第九話「ヒグチ家」
戸籍がない、というのは透明人間であるのと同義だ。
特に情報化が著しい社会において情報が存在しない人間はそこにいる事を許されていない。監視とは違う、情報化されていない個人というものの儚さ、脆さというものをサキは実感している。
目の前の彼――ダイゴがそうだ。ツワブキ家に招き入れられなければ情報のない個人、つまりは透明人間として振る舞うしかない。
だが、透明人間の存在を世の中が保証してくれるはずもなく、死ねば身元不明でそれまで。だがツワブキ家が預かると言った手前、その心配はなくなったと思っていいだろう。リョウによってツワブキ家を案内されているダイゴにサキは安堵するよりもうまくやっていけるのだろうかという懸念が先についた。ダイゴはまだ自分に関する情報を全く開示していない。何があったのか、何を潜めているのか、まるで分からないのだ。だが、逆にそれは白紙の状態であり、経歴をいくらでも書き換えられる事を意味してもいる。
「オレが案内しようと思うんだが、サキ、どうする?」
リョウに尋ねられサキは首をひねった。
「どうする、とは?」
リョウはサキの肩に手をやって囁きかける。
「今ならば、おじさん、ヒグチ博士に調べてもらう事だって出来る。どうだろう、うちで本格的に身柄を預かる前に、お前の家で一泊、というのは」
リョウの提案にサキは渋い顔をする。
「家って、実家の事だろう? 生憎、そんな急に言われてもお父さんも妹も準備は出来ないし……」
「ノープロブレム。既に連絡は取り付けてある」
リョウは白い歯を見せながら微笑んだ。ポケナビで既に連絡済とは念の入った事だ。
「私の意見は無視か」
「もちろん、サキも実家に帰るといい。たまには顔見せろって、おじさんは言っているんだろ?」
そういえば実家には随分と帰れていない。マコにはつい先日のライブの一件もある。リョウの意見も無視出来ない。
「だが、私が言えば彼は付いて来るだろうか?」
ダイゴの意思を無視して決めている。その口調にリョウは、「おい、ダイゴ」と呼びかけた。ダイゴはツワブキ邸の中央にある巨岩を物珍しげに眺めていた。
「はい」と駆け寄ってくる。リョウは、「悪いがオレにも少し事情があってな。書類を通すなり何なりあるんだ」とダイゴの肩を叩く。
「今日はサキの家に泊まってもらえるか? なに、外泊許可ぐらいなら取ってやるから」
リョウの言葉にダイゴはサキを見やる。こちらの意見を聞こうというのだろう。サキは腕を組んで、「仕方あるまい」と応ずる。
「リョウの家が駄目ならば、行く当てはないからな。せっかく、釈放になったのに泊まる家もないのは悲しいものがある。私の実家でよければ案内しよう」
「素直じゃねぇな」とリョウが口を挟む。サキはダイゴへと視線を振り向けた。
「それに、お前の事を話せば、父も興味を示すだろう」
「サキさんの、お父さんですか……」
ダイゴはその響きがどこか不可思議だというかのように口にする。刑事の父親がどうして自分の身柄の証明になるのかは疑問だろう。
「お父さんはポケモン群生学の権威なんだ。お前の手持ちからもしかしたら経歴を洗えるかもしれない」
なるほど、とダイゴは納得する。どうやら考えなしに生きているわけではないらしい。リョウが手を振る。
「じゃあな、ダイゴ。少しばかりお別れだ。まぁ家では長く見てやる約束だから、ちょっとしたお泊りだと思え。サキの家は妹もいるからな。眼福にはなるだろう」
「余計な事を言うな、リョウ」
睨みを利かせるとリョウが肩を竦めた。ダイゴは、「あの、無理ならばいいですよ」と遠慮の声を出す。
