第三十五話「愛の信奉」
まずはマルボロだ。
プラターヌの要求はそれだった。サキは逃亡の手助けをした事を悔いているわけではない。だが、ようやく追っ手から逃れ、自身の部屋に上がりこんできた男の言動にしては奇妙なものだと感じたのだ。
プラターヌ博士。
遺伝子工学の権威であり、ポケモンのメガシンカの分野においては先駆者とも言える存在。その彼が、どうして病院に入れられていたのか、聞き出すより先に彼との逃亡を自分は行っていた。サキは後悔するわけではなかったが、プラターヌが何を考えているのか全くもって理解不能である。ダイゴの症例を挙げてプラターヌを上手く誘い込む事には成功したもののまさか病院からの脱出だとは考えもしなかった。項垂れるサキへとプラターヌは告げる。
「まずはマルボロだ」と。
どういう意味なのか、サキは最初理解していなかった。病院にいた人間の吐く言葉だとは思えなかった。
「どういう意味なんです?」
サキの問い返しにプラターヌは人差し指と中指をくいっと曲げ、「要求はそれ以上はない」と口にする。
「君の理解が早いか、わたしの理解が早いか、だ。わたしはマルボロを要求しているだけだし、君はそれに応じればいい」
プラターヌの言葉にサキは額に手をやる。どうにも飼い慣らしづらい。
「あの……、私はあなたの付き人じゃないんですけれど」
「だが逃亡を許した。あの場所にわたしを括りつけておく事をよしとしないのだろう? 全ては、そのツワブキ・ダイゴ君の謎を解明するために」
その鍵は自分しか持っていない、とでも言いたげな風だ。サキは机の周辺を見やる。デスクトップパソコンのほかには何もない。サキ自身喫煙はしないためにもちろんライターもマルボロもなかった。
「私は持っていない」
「だったら買ってくるといい。マルボロならばどこ産でもわたしは構わない」
既に煙草を弄ぶ形になっている指を見やってサキはため息をつく。
「マルボロで、いいんですね?」
「ああ。上等なほうが好みだが別に何でもいいさ」
サキは部屋を出る。その際、鍵をかけておくべきか悩んだがプラターヌはせっかく病院から出たのだ。まさか外を出歩くわけがないだろう、と鍵はかけないでおいた。
「何で私が小間使いのような真似を……」
ぼやきながらサキはスクーターにキーを差す。近くにタバコ屋はあったか、と考えてコンビニで済ませればよかろうと結論付けた。
「マルボロ……、知らない種類だな。お父さんも煙草は吸わないし。まぁいいや。何でもいいとの事だから」
一つだけ、プラターヌの脱走を聞きつけた誰かが自分の部屋に押し入る事があるかもしれないと感じたが、その時はその時だろう。プラターヌも特別、自分を守れといっているわけではない。
「とりあえずスクーターで出ればいいか……」
「どこへ行くつもりかな?」
不意に聞こえてきた言葉にサキは振り返る。近くの止まり木にペラップが止まっていた。
「Fか……」
思わず口調に緊張が走る。Fはそれを見透かしたように笑い声を上げた。ポケモンが人間のように笑うのは奇妙に映る。
「プラターヌ博士をきちんと押さえた辺り、さすがだと感じる」
「何を馬鹿な事を。お前らは、それを見越して私に情報を与えたのだろう」
そうでなければプラターヌの身柄などに気づく事はなかった。Fはふふん、と鼻を鳴らす。
「伊達ではないね。まぁ一両日中にプラターヌを手にするとは思わなかった。これは素直な感想だよ」
「あれは何を知っている?」
サキの詰めた声にFは首を傾げた。
「何を今さら。ツワブキ・ダイゴの事だろう」
「あれは初代ツワブキ・ダイゴの事を知っている風だった。今の彼じゃない」
「それでも、それが糸口になる、と感じたから、あんたはプラターヌを危険を押して身柄を掴んだ。優秀だよ。評価に値する」
サキはFのわざとらしい賞賛に鼻を鳴らす。
「お前らの組織、ツワブキ・ダイゴ――彼の保護が目的なのか? それにしては彼への干渉は最低限に思えるが」
サキの言葉にFは、「そうかもしれない」と答える。
「だが過ぎれば毒だよ。過剰な愛情もね」
「愛情だと?」
嫌悪の表情を浮かべたサキへとFは冷たく返す。
「そうだとも。不満かね?」
「愛なんて気持ち悪いものを信奉している暇があれば、早々にプラターヌ博士を確保すればよかったじゃないか。博士は彼の症例を知るなり、飛びついてきたぞ。博士の事を存じているのならば何故仕掛けなかった?」
それだけが疑問だ。Fは首を振った。考える仕草のつもりなのだろうか。
「我々の陳腐な仕掛けにはまってくれるほど、博士は馬鹿ではなくってね。それに我々とて情報が漏れれば事だ。静かに、誰にも気づかれないように行動する必要があった」
「抹殺派の動きか?」
「驚いたな。そこまで調べ上げているとは」
Fが無駄に言葉を弄しているのが分かる。サキの事を馬鹿にしているのだ。
「お前ら保護派はどうしていざという時に動かない? 妙な時には仕掛けるくせに」
「命の惜しさだよ。全てはね。抹殺派がどう動くか分からない以上、我々に無駄な動きは許されない」
それこそ詭弁ではないか、とサキは感じる。F達は自分の命は惜しいくせにサキのような駒を使おうとしてくるのだ。
「私の命はどうなってもいいと?」
「そうは言っていないよ。ただ、あんたが私の存在に気づく事さえも驚きだった。想定外だ。だからこそ、一つ一つの行動は慎重を期さねばならない」
自分からしてみればプラターヌにそそのかされて病院を脱出した事でケツに火がついている。警察側としてはまずい事態に陥っているのは間違いない。
「私を扱ってお前らに危害は及ばない、と考えているのだろう? そうでなくては私にここまでの権限を許さない」
「言ったはずだ。協力関係だと。協力する以上、対等な立場でなくては」
舌打ちをする。何が対等なものか。情報を小出しにしてこちらの好奇心を煽り、好きなだけ利用して捨てるだけだろう。
サキは身を翻した。これ以上、Fの言葉に惑わされている時間はない。
「信じられないな。私は、真実が知りたいだけだ」
「真実の喉元に、あんたは近づいていると思うがね」
背中にかかるFの声にサキは鼻を鳴らした。
「真実だと? お前らの術中にはまれば、逆だろう。真実から遠ざけられてしまう」
「意外だな。保護派である我々と袂を別つか?」
「いいや。せいぜい利用して、利用されるまでだ。どちらがステージの上に最後まで立っているかは、運次第だろう」
共倒れだけは御免だ、と言外に告げたつもりだったが、Fはせせら笑う。
「どうかな。運命共同体かもしれないぞ」
「願い下げだな」
エンジンをかける。サキはスクーターを始動させた。「後悔しないように」という声を残してFは飛び立った。