第百四十四話「青い栞」
朝焼けがカーテンの向こう側から差し込んできて、ダイゴは眼を開けた。
薄く瞼の向こうに広がっている風景が留置所のものでない事を認識して思い返す。
そうだ、昨夜ヒグチ家に世話になったのだ。サキはダンバルから自分の出自が割れると思っていたようだが、ダンバルからは何も分からなかった。きっと落胆させたに違いない。ダイゴは身を起こして部屋から出た。客人用の部屋は広めに取られており、自分にはもったいないくらいだ。
そのまま吹き抜けのキッチンまで出ると朝の陽射しを眺めている人影に行き会った。
サキが、椅子に腰かけて本を読んでいる。文庫本で、彼女の傍らにはブラックのコーヒーが湯気を立てていた。こんなに朝早く、とダイゴは挨拶するべきか迷ったがサキは警察官なのだ。それなりに朝が早いのは頷けた。
「あの、サキさん……」
遠慮がちな自分の声を聞き止めたサキは文庫本に落としていた視線を振り向ける。青い髪が揺れてサキが、「ああ」と声を出した。
「起きていたのか」
「留置所で毎朝早かったですから」
「それは申し訳ない事をしたな」
皮肉に聞こえたのだろう。ダイゴは、「いえ」と手を振っていた。
「サキさんのせいじゃ……」
「そう言われると余計に私のせいみたいだな」
どうにもサキを目の前にして本心が言えなかった。高圧的な態度だからではない。どこかサキのような存在に自分が影を落としていいものか迷いが生ずるのだ。
「俺、この家に一晩も居て、よかったんでしょうか?」
その迷いがつい口からついて出る。サキは眉をひそめて、「遠慮する事はない」と応じる。
「それとも、私の実家は肩身が狭かったか? なに、全部馬鹿マコのせいだ」
「いえ! そんな。マコさんには、とてもよくしていただいて……」
「さんなんてつけるな。呼び捨てでいいだろう、あんな馬鹿」
歯に衣着せぬサキの物言いにダイゴは思わず声を潜める。
「何で、マコ……ちゃんの事、馬鹿って?」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。あいつは妹ながら、愚かしいほどに馬鹿だ。その点、恥ずかしいくらいだよ」
馬鹿馬鹿と言っているが、どうやらその実はサキもその存在を疎ましく思っているわけではないらしい。愛情の裏返し、という事なのだろうか。
「……羨ましいな」
その言葉にサキは眉根を寄せる。
「おい、お前、マゾだったのか?」
「いえ、そういう羨ましいじゃなくって……」
思わず声が小さくなる。自分の陰の部分。誰にも見せない部分だった。
「俺、知っている人、一人もいなくって……。この後、リョウさんのところに引き取られるんですよね? ツワブキ家に」
「そうだが、不安か?」
「……正直言うと、そうです。うまくやっていけるのか自信がない」
「リョウだって何の考えもなくお前を引き取ったりしないだろう。あいつなりの考えがあるのさ」
自信がないのはそれだけではない。ヒグチ家は笑顔の絶えない家だった。ツワブキ家がそうであるのかどうか分からない、という部分での不安だ。
「俺、この家が好きです」
臆面もなく口にした言葉にサキが、「この家、か」と呟く。文庫本を置き、彼女も天井を仰いだ。
「私もこの家は好きだよ。帰ってくると落ち着くし、何よりも両親と、……馬鹿だが妹と、それにもうすぐ弟が出来る」
「あっ、マコちゃんから聞きました。おめでとうございます」
「年の離れた弟だよ」
サキは自嘲する。ダイゴは、「それでも」と声にした。
「いいじゃないですか。弟さん」
「まぁな。家族が増えるのは悪くない」
家族。自分はツワブキ家に行って、家族だと胸を張って言えるのか。あの場所に空虚しか感じないのではないか。その恐怖が今は勝っていた。
「……俺、自分がどこへ行けばいいのか、正直分かりません。留置所に入れられていた時のほうが、咎人だって分かってよかったのかもしれない」
ニシノの言葉が思い出される。生きていてはいけない存在――。
「お前に罪はないのなら、留置所のほうがよかったなんて言うなよ。ツワブキ家は良家だ。なに、よくしてくれるさ」
「でも、俺……」
言い出せなかった。これは完全なわがままだ。この家に憧れている。ヒグチ家のような笑顔の絶えない場所に、自分も居たい、など。
自分は罪人かもしれない。さらに言えば何者かも分からない。そんな人間を一日だって置いておく事が出来ないのだろう。それくらい自分でも分かっている。
「すいません、変な事言って……」
サキは手にしていた文庫本から一枚のしおりを取り出した。それをダイゴの手に握らせる。
「あの……、これは?」
「しおりだ、しおり」
「いや、それは分かるんですけれど……」
何故自分に? という目線を向けると、「人生にはしおりがいるんだよ」とサキは答えた。
「それはどこかに居場所を求める、という意味でもある。お前がこの先、居ていいと思える場所を見つければ、その場所に腰を落ち着けて、そんな折に本でも読むといい。本は人生を豊かにする」
「人生、ですか……」
自分の正体が分からなくとも、人生は豊かになるのだろうか。手にした青い花のしおりに問いかけても分からない。
「お前はな、考え過ぎなんだ」
サキは文庫本をぺらぺらと捲る。
「今、お前に渡したから、どこまで読んだのか忘れてしまった」
ダイゴは慌ててしおりを返そうとする。しかしサキは遮った。
「しおりが戻ってきたところで、どこまで読んだのかは思い出せない」
ハッとしてダイゴは青い花のしおりに視線を落とした。
「多分、お前の人生も、私の人生もそういうものだ。居場所を見つけたからと言って、ではその場所で人生を終える、終の棲家を見つけられるわけでもあるまい。人生は、こうしてふとした瞬間に忘れたり思い出したりする文庫本のようなものなんじゃないかって、私は思っている」
「でも俺は、サキさんからこのしおりを預かった」
「お前が落ち着ける場所にそのしおりを置くといいだろう。そうするときっと、その場所が最後の、旅の最後の場所のはずだ。人生は長い旅路、とどこかの偉人は言っていたな」
サキは気にせずに読書に戻った。ダイゴは青いしおりを手に、自分は見つけられるのだろうか、と感じる。
いつか、ここで終わってもいいと思えるような場所を。大切な誰かの横顔を。