第三十六話「裏の歴史」
「マルボロではないが」
帰宅するなりコンビニ袋を投げると早速取り出したプラターヌが文句を垂れる。サキは椅子に座り、「我慢してください」と告げた。
「私がこうしてあなたを匿っただけでも危ないんですから」
「最近の警察官は冒険心が足りないな。もっと事件の中枢に辿り着きたかったら自分の身を投げ出す事だ」
「落っこちるのは御免ですから」
サキの冷たい言葉にプラターヌは目的ではなかった煙草を取り出し、百円ライターで火を点けた。紫煙をくゆらせながらプラターヌが首を傾げる。
「さて、どこまで知っているんだったか」
ダイゴの事だろう。サキは正直に答える。
「病院で話した事が全てですが……」
「そんなわけがないだろう。彼の手持ちについても、または彼が実際に存在するのかについての実証データがない」
サキは食えない男だと感じた。こちらが隠し立てしようとしても無駄だろう。パソコンを起動させ、博士の解析したデータを呼び出す。
「ヒトとポケモンの血が入れ換えられている実証データです。それと彼の手持ち、ダンバルについて」
プラターヌはパソコンを食い入るように眺めてから一つ言葉を発した。
「ダンバルなのか」
「ええ、彼の手持ちは。何かおかしな事でも?」
「いいや、四十年前の初代の手持ちも、ダンバル系列の進化であった事を思い出してね」
それならば有名だろう。初代ツワブキ・ダイゴの相棒ポケモン、メタグロス。一時期テレビなどでももてはやされた。高レベルで進化する大器晩成型のポケモンであり、育てにくい事で知られた。
だがそれ以上に、今の発言が意味するところを感じる。
――やはりこの研究者は初代と会っている。
確信に近いものを得た気分だったがプラターヌはそれ以上にぼろを出す事はない。それどころか実証データについて尋ねてきた。
「この実証データ、取ったのは研究者か」
「ええ、私の父親のヒグチ博士が」
その名前にプラターヌは瞠目する。
「ヒグチ……、そうか君はヒグチ博士のご息女か」
サキが頷くと、「でも分からないな」とプラターヌは顎に手を添えた。
「どうして一介の研究者の娘が刑事に?」
何度も尋ねられた事だがプラターヌからしてみれば疑問だろう。サキは何度目か分からない答えを発する。
「父が頼りないもので。私は幼少時から正義の味方に憧れていまして」
「就職面接のような解答だな」
プラターヌの言葉を無視して声を継ぐ。
「刑事になったのは私の夢を叶えるため。他意はありません」
「だがその刑事が、今は裏事情を探っている、か。分からないものだな」
プラターヌは実証データを漁りながら指を一本立てた。
「一つだけ、分かった事がある」
「何ですか?」
プラターヌは五十歳を超えているとは思えない相貌をサキに向ける。
「ポケモンと血を入れ換えた、の事だがそのポケモンが生物の枠組みから外れたに等しい鋼タイプである事が意外だった」
鋼タイプ。初代ツワブキ・ダイゴが発見に尽力したと言う当初説明されていたタイプから追加されたポケモンのタイプだ。
「鋼である事が、それほどまでに?」
「意外だよ。君には分からないかもしれないが」
煙草の煙をディスプレイに吹きつける。サキは煙たそうに眉をひそめた。
「鋼っていうのはね、無機物系とも呼ばれている。言うなれば、生物的なポケモンとは一線を画す存在。その血と入れ換えられている事が意外に他ならない。人間は、分かっているとは思うが鋼の生物ではないのだから」
その程度の事は説明されるまでもないと感じたがサキはあえて黙っていた。
「彼の血は、ダンバルの血である、という事だね?」
「正確にはダンバルの血が僅かに検出された程度ですが……」
「充分だ」
プラターヌはキーを打って次々にウィンドウを呼び出す。サキは何をしているのか問い質した。
「何を……」
「数々の情報機関にアクセスしてヒトとポケモンの融合例がないか確かめている」
息を呑んだ。それはまかり間違えればこちらが特定される。思わずその手首を掴んだ。研究者の手首は思っていたよりも細い。
「……何をする?」
「一つでも手順を間違えればこちらが見つかります。そうすればまずい」
「何がまずいというのだね? 今さら、君はわたしを匿った事を後悔しているのか?」
「少しだけ」とサキは答える。プラターヌはため息をつく。
「いいかい? 今どうしようとしなかろうと、もう転がり出した石だ。彼の存在に関して抹殺と保護を敢行している団体が存在している。この時点で、このホウエンがきな臭いと感じるべきだ。それに刑事と言っただろう? ならば、正義には敏感ではないのか?」
「同時に言いましょう。悪にも敏感だと」
サキの言葉にプラターヌは口元を綻ばせた。
「……なるほど。それは正義の味方のメンタリティだな」
「こちらからの無用な干渉はやめていただきたい」
「だが、ここに篭っているだけでは何も出来ない。ヒグチ・サキ警部。君が真に真実を追い求めるのならば、躊躇など無用だという事が分かるはずだ。汚い場所や闇に入り込む事さえも厭わない精神が必要だと」