「いい。どっちにせよ、調べは進めるつもりだった。それが早まっただけの話だ。来い、車で行こう」
サキが身を翻すとダイゴがおずおずとついてくる。リョウが、「何かあったら報告しろよー」と背中に声を投げた。サキは鼻を鳴らす。
「いきなり面倒事を押し付けてくる。名前だけつけて放し飼いとは、あいつも変わっていないな」
昔のまま、飽きっぽい性格である。ダイゴが追いついて、「あの……」と口を開く。
「サキさんの家に、ご連絡は」
「もうしたらしい。全く、変なところで用意周到なんだから」
サキは前髪をかき上げる。その様子が苛立たしげに映ったのかダイゴが、「本当に、無理ならばいいんです」と口にする。
「お邪魔になるなら、別に留置所でも」
「せっかく出たのに、そんな事を言うな。リョウが取り計らったんだ。お前が留置所に戻れば、それこそ無駄骨だろう」
サキが運転席に乗り込みダイゴを顎でしゃくる。ダイゴは助手席に乗り込んだ。
「そうだったんですか……。俺の罪状って、じゃあまだ消えていないんですよね」
「そうだな。依然、事件の最重要参考人、という立場は消えていない。だが、新たな事件が起こったとなればそちらに人員を回すしかないだろう。簡潔に言うと、お前をいつまでも拘留するのにも金がいる、というわけだ。ならば金のかからない場所で見張っておく、という理論でリョウが提案した」
下手に隠し立てする必要もないだろう。サキの言葉にダイゴは、「よかったです」と口にする。サキはハンドルを握りながら、「よかった?」と聞き返した。
「俺も、俺自身が何者なのか知りたい。もし、咎人ならば相応の罰は受けるべきですから」
思わぬ言葉に一瞬だけ硬直する。ダイゴも自分が何者なのか分からぬ不安と戦っているのだ。自分達ばかりが便宜を取り計らったわけでもない。どこかで妥協点を見つけるしか、この青年の正体を見極める方法はない。公安も分かっていてリョウの意見を了承したのだろう。
「……出すぞ」
エンジンをかけてアクセルを踏む。車は静かにツワブキ家の前庭から走り出した。
「最初に言っておくが、実家には父と妹がいる。お前の事は、妹には事件の事情で一時的に預かる事になった被害者、と伝えておく。ただ父には事の次第をきちんと伝えるからそのつもりでな」
サキの言葉にダイゴは異論を挟む事もない。「それが正しいと思います」と首肯した。
「もう一つ、妹は大変に大馬鹿者だ。だから変にちょっかいを出すかもしれないが、気にしないで欲しい」
自分の妹の事をそう形容するサキの姿が珍しかったのだろう。ダイゴは、「言い過ぎじゃ」と呟いた。
「言い過ぎじゃないから困っているんだよ。一泊しか預かれないからお前をどうこう出来ない。ただ父の言う事は守ってもらう」
サキの押し付けがましい要求にもダイゴは言い返さない。大人しい青年だと改めて感じる。本当にこの青年が天使事件≠フ犯人なのか。サキは、だが彼以外に怪しい人間もいない事を頭の中で再確認する。犯人ではなくとも限りなく真実に近い何者か。ならばその真実を自分で引き寄せるために彼というカードは必要不可欠なのだろうと考える。
さほど走る事もなく、サキは実家に辿り着いた。ツワブキ家とは家族交えての関係だ。それなりに近距離である。ダイゴは、「早いですね」と驚いていたが、「カナズミで二台富裕層といえばな」とサキはエンジンを切って言った。
「大体、ツワブキ家とヒグチ家の事だ。まぁ、私も裕福な家に生まれたと思っているよ」
視線の先にあるのはツワブキ家に負けるとも劣らない豪華な前庭を誇っている白い邸宅だ。ツワブキ家と違うのは、家屋の後部が張り出したように巨大な三階層の無骨な建物になっている事だろう。
