第百三十五話「翼をください」
メガゲンガーへと近づいた時、ユキナリは呼びかける声を聞いた気がした。それは小さな、ほんの微かな声に過ぎなかったが、自分の名を呼ぶ声だった。
キクコがいる。メガゲンガーの中にいる。そう知った時、オノノクスへと命令する声が少しだけ戸惑いを帯びた。その一瞬の隙をメガゲンガーに突かれた。触手が自分の腹部を貫き、オノノクスまで巻き込んで高空から落下していく。耳に届く風の音にユキナリは死を覚悟した。だが、それよりも先にユキナリにはやるべき事があった。
――キクコをメガゲンガーに取り込ませたままにさせるわけにはいかない。
拳をぎゅっと握り締める。ユキナリは閉ざしていた眼を開いた。その眼が赤く染まる。
「――キクコを、返せ」
それは明らかな異常としてヤナギ達の目にも映った。オノノクスの身体から脈動が放たれたかと思うと瞬時に風が逆巻き、オノノクスは追撃の触手を受け止めたのである。メガゲンガーが目を見開く。オノノクスはメガゲンガーの触手を掴み空中で引き千切った。
メガゲンガーは両腕を突き出す。その手からシャドーボールが放たれようとするが、それよりも眼を赤くぎらつかせたオノノクスの動きのほうが速い。オノノクスは牙を振り下ろす。それだけで空間が断ち切られ、シャドーボールを構えていた両腕が吹き飛んだ。メガゲンガーがうろたえる鳴き声を上げる。オノノクスはそれを上塗りするように強い咆哮を発した。
「オーキド・ユキナリは……」
ヤナギがユキナリの姿を探そうとする。まさかトレーナーだけ落下したか、と考えているとユキナリはありえない場所に存在していた。
空中で、まるで縫い止められたかのように立っているのである。ヤナギが瞠目しているとユキナリは手を払う。その一動作に呼応してオノノクスが牙を払った。再び放たれようとしていた触手が根こそぎ断ち切られメガゲンガーが慄いた。メガゲンガーの額に金色の眼が現れる。第三の眼から放たれた青い光がオノノクスへと纏いついた。サイコキネシスで捩じ切るつもりだろう。だが、ユキナリもオノノクスも動じない。軽くユキナリが顎をしゃくる。オノノクスが牙を振るうとサイコキネシスが両断された。金色の眼に亀裂が走る。メガゲンガーが額を押さえて呻いた。
オノノクスが口の端から煙を棚引かせ、メガゲンガーを射程に捉える。背中から燐光を発し、それが赤い翼を形成した。黒い瘴気の渦がオノノクスへと走る。牙が血脈の宿ったかのように赤く輝いた瞬間、「いかん!」とアデクが手を振るった。
その直後、黒い瘴気が渦を成して断頭台を形作る。断頭台はそのまま抵抗しようとしたメガゲンガーの両腕を断ち切った。
「オーキド・ユキナリ。人間である事を捨てるというのか……」
ユキナリの身体は最早物理法則を超えて動いている。オノノクスも本来の性能を度外視した攻撃を放っている。
「あの時と同じだ。シルフビルで俺と対峙した時と同じ。そうしてまで、お前はキクコを想っていると言うのか」
オノノクスが呻り声を発して「ドラゴンクロー」を一射する。メガゲンガーの体の一部が消し飛んだ。
ヤナギは自分の纏っているマフラーを握り締める。キクコの命運は今、ユキナリの手にあることだけは間違いなかった。
ユキナリは自分でも身体がおかしい事に気づいている。
漂っている感覚だ。たゆたう原始の海の中を。その中でも確かな感覚は肌を刺す敵意だった。ユキナリは敵意を掴み、引き千切る。同期したオノノクスが「ドラゴンクロー」を一射する。背中に生えた赤い翼は「げきりん」の光が外に漏れだしたものだろう。ユキナリはオノノクスを客観視していながら、主観となっていた。オノノクスと自分との境目が分からなくなる。オノノクスは翼を羽ばたかせ、メガゲンガーへと肉迫する。触手が伸びて阻もうとしたがユキナリは手で薙ぎ払う。触手が黒い光条で相殺され、爆発の光を視界に居残らせた。
――自分がどうなっても構わない。キクコだけは助け出したい。
思いがオノノクスを衝き動かし、メガゲンガーの頭頂部から顎へと黒い断頭台が形成される。メガゲンガーが取り外そうとしたが、その前にオノノクスが牙を打ち下ろした。メガゲンガーの顔面が割れ、内部が露になる。紫色の靄のような内部空間へとオノノクスが手を伸ばした。メガゲンガーの深層、操っているキクコへと。
キクコは見えない壁の向こう側にいた。小さく膝を抱えている。小刻みに震えていた。
――キクコ!
声となった意思がキクコへと近づこうとする。だが壁がそれを阻んだ。キクコの声が意識を震わせる。
――私は、いちゃいけないの。
――そんな事、ない!
無理やり手を突き入れようとする。しかし、何らかの抵抗力が働いているのか指先がじんと痛んだ。
――代わりはいくらでもいるもの。先生は、私じゃなく、他の子を探すよ。
ユキナリは目を開き、手に力を込めた。
――そんな事はない! キクコはキクコだけだ! 他に、誰もいるもんか!
ユキナリの意思の力が壁をこじ開けようとする。だが、キクコは頭を振った。
――みんなを傷つけてしまうのなら、私は……。
ユキナリはオノノクスの力を借りて壁の向こう側へと手を差し出す。その瞬間、激痛が走った。皮が捲れ上がり、分裂した細胞が今にも弾け飛びそうになる。痛みに呻きながらもユキナリは懸命に手を伸ばす。
――そんなところから今すぐ出てくるんだ! 僕は、キクコを必要としている!
その呼びかけにキクコは顔を上げた。目が合い、ユキナリは言い放つ。
――「来い!」
意識の声と現実の声が相乗し、響き渡った。キクコは目を見開き、ユキナリへと手を伸ばす。その柔らかな手が触れた瞬間、ユキナリはキクコを引き寄せた。キクコの身体が壁の向こうからこちら側へと引き出される。その手には自分のスケッチブックが握られていた。
キクコを抱き寄せ、ユキナリは呟く。
――こんな形でしか、分かり合えなかった。
――ごめんなさい。私、何も出来なくって。
ユキナリは頭を振った。
――いいんだ。キクコがいてくれるだけで。傍にいるだけでいい。