第三十七話「いにしえの物語」
プラターヌの結論に、そう簡単な事だったのだろうか、とサキは思いを巡らせる。きっと、何人もが命を散らし、何人もがその信念を曲げる結果になったのだろう。未来の自分からしてみれば推し量る事しか出来ないが、そこには痛みが伴ったはずだ。
「未来を、信じた……」
「だが未来ってのは残酷でね。ネオロケット団と来たか。この未来は誰にも想像出来なかっただろう。オーキド博士にも、当事者達にはこういうのはね」
「ネオロケット団、どういう組織なんですか?」
プラターヌはキーを打って組織概要を調べる。
「遺伝子研究の分野で成功を収めているみたいだ。なるほど、ポケモンの一種であるポリゴンの発見と、人工的にポケモンを造り出す技術があるらしい。その成果がこれだね」
エンターキーが押されると3Dモデルのポケモンの姿が形成された。人型に近いが大きな尻尾を有しており、指先の作りが人間とは異なっていた。丸みを帯びた三本指だ。
「これは……?」
「遺伝子ポケモンミュウツー。ミュウの遺伝子から造られたとされている人造のポケモンのようだね」
「こんな研究を……」
それは禁忌に触れるものではないのか。サキの言葉尻を感じ取ったプラターヌは言う。
「でも実現していない」
「実現していない?」
おうむ返しにするとプラターヌは3Dモデルの下方を指差す。そこには「仮想シミュレータ」と記されていた。
「つまるところ、レシピ通りに造ればこいつが出来上がりますよ、という話だ。なに、別段珍しい話でもない、企業が自分の力の誇示に使う空想モデルって奴だね」
仮想、だというのか。サキは改めてミュウツーを眺める。仮想にしては出来上がっている気がした。
「まぁ、わたしが危惧しているのは遺伝子ポケモンじゃない。言っただろう? 最初からオーダーはヒトとポケモンの血を入れ換えたモデルケースだと」
プラターヌが画面を移すとそこには「ヒトとポケモンの血液について」と書かれた論文データがあった。
「こいつをダウンロードしよう」
「防壁は」
「言うまでもないよ。既に張ってある」
ダウンロードが問題なく成された。それでいてこちらの位置は割れていないらしい。まるで魔法だな、とサキは思う。
「……なるほど。ヒトとポケモンの血液に着目したのは何も目新しい話じゃないんだ。古くから、血液ってのは神聖視されてきた。だから、種族の領分や領域を侵すのに、血液ほど適任はいないんだ。ポケモンの血液と人間の血を入れ換えるなんておったまげた事かと思っていたが、そうではない。彼らは既に、それに着手していた」
映し出される映像やデータがそれを証明している。ネオロケット団。否、ロケット団の頃より、それが行われてきたと。しかしサキには信じられなかった。ダイゴの例を見ただけでも吐き気を催す代物が、こうも易々と闇の中で行われてきたなど。
「ネオロケット団は、何のために……」
「何のため? それこそ聞くも野暮というものだよ、君。何のためなんて大儀はない。ただ単に面白そうだったからだろう」
プラターヌの言葉にサキは思わず言い返した。
「面白そうだった? そんな興味で、人間の命を――」
「他に何があるんだい? いつだって、新天地や新分野を切り拓くのは興味と好奇心。それがたまたま我々人間にとってイカれた代物だっただけの話。ポケモン図鑑だってポケモンからしてみればおぞましい代物だろう。自分達のデータが形態化され、形式化され、実験とデータの羅列に成り下がっていく事が。おぞましくないはずがない。人間が標本にされてこいつはこういう精神だ、こういう肉体を持っているっていうデータと何ら、何ら変わるまい。ポケモン図鑑は人間にとっては恩恵だが、ポケモンにとっては地獄の門だ」
そのような見地は初めてだった。ポケモン図鑑があるから、人間はポケモンに対してアドバンテージを取れている。だが、それがポケモンの側からならば? 悪魔の所業に等しいポケモン図鑑。分布も生態系も、その進化先さえも網羅した悪魔の本。
「……驚きましたね。博士は、そういうのは気にしないものだとばかり思っていました」
「何でかな?」
「研究者ですし、割り切っているものかと」
「割り切っているさ。ただ、研究者のわたしと、人間のわたしは生憎違うんでね。感情論としてそういう側面を考えなくもない。ただ単に便利を便利として受け止めるには、少しばかり勘繰ってしまう性質なんだ」
プラターヌは指先で煙草を弄ぶ。サキには自分の父親に言えるのか、と考えた。研究者、ポケモン群生額の権威であるヒグチ博士。父親に、あなたは悪魔の研究をしていると自覚しているのか、など。