「研究所を兼ねていてな。後ろから入ればヒグチ研究所。前から入ればヒグチ家だ」
サキは車の扉を閉める。あとで警察署に返しに行かねばならない。ダイゴは歩み出て、「すごいですね」と感想を漏らした。
「じゃあ、サキさんのお父さんって有名なんですか?」
「ヒグチ博士と言えば名が通る。ポケモン群生学と言って、ポケモンの分布を調べる学問の第一人者だ。私や妹は普通に暮らしていたが、父の学術研究は業界では有名らしい。何人も部下がいるし、私も顔を合わせる事がある」
ただし、ほとんどの場合サキには父親の部下の顔も覚えられない。それは研究所と家が隔絶しているせいだろう。ヒグチ博士は仕事を家に持ち込まないタイプだ。研究所は研究所、家は家、という理念を昔から携えている。
サキはインターホンを押すべきか悩んだ。もう半年ほどは帰っていない。やはり押すべきだろうと考えてインターホンに手を伸ばしたところで扉が開いた。現れたのは栗色の髪をしたショートカットの少女だ。丸っこい目を見開いて口元に手をやった。
「サキちゃん……」
「た、ただいま、マコ」
随分とぎこちない挨拶になってしまった。マコは家の奥に取って返して、「お父さーん!」と叫んだ。サキは呆れ返る。
「お父さんは仕事だろう。この時間に呼んでも来ないだろうし」
サキが玄関に入るとダイゴは少し戸惑っているようだった。無理もない。家人であるはずのサキでさえ久しぶりの実家には躊躇がある。どこか他人行儀になってしまうのは仕方がなかった。
「入るといい。どうせ、一晩だけだ」
自分に言い含めるようにサキは靴を脱いだ。リョウから既に連絡が入っているとはいえ博士には自分の口から言わねば。そう思っていると、「サキちゃんじゃないか」とマコに連れてこられた数人の研究者がサキを認めて手を振った。
「サキちゃんが帰ってくるなんて珍しいなぁ」
「半年振りぐらいじゃないのか?」
顔と名前が一致しない研究員達に返礼をしてサキはマコの脳天にチョップをかました。
「馬鹿。私が人の顔をろくに覚えられないのを知っていて研究員なんて連れてきたのか」
マコの首根っこを引っ掴んで耳元で囁くと、「でもみんな嬉しがっているし……」と抗弁を垂れようとする。サキはため息をついた。
「相変わらずだな。脳みそがちっとも進歩していない。これで我が妹なのだから姉として恥ずかしいよ」
サキの嘆きにマコは頬をむくれさせた。
「サキちゃんこそ、相変わらずの毒舌だよね。妹に対してこの仕打ち、酷いという他ないよ」
「酷いだと? 久しぶりの実家でただでさえ困惑しているのに、頭を悩ませる材料を連れてくるな。私が覚えていないと感じ悪いじゃないか」
マコに説教をしていると、「あの……」と声が聞こえた。振り返るとダイゴが困惑の目を向けている。
「俺、どうすればいいですか?」
すっかり忘れていた。マコを離し、「そうだ。お前もいたんだった」とサキは額に手をやった。マコが口を差し挟む。
「ねぇ、この人誰?」
「それが大学生の言葉遣いか。もっとしっかりとした言葉を選べ」
サキの返答にマコは眉根を寄せる。
「もしかして、サキちゃんの彼氏さんですか?」
マコの質問にサキは、「バっ」と声を荒らげようとする。だが、ここで下手に騒いでも仕方がない、と辛うじて冷静さを保った。咳払いをし、「実はな」と予め準備していた言葉を発する。
「事件の被害者でな。仕事場に今まで預けられていたんだが仕事の邪魔になると判断して私が一晩だけ預かる事にした。お父さんにはもう連絡が行っているはずだけれど」
「ええ? 知らないよ。みんな、知ってた?」