プラターヌの言葉に思わず声を詰まらせる。「心配ない」とプラターヌは手を振った。
「逆探知されるようなヘマはしないさ。これでも研究者なものでね。こうやって相手先につけ入るのは得意だし、色んな機関のパスワードだって知っている。戦力になると思うが」
サキはそれに言い返す口を持たなかった。プラターヌが戦力になると感じたから脱出を助けた。手首を掴んでいた手を離し、「分かりました」と告げる。
「本当に、逆探知されるような事は……」
「ない。心配ないさ」
プラターヌが再びキーを打ち始める。サキはその行動を見守っていた。ウィンドウが忙しく表示と明滅を繰り返している。パソコンにさほど明るくない自分からしてみれば故障かと疑うような動きだった。だがいくつかのフェイズを実行し、プラターヌが行き着いたのは一つの研究機関のホームページだ。
「これだ」
プラターヌが何の問題もなくその団体の極秘研究のパスワードを入力し、本来、局員しか知りえない場所へと踏み込む。サキはその団体の名称を口にした。
「ネオロケット団?」
聞き覚えのない団体だった。サキの疑問にプラターヌは研究成果というページを開く。その瞬間、サキは息を呑んだ。表示されたのは遺伝子研究に関する極秘データだ。それも、ヒトとポケモンに関する研究だった。
「出たな」
「これ、どういう事なんですか?」
「ネオロケット団。四十年前に駆逐された組織、ロケット団の後発組織だろう」
サキは首を横に振る。そのような団体名など聞いた事がない。
「ロケット団というのは何です? そんな組織なんて……」
「知らなくとも当然だが、四十年前のポケモンリーグ。介入していた組織の一つだ。出資していた企業であるシルフカンパニーの裏に潜んでいたとされる。関係者はほとんど口を閉ざすか既に死んでいるために都市伝説程度に語られるものだったが」
表示されている事実はそのロケット団なる組織が継続している事を示していた。
「……駆逐されたって、どこにです?」
プラターヌは煙草を机の角で磨り潰した。自分の机なのに、と一瞬だけ感じたがそのような事を思っている余裕さえない。
「歴史の表舞台には出てこないが、ヘキサ、という超法規的組織と、ネメシスなる組織が敵対していたとされる。ヘキサはロケット団を壊滅するべく動き、実際に壊滅させた。だがヘキサはその後解散。現在は上層部のポストについている政治家がそのOBだったとされるが定かではない。これも都市伝説だ」
「ネメシス、って言うのは?」
プラターヌが二本目の煙草に火を点けながら答える。
「詳しくは分からないが、歴史を裏舞台から操作していた組織だとされる。一種の宗教団体かな。ヘキサツールという歴史の預言書が存在し、それに沿って歴史を動かしてきたと。だが、それによれば四十年後、つまり今、歴史の終点に差し掛かっているはずなんだが、まだ世界が滅びていない辺り、それも眉唾だな」
サキはその二つの組織についても初耳だったが、それ以上に気になるのはプラターヌの知識だった。
「どこから、仕入れたんですか?」
答えの如何によれば警察さえも知り得ていない情報を一研究者が知っていた事になる。プラターヌは、「研究仲間がね」と後頭部に手をやった。
「教えてくれたんだ。二十年ほど前の話になるか。もちろん、最初は信じなかったが、その人物の話す内容があまりにも克明だったので頭の隅に留めておいた。で、個人的にそれを調べ上げると不思議な事に合致する事象がたくさんあった。わたしとて全てを信じているわけではないが、こうも明確な物証を見せ付けられると、疑っても仕方がない気がしていてね」
「その、研究者というのは?」
「君もよく知っているよ。オーキド博士だ」
その言葉は少なからず衝撃があった。ポケモンの第一人者。ポケモン図鑑を作り上げ、今日のポケモン研究の草分け的存在だった人物だ。
「オーキド博士が?」
「あの人はお酒が入ると饒舌でね。たまにこういう話を聞かされた。わたしとて馬鹿じゃないから、お酒の席の冗談だと思っていたが、それにまつわる話がいくつも存在して、あるんじゃないかと思い始めた」
「でも、空想の可能性も……」
「無きにしも非ずだが、わたしはオーキド博士が世間で言われているよりもしっかりしていると思っているよ」
世間でのオーキド博士の評価は真っ二つだ。それによると、初期のポケモン図鑑のバグや構成データがあまりにも欠陥だらけだったのと、学会で発表された「ポケモンは全部で百五十種類」という発言に関するものだ。実際にはポケモンは百五十種類をゆうに超え、現在では七百種類もかくやと言われている。だがポケモン図鑑設計の功績は素晴らしく、偉人の一人として名を連ねている人物であるのは間違いない。
「オーキド博士が、そんな裏に通じていたなんて」
「いや、あの人は自分の経験からしか話さない。だから多分、経験したんだろうと思う」