言えるはずがない。サキは早々に頭を振って否定した。
「私は父には……」
「研究者の娘さんが考える事ほど残酷な事はないだろう。どうか聞いてやらないでくれないか? 博士も、直視したくないだろうから」
サキの思考を見透かしたようなプラターヌの口ぶりに敵わない、という認識を新たにした。この男は自分などという小さな枠組みでは図れない人間だ。
「……にしても、ネオロケット団。どうやって資本を集めたのか?」
博士の疑問にサキは応じる。
「パトロンがいるんでは?」
「それはそうだが、言っただろう。ロケット団の資金源はシルフカンパニーだった。だが四十年前に壊滅した。だからこそ、不自然なんだ。どうしてネオロケット団として存続出来たのか」
それは確かに疑問だろう。シルフカンパニーとデボンぐらいしかポケモン産業を独占した企業は後にも先にも知らない。そこまで考えてハッとする。
「……デボン?」
「わたしもそう考えていた。デボンが資金源なんじゃないかと」
「でも、だとしたら」
「そうだ。君の言う、初代に限りなく似ているツワブキ・ダイゴ君は危ない事になる。敵の渦中だ」
サキは踵を返した。その背中に声がかかる。
「どこへ行く?」
「彼を、ダイゴを助けなければ」
「焦る事はない、と病院でも言ったはずだが」
ため息混じりのプラターヌへとサキは振り返る。
「黙って見ていろというのですか?」
「そうじゃないよ、ヒグチ・サキ警部。ただ急く事はないと言っているんだ。ツワブキ家、言ってしまえばデボンがもし抹殺派の、その手綱を完全に握っているのだとすれば君の証言はおかしいんだよ。どうして、そんな少し背中を押してやれば落ちてしまうような危ない奴を、わざわざ匿ったりするのか? 警察内部にコネがあると考えるが、だとすれば余計に分からないのは、彼をちょっとの書類だけで一生塀の外に出さない生活だって出来たはずなんだ。だというのに、ツワブキ家で預かる意味と、彼にダイゴという名前を与えたのが分からない」
「それは、一つの冗談のようなものなんじゃ」
「冗談? 冗談で、似ている人間に、それそのものの名前をつけらられるものか」
プラターヌの口調にサキは疑問を浮かべる。
「プラターヌ博士。病院でも呟いていましたよね。似ている、と。彼は、ツワブキ・ダイゴは何者なのか、あなたはご存知なんじゃないですか?」
それが今までプラターヌを見てきた感想だった。プラターヌは決定的な何かを知っている。だからこそ、病院に囚われていた。保護派がこの男の名前を出してきた。
「わたしに期待するなよ」
紫煙をくゆらせながらプラターヌが呟く。サキはしかし食い下がった。
「ここで期待しなければ、何に期待すればいいのです」
プラターヌは煙い吐息を漏らし首をこきりと鳴らす。
「わたしが言ったのは、だ。彼、ツワブキ・ダイゴ君が初代に極めて似ているという、ただの感想だよ」
「似ている、というのは外見ですよね。やっぱり、会っていたんですね」
プラターヌは眉間に指を当てて答えた。
「ああ、会っている。下手な隠し立てをしたところで仕方がないだろう。メガシンカについて、ホウエンで過去から観測されている伝説と併せた論を交し合った。わたしも駆け出しでね。彼の意見は大変参考になったし、そのお陰で論文を発表出来たものもあるんだ。……まぁ、後に矛盾する論文と叩かれたわけだが」
少しの自嘲を交えたプラターヌの声音にサキは何十年もの重みが宿っているのを感じた。
「それだけですか?」
無論、メガシンカ関連だけではあるまい。プラターヌは何かを聞き出したのだ。かつてのカントーの王から。
「鋭いね」とプラターヌは息を吐き出す。
「そうだよ。メガシンカだけじゃない。ツワブキ・ダイゴには先があった。メガシンカの伝説を見据えたさらに先が」
「伝説とは何です?」
プラターヌが眉を上げる。
「あれ? 知らないのか?」
サキが首を横に振る。プラターヌは、「まぁ出回っていないんだろうな」と結論付ける。
「何なんです?」
「グラードンとカイオーガ、っていうのは知っているかな?」
それならば知っている。ホウエンの人間ならば知らない者はいないだろう。
「確か、陸を司る伝説のポケモン、グラードンとカイオーガが争って今のホウエンが出来たって話でしたっけ」
「そう、だが不完全だね。この伝説にはレックウザという空を司るポケモンも不可欠なんだが、まぁいいだろう。この伝説くらいならば誰でも知っている。問題は、この伝説が本当なのか、という話」