マコが研究員達に問いかける。余計な事を、と思いながらもマコをすぐさまふんじばる気にはなれなかった。研究員達は顔を見合わせて、「そんなのあったか?」とお互いに確認する。
「ついさっき、リョウがポケナビで通話したらしいから、まだお父さんだけしか知らないのも無理はない」
サキの説明にマコは、「じゃあ、お父さん呼んでくるね」と駆け出そうとする。サキはその首根っこを引っ掴んだ。急に制動をかけられたマコは、「むぎゅっ?」と小動物の悲鳴のような声を上げる。
「お前は馬鹿なのか? お父さんはただでさえ仕事で忙しいんだ。それなのに研究員の皆さんまで呼んで、さらにお父さんを呼んだら研究がはかどらんだろう? それくらい考えろ。大学生だろ」
「サキちゃん、酷いー。女の子の首根っこを掴むなんて」
「女子を名乗りたければそれなりの身なりをするんだな。何だ、その格好は」
サキがマコの衣服を上から下へと眺める。上はだらしないほどによれよれのワイシャツで、下は半ズボンだった。
「家だからラフな格好でいいかな、って」
「ラフというよりかそれは最早恥さらしだ。よくそれで研究室に行ったな」
サキの言葉にマコは唇を尖らせる。
「いいじゃん。私の勝手だし」
「一応、ヒグチ家の次女なんだ。それなりの身なりをしないと示しがつかん。せめて外見は馬鹿に見えないようにしろ」
「また馬鹿って言ったー!」
じたばたするマコを他所にサキは家に入ってダイゴを手招く。どうやら博士は研究所らしい。仕事中に割って入るわけにもいくまい。サキは、「お父さんには後で伝えよう」とため息を漏らす。
「あれ? サキちゃん、お仕事終わったんじゃないの?」
身を翻すサキにマコが声をかける。
「あのな、今は何時だ?」
「十時二十七分」
マコがポケナビの時計機能を馬鹿正直に読み上げる。
「どこの世界に平日の朝十時に暇な刑事がいる。職務の一環だ。私は仕事場に車を返さねばならないし、今日の業務は終わっていない。仕事を終えてから帰ってくる」
「えー。帰ってくるんだよね? 晩御飯の都合があるんだよ」
マコの言葉にサキは視線を振り向けて、「帰ってくる」と応じた。
「晩御飯は、サキちゃんの好きなのにするね」
マコの言葉にサキは、「好きにしろ」としか言えなかった。ここまで平和ボケした人間も珍しい。マコならば逆にダイゴから経歴を聞き出す事も出来るかもしれない、と考える一方で妹を巻き込みたくないと考える自分もいた。
「こいつ、ツワブキ・ダイゴという。家を案内してやってくれ。一晩だけ泊まらせるのでな」
ダイゴの肩を叩き、「少しだけの間だ」と言い含める。我慢しろ、という意味だったがダイゴはサキへと声を振り向けた。
「あの、俺なんかが、サキさんの実家にいていいんですかね」
それは純粋な問いかけだろう。自分の経歴さえも分からない人間を好きにさせていいのか、と。サキは振り返らずに返す。
「安心しろ。研究員達もポケモンを持っているし、お前が思うほど馬鹿マコも馬鹿じゃない。それに……」
サキは続けようとした。「お前だってそれほど危険とは思えない」と言おうとしたのだが、それは早計だと自分の中で片付けた。まだ何者なのかも分からない男だ。ダイゴが首をひねる。サキは、「何でもない」と誤魔化した。
「マコ、後は頼む」
そう言い置いてサキは車へと取って返す。実家に得体の知れない男を置くのは不安ではある。だが、マコとてポケモントレーナーだ。いざという時の対処は自分よりも鋭いかもしれない。
「……どちらにせよ、私には業務が残っているし」
久しぶりの実家を満喫する暇はなさそうだ。サキは運転席に乗り込んで嘆息を漏らした。