第三十三話「落し物の小道V」
撮影した時、既に気づいていた。
小さな影、あれはポケモンのものだと。だとすればそれを捕捉出来なければ意味がない。
リョウはダイゴが捕まるのを利用した。あのトートバックの中身は恐らく現金。小包は違法薬物か何かだろう。
ダイゴはその引き渡し人にされてしまったようだ。だが自分の権限で逃げ出せるといっても手帳がなければその効力はないも同然。リョウはダイゴが捕まった時を見計らって逃げる事にした。もちろん、ただでは逃げない。この現象を最大限まで利用する。何かが自分達に接触する瞬間は目に映らない。だが、それが最大の盲点でもある。目に映らない何かに物を盗られた時、自分でも分からないのならば相手にしたって同じ事だ。
リョウは地面に置いたトートバックを何かが奪う時にも相手にしたところでその瞬間は見えないのだと感じた。だからこそ、わざと物を落として何かを誘導し、自分の側へと有効に使った。リョウはポケナビを外し、わざと地面に落とす。それとダイゴがトートバックを置いたのは同時だ。
もし、この現象を引き起こしているポケモンが一体ならば、一度に出来る事は物を盗る事と入れ替える事のみ。恐らく若者達は現象を一方だけ利用して警察の目を掻い潜り、交換を果たそうとしたのだろうが、自分が物を落とした以上、現金と交換されたのは自分の側だ。リョウはそれを手にした感触もないままに駆け出していた。自分の側に現金が呼び込まれたのならばこの場に留まっているのは危険である。
駆け出したリョウに声を投げたのは若者の一人だった。
「お前!」
「あいつ、この現象を知ってやがるのか」
忌々しげに放たれた声ももう遠い。角を曲がればこの落し物の小道ともおさらばだ。ダイゴに罪をなすりつけるようで悪いが、ここは撤退させてもらう。
角を曲がる直前、何かが自分と並走しているのに気づいた。足元へと潜り込み、何かが地面を駆けている。何だ、と目を凝らす前に、「させねぇ!」と角から別の若者が飛び出した。ポケナビが手にあり、連絡を取り合っていた事が分かった。リョウがしまったと足を止めた時にはその若者に角へと引っ張り込まれた。
「出し抜こうってわけだったんだろうが、残念だったな」
若者がリョウへとナイフを押し当てる。
「悲鳴を上げれば刺す。何か言っても刺す。この現象を理解したつもりだろうが、甘いんだよ」
脅しをかける若者にリョウはフッと口元を緩めた。
「甘い、か」
その声に若者は怪訝そうに眉をひそめた。
「何がおかしい」
「いや、お前が言っただろう? この現象を理解しているのならば、と」
その時、若者の背後で影が屹立した。振り返った若者の目に映ったのは丸い巨体だ。未発達な両腕を伸ばす銀色の球体めいたポケモンの姿に若者が戦慄する。点字の意匠を取り込んだ眼が光り輝いた。
「レジスチル。この現象を理解しているのならば、最大限に利用する。オレがモンスターボールに手を伸ばしてダイゴにこの手持ちを見せるわけにはいかないからな。このねずみポケモンを利用させてもらった」
リョウの視界の隅でモンスターボールを抱えて草陰から顔を出す小さなねずみポケモンがあった。アンテナのような髭を掻いている。
「見た事がある。デデンネだ。こいつの特性は物拾いだろう。ただここに住んでいるデデンネは物を拾うだけじゃなく、相手に物をなすり付ける能力もあるようだが」
見たところ活動しているのは三体未満。ならば、このポケモンが動く可能性に賭けた。若者が悲鳴を上げようとする。それを制するようにレジスチルの手が若者の口を塞いだ。
「押し潰せ。派手な音は立てるなよ」
レジスチルの鋼の腕が若者の頭部を圧迫する。若者は悲鳴を上げる前に圧死した。リョウはデデンネからボールを奪い、レジスチルを戻す。
「さて。デデンネがきちんと活動しているのならば現金もオレの物になったはず」
落し物の小道を抜け、近場の公園で懐を探る。しかし、取り出されたのは意外なものだった。
「何だ、これ」
現金があると期待していたリョウの手にあったのはキャラメル数個だ。どうしてだか、それが懐に忍ばされていた。
「ない! ないぞ!」