「空想でしょう。実際にはグラードンとカイオーガは争っていない事が最近の研究で明らかになりましたし。地質変動を昔の人が結論付けるためにそういう作り話をしたって」
「そう。現象をなぞらえるのが伝説、そして神話なんだ。だが、それは表向きに過ぎない」
「表向き?」
サキが首を傾げるとプラターヌは顎をさすった。
「実際に、グラードン、カイオーガは存在する。それは既に四十年前に明らかになっていた」
サキは目を瞠った。そんな事などあり得ないからだ。
「だ、だって、そんなの無理ですよ。今現在だって、グラードン、カイオーガの実在を証明する手立てなんてないんですから」
「あるんだよ。ルネシティ、という場所を知っているかな」
「……確か、東方の街ですよね。ダイビングと航空機以外を拒む、岩の壁が邪魔をしている」
サキは必死にルネシティの全景を思い出していた。ルネシティは四方八方を巨大な岩の壁に囲まれた特異な地形のせいでつい最近まで技術も入っていなかった未開の地だ。
「そうだ。その場所、ルネシティに地下洞窟がある。そこに眠っているんだよ。グラードンかカイオーガがね」
サキはプラターヌの確信めいた言葉が信じられない。どうしてそのような結論に至れるのか。
「ちょ、ちょっと待ってください! 博士はカロスの出身ですよね? 何でホウエンの、しかもルネシティなんて場所の事を……」
「だから聞いたんだ。四十年前、いや正確には二十年ほど前だが、ツワブキ・ダイゴ本人に」
全く話の流れが見えない。プラターヌはサキの疑問を感じ取って、「分かった」と指を立てる。
「分かりやすく噛み砕こう。わたしは研究者としてまだ駆け出しの頃、初代に会った。謁見の機会が得られたのは今思っても幸運だった。遺伝子研究に、初代は大変興味を示した。わたしは遺伝子研究の成果の見返りに、メガシンカについて尋ねた。すると初代はこう言った。メガシンカはホウエンで古くより観測されており、それには伝説のポケモンが深く関わっている、と」
「初代が、ですか?」
「初代ツワブキ・ダイゴのネットワークを嘗めちゃいけない。腐っても王だ。それにホウエンでは名のある御曹司。彼が何もしなくても情報は入ってくる。確か、ルネシティの長老と知り合いだったという。世襲制で、長男の名前が代々、ミクリという名前らしいが」
「そのミクリって人と初代が知り合いだった」
プラターヌは指鉄砲を作り、「正解」と声にする。
「だが少し違う。知り合い、どころじゃない。親友だった」
プラターヌは頬杖をつき、思い出しているようだった。もう二十年ほど前。サキが生まれているかいないか分からないくらいの時だろう。
「その、親友がどうして……」
「ルネの長老の家系は代々語り継ぎ、守っている伝統がある。それが伝説のポケモン、グラードンとカイオーガについてなんだが、その逸話の中にね、他の地方じゃあまり聞かない単語を見つけた」
「何です?」
焦らすプラターヌにサキは急かした。プラターヌは指を一本立てる。
「ゲンシカイキ」
「原始……、何かの技ですか?」
「ゲンシカイキで一つの単語だよ。数千年前の、それこそ原始の時代の姿に、グラードン、カイオーガは戻れたという。その力を蓄えている途中だと、彼は言っていた。来る日に恐らくその封印は破られ、原始の力が発生すると」
サキには馴染みのない言葉だらけで困惑する。そもそもポケモンに明るくないのだ。
「……すごいのか、よく分からないですね」
「ポケモンはね、今の姿でそのまま発生したわけじゃないって言う学説がある。永い年月の中で環境に適応するために、その力を退化させた存在もいる。いや、ほとんどのポケモンは原始では強靭な肉体を持っており、今はいわゆる退化の時期で、本来の力の十分の一、いや百分の一もないという説だ」
「荒唐無稽ですよ」
感想をそのまま口にすると、「だろうね」とプラターヌも納得した。
「あまりポケモンを知らない人間からしてみれば、わけが分からないのも無理はない。だが覚えておくといい。今のポケモンが絶対ではないと。だからこそ、メガシンカがあるのだからね」
「それですよ。メガシンカ。ゲンシカイキはその説明になっていない」
指摘するとプラターヌは頷く。
「いいね。きちんと発言を覚えてくれるのは。いい生徒だよ、君は」
「茶化さないでください。結局、今の伝説とメガシンカは何の関連性もない」
「いや、あるんだ。原始の力を開放したグラードンとカイオーガ、その二つが全力で争そえばどうなると思う?」
質問にサキはたどたどしく答える。
「……多分、ホウエンはただじゃ済まない……」
