦言が漏れるかと思ったがプラターヌは大人しく従った。
「分かった。行こうじゃないか。敵の魔窟へと」
白衣を突っかけたプラターヌは襟元を正した。