「オーキド博士がですか?」
「馬鹿にしちゃいけないよ。四十年前のポケモンリーグ。ちょうどオーキド博士は全盛期だ。何が起こっていても不思議ではない」
確かに計算してみればそうなる。しかしプラターヌはそれを鵜呑みしたと言うのか。
「嘘だとは思わないんですか?」
「嘘だと思いたいのは山々だが、こうも条件が揃うとね。しかもネオロケット団と来たか」
プラターヌは煙草を挟んだ指で指し示す。ネオロケット団。その事実がオーキド博士の発言が全くの夢物語ではない事を示している。
「その……ロケット団っていうのは一体何をしたんです? シルフを裏から操っていただけなら」
「そう、別に当時の財閥なら珍しくない。企業を裏から操るってのはね。だが、博士の弁によれば、この歴史始まって以来の、明確な敵であり、秘密結社であるという」
「敵って……」
どうして一個人が敵だと断じられるのだろう。プラターヌは、「やっぱり経験だろうね」と結論付けた。
「オーキド博士本人が敵だと感じた組織なんだろう」
「敵ってのは、その、リーグの妨害とかですかね」
「いや、多分全くの逆だ」
プラターヌの言葉にサキは混乱する。リーグの妨害以外でオーキド博士が敵だと感じた理由が分からない。
「逆ってのは……」
「リーグの裏で色んな人物を集めていたらしい。その目的はまだよく分かっていないんだが、博士によればそれは特異点である自分の擁立にあったそうだ」
「特異点?」
聞き馴染みのない言葉に問い返す。
「分からないかな? 君はSFを嗜む?」
サキは首を横に振る。小説は所詮、フィクションの世界だ。日々絶え間ない現実に晒されている自分からしてみればフィクションの賜物はあまり好みではない。
「そうか。SFを知らないか。まぁ、分かりやすくいえば、歴史の中にある重要な人物だとでも言うのかな。つまるところ、偉人に分類される人間だ。それをロケット団は特異点と呼んでいた」
「オーキド博士が歴史上の偉人なのは間違いないですけれど、どうしてロケット団がそんな事を?」
「言ったろう? ネメシスって組織がある事を。ヘキサツールと呼ばれる預言書には書いてあるんだ。オーキド博士が何かを成すという事が。ロケット団は歴史通りに進めようとした。それを阻んだのがヘキサだ」
サキの頭の中ではこんがらがっていた。どうして歴史通りに進めてはいけないのだろうか? そもそもヘキサ、ネメシス、ロケット団の関係が分からない。
「……よく分からないんですが、ヘキサが歴史に仇なす存在だったんですか?」
「まぁ、結果論から言えばね。だがヘキサツールには四十年後の滅亡が記されていた。そのための因子がオーキド博士だとも」
その段になってようやく結びついた。
「つまり、オーキド博士が生きていれば世界が滅びるって?」
「簡単に言えばそうなる」
馬鹿馬鹿しいにも程があった。たった一人の人間の生存が世界を滅ぼすなど。呆れているサキの様子を察したのか、「ありえない、って思っているね」とプラターヌが先読みした。
「……あり得ないって言うか、そんな事ってどうしてみんな信じ込むんです? だってただの預言書でしょう?」
「その預言書に記されている事が次々に的中すれば、そりゃ怖くなる人間もいるだろう」
しかしサキはまだ納得できない。
「分からないですね。四十年前の人間は相当ロートルだったんですか?」
その言葉にプラターヌが大笑いした。突然、弾かれたように笑われたものだからサキは赤面する。
「何がおかしいんです?」
笑いを鎮めながら、「悪い悪い」とプラターヌは謝った。
「ロートルと来たか。まぁ、オカルトを信じ込んだ馬鹿な先人達、って思うのも分からなくもない。でも、ヒグチ・サキ警部。オカルトって言うのは人類にとっては重要だ。オカルト一つで世界が滅ぶと思う人間もいるし、オカルト一つでそのポケモンの存在が災厄の前触れだと信じ込まれる場合もある」
プラターヌの言葉にサキは首をひねる。どうして四十年前の人々はそう躍起になったのか。現在文明に囲まれている自分としては理解出来ない。
「隕石が衝突するとか、予言に記されていればそうなんだって色んな人間に迷惑をかける人間だっているんだ。たった一つの預言書だって馬鹿に出来たものじゃないよ」
「ロケット団は、それを支持したんですよね?」
「まぁね。そう容易いものじゃないかもしれないが、対立構造としては歴史を曲げようとするヘキサ対歴史を信じようとするロケット団、ネメシスだろう」
「結果的に誰が勝ったんです?」
サキの質問にプラターヌは、「現在文明が発展している事から考えてみなよ」と逆質問した。サキは少しだけ頭を働かせる。歴史通りに滅亡していない事から考えると、一つの結論に達した。
「ヘキサが勝ったんですか?」
「まぁ、辛勝って奴かな。双方、痛み分けに近い状態だったみたいだけれど。歴史通りよりも、未来の可能性を信じた人間の勝利だってわけだ」