INSANIA











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ようこそ、カナズミシティへ
第二話「事件担当官ヒグチ・サキ」

 経歴を辿れない人間などいるはずがないのだ。

 サキはエレベーターに乗り込もうとする。すると、「悪いね」と一人の男が駆け込んできた。サキは開閉ボタンを押して男を通してから、「何の用です」と口を開いた。

「何の用って、これから事情聴取。オレ達の仕事ってそうじゃないか」

「私には何度もそうやって接触してくる理由が分からないんですけれど。監査官殿」

「冷たいな。リョウでいいって。幼馴染だろ」

 サキは自分の苦言も風と受け流す男へと目を向けた。精悍な顔つきの中に幼馴染の気安さを含んだ笑みがある。

「じゃあ、リョウ。私はこれでも忙しいんだ。手間をかけさせないでもらいたい」

「冷たいってのはそこだよ。敬語じゃなくなったら、今度は無礼極まれりなその口調、直したほうがいいぞ?」

 幼馴染の指摘にサキは額を押さえて、「余計なお世話だ」と返す。

「余計って事はないだろう。旧知の仲なのに相手が降格するかもしれないとなると世話を焼きたくなるのが人情だ」

「私との付き合いは家の間柄の付き合いだし、大体、ホウエンの名家、ツワブキ家の男が警察関係者なんてそれこそ笑えない冗談だ」

「家の事は言わないでくれよ」

 リョウは微笑んでサキを見やる。サキはわざと目を逸らした。

「ヒグチ博士、最近どうしてる? マコちゃんは?」

「妹は一昨日ライブに行ったと。今朝方その荷物が送られてきた」

「あのさぁ、そう邪険にするもんじゃないと思うぜ? 妹さんだろ?」

「邪険にしていない」

 もっとも、これは自分の口調が災いしている事だ。そうでなくとも厳しい声音なのに、堅苦しい形式ばった言葉遣いは余計なトラブルを招くだろう。

「そっちは? 何の用事? 地下三階って留置所じゃないか」

 階層表示を見やったリョウの言葉にサキは、「野暮用だよ」と返す。

「余計な事件のお鉢が回ってきた」

「ああ、例の記憶喪失の男か」

 公安に勤めているリョウからしてみれば周知の事実なのだろう。サキはこの際なので嫌味を込めて口にする。

「どうして公安のヤマが今さらこっちに回ってくる? 面倒事は下に押し付けるのが流儀だったか?」

 サキの言葉があまりに棘を帯びていたせいだろう。リョウは、「そう構えるなよ」といさめた。

「こっちも分からん事が多くってな。だから出来るだけ分散させているわけだ」

「その分からん事のツケをこっちに回すなと言っている。大体、公安が追っかけたヤマだろう。ケツくらい自分で拭け」

「女性の台詞じゃないな」

 リョウが朗らかに笑う。サキは余計に苛立たしげに髪を掻いた。

「あのな、こっちだって暇じゃないんだ。記憶喪失なんてあり得ない」

「どうかな? 会ってみると意外に思うかもしれないぜ? それこそ、あり得ないなんて決めつけてかかったのは後悔するかもしれない」

「大体、資料に書き漏らしが多過ぎる。これじゃ、何も調べていないのと同じだ」

 名前と年齢の欄は空欄で、その他にも経歴の欄も何一つ書かれていない。サキがそれを申し立てると、「恥ずかしながら、ね」とリョウは真面目な声音になった。

「何も分からなかったもので資料に書きようがなかった」

 リョウの声音には嘘が混じっている空気はない。本当にこの男の経歴は不明だと言うのか。サキは、「馬鹿な」と口にする。

「デボンの情報統制が行き届いている。それこそ家の恥だろう?」

「だから家の事は言うなって。オレはデボンの社長じゃないし、親父が何を考えているのかなんてまるで分からん」

「警察に出奔した親不孝者なんて知るよしもない、か」

 サキの皮肉が効いたのだろう。リョウは、「親不孝は重々承知さ」と肩を竦める。

「でも、デボンの悪口言ったって仕方ないだろ。今のポケモン産業にネットワークを敷いた基本体制はデボンのものだ。その悪口を言うって事は今の世の中に不満があるって事なんだが」