「ホウエンどころじゃない。原始の力はまだ未計測だが、恐らくは全地方規模のもののはずだ。そんなものが巻き起こってみろ。この世の終わりだよ」
だが滅びていないではないか。サキの無言の主張が伝わったのか、「だが滅びてはいない」とプラターヌは口にする。
「何故か?」
また質問か。サキは辟易しつつ推論を口にする。
「……ポケモンの能力はたかが知れているから」
「ノン。それでは現象の説明には一切ならない」
及第点はあげられないね、とプラターヌは首を振る。すっかり教鞭を執っている教師と生徒の構図だ。
「じゃあ、思っていたよりも人間の生命力が高いから」
「それもノン。人間の生命力など、それこそ知れている。ポケモンに比べれば大自然の力を一面でも借りられない人間など、愚の骨頂だ」
「じゃあ、何だって言うんですか」
他に結論が見当たらない。プラターヌは指を一本だけ立てて、声を潜めた。
「一つだけ、物事の一面だけを捉えるのは駄目だよ、人間の悪い癖だ。考えてもみるといい。何で、強力な、現在兵器に等しい威力を誇るポケモンが古代から存在していながら、人間は滅びずにいられたのか」
それは分からない、というのが本音だった。どうしてポケモンは人間を滅ぼさないのか。そもそも何故共存関係がまかり通っているのか。サキは首をひねる。
「分かりません……。これって不正解でしょうか」
「今までの結論よりかは随分と考えた結果だと思うね。ヒントを出そう。シンオウの民俗伝承に、こうある。人間もポケモンも昔は同じだった。ポケモンと結婚する人間もいた。つまり、シンオウにおいてポケモンは極めてヒトに近しい存在としてあった事が窺える。もしかすると、勝手に壁を設けて、小さな球体に捕獲するようになった今のほうが退化しているんじゃないかとね」
「……つまり、ポケモンが人間を許したって言うんですか?」
プラターヌの言葉を統合するとポケモンのほうが優れた知性体であるのかのようだ。しかしプラターヌは頭を振った。
「今までも言ったろう? 早々に結論を出すのは人間の悪い癖だと。ポケモンだけでも、人間だけでもない、この世界が存在する理由、それは両者がお互いに許し合っているからだ。そうとしか考えられない」
サキは頭痛を感じた。知恵熱かもしれない。普段使わない部分をフルに使っているせいでサキの脳の容量はパンク寸前だった。
「……お互いに許し合っているって、その根拠って何です?」
「ホウエンの伝承、ルネシティの長老に課せられた役目。それは伝説を語り継ぐ事。わたしの聞いた伝説は原始のグラードン、カイオーガがいる事だけではない。先にも言った通り、ゲンシカイキしたポケモンが暴れ回ればこの地球なんて跡形もないんだ。それが発動前に制された」
そこまで言われるとサキにも思い当たる節があった。
「何かが、止めたって事ですか……」
「その通り。何か、表の伝承ではレックウザが止めた事になっているが、無論、ゲンシカイキした二体を止められるほどレックウザ本来の能力は高くない。レックウザの特性、エアロックが二体の天候制御能力を奪ったとも取れるが、それでは不充分だ。第一、天候制御能力を奪ったところで、まだ有り余る戦力を保有している」
つまり、二体の天気を操る能力を無力化出来ても本体の無力化とはイコールではない、という事だろう。
「じゃあレックウザって何なんです? どうやって止めたんですか?」
「そこだよ。ヒグチ・サキ警部。そここそが、人間とポケモンが共存している理由なんだ」
指差されてサキは戸惑う。そこ、とは何なのか。怪訝そうに眉をひそめた。
「わけが分からないですね。レックウザがどうかしたんですか?」
「ゲンシカイキを超えるエネルギーが必要だったんだ。ポケモンの大自然を操る底なしのエネルギーを。この地球の地殻さえも変えてしまうほどの大規模エネルギーを相殺するには、それなりのエネルギー量が必要だった。だが、わたしの調べと初代の弁によれば、レックウザはそれほどのエネルギーを保有していないらしい」
疑問に次ぐ疑問にサキは髪をかき上げる。
「……じゃあ、レックウザは無理なんじゃ」
「ところが、だ。ポケモンに本来の能力以上の能力を保持させる方法を、我々は知っているではないか」
プラターヌの発言に、「まさか」と声を詰まらせる。ようやく物事が頭の中で繋がった。
「メガシンカ……」
「そうだとも。メガシンカエネルギーをレックウザの能力に相乗すれば、二体のゲンシカイキエネルギーを超過するエネルギーが得られたはずだ。それこそ、惑星規模のエネルギーをね」