今さらにうろたえたリョウが声にする。
「現金がない!」
「検めさせてもらう!」
声を張り上げた警察官はダイゴの懐からこぼれ落ちたものを視界に入れる。それは黒塗りの手帳だった。
「警察、手帳?」
ダイゴはそれを拾い上げ、「お勤めご苦労様」と口を開く。
「君達がもし、ここで違法薬物の取引を張っていたのならば、さっきの女を追うべきだ。俺は職務をこなさねばならない」
ダイゴの声に警官の二人組が唖然とする。
「な、何者だ、貴様!」
ダイゴは警察手帳を掲げた。
「公安の者だ。ツワブキ・リョウで名が通る」
ダイゴの声に二人組が声を詰まらせる。ダイゴの懐にはさらに現金も入っていた。袋に入れられた現金の束に、「そ、それは」と警官が注意しようとする。
「君達も知っての通り、この場所は落し物の小道。落とした奴が悪くって、拾った奴には非がない。詮索はしない事をおススメする」
ダイゴは先ほどのダンバルの行動を思い出す。リョウがこの現象を解しているのは半ば賭けだったが、もし、リョウがこの現象を逆利用するのならば、縄張りにしている小型ポケモンの特性を知り得ているはず。ダンバルが発したのは「しねんのずつき」。二割の確率で相手を怯ませる。ダイゴは怯んだポケモンを狙って物を奪った。
物を落とせば、それが奪われる代わりに誰かの手に渡る、という法則。
怯んだポケモンのうち、リョウの警察手帳を奪ったポケモンを覚えていた。そのポケモンから手帳を奪い、代わりにトートバックの中身の現金を掴ませた。リョウが奪おうとしたのは現金だ。
だから、ダイゴはそのポケモンと自分の持ち物を交換した。キャラメル数個をわざと落とし、現金と交換する。順番が一つでも間違えれば成立しない交換条件だったが、リョウが落としたのは二つであったため成功した。
一番目にダンバルの攻撃によって怯んだポケモンから手帳を奪う。トートバックの中身を奪ったポケモンはリョウのポケナビを奪い、交換が成立する。この時点で現金はポケモンの物であり、優先順位はリョウのほうだ。
それだけならば現金はダイゴの物にならない。しかしリョウはもう一回、交換を発生させた。何を落としたのかは知らないが、交換が成立し、何かと現金が再び交換させられる。リョウは手順として現金を得るはずだったが、その間にダイゴがキャラメルを落とした事で交換が発生し、現金とキャラメルが交換条件に挙がった。結果としてダイゴは手帳と現金を得る事が出来た。もちろん、リョウが余計な手出しをしなければ現金までは手に入らなかっただろう。
「その、失礼な事を……」
言葉を濁す警官二人に、「いい。ただし、書類はこちらで通すから報告はしないで欲しい」とダイゴは声にした。留置所で何度も耳にした刑事特有の喋り方だ。
身を翻すと囁き声が耳を掠めた。
「……なぁ、本当に公安の人間なのか?」
「手帳見ただろう? 一般人に警察手帳が持てるかよ」
ダイゴは振り返る。「疑っているようだが」と口を開いた。
「ここは落し物の小道。落とした奴が悪で、拾った奴が正義、盗んだ奴は論外。そういう事だよ」
ダイゴの声に二人とも何も返そうとはしなかった。呆然とする二人を置いて、ダイゴは警察手帳を捲る。リョウが公安であった事、それに立場を最大限に利用出来る事が勝算だった。だが警察署内で今のような誤魔化しが通用するとまで楽観主義ではない。ダイゴはリョウの警察手帳からあらゆる事を読み取ろうとしていた。リョウの階級、それに今の事件の進捗状況。もしかしたら、警察手帳に何か手がかりがあるかもしれない。だが目に入ってきたのは驚くべき記載だった。
「公安七課所属……、ツワブキ・リョウ。この部署と、階級って……」
公安。それはニシノが所属していたはずの組織ではないのか。だとすれば、ダイゴを保護した時、リョウは既に知っているはずなのだ。自分の部署の人間がダイゴを殺そうとした事を。それに失敗しダイゴを取り逃がした事まで。だというのに、リョウは今日まで何も言ってこなかった。それは裏切りよりも深い業である。
「リョウさん、あなたは一体……」
何者なのだ。その問いは風の中に霧散した。