 その言葉にサキは唇をへの字にする。ホウエンでデボンの恩恵に与っている以上、そうそう悪口は言えないのが実情であった。

「まぁ、デボンのやり方を圧力だっていう政治団体は多いけれど、お前はその手の人間じゃないだろ」

「独占イコール支配なんておめでたい頭に育った覚えはないな。そういう連中こそ、デボンの恩恵を知らず知らずの内に受けているって知らないもんさ」

 地下三階に到着する。サキがエレベーターから出ようとするとリョウが呼び止めた。

「ヒグチ博士、おじさんによろしくな」

 サキは振り返りもせずに手を振ってそれに応ずる。サキは資料を片手に留置所である地下三階の守衛に声をかけた。

「お疲れ様です」

「捜査一課所属、ヒグチ・サキです。面会を用意してもらいたい」

 警察手帳とICカードを取り出し認証を済ますと守衛が、「例の記憶喪失ですか」と口にする。どうやら有名なようだ。

「ええ、まぁ」

「公安も手を焼いていたみたいですし、難しいと思いますよ」

「資料にはポケモントレーナーとありましたが、手持ちは?」

「別に預けられていますが、そっちの資料に書いてありませんか?」

 サキは資料を手で繰りながら、「ああ確かに」と応じた。

「しかしあの男が犯人なんですかね。この天使殺人≠フ」

 サキが咳払いすると守衛は、「失礼」と頭を下げた。その事件名は半ばタブー視されている。あまりに軽率な名前だからだ。だが警察関係者内ではその呼び名が定着しつつある事もまた事実だった。

「カードキーは持っています?」

 守衛の言葉にカードキーを差し出し、「受け取りますね」と守衛に渡す。サキは、「でも今まで有力容疑者もいなかったですからね」と少しだけ雑談に付き合う気になった。

「あ、そうでしょう? その点で言えば、この被疑者はとても犯人に近いんですが、何分記憶喪失なんて、ファンタジーですよ」

 守衛は笑いながらカードキーを通し扉の鍵を開けた。内部へと声を吹き込む。

「これから380番の容疑者に事情聴取。出来るか?」

『了解』と声が返り守衛は、「数分後には可能でしょう」とサキに目を向けた。

「それにしたって、何で公安は諦めたんでしょうね。記憶喪失って言ったって、辿りようはあるでしょうに」

「やっぱり、そう思いますか?」

 サキの疑問と同じだ。守衛は、「それこそ、逆に辿りやすいんじゃないかなぁ」と首をひねった。

「だってこの社会において誰とも繋がっていない人間なんて珍しいでしょう。そっちの線で当ればいいんじゃ……。あっ、この話はこれで」

 守衛が口の前でバツを作る。オフレコで、との事だろう。サキも言い回る趣味はない。

「公安の悪口なんていくらでも言えますからね。何で、書類にこうも不備があるのか、とか。そもそも記憶喪失って精神鑑定でもしたのか、ってのとか。この資料、穴だらけですよ」

 空欄だらけの資料でも守衛に見せるわけにはいかなかったが、「ご苦労、察しますよ」と守衛は微笑んだ。

「どうしてだか毎日、ひっきりなしにやってくるんですが、どうにもみんな煮え切らない顔をして帰っていくんですよ。その度に愚痴も聞かされればわたしも覚えてしまうもんでしてね。記憶喪失の容疑者って」

「実際、どうなんです? 精神鑑定とかで医者が訪れたりとかは?」

 サキの質問に守衛は、「そういうのはないですな」と顎をさすりながら答える。

「医者らしき人が来たっていうのは。大体、今はポケナビのアプリで事足りるじゃないですか。公安が自分で組んだ嘘発見器のほうが人間の診断よりも当てになるんじゃないですか?」

 分からない話でもない。サキは発展めざましいデボンの技術の結晶であるポケナビに視線を落とした。

「でも実際に見ないと分からない事もあるでしょう? 言動とか、おかしなところは?」

 守衛は首を横に振り、「その辺は公安が一手に担っていたので」と答える。どうやら余計なお喋りは慎まれているらしい。その辺のマナーがまだ存在しただけでも僥倖だった。

「記憶喪失、って事は喋れないんですかね」

「分からないですが、公安の方々が何で頭を悩ませて捜査一課に持ち込んだのか、わたしにはてんで」

 守衛の無線に、『どうぞ』と声が返ってくる。守衛が、「どうぞ」と促した。サキは扉を潜って面会室へと進む。面会室の前ではまだ歳若い担当者が、「面会は三十分までです」と告げた。存外に無機質な声に、職業じみたものが宿っている。何回も言っており、最早、飽きたのかもしれない。

