第十三話「乾杯の夜」
「って事で、カンパーイ!」
ぐつぐつと煮えている鍋をダイゴは見つめる。帰ってきたヒグチ博士とその婦人、ヨシノは揃ってキッチンに立ち、料理の準備を進めていた。その一方で、マコが早めの乾杯の音頭を取る。
「おいおい、マコ。まだ早い」
博士が朗らかに微笑み、野菜を切り分ける。ヨシノは吸い物を仕立てていた。
「これだから馬鹿マコは……。お父さん、手伝う事、ある?」
「ああ、いいってサキ。お前も客人みたいなものなんだから」
博士の言葉に、「そうそうサキちゃん」とマコが上機嫌で口にする。
「このマコちゃんに任せて、今日はどーんと飲みたまえ!」
「……まぁ材料費は私持ちだから、この馬鹿に貸しを作った覚えはないが。ねぇ、お父さん、こいついつからこんなに馬鹿になった?」
サキが無遠慮にマコを指差す。マコがサキへとスキンシップを取ろうとするがサキは手で頭を押さえ込んだ。
「うーん、大学入ってからかな、垢抜けたのは。ねぇ、母さん」
「そうね。マコは、それまで大人しかったのに」
ヨシノが同調して声にする。いかにもおしどり夫婦な二人に対してサキとマコの姉妹は少しばかりかしましい。マコはまだ飲んですらいないのに出来上がっている様子だ。
「男でも出来たのか? 言っておくが馬鹿な男に引っかかるなよ。ただでさえ馬鹿なのに、累乗して大馬鹿になる」
「サキちゃん、ひどーい! 私馬鹿じゃないし」
「男が出来たのは否定しないのか?」
マコがうっと声を詰まらせる。図星なのか、とダイゴも窺っていると、「わ、私、本当に違うから」とマコは大げさに否定した。
「男なんて、決して出来ておりません!」
「何で敬語なんだ。ますます怪しいぞ」
ダイゴは目の前の鍋を眺めている。既に煮立っており、中には具が入っていた。
「あの……」
言い辛そうにダイゴが口を開く。サキが、「何だ?」と訊いた。
「アレって、鍋の事ですか?」
「ああ、そう。鍋会。うちの恒例行事でね。祝い事や、客人が来ると決まって鍋をする。夏でも冬でもお構いなしだ」
「まぁ正直なところ、おかずに迷わなくって済むからね。うちではおじいさんの代からこうして鍋会がある」
博士が朗らかに笑いながら鍋に具を投入した。ヨシノがそれぞれの吸い物を振る舞う。家族全員が席につき、ダイゴは特別席とでも言える全員の視線が集まる場所に居ついていた。少しばかりくすぐったい。
「研究員の皆も呼ぼう」と博士が言った事で広めに見えたリビングに白衣の研究員達とヒグチ家が団らんした。息苦しいくらいだが博士達は慣れているのだろう。全員がジョッキを手に、「それでは、乾杯!」と博士が掲げる。すると、「カンパーイ!」と全員の声が木霊した。
ダイゴは縮こまって杯を掲げる。彼らの醸し出す熱気が自分とは正反対のものに思えた。殊につい先日まで留置所の闇の中にいた自分としては突然に太陽の下に引きずり出されたかのようだ。だが居心地の悪い太陽ではない。それぞれが燦々と光を照らし出している。ダイゴは一時でもこの空間にいられて幸せだと思う事にした。
「ダイゴさん、でしたね。ツワブキ家の親戚だと伺っているけれど」
ヨシノの柔らかな声音にダイゴは首を引っ込めて、「ええ、まぁ」と返す。博士が、「そう緊張する事はないよ」と口にした。
「でもツワブキ家といえば、リョウ君は元気だったかい?」
「ああ。あいつは何でも勝手に進めたがる癖が相変わらず抜けていない」
サキの言葉に博士は満足そうに頷く。
「でもリョウ君らしいね。それでこそ、彼だよ」
どうやら博士はリョウの事をよく知っているようだ。ダイゴはためしに尋ねた。
「あの、リョウさんは……」
「うん? まぁ私の教え子の一人でね。昔のよしみだ。ツワブキ家とヒグチ家がお互いにカナズミではそこそこ顔が利くというのもあるのだが、家族ぐるみの付き合いでね」
「腐れ縁だよ」とサキはビールを呷る。
「サキちゃーん。私、大学入っても相変わらず全然でさー。どうすればサキちゃんみたいになれるわけ?」
どうやらマコはもう出来上がったようだ。サキは冷淡極まりない声で、「馬鹿を直せばマシになる」と返す。マコは仰け反って、「ひどーい」とげらげら笑った。
「マコちゃん、相変わらず酒癖悪いね」
研究員達の声に、「皆もでしょー」とマコは指差す。マコの手から逃れようと研究員達がステップを踏んだ。その喧騒の中でサキが呟く。
「手持ちを、この後預けられるか?」
聞かれたのが最初自分だと分からずに、「お前だ、お前」と肘で突かれてようやく気づいた。
「どうだ? 手持ちは?」
「手持ち……、ああ、ダンバルですか」
「それ以外にあるまい」
サキは酔っていないらしい。どうやらそれなりに節制しているようだ。ダイゴは出来るだけアルコールを取らないようにしながら、「でも何でです?」と尋ねる。
「俺の手持ちに何か……」
「探りを入れられるとすれば、それは人間よりもポケモンのほうだからだ。人間なんかよりもよっぽど情報に雁字搦めなのがポケモンだからな」
そこから自分に至る答えを導き出そうと言うのだろう。サキはダイゴの過去を見通す手伝いを諦めたわけではない。
「それなら、俺も預けられます。安心して」
サキに笑みを返そうとするとマコがサキへと飛び乗ってきた。突然の行動にサキが焦った声を出す。
「馬鹿マコめ! 酔った勢いでこれか!」
「サキちゃーん。よいではないかー」
相好を崩したマコの額をサキが力いっぱい叩いた。マコが怯んだ隙に後ろへと回り込み、その首をひねり上げてエビ反りにさせる。
「ギブギブ……」
「何がギブだ! テンカウントまで数えるんだな!」
サキの締め上げがきつくなる。大丈夫なのか、とダイゴが窺っていると、「おっ、恒例のサキちゃんによるプロレスの敢行だー!」と研究員達が囃し立てた。どうやら今に始まった事ではないらしい。
「マコ選手、例年の雪辱を晴らせるかー?」
すっかり実況に回った研究員の声にマコが身体をひねってサキを逆に押し倒す。サキが起き上がる前にマコが手を差し出した。その手へと研究員が酒瓶を手渡す。
「これでも食らえー。お酒攻撃ぃ」
なんと、マコはサキに無理やり酒を飲ませた。実況班が、「これはどう見ます?」とプロレスに興じている。
「そうですねぇ。なにせ、昨年、この攻撃は有効でした。サキさんは割と酒に弱い。これを利用した、ある意味特攻ですよ。神風特攻」
研究員達が演じ分けて実況する中、サキはマコの首筋へと手刀を見舞い、形成を逆転させた。腕をひねり上げ、「マルナナニイマル時、現行犯逮捕」と時計を見やって告げる。
「な、何の罪ぃー?」
「アルハラだ。それに、相手に一気飲みを強行する行為は殺人未遂にも該当する。このまま留置所送りにしてやろうか、馬鹿マコ」
「うおっ、出ましたねー。サキさん必殺の留置所送り。これはきついですよー」
「ええ、何せ現職の警察官。威圧は半端ないですね」
研究員達にもサキは睨みを利かせる。すると震えた研究員達が、「さて悪ふざけはこの辺にして」とすっかり酔いが醒めた様子だった。
「ちょっと! 誰か味方いないの?」
マコの抗弁も虚しく、サキに腕をひねり上げられる。
「観念するんだな、馬鹿マコ。二十戦十九勝一敗の私の記録は保たれたようだ」
サキの言葉にマコが力を抜く。無理やり立たされ、マコは席に座らされた。ダイゴがあたふたしていると、「いつもの事だ」とサキは落ち着き払って麦茶を飲んだ。
「まったく、大学生になってから酒を利用する手段を手にしやがったな」
当の両親は何とも思っていないのか。ダイゴが目を向けると、「また負けたな、マコ」と博士はマコの頭を撫でてやっていた。
「マコは元気さだけで勝とうとするから」とヨシノもいさめる。そこは止めてやるべきではないのだろうか。
「お前が懸念するほどではない」
サキの言葉にダイゴは身を引き締める。先ほどの身のこなしは刑事ならではだった。
「まぁ、鍋を囲おう。いつものプロレスは元気さの証だし、大目に見ようじゃないか」
再び鍋を突き出すヒグチ家だったが、ダイゴはマコを気にした。マコの額を突き、「大丈夫ですか?」と声をかける。
「わ、私は酔ってりゃいー」とまるで駄目な様子だ。
「これだから馬鹿は治らないと言っているんだ。少しは相手との隔絶くらいは確かめろ」
サキは酒を呷らされて平気なのだろうか。少し赤ら顔だったのでダイゴは聞いていた。
「あの、サキさんは……」
「私は酔わない」
本当だろうか。断固として放たれた口調には他の言葉を許さないものがあったが、怪しいものである。サキは顔を背けた。
「お酒をたしなめるようになったのはいい事だよ」
呑気な博士の声に眩暈がする。この家族は、と思っていると不思議と笑みがこぼれていた。自分でも意識しなかった笑みにダイゴは驚愕する。博士が指摘した。
「君は笑っているほうがいいね」
マコと同意見である。ヨシノも、「笑顔の似合う男性のほうがいいわよ」とウインクする。マコがしつこく手を掲げ、「私は酔ってりゃいー」と呻いた。その光景さえも微笑ましい。
ダイゴは何の打算もなく笑う事が出来た。記憶がないのに不思議と、それが自分に訪れた不意の安息のように思えた。