「ご苦労様」

 そう労う事だけが、自分に出来る唯一であった。担当者に連れられて面会室に入る。ガラスで隔てられた向こう側に、簡素な衣服を身に纏った男が座り込んでいた。ガラスの向こう側にも武装した担当官がおり、彼はさながら小屋に閉じ込められた猛獣のように肩を縮こまらせている。

 存外に大人しいのだな。サキが抱いた第一印象はそれだった。連続殺人事件、天使事件≠フ犯人像は凶暴な人物を想定していただけに意外である。サキはガラスを隔てて彼と向き合った。写真通り、銀色の髪に赤い眼をしている。身体つきはどちらかと言えば貧相に相当するだろう。ガタイがいいほうではない。

「あの、刑事さんですか……」

 だからなのだろうか、その身体から漏れ出た声音はまさしく声帯を一生懸命震わせた声に聞こえた。怯えすら感じさせる。

「ああ、そうだが」

 敬語をあえて排したのはこの人物が極悪非道の殺人鬼の場合もあるからだ。サキはそれなりに人徳があるほうだと自負してはいるが、犯罪者と一般人を分けるくらいの感情は持ち合わせている。

 彼はその口調にすっかり怯え切った様子で、「刑事さん、ですよね……」と繰り返す。

「私はあまり時間をかけたくない。三十分の面会だし、それに公安の手のものでもない。出来るだけ手短に、お前から言葉を聞き出したいのだが」

 サキは資料を捲りながら彼の動向を眺める。挙動不審に視線を彷徨わせていた。今まで女の刑事を見た事がないのか。あるいは何度も交わされた面会に何を話せばいいのか分からないのか。

「名前を教えてもらえるか」

「……分かりません」

 憔悴し切った返事はそれこそ擦り切れるまで繰り返されたのだろう。疲れが滲んでいた。だが、だからと言って自分だけ何の情報も持ち帰らずにすごすごと退散するわけにはいかない。

「分かりませんじゃないんだ。名前、あるだろう?」

「だから、刑事さん達にも何度も言いましたし、俺にも分からないんです。俺が何者なのか」

 サキはため息を漏らし懐から一本のペンを取り出した。

「これが何だか、分かるか?」

 その言葉に彼は眉をひそめる。

「えっと、ペンですよね。黒の」

「これはペンですか、か。こういう形でしか使わない例文だな。記憶がないのにペンは理解出来るのか?」

「ペンだけじゃないです。名前は分かるんです。その意味も。俺は収監されていて、ここは警察施設の地下ですよね? 容疑は分かりませんけれど、刑事さん達の口調から殺人、だと思います……」

 続けられた言葉に現状認識はしっかりしているのか、と把握する。記憶喪失とは、そのように都合よく、名前と経歴だけが分からなくなるものなのだろうか。

「名前と意味が結びついているにもかかわらず、自分に関する事は全く分からない。これは本当なのか?」

「本当です。嘘なんてつきようがない。俺は、本当に自分が誰なのか、何者なのかだけが分からないんです」

 サキは鼻息を漏らす。もしかすると記憶喪失を騙っているだけかもしれない。後々、自分に都合のいいように虚偽を並べ立てている可能性もある。サキは踏み込んだ質問をする。

「ポケモントレーナーなんだってな」

「はい、手持ちは、今はいないですけれど」

「トレーナーであった頃の記憶は? どこでその手持ちを受け取ったのか、そういう記録だよ。トレーナーカードの所持が義務付けられているだろう?」

 ホウエンに限らずトレーナーならばトレーナー専用のICカードが発布されているはずだ。そこから経歴を辿ろうとしたのだが彼は頭を振った。

「それが、ないらしいんです。俺の手持ちに合致する記録が。これは刑事さん方のほうが詳しいと思いますけれど」

 サキは資料に目を落として、「確かに珍しい個体だが」と続ける。

「ない、というのは信用出来ない。トレーナーカードの携帯は義務だ。それを所持していなかった時点で、いくつかの法律に違反している事になるが」

 サキは相手の出方を試す。だが、彼は、「本当に分からないんです」と続けるばかりだった。

「俺も出来れば知りたい。どうして、俺はあの場にいたのか。あの場で何が起こったのか」

 それすらも理解していなかったのか。サキはこの人物が本当に連続殺人事件の被疑者なのかすら確証が持てなくなってしまう。

「一般には言われていないが、ここいら、特にカナズミシティ近辺で殺人事件が頻発している。お前はその実行犯だと目されて逮捕された。傍に他殺体があったそうだが」

 資料に目を通しながら彼の反応を見る。

「俺がビルの屋上にいた時ですか? その時、何があったんです?」

 どうやら彼は知りたがっているらしい。というよりも、これすら教えずに尋問をしてきた公安の連中の気が知れなかった。事件を公にしたくない気持ちは分かるが、これでは出る証拠も出ないだろう。

「他殺体だ。ビルの屋上から突き落とされ死亡している」

 だがそれだけではない。この天使事件≠象徴するある事柄は伏せてある。これはあえて手札を隠した形だ。彼がどう乗ってくるのか、サキには見極める必要があった。しかし、彼は、「他殺体……」と目を丸くしている。

「じゃあ、俺が突き落としたって言うんですか?」

「他に有力者がいない」

「でも、俺にはそんな記憶はないです」

 サキが黙りこくる。それは資料と彼の証言がある意味では合致していたからだ。他殺体はあった。連続殺人の傾向も見られた。だが、彼が突き落としたという証拠だけはどう探しても見つからなかった、とある。

「……本当に、記憶がないのか?」

 この段に至るとサキも少しばかり信じるほかない。彼は、「だからそう言っています」とため息をつく。

「俺が何をしたのか、知りたいんです」

「自分はやっていない、ではなく、何をしたのか、か。殺人なんて絶対やっていない、とは言わないんだな」

 サキの言葉に彼は言葉を詰まらせ、「だって、それすら分からないんですから……」と呟いた。

「俺がどういう人格で、どういう奴で、どういう環境で育ったのか、自分でも分かれば、殺人なんてしていないと言えます。でも、それすら分からない今に、殺人なんて絶対していないなんて言えないでしょう? 自分に確証が持てないのに、殺人って言う大きな事柄を否定する気にはなれません」

 サキはその言葉にこそ驚いていた。無実の証明を訴えるわけでもない。ただ自分が何者なのか知りたい。彼を衝き動かしているのはそれだけだ。普通ならば無実の罪で収監されている事に不満を持つだろうに。

「何者か、本当に誰も調べようとしなかったのか?」

 彼に問いかけると、「俺の知る限りでは」と答えた。

「歯の治療痕を照合するとか、手術歴を調べるとか、そういう事も言われていません」

 サキは後頭部を掻いた。これでは丸っきり調べていないのと同義ではないか。

「オーケー、分かった。お前が置かれている状況は理解したよ。逼迫しているのは罪があるかないかではなく、そもそも自分は誰なのか、か」

 彼の中の優先順位を確認してからサキは、「私が責任を持って調べよう」と応じた。

「本当ですか」と彼が腰を浮かしかける。それを後ろの担当官が肩に手をやって制した。

「助かります。これで何者なのか分かるんですよね」

「……残念だが絶対ではないぞ。だが、少しばかり努力しようと言ったんだ」

 含める言い方をすると彼は、「それでも、充分ですよ」と肩から力を抜いた。どうやら公安の連中は今まで罪の自白ばかりを強要してきて彼が何者か、という部分にはノータッチであったらしい。

「あの、お名前を教えていただけますか?」

 彼が顔を上げて口にする。サキはぶっきらぼうに返す。

「サキだ。ヒグチ・サキ。捜査一課所属警部」

「サキさん。ありがとうございます」

 彼が頬を綻ばせる。その安堵した表情からは人殺しの気配など微塵にも感じられなかった。


オンドゥル大使 ( 2015/11/05(木) 20